便宜上の行為として褥をともにした人間が、恋人はいるのと尋ねるので、いるよと答えた。そう答えても問題のない相手だったのでそう答えて笑い、「恋人はひとりいる、ほかに作ったことない、そいつが初恋で、それでおしまいだ」と答えた。
 どんなひと、と女は聞きたがった。「完璧なひと」悠一はそう答えた。「人間が想像できる範囲でこれ以上ないっていうくらい完璧なひと、運動神経がよくて、頭がよくて、ルックスがよくて、性格がよい」そう答えると、女はくすくすと笑い、そんな人ほんとうにいるの、空想上の人間なんじゃないの、と言った。便宜上の褥で、セックスフレンドとして過ごしたその期間彼女を拘束したことで動いた未来があった。バタフライエフェクト。ほんのちいさなはばたきでも、未来は少しずつずれていく。
 もう彼女とは寝ていない。
 ああいうの時々あったほうが精神衛生上良い気がする、と思いながら、悠一は彼の、完璧な恋人のもとに帰ってゆく。美しい彼の恋人を、彼は一度も抱いたことがない。あるいは抱かれたこともない。でもやるなら抱く方だとなぜか確信しながら、でも一度もそれを、したことがない。
 テレビ局の前で待っていると会える、と未来視は告げていた。悠一はそのようにした。悠一がぼりぼりといつもの袋菓子を食べていると、年下の部下をひきつれた嵐山が未来視通りにやってきて、迅、とあかるい声で悠一を呼んだ。
「迅!」
「よう」
「待ってたのか」
「うん、会いたかったんだ」
 笑ってそう言うと、嵐山は愉快そうに破顔し、そうか、と言った。子供たちに、悪いがここで解散でもいいか、と告げ、するりと換装を解いて、そこにただひとりの嵐山准が残った。
「久しぶりだな」
「うん、あれこれやってたから」
「会いに来てくれてありがとう」
 忙しいのに、と言いながら嵐山は、ただただ幸福そうに笑い、ああほんとうに浴びるように、幸福だなと悠一は思う。嵐山といると浴びるように幸福でふわふわとしていて、それは嵐山の未来に包まれている感覚だった。未来が視える悠一の目のなかに、いまは嵐山准の順風満帆で醜いことはひとつも起こらない(もしくは起こったとしても嵐山にとってそれは醜さとしては感知されない)人生だけがとどまっている。
「手」
「うん?」
「つないでもいいか」
「ああ」
 差し出した手を、嵐山が取った。ぎゅっと握った。それだけでいつも十分に満ち足りて、そうして悠一はふわふわと幸福でほかのものはなにひとつ要らないと思う。ほかのものはなにひとつ要らなくなるから怖かった。嵐山准だけが世界の全てでほかのものは要らなくなるから怖かった。世界中が淡く消えていって嵐山の善良と幸福だけが残るので怖かった。
「すきだよ」
 そう悠一が言うと、「俺もすきだよ」そう、嵐山は言い返してきた。いつも十全な肯定だけがそこにあり、そして、ほかのものはもう、なくていいとすら思えるのだった。
「ぼんち揚げ食う?」
「ありがとう」
「嵐山のその、ありがとう、って言うの、おれすきだな」
「そうか?」
「もっと言わせたくなる」
「善いことをするといい」
「そうだね」
 おれは悪い人間なのにね。
 嵐山はにこにこと笑って、善いことをしたらもっと感謝するよ、なんていうので、じゃあおれは死んだらいいかなあ、おれがやってることなんて大半、悪いことなんじゃないのかなあ、もちろんそれは最善の未来のために尽くして尽くしてがんばっていることだけれどそれ以前におれは生まれながらにして邪悪なんじゃないのかなあと(そんなことを言われたことがなんどあったか知れやしないので)嵐山があんまりたのしそうに笑うので悠一はそんなふうにくよくよと考え、ああもう永遠にこの、幸福な楽園のなかにうずもれてなにも考えなくなりたいと思うのだった。
「うちに帰るんだろ、送ってくよ」
「迅もうちで飯を食っていくと良い」
「うん」
 当然のように嵐山は言って、悠一はばかのように頷いた。おれは昨日も今日もたぶん明日も、そうとわかっていて人間の運命を切り替え続ける。相手に選択の権利を与えずに見えている未来が良い方に傾くように、おれが善いと考えたほうに傾くように働きかけ続ける。そのことで嵐山にありがとうなんて言ってもらえると期待をするべきではないのに、嵐山といるときに視える未来があまりにも明るくてまばゆくて美しいからおれは、まるで正しい人間であるように錯覚するからこれは本当はよくない、間違っている。
「嵐山」
「うん?」
「おまえこそ忙しいのに、一緒にいてくれて、ありがとうな」
 嵐山は笑い、「だって俺はおまえが好きなんだよ、迅」と言った。つないだ手に力がこもった。ほかのことをする勇気が持てなかった。これ以上深入りしたらおれはこんどこそだめになるような気がした。嵐山准は狂気に似ていた。
 おれを肯定する都合の良い装置のように嵐山を愛しているおれを誰かが罰するべきなのだと、悠一は思いながら、ただ指先に力をこめている。

