何もかもが遅すぎたのだ。彼女を大切にしたいと思った時期も、大切だと気づいた時期も全て遅かった。


「幸せです、恭弥さん」


  ボンゴレのアジトで一緒に住み始めた時も、いつも笑顔を絶やさなかった。けれど僕の手を握りつつも、彼女の手は震えていた。そりゃいきなりマフィアのアジトで暮らす事になって、怖くない訳がない。縁側で疲れて僕の肩に寄りかかる彼女の寝顔を見て、決意するように握られた手を握り返す。そこで彼女を再び心から守りたい、とそう思ったはずなのに。


  気づけばうまくいかなくなっていった。


・・・


「おかえりなさい」


  帰った僕に向けられるなまえの声が、いつからか掠れて聞こえてきた、僕に笑いかける笑顔も何かで霞んで見えるようになった。


「恭弥さん」


  そう呼ぶ僕の名が妙に違う声に聞こえ、耳を塞ぎたくなる事もあった。彼女の名も僕の中にしまい込み、連絡も返さなくなった。それを察したのか、彼女も必要以上に連絡をしなくなっていった。機械の連絡が途絶えただが、少しずつ歯車は合わなくなっていく。何かとしまい込む事が得意ななまえは、会話が少なくなっても全く反応さえも変わらなかった。帰ってくれば毎日顔を覗かせ、僕におかえりと言うんだ。毎日夕食だって作ってくれる。彼女の料理は美味しかった。


  なまえを思う気持ちは変わらないが、あまりの忙しさに何も感情が湧かなくなっていったのは確かだった。匣についての探究心だけで生きているような心地だった。アジトに戻っても腹を満たし、睡眠をとるのみのために帰る。僕の生活の中になまえという存在が日に日に薄れていくことを感じた。


「恭さん、なまえさんが心配をされていました」
「…もう少ししたら眠るよ」
「一度顔を出された如何でしょう」


  夜に部屋に篭っていると、最近は良く哲が僕に声を掛ける。前は彼女が様子を見に来ていた事をふと思い出しても、頭の中で彼女の表情を浮かべる事が出来ない。もう何日、話していないだろう。何も言わない僕に何かを察したのか、静かに襖を閉めた。思わず唇を噛みしめる。此処まで話せなくなるとは、思ってもいなかった。昔僕となまえが自然とどんな風に話していたかも、思い出せなくて持っていた匣に力を込めた。


・・・


「恭弥さん、少し何かお腹に入れませんか?」
「…明日は休みだから、勝手にやらせてくれないか」


  ある日夕食が出来ているのにも関わらず、襖越しの彼女の声に反応もしなかった。心配したなまえが未だ部屋で仕事をする僕に問いかけ、そのように告げれば困った様に笑う。何か言いたい事があるのか、緊張したように服の裾を握りしめていた。休みといっても仕事は溜まっていた。今はゆっくりしている気分なんかじゃなかった。まだこんなにも調べなくてはならない物がある。結局そんな事を言いながら…それはただの言い訳だった。回そうと思えば後にだってできる仕事も、僕の探究心を抑える事が出来なかった。理由を確立することで理解してもらう。自分勝手でまるで子供のような言い訳だ。その時の僕は本当に、自分の時間が欲しかった。


「あの、明日時間を貰えませんか」
「…」
「久しぶりに外に出てみたいんです」


  そういう事だろうと、思った。珍しくなまえが僕にお願いをしたのだった。控えめに僕に言うが、早く調べたい事があり直ぐにでも外に出たいのだ。拳を作っても彼女の反応は変わらず、眉をハの字に曲げて僕の言葉を待っている様だった。生憎、出かける気なんてこれっぽっちもない。


「…僕は疲れてるんだよ」
「ごめんなさい…」
「出掛けるなら一人で出てくれないか」


  ハッとしたように、俯いたなまえにチクリと胸が痛んだ。それでも君が僕の事を考えないからだ、と何処までも僕は馬鹿な事を考えていた。仕事で疲れている事を君だってわかっているだろう?自分勝手な理由を押し付けて、遠回しに彼女に伝わったであろう冷めた思い。一瞬で彼女の困ったような笑顔が消え、俯いた。その時再び「ごめんなさい」と謝る姿を見て、少しだけイライラしてしまう。わざとらしく大きくため息をつき、荷物を持って外に出る準備をした。その方が気分的に楽になるかもしれないと思ったからだ。


