1 もうひとりのきみの夢

 だれかに揺さぶられている感覚で目を覚ます。そこにいるのは二輪くんである。二輪くんは不満そうな顔をして陽介を揺さぶり起こす。陽介は笑って二輪くんに、「こんなとこにきちゃだめだろ」と言う。そこはけれどただのビジネスホテルでしかないから、「こんなとこ」などというそしりをうけるいわれはないのだった。だだの、ダブルベッドつきの狭い部屋で、けれどそこには色つきのコンドームが液体の入った状態で放置されていたからやっぱりそれは、「子供の見るべきものではない」。そして二輪くんはやっぱり子供なのだし、と陽介は思い、「外で待ってな」と言うと、二輪くんは幼い顔に不満そうな表情を浮かべて、けれど聞き分けよく扉をあけて出て行った。まぼろしのくせにいちいち扉を開けるんだな、と陽介は思った。
「秀次」
 かがみこんでみみもとで、ひくいこえで囁く。陽介が二輪くんとしゃべっている間はぐっすりと眠り込んでいるようだった三輪秀次は、そのひとことで、スイッチを入れられたように目を開いた。ぱちりと目を開いた秀次をみて、陽介は、従姉妹が昔持っていた人形を連想する。スイッチを入れると目を開く。スイッチを握っているのが陽介であるように、錯覚をする。
 錯覚を、する。
「おはよ」
「……おはよう」
 前髪をぐしゃりとかきあげながら、今朝の秀次はすこし不機嫌だ。陽介は笑って頬にくちづけをする。甘い恋人同士みたいにそうやって、秀次は陽介をおしのけて小さな机の上に置かれたスマートフォン(充電済み)の画面を見つめてから、裸の背中ごしに陽介を見つめる。もちろんそのための時間は十分にある。十二分にある。秀次は身をかがめ、陽介の頬にくちづけを返す。それからおもむろに捕食するような勢いを込めたキスがやってきて体がまとわりついて朝の行為がはじまる。ホテルの良いところは寝る直前まで続けられて起きた直後にはじめられるところだ。それだけしかしらない生き物のように。
 秀次がシャワーをあびているあいだ、煙草を吸う癖がなおらない。いっしょにシャワーを浴びないのはけじめをつけるためで、彼らの関係はいつもきちんと、けじめがついていた。煙草を吸ってもみ消して、ミント味のガムを噛んで口臭を消していると秀次は出てきて「陽介も浴びてこい」と言う。おおせのままに陽介はそれを行う。なにもかも三輪秀次のおおせのままに。
 ユニットバスに二輪くんがいた。
「なにしてんだ」
 二輪くんは、浴槽に入る陽介には知らない素振りをして、蓋をしたままのトイレに腰をかけて片膝を抱えて漫画雑誌を読んでいた。「行儀悪いぜ、秀次くん」呟いた声はシャワーの音に紛れて、「本物の」秀次には届かなかったことと思う。
 身支度を整えた頃に秀次はユニットバスに入ってきて、トイレに腰掛けている陽介の髪を乾かす。ぱらぱらと髪のなかにあたたかな空気をなじませる手つきがここちよく与えられる。ふんだんに与えられて、そして陽介は「寝るな」と言われる。
「寝るな」
「寝たい」
「寝るな」
 内容のない会話のほうが、かえってぐるぐるに絡み合っているみたいで、いいね。
 さらっと髪を撫でられるとそれで終わりで、とんと肩を叩かれて入れ替わり、こんどはトイレに腰掛けているのは秀次のほうで、陽介はワックスを指になじませる。
 そのユニットバスには、小さな携帯ケースに入ったシャンプーとコンディショナーとヘアワックスがそれぞれ二種類並んでいてそれは陽介が秀次のために選んだもので、秀次はかすかに呆れた顔をして陽介のそれを受け入れている。秀次は陽介を受け入れ、陽介は秀次を受け入れ、彼らは彼らを受け入れてそこにいる、そこにいることを選んでいる。
 陽介が秀次の髪を整えたあと、陽介は自分の髪を整え、それをぼんやりと秀次はながめている。いつもなにか、するべきことを探している秀次のなにかを探している陽介が、もしかしたらたったひとつ、なにもしていない瞬間があるとしたらこうやって、陽介を眺めているときかもしれない。
 そうだったらいいな。
「何がだ」
「秀次がオレをみてる」
「うん」
「うんだって」
「うんくらい言う」
「うん、秀次がオレを見るだろ」
「見る」
「見てさ、それが、オレだけならいいなって」
「そうだな」
「オレだけかな」
「そうだよ」
 髪をつまみあげながら陽介は笑う。それは十分に嘘だ。嘘だ。嘘だけれど嘘が陽介は好きだった。なにを言っているのかきっと秀次は全体像を掴んでいない、この断片的な言葉ではなにも掴んでいない、そのことも含めてたぶんほんとうに完璧に、いまとても陽介は秀次に、愛されていると思った。
 早朝のホテル。窓から射す陽の光。ベッドサイドに立つ三輪秀次。性欲の気配が残る部屋の香り、ゴミ箱に投げ捨てられたもの。ベッドサイドに立つ三輪秀次が陽介をまっすぐに見つめる目。乱れたままのベッドにもういちど、引きずりこみたいと欲望しながら陽介は、行こう、と言う。ここには全部がある。
 たぶん。

