トイレに行くというからついていって、ぼんやりと出てくるのを待っている。どこまでもついていく愛された動物のように、ふらふらとつきまとっている休日だった。トイレの前でしゃがみこみながら、行き交う人々の未来をぼんやりと観測していた。
 子供の頃から他人の未来がどんどんなんでも見えて未来に酔って吐いたり体調を崩したりすることが日常茶飯事で、やがて未来を観測しない方法を覚えた。遮断して、見えないふりをする。そうして見えないふりをしてようやくただしい日常生活が送れる。けれどやっぱり集団生活は苦手で、だから昔からろくに学校に行かなかったし、大学の受験もしなかった。
 けれどいま悠一は道行く人々を眺めて、その未来をのぞきこんではひとつひとつ見聞している。
「待たせたな」
 嵐山はそう言って出てきて、しゃがみこんだ迅を見てにっこり微笑んだ。ひどくいとおしいものを見るようににっこりと笑って、当然のように迅に手をさしのべた。手を握って立ち上がりながら、「さっき、いいもの見たよ」と悠一は言った。
「いいもの?」
「プロポーズに向かう男を見た。プロポーズは受け入れられるみたいだ。幸福そうでね、よかった」
「それはよかった」
 そうやって素敵なお話を、嵐山に伝えたくてしっかりと、人々を見つめていた。嫌な物語もたくさん見た。けれどそのなかにいくつかの美しい物語を見つけたから、悠一はそれを嵐山に伝えてやるのだった。「家族のために買い物をしたお母さんも見た。息子が大好きなカツサンドを首尾よく買えて、息子はすごく喜ぶ」そんなふうに、良い物語だけ。
 ひどくいとおしいものを見るように嵐山は悠一をみつめ、ふふ、と笑って、手をのばして悠一の頭をかきまぜた。くしゃくしゃとかきまぜられて、なんだよ、と笑う。
「いや。いつもありがとう」
「なんで」
「おまえがすきだよ」
 なんで、の答えは帰らず、ただ嵐山はそう言って笑った。あ、嵐山さん、指差して手を振る子供に手を振り返している。あたりまえのように堂々と手を振りかえして、そうして嵐山は悠一の手を、やはりあたりまえのようにとってつないだ。
 美しい未来が見えることが、コンテンツとして意味があるのなら、それを実況してやるのも悪くはなかった。ぜんぜん、悪くはなかった。セックスのあとのピロートークのように甘いだけの、美しい、美しい、美しい物語を、悠一はゆっくりと語り続けた。なあいますれ違った人、これから福引を当てるよ。それからさっきの子供は、晩ご飯がカレーだ。良い物語、美しい物語。
「迅」
 手を引いた嵐山が、店を指さした。花屋があった。
「お話のお礼だ」
 そのなかにある、サボテンの鉢を、手をつないだままの嵐山が、指差して言った。
「サボテン?」
「これ、長持ちしますか」
 育て方を間違えなければ、と店主は言った。嵐山は詳しく育て方を聞いた。悠一は店主を見つめ、ああこの人の物語はよくない、と思った。悲しい物語だ、家に帰っても家族がだれもいない、すこし疲れてる、電話をかけてもだれも出ない。未来の切り替え方をほとんど無意識に考えた。
「一番いいやつください、サボテンの、育てやすくて、素人でも枯らさないでよくて。ちゃんと、大事にするんで」
 悠一はそう言った。疲れているように見えた店主の顔にすこしひかりがさした。サボテンは案外難しいんだよ、と言いながら、並んだひとつひとつの説明を、ていねいにしてくれた。手をつないだままの悠一と嵐山はふんふんと熱心にそれを聞いた。未来がかたんと書き変わった。店主はその日、満足そうに店をしまい、嵐山が悠一を見るようないとおしいものを見る目で、サボテンをそっと見つめる。いい仕事ですねえと嵐山が、本心からの声で言った。「ここにいるみんな愛されて、幸せそうで、いいですね、すてきなお仕事だ」そう言って嵐山はあかるく、うつくしく、清々と笑った。
 選んだサボテンを交換した。うまく育つといいなと言い合って、そうして嵐山はまた、「ありがとう」と言った。嵐山はいつもありがとう、と繰り返して言う。悠一のやっていることの意味を、全部わかっているように笑うから、べつにそんなことはないのかもしれないけれど、本当はぜんぜん気づいてなどいないのかもしれないけれど、それでも全部わかっているように笑うから、悠一は全部が報われたような気持ちになって、「なんでありがとうだよ」と言いながら、すこしはにかんで、笑う。
 サボテンは悠一の机の上にある。順調に行けば赤い花が咲くと店主は言っていた。
「今日、嵐山がさ」