「まっ…」


  最後に大事な匣をケースに入れ、彼女の横を通り過ぎようとする。その瞬間腕を捕まれ、少しだけ力を加えられた。彼女の瞳は潤んでいて、まるで「行かないで」と僕に言っているようだった。それでさえも腹立たしく感じ、ただ無表情で彼女を睨むが手を離してはくれない。だからその手を振り払い小さな彼女の手は行き場をなくしたように、力無く落ちた。その時一瞬見えた彼女の目からは涙が溢れていた。強がりで優しい彼女が見せた、初めての涙で僕はやっと我に帰る。この場から直ぐにでも立ち去りたかった。そのまま振り返る事もできず、自尊心の高い僕は出ていく事しか出来なかったのだ。後悔しても遅い、引き金は既に引かれてしまった。


  こんな過程から、僕達から離れる要因はありふれていた。きっと心の何処かでいつかは別れを選択するだろう、と思っていた。終わりを恐れながらも自分自身でもそうした方がいいと、思わざるを得なかった。
  その翌日、家に帰ると何処か覚悟を決めたような目をした彼女が、大きな荷物を抱えて帰りを待っていた。ああ、ようやくか。その瞬間抱えて居た物が全て崩れ、楽になったような気がしたのだ。


「お帰りなさい、恭弥さん」
「…どうかしたの?」
「もう、恭弥さんの重荷にはなりたくなくて…考えたんです」
「…」
「…っ今まで本当にお世話になりました、もう、離れた方がいいと思うんです」


  涙声の柔らかい声が響く。別れの言葉は案外簡単に咀嚼する事が出来たが、目元は腫れていて、泣かせてしまった事に気付く。視線で気付いたのだろう、彼女は恥ずかしそうに目を逸らした。


「…分かった」


  なまえは最後まで笑っていた。断る理由は無かった。ここに来てからずっと不自由な生活をさせてしまったし、自分のせいで泣かせたくもなかった。そしてまだまだ若いし色んな事が出来ただろうが、僕の我儘でこの世界に脚を嵌めてしまった。旅立つなら、出来るだけでも助けになりたい。


「ありがとう、恭弥さん」
「君の生活のフォローはする、仕事は見つかってるのかい?」
「あ、はい…実はシャマル先生からお声掛けがあって、そちらを手伝う事になっています」


  そうか、良かった。行く先があることに胸を撫で下ろしたが、同時にチクリと胸を痛めた。前髪を弄る癖を見て、思わず目を伏せる。ずっと一緒に居たからか、彼女の癖も直ぐに見つけてしまう。僕たちは、本当に長く一緒に居た。それでも終わりは呆気なく訪れる。その終わりに安堵している自分も居れば、体を支える芯が無くなるような虚無感も感じていた。僕の元を旅立つ彼女の背中を押すように、彼女の震える手を握り締めた。


「恭弥さんに出会えて、友人にも恵まれましたし、感謝しています」
「僕もだよ。本当に君に不自由な生活をさせてしまって、悪かったと思ってる」
「…いえ、そんな」
「なまえ、ごめんね」
「…っ恭弥さん、!…これからも、ファミリーの一員として、…よろしく、お願いします」


  握り締めた手に縋るように、なまえは背中を丸めて泣いた。そこで初めて彼女が僕の物で無くなった事を感じた。抱き締めたい、そう思ったけれど触れてはいけないと必死に押さえつける。忙しさのせいにして大切な彼女を失い、ようやく罰を受けたような気がした。彼女の涙を見ることは暗く深い穴に突き落とされるような気分で、思わず震える手を必死で隠した。


・・・


  なまえが居ない空間を見て、呆気なく仕事の考えが消えた。あんなにも大切だった彼女に、僕は相手にもせず自分の勝手な感情だけで傷つけた。なまえは何時迄も僕の事を1番に考えて、離れる決断をしたのだ。あの時掴まれた腕は、僕への最後の警告。失ってからは遅いのに、僕は本当に大切なものを失ってしまった。仕事に集中など出来やしないのに、机に向かうしかなかった。まるで砂漠に一人取り残されたような、今迄感じたことのない心細さを感じた。

  …この頃、あまり寝る事が出来ていない。眠る時間になると思い出してしまうからだ。思い出したく無いのに、この場所は彼女の思い出ばかり。一層外に調査へ出掛けることが多くなった。連日の出張と、不眠で身体は限界を訴えていた。


「恭さん、さすがに明日は休みましょう…!」
「うるさい、」
「明日は自分が行きます!お願いします、休んで下さい…」
「嫌だ」


  身体の不調を哲は分かっていた。明日も匣の情報のために出掛ける予定をフラつく僕の肩を支えながら、休みを取るよう説得を続ける。頭を下げて説得する姿にしばらく考え、明日は久しぶりに休みを取ることにした。