「おまえらの都合に振り回されてんのがおれだよ」
 揚げ物の多い弁当に半分飽きているという様子でつつきながら、頬杖をついた出水公平がだらだらと喋っている。
「なにを苦労させられてるみたいな口ぶりなんだよ」
「実際迷惑しかかけられてねえよ」
 ボーダー隊員は原則として部活動に参加しない。部活動単位で集まって人間関係を構築することが多い学校生活において、結局はボーダー隊員はボーダー隊員でまとまってしまうし、それ以外の人間とは少し、溝ができる。
 同じボーダー隊員であり同じクラスの半崎義人は、出水を煙たがっていた。出水は性格が悪い、と陽介は思う、へらへらとにこやかに、言わなくてもいいことを言う。うるせえ黙れB級隊員、だとか、たかが7位のチームの癖に、だとか、まあ、そんなことを、言われて陽介はべつになにひとつ傷つかないのでへらへら笑って出水公平の横でお気に入りの乳酸飲料を飲んでいられる。
 とにかくそんなわけで半崎は昼飯を三年生の自隊員と食い、三輪秀次はおおむねひとりで食事を取っていた。
 その理由を、陽介はうまく説明できず、うまく説明できないそのままに、出水にむかって「別々が必要なんだよ」と言った。そう言いはしたが、それがどういうことなのだか、自分でもわかりはしなかった。別々が必要だ。米屋陽介と三輪秀次は、四六時中いっしょにいるのではなく、別々に過ごさなくてはならない。そうしなくてはならない、と、どうして思うようになったのだろう。そう思うようになってそうして秀次はときどき出水に耐えられないという顔をしたから陽介のほうが出水と飯を食っているし、秀次はひとりで飯を食っている。たいていは、スマートフォンで映画を観ている。秀次は映画を観るのが好きだ。でも音声はいつも切っているから、それをもって、映画を観るのが好きだと言っていいのかどうか、わからないけれど、とにかく、暇な時間には映画を観ている。人間の体が大きく動いて跳ね回るタイプの映画で、音声を切っていても、たいてい、ストーリーの予想はつく――秀次がストーリーに興味を持っているのかどうかも、陽介は知らないのだけれど。
 ふと目をあげる。机の横に、二輪くんが立っていて、出水の弁当から唐揚げをひとつ拾い上げる。唐揚げは出水の弁当に残ったまま、二輪くんの手のなかにも残った。二輪くんは手づかみで唐揚げを、美味そうに食べた。陽介は目を一度とじ、開き、そしてふりかえった。
 教室の入口に、秀次が立っていた。
 陽介は立ち上がる。二輪くんが陽介のとなりに立つ。どっかいけよと陽介は思う。見世物じゃないんだ。子供の見るものでもない。
 ほら見ろよ、と出水が笑った。
「結局振り回されてんのはおれだろ」
「よーく言うぜー、国近さんとデートでもしてな」
「柚宇さん今日どうせ出てきてねーよ」ゲームのタイトルをあげた出水は笑った。「徹ゲーだろ」
 学校なんてそんなものだ、と陽介は思う。ただ単に時間を潰すためにここにいるだけ。ボーダーという組織が後ろ指を指されないためにだけ「普通」を片手間にやっているだけ。「普通」である必要などなにひとつないのに。出水公平は天才で米屋陽介は戦闘狂で三輪秀次は。
 三輪秀次は?
 たたっ、と先に立って、二輪くんが秀次にまとわりついた。陽介はそのあとをついていき、秀次のとなりに立った。
 いつも場所は特別教室棟の最上階、一番奥の個室。
「……十五分しかない」
「五分」
 陽介のあしもとにかがみこみながら秀次が言う。舐めてくれても舐めさせてくれたことはない。
「あのさあ、秀次、……秀次さん。忙しいとこ悪いんだけど質問があります」
 陽介が、秀次のさらさらとした髪を撫で付けながら言うところを、秀次は喉奥までくわえこもうとする途中でじろりと見上げた。んな顔すんなって、と陽介は苦笑する。遊びを邪魔された子供みたいに不機嫌になっている。
「なんで、オレには、させて、くんねーの」
 ずるっ、と口の中から吐き出した秀次は、不機嫌なまま答えた。
「おまえがやったらそれだけで済まない」
「三輪サンの飼い犬が我慢がきかねーって話?」
「俺が、我慢がきかない」
「は」
「俺が、陽介にしゃぶられて、それだけで済むとでも、思っているのか」
 一音節ごとに、丁寧に区切る言い方で秀次は、釘をさすように言い、それからもういちど、厳かなものをあつかう手つきで、陽介のものを秀次の指がとらえる。……ひどいことを言う、と陽介は思う。狭い個室の壁に背中を預けて、陽介はできるだけ、咥えているその現場を見つめないようにと気を配った。簡単に煽られてしまうというのにこんなことではつらいばかりで仕方がないから腕にはめた腕時計の秒針ばかりを見ていてああ、そうか、秀次がなにか動くものばかりをみていたがるのはこんな気分か、と、ふと思ってそう、口にした。
「音声切れたらいいのに」
 水気を含んだ音がずるずると陽介の耳の中に這いずり込んで輝きに満ちて陽介を遠くへ運ぼうとするその音こそが敵だから。
「しんどい」