 悠一は言葉を紡ぐ。サボテンに向かって、その日嵐山が行ったこと、自分が嵐山について考えていることのあらいざらいを喋る。
「今日、嵐山がさ、トイレで汚れたトイレの掃除をするのを知ってて、おれは嵐山に、汚れたトイレのまえでわざとトイレ行かなくていいのかって聞いた。ああそうだなって嵐山は言った。嵐山がトイレ掃除をするの知ってたよ、おれは。嵐山にとってそれは良いことだったのかどうかおれにはわからないけど、嵐山はたぶん、トイレ掃除みたいなことが、いつも、好きなんだと思う、それをやらされる自分を、みじめだとは思わないんだと思う、それはさ、なあ、未来を書き換えるのと、似ているよな、似ているとおれは思う」
 サボテンは静かにしていて答えない。とげとげしたそれをそっと悠一は撫でる。とげとげしていて自分自身に似ていると思った。嵐山もそんなふうに思っただろうか。
「……最善の未来を探すっていうのは、……トイレが汚れてたら掃除するってことで、でもそれをおれは嵐山にやらせた、おれ自身がやるんじゃなくて嵐山にやらせた、……やってもいいと嵐山が思ってるから、やらせた、……嵐山は、トイレ掃除を、嫌がらない。……嵐山はおれといるのを、いやがらない」
 おなじことだよな、と悠一は呟いた。おれといるのを、いやがらずに一緒にいて、いつも、ありがとう、って言ってる、おれに、とげがないみたいに、おれを扱う、大事な、いじらしい、いとおしいものを見るみたいな目で嵐山がおれを見る。
 だから嵐山にきれいなものだけを教えてやらないといけないなっていつも思う。
「ただしいコンテンツになりたいな」
 そう呟いて、悠一はふかく息をすいこむ。ゆっくりと息を吐き出しながら悠一はもういちど、ただしいコンテンツだけを嵐山に、与える、そのことを考える。

「いつも自分を好きでいるのは難しいな」そう呟くと、充はいつも冷静な目にどこか不思議そうな色をにじませて、「嵐山さんでもですか?」と言った。准は笑った。「たしかにそうだな。俺がそんなことをいうのはおかしい」
 充とふたりだけの取材を受けた帰りだった。バスで揺られながら、埒もないことをつぶやいていた。年齢以上に頼りになるとはいえ、まだ小さな子供である時枝充に対して、漏らすような言葉ではなかったと准は自戒する。
 そうだ、嵐山准が、ほかでもない嵐山准がそんなことをいうのは、おかしなことだった、けれどその考えを拭えないまま、口の中に苦いものを感じて准はもういちど笑う。充が、妙だと思っていなければいい、と思った。
 迅悠一が未来を見ることを止めることは誰にもできない。
 デートと呼んでも良いのだろう、一日歩き回ってふたりで過ごした日、迅はやわらかな微笑みを浮かべたまま准をみつめ、美しい物語ばかりを語った。道行く人々の、良い物語、美しい物語ばかりを迅は語ってみせた。それがひとつひとつ精査されたものであると准は気づかずにはいられなかった。気づかずにいられたら、そのほうがずっとよかったはずなのに。
 もちろんそれは精査された情報であり、迅は、准に向かって語るべき物語だけを語り、そのほかはみなかったふりを、もしくは、迅の心の中に沈めて語らないでいる決意を、しているのだった。迅の視界にうつる物語がうつくしいものばかりであるはずがない。そんなことはわかっていて、けれど、全てを語って構わないとも、もう語らなくて良いとも、准は言うことができない。
 未来が見える男に、未来を見るのをやめろと、言うことはできない。
「嵐山さんが自分を嫌いなときでも、オレは嵐山さんを好きですよ」
 しばらく黙り込んだあと、充は、きっぱりとそう言った。准は笑う。
「ありがとう」
 いつも感謝してばかりいるような気がする、と思った。
 そうだ、だから、俺は自分を嫌いになることができない、自分が無力であると感じることはできない、そう准は思った。准は実際無力ではなかった。准には必要なだけの能力がありそして愛されることができた。迅悠一からさえも愛されることができた。
 それは本当に好いことなのだろうかとときどき准は思う。迅悠一にすら愛されることのできる自分が、ときどき准は情けない。
 けれど実際、迅は准を愛しているのだ。
 だからあんなふうに、美しい物語ばかりを陳列して、世界が綺麗であることを、信じさせようとする。
 ときどき、閉じ込められているような気分になる。迅は世界の美しさだけを俺に与えて、ほかのものはなにひとつ見せないでいようとする。世界がきれいなばかりではないことくらい俺だって知っているのに、そう思いながら准は、ありがとう、ということしかできない。
