諏訪が、夜間高速バスに乗ったことがないというので、夜間高速バスの話をしている。場所は新人研修オペレーションルームで、ふたりとも煮詰まったコーヒーを飲んでいる。今日の研修はおおむね退屈で、ガキどもはおよそ一分のスコアの壁を乗り越えようと必死になっていて、それを大地と諏訪はぼんやりと眺めている。
 やすみとってどこいくの、と聞かれて、旅行です、と答えた。夜間高速バスに乗って、小説の舞台に行く。写真を撮ったり、神社を訪れたりして、またバスに乗って帰ってくる。それだけです、と大地は答えた。ああ、それから、バスは長い距離を走るので、途中でサービスエリアで休憩があるんですよ、それがけっこう好きです。そう言ってから大地は、胸の中のもやつきを思い出してそのまま口にする。「でも、そういえば嫌なことがあって」
 サービスエリアでトイレを済ませて出てくると、少女と目があった。おサノと似たような年格好の女の子が、あきらかに助けを求めていた。少女のとなりにはおっさんがいて、べつにたいしたことを言っているふうではなかったけれど、少女はあきらかに迷惑そうな顔をしていた。
「正義の味方」
 未来が見える例のひとつしたの生意気なアレみたいな口調で、先回りをして諏訪は言った。そういうんじゃないですけどねと大地は答えた。
「義を見てせざるは勇なきなり、ってか」
「まあ、そんなとこです」
「いい話じゃん」
「それが続きがあって」
 少女は、ありがとうございます、と言って、それから大地にまとわりついた。まとわりついたとしか言いようのないやりかたで、大地に話しかけ、席余ってますよね隣いいですかと尋ね、実際にそこにやってこようとした。いや狭いからといって断った。口の中に苦いものが広がって、大地は、自分のやったことがただしかったのかどうかわからなかった。
 要するにどちらもおなじことをやっているような気がした。おっさんも少女も。そうして最後に巻き込まれて迷惑だった。
 好きだと言われて迷惑だった。
「どこまで行ったの」
「行ってません、どこまでも。なにもありません」
「ふーん」
 諏訪はかたをすくめ、ととん、と机を叩いて、それからポケットをさぐって、小さな容器を取り出した。蓋をあけて、そのなかから白いものを指先ですくいあげた。大地、と呼んだ。呼ばれるままにそちらを向いて、諏訪が、指を、大地の唇におしあてるのをそのまま受け止めた。諏訪は大地の唇にそのぬるぬるしたものを塗りつけて、満足そうに笑った。
「大地クンがそのへんの女にキス迫られても、恥ずかしくないようにな」
 諏訪は笑ってそう言った。

 諏訪は手荒れがひどい。子供の頃からそうだという。栄養失調の類ではないかと大地はひそかに疑っている。がりがりとまでは言わないまでも骨ばって痩せた諏訪は、肉は好きだが肉を食べたい時に重点的に食べるだけであとの食生活はまことに悲惨なもので、食いたくなきゃ食わねえよと言い張ってたばこばかりを吸っている。
 その話はともかく、いずれにせよ諏訪は手荒れがひどく、子供の頃から持たされているというワセリンの小さな容器をいつもポケットに入れていて、四六時中塗っていた。
 それを、その、いわゆる行為のときにも諏訪は使う。
 それはうまく馴染んでぬるりと大地を受け入れたが、それを使って慣らしている諏訪にも、そうしてそれが終わったあと入浴をしてまた同じワセリンを手に塗っている諏訪にも、いつまでも大地は慣れない。見てはいけないものを見ているような気分になる。諏訪にとってはただの、日用品で、諏訪にとっては慣れ親しんだもので、だから大地の唇にワセリンを塗りつけることだって、何の意味もないのだ。
 女とキスをするときに痛くないようになどと言ってワセリンを塗りつける諏訪にべつに意図などありはしないのだ。
「……あんたは俺を好きってことなんですか」
 そう大地は尋ねる。所有欲をそこに見出していいのかと大地は尋ねる。あるいは嫉妬を。さあなと諏訪は答える。答えはするがとにかくそれは諏訪のワセリンであり、今日も大地の唇は、しっとりと、濡れている。
 実際問題として女と寝る予定もくちづけを交わす予定もありはしないのになんだってこの人はこんなことを言うんだろうな、そこにある感情を想像しても構わないのに、想像をしない。ふとんをふた組敷いて寝る。客用布団のひとつくらいあったっていいでしょうと言い訳をしながら、その実その布団は諏訪のためだけのものだ。たまに太刀川あたりが転がり込んでくるときは、大地は諏訪の布団の方を使う。だれにもその布団を使わせたことがない。諏訪以外のだれにも。
 慎重に。
 慎重に距離を測る。近づきすぎないように。遠ざかりすぎないように。夜のサービスエリアのように。好きだ好きだと言い過ぎると、迷惑かもしれないと思いながら、しかし諏訪はワセリンを、大地の唇に塗るのだった。
「煙草、買い置きありますよ」
 煙草を切らしたと言って焦っている諏訪に、そう告げると、諏訪は心底いやだという顔で大地を見上げて、不精不精「……やめろよな」と言う。あんたが俺の唇の心配なんかした仕返しですと大地は言わずに、
「あんた人望ないから、煙草なんか買ってくれるのは俺くらいでしょう」
 と言った。


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