「先輩がたいつもふたりご一緒ですけど飽きるってことないですか」
 従姉が作ったという新しいデータが使えると聞いて、意気揚々とやってきた模擬戦闘室を確保して、繰り返し繰り返しゲームを行ったあとで、付き合わせちゃってすいませんと言いながら陽介は、諏訪隊のふたりに缶コーヒーをふたつ買った。おとなだからきっとコーヒーが良いのだろう、陽介は、見覚えのないだからたぶん新商品の、マロン&クリームラテというのを飲んでいるのだけれど、彼らは陽介にとって十分大人だったから、ありふれた缶コーヒーをそれなりによろこんで受け取ったようだった。
 模擬戦闘室の外、階段状の椅子に腰掛けながら、陽介が尋ねると、諏訪は目を丸くし、それからにやにやと笑った。堤のほうは顔色を変えていないように見える(けれど堤はだいたい仏像のように穏やかな顔ばかりしているタイプで顔色が伺いにくい)。
「だってよ、大地くん。未来ある青少年の疑問に対してコメントは?」
「……飽きたって、仕方がないだろう。隊員なんだから、隊が解散するか辞めるまで、この人といっしょにやっていくしかない」
 堤がゆっくりとそう答えると、諏訪はますますへらへらと笑い、
「俺とおまえは関係ないのに関係あるを生きるのな」と言った。「相棒なんか生存に必要不可欠なものではねーのよ大地くん」
「……オレには諏訪さんが必要ですよ」
 ひゅー、と陽介は口笛を吹く。堤はひどくまの悪そうな顔をして(それは陽介にも十分にわかった)、それでも堤は、「よかったですね」と諏訪にむかって言った。すでに陽介はそこにいないかのような、けれどやはり陽介がそこにいることが重要であるかのような口ぶりで。「よかったっすね諏訪さん」陽介もそう言った。
「よかったの?」
「よかったでしょうよ」
「相棒」
「うん」
「どうも」
「相棒」
「部下じゃないんだ」これは陽介だ。うん、と、へらへら笑いながら諏訪は言った。堤は肩をすくめて、吐き出すような声で、「残念ながら」と言った。
「残念ながらオレには諏訪さんは、相棒ではないですよ、隊長」
 そのとき、前の段に置いたマロンラテを、二輪くんが持ち上げた。いつのまに出てきたんだ、と陽介は瞠目し、それからあわてて振り返った。階段を一段抜かしに駆け上がり、模擬戦闘室の扉を開く。
 そこには三輪秀次が立っている。
 ひゅー、と口笛を吹くのは、こんどは諏訪の役目だった。諏訪さん、と小さな声で堤が制止している。制止することのほうが目的であるかのような口ぶりで。相棒。
 隊長。相棒。隊長。部下。相棒。秀次。
 秀次、と陽介は呼ぶ。陽介、と秀次は呼ぶ。二輪くんはマロンラテを手に、缶をひっくり返して、何もないことを確認して残念そうにしている。

「ラーメン食ってこうぜ」
「あんなもの人間の食い物じゃない」
「秀次ラーメンまじ嫌いだよな」
「そもそも食ったことがない」
「まじでー。じゃあ一回くらいさ」
「なんで食事を摂る必要があるというのにわざわざ栄養素が足りていない食事を摂らなくてはならないんだ」
「ごはんキライマンだからな」
「うん」
「うんて」
「陽介」
「うん」
「晩飯を食いたくない」
「がんばろう」
「……がんばる」
「がんばれ」
 がんばれ。がんばれ。生きていく限り。もういちど陽介は「ラーメン食いたい」と言い、「俺は食いたくない」と言われた。
「チェッ」
「晩飯はどうする」
「付き合おうか?」
「うん」
「じゃあどっか入るか、本部戻って飯にするか」
「そうだな」
「秀次」
「なんだ」 
「秀次、俺は近界民なんだ」
 そのとき陽介の目に写っていたのは、その言葉になんの反応も示さないで陽介を振り返って笑っている二輪くんの姿で、彼は陽介をまっすぐに見ていて、陽介がそこにいることをはっきりと知っているというようすを示していて、けれど二輪くんなんて、実在しないのになと、陽介は思っていた。嘘だ。そんなのは。
 陽介にしか見えないものがあるこの世界は嘘だ。
「本当だよ」
 本当の本当の本当の本当の本当の。


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