 ただのエピソードであればいいのにと思う。いっそ迅の人生において、俺がただひとつのエピソードであって、それだけの存在であればいいのにと願いながらしかし准は貪欲である自分を抑えることができなかった。それでは嫌だった。迅の特別でありたかった。迅の特別である自分にはげしい情動を覚えていた。特別扱いされている自分が、良いと思った。そしてそれは迅に対してひどいことなのだと、そうも思った。
「あ」
 声が先に出た。
 窓の外。
 ターコイズブルーのジャージが、視界のはしにうつった。
「すまん充、俺はここで降りる」
「あ、はい。了解です」
 飲み込みの良い部下は、目をしばたたかせながらも怪訝な顔ひとつみせず頷いた。准は押しボタンを押し、バスがとまったところで飛び降りて、走った。捕まえられるかどうかわからなかった。けれど、捕まえなくてはならないという決意だけがあった。なんの迷いもなく、捕まえなくてはならないという決意だけが、あった。
「迅!」
 声をあげる。振り返る。たぶん視えていたのだろうと思える微笑みを浮かべた迅が振り返る。嵐山、と呼ばれる。全身に行き渡る感覚がある。ああ、と思う。俺がおまえに溺れている、そう、准は思う。
 おまえが俺にやさしいのはひどいことだ。俺はおまえを愛するしかなくなる。
 たぶんここまで全部視えていたのだろう。にこにこと笑った迅は、駆け寄ったままの勢いでほとんど飛びつくように抱きついた准を、ふらつきながらも受け止めた。は、ははっ、自然と笑う声が出た。そうして准は泣きたくなった。こんなに好きでいるのは不思議だった。おまえは俺にあらゆる感情を味あわせる、かなしい、つらい、こわい、みにくい、自分の弱さと不甲斐なさ、そうしていとしさといじらしさとうつくしさとそれから。なにもかもがここにある。だから仕方のないことだった。
 迅悠一は嵐山准にとって無数のエピソードだから、逆もまたそうであるとしても、仕方のないことだった。
「どうしたの」
「バスで、おまえを見た」
「走ってきたの? 息切れしてないのすごいな、さすがだな」
「この程度で息切れなんかするもんか、おまえももう少し鍛えたほうが良い」
「いやだよ、それは嵐山に任せた」
「任されたって仕方がないだろう」
「会いたかった」
「俺も会いたかった」
 会いたかった。会いたかった。会いたかっただけ。ただ単に会いたかっただけ。それだけ。寂しかっただけ。ただ単にそれだけ。一緒にいるとつらいことばかり考える、つらいと思う、つらい、それでも迅が准にやさしいことは尊いことだった。迅がただただ准に美しいものばかりを与えたがるのは、尊いことだったから、それを准は受け止めるしかないのだと思った。
 手をとった。手をつないだ。迅はへらりと笑い、「嵐山さん、これねおれ、ちょっとだけ恥ずかしい」と言った。
「恥ずかしいことなんかあるもんか。好きな相手とは手をつなぐんだ」
「そうだね」
「俺と手をつなぎたいだろう?」
「つなぎたいよ」
「じゃあいいだろ」
「うん」
 嵐山、と迅は言い、うん、と准は答えた。「この先に和菓子屋があるだろ、あそこに行くつもりだったんだ。ちょっと寄る用事があったからさ。小南が好きだろう」
「あああそこか、そうだな、俺もすきだよ」
「おれのことは?」
「すきだよ」
 ははっ、と愉快そうに笑う声。なにも考えていないような、素直な声。
「嵐山ってさ」
「なんだ?」
「いや。すきだなって思ったんだ。すきだよ」
「うん。すきだ」
「ばかみたいだ。でもすきだ」
「ばかでいい」
「和菓子買おう。嵐山にも買ってやるよ」
「ありがとう」
 また言ってしまった、そう思っていると迅は、ほとんど、しみじみという口調で、「嵐山のそれ、おれすごくすきだよ」と言った。へえ、と思った。ありがとう。いつも言ってしまったあとで、ほかの言葉が思いつかないことに無力感をおぼえていたのだけれど、じゃあ、間違えていなかったんだな、そう思った。間違えていなかった。とても嬉しい気持ちになった。間違えていなかった。ありがとう。ありがとう、ありがとう、何度でも言うよ、おまえが生きていること、おまえがそこにいること、おまえがいま俺と手をつないでいてくれること、恥ずかしいと言いながら手を離さないでいてくれること、美しいものばかりを俺にあたえてあたえて与え続けていてくれること、すべて、なにもかもすべて、ありがとうと言い続けるよ。
「迅」
「なに」
「ありがとうな」


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