 ノートに書く。
 これから先嵐山の人生に起こることの全てを、ノートに書く。ひとつひとつの要素を丁寧に洗い出して、きちんと描写する。今日嵐山の人生に起こること、明日嵐山の人生に起こること。そのすべて。
 指が疲れて書けなくなるまで書くとすっきりした。目薬をさしたあと、死んだように眠った。べつに目は疲れていないはずなのだけれど、目が疲れているような気がするので、最近目薬をさしていた。もちろん錯覚で、実際は目を使って視ているわけではないのだから、疲れているのは脳なのだろうけれど。ノート。
 悠一の赤いノートは悠一のお守りだ。そこに書かれているものがすべてで、ほかにはなにもいらないと思いながら眠る。もちろん錯覚だ、そんなはずはない、世界はもっと貪欲に未来を求めていて、そのために迅は生きなくてはならない、そのために迅は生きなくてはならない、そのために。
 良い人になってね、という声。
 最善を尽くそうな、という声。
 どちらも死んだ人間の声だった。悠一は耳をふさいで、赤いノートのことだけを考えた。眠るときくらい自由にしてくれたっていいだろう。おれを自由にしてくれたっていいだろう。おれがほしいたったひとつのもののために生きると言ったって、いいだろう。
 でも嵐山准は二十四時間休みなくつねに、嵐山准でありつづけているように見えた。

 悠一の名前を呼ぶ人間は死んで、あとの人間はみな悠一を迅と呼ぶ。悠一と呼ばれても返事をしないでいたら、苦笑しながら皆が迅と呼ぶようになって、そのあとで悠一が悠一と呼ばれることを許していた最後の人間が死んだので、それ以来悠一はだれにも、自分を迅と呼ぶことを許していない。嵐山にすらも。
 むしろ嵐山が、悠一が悠一と呼ばれていた時代を知らないからこそ、好きになったのかもしれないと思う。
 あたりまえのことのように、嵐山は悠一を迅と呼ぶ。生まれた時からずっと、それ以外の呼ばれ方をしたことがない存在のように確信を持って、悠一を迅と呼ぶ。そのときの声のきらきらした声音が悠一は好きだ、特別だと思う、自分の名前が、美しい特別なものだと、錯覚をする。
 ノートのなかにある無数の嵐山の未来を抱きしめて悠一は眠る。
 嵐山本人を抱きしめることができないから、嵐山の未来を抱きしめて、悠一は眠っている。

 近づいてくる体があった。ぽん、と背中を叩く手のひらがあった。悠一はそれを予知していた。全部予知していたのに、身動きがとれなかった。ほんのかるい冗談のように、嵐山が迅の頬にくちづけをした。ほんとうにかるい親愛を示す挨拶としてそれをした。目を上げた。嵐山はうつむいていた。笑おうとして、失敗した、という表情で、迅を見ていた。ぼっと頭に血が上った。
「……キス」
 迅が言うと、嵐山は慌てたように顔を覆った。
「だ、……誰もいない、と思って。おまえがいたから。それで、どうしても」
「どうしても?」
「触れ、たく、なって……」
 嵐山の、ばらばらに途切れた声がある。ああもう、と悠一は思う。そこは本部の廊下で、たしかにだれもいなくてけれど誰かが通りかかるともしれない場所で、それでも嵐山はキスをすると悠一は予知していたのにそれを回避しようとしなかったのだから結局、悠一もそれを、求めていたということになる。
「嵐山」
 腕をつかんだ。顔を覆って隠そうとする腕を掴んで、顔を覗き込んだ。嵐山。
「もう一回言って」
「いいだろ、もう」
「もう一回言って」
「……おまえに、どうしても、触れたくなった」
「手じゃ足りなかった?」
「たり、なかった」
「キスをしたかった?」
「したかった。……なあもう」
 ゆるしてくれ、と言いかける嵐山の頬に手をかさねて、そうして唇をあわせた。それははじめてのことではなかったけれど、とても久しぶりのことではあった。はじめてキスをしたときから怖くて続きができなかったそのキスだった。
 かたんかたんかたんかたん。未来が書き変わってゆく。毎秒ごとに書き変わってゆく未来を悠一はみつめる。悠一の視界の中の嵐山の未来のなかにどんどん悠一の姿が増えてゆく。それは恐ろしいことで身震いをするようなおぞましいことのように思えるのにどうしても、どうしても、どうしてもだ、悠一には嵐山が、嵐山がどうしても、必要だった。
 嵐山がそれを、決めたのだった。
「嵐山」
 悠一は呼んだ。嵐山を呼んだ。恋人を呼んだ。
「今夜玉狛に来てよ」
「今夜?」
「どんなに遅くなってもいい。来てくれ。待ってるから」
 嵐山はまっすぐに悠一をみつめ、それからゆっくりと、頬に朱が、行き渡った。意味が通じた。そうだろう。おれたちはいつも、通じ合って生きている。

 みんなが寝静まった夜に、誰ものヒーローである嵐山准が、淫乱な生き物のように体をひくつかせている。それは醜いことのようで、けれど嵐山の人生には醜い出来事などなにひとつ起こるはずがないのだから、それは美しいことだった。悠一がやっていることだとしても、それは美しく書き換えられるのだ。嵐山准の人生には美しいことしか起こらないから、いま悠一はたしかに美しい未来のただなかにいるのだ。身じろぎをするひとつひとつの動きが淫蕩だった。迅、と呼ぶ声もいまはかすれて隠微に湿っていた。
「おれはここにいるよ」
 うん、と嵐山は頷いた。頷きながら確認するように、迅、と繰り返した。順応性の高い肉体は痛みを感じることなくうまく悠一を受け入れた。そのために作られた装置のようだとまた思った。そう思うことはかなしかった。おまえがおれのために作られた装置みたいだなんて考えるのを悠一はやめるべきだった。もっと都合が悪ければおまえにこんなに溺れなくて済むのに。
 ねえすきだよ。すきだよすきだよすきだよ、かなしいことは絶対に起こらないおまえの未来に、恋をしている。ずるずるとそのなかを這い回る醜いアメーバのようなおれをすくい上げて人間にしてよ。言葉にしたのかしないのかわからない、ただ、すきだよ嵐山と言うと嵐山は湿った声で甘く、迅好きだよと、こだまのように、言い返した。



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