「…失敗したら、咬み殺す」


  そう告げると苦笑いをしたが、安心したような表情を見せた。


  寂しさは、気付かない内に心に染み込んでくる。誰もいない縁側にゆっくりと座る。きっとなまえが居れば、ここから見えたあの角からひょっこり顔を出す。笑顔で「おかえりなさい」とお茶を用意するあの角にはもう人の気配さえもない。暗い部屋の電気をつけ何かを飲もうと台所に移動すれば、まさに見慣れない場所だった。仕事に追われ台所など、久しぶりに入ったからだった。生憎哲は、代わりの明日の調査のため不在だ。冷蔵庫を見つけてそれを開けようすると、マグネットで纏められている紙を見つけた。独特な可愛らしい綺麗な字の主は、間違いなく彼女のもの。何枚も何枚もレシピが書かれていて、思わず呆然とした。何も言わずに黙々と食べ食器を片付ければ終わり、自分の反応を思い出せば呆れてため息さえも出ない。こんな努力をしてくれていたのだ。

  そんな料理は全ておいしいに決まっているじゃないか。その紙を無造作に握りしめると、自然と彼女の名前を紡いでいた。もっとちゃんと愛することができたのに、どうして僕は美味しかったの一言さえ伝えられなかったのだろう。


会いたい。


  そう思った途端無我夢中に飛び出した。入り組んだアジトの中の、医務室。連日の仕事で少しフラつきながらも、歩き続ける。もう少しで会える、一緒に居ることが出来なくても一目見る事が出来れば、それでいい。あと少しだという所で、視界が揺れ体が急に傾いた。


「雲雀?!」


  片膝を着いた瞬間、その場に居合わせた山本武が駆け寄った。そのまま僕の腕を掴むが、振り切れない。それを無視して立ち上がろうともするけれど、足に力が入らず何とも情けない姿になってしまった。


「なまえ!来れるか!」


  近くの医務室まで聞こえるように山本武が叫ぶと、パタパタと小さな足音が聞こえる。呼びかけに不思議そうになまえが顔を出した。ぼくと視線を合わせると、顔を真っ青にさせて僕の元へ勢いよく走り出した。


「恭弥さん…!山本くん、恭弥さんはどうしたの?!」
「フラついてた所を見たんだ、雲雀、怪我とかじゃねーよな?」
「うるさい、触るな」
「とりあえず、入って下さい!」


  二人掛かりでベッドに運ばれ、簡単に座らされる。「じゃあ…後はよろしくな」となまえに告げると山本武は医務室を出て行った。運良くあのシャマルという男は不在だ。彼女は僕と二人きりといった空間に居心地が悪そうな表情をしたが、急いで僕の額に手を当てた。熱がない事を確認すると、安心したように息を吐く。


「まだわたしは医療的な処置が出来ないので、シャマル先生が帰ってから見てもらいますね、横になっていて下さい」
「なまえ、」
「…はい、恭弥さん」


  見ない内に少し痩せただろうか。なまえが近づいてくる足音に安心して、目を閉じた。自分の体が思ったより疲れているのを漸く理解する。


「うまく、やってる…?」
「…はい、シャマル先生も優しく教えてくれます」
「そう、それなら良かった」
「…心配してくれていたんですね」


  心配しなくても大丈夫です、立派になりますから。そう行ってベッドの近くのパイプ椅子に座ると、心配そうに僕の顔を覗き込む。


「無理しすぎ、です…」


  また我慢したような表情。君は何処までもお人好しなんだなあ、と冷静に考えていた。俯いたなまえは服の裾を握りしめていた。その時何かがそっと点火したように、じわじわと愛おしさを感じる。別れた日から息苦しいくらい、君のこと考えていた。彼女の手に自分の手を重ねると、驚いたように顔を上げた。


「…君のこと、ずっと考えていたよ」
「…っ、ありがとう、ございます」
「なまえ、ごめんね」
「そんな、…恭弥さんが謝る必要なんて」
「君が我慢する必要は無かったんだ」


  同時に、なまえはぎゅっと僕の手を握りしめる。一目見れば満足するなんて、あの時の僕はどうかしていた。願わくばもう一度、あの日々を過ごしたいと思ってしまったのだ。


「君ともう一度、やり直したい」
「…え、」
「君の料理が食べたい」
「あの、恭弥さん、」
「自分勝手だって分かってる、君が居ないこの数週間だけで痛いほど分かった」


  側に居てくれるだけで、いいんだ。それに気付いたのはあまりにも遅すぎたけれど。


「君が居ないと、ダメなんだ」


  その瞬間、大きな目から涙が一粒溢れた。上半身をゆっくりと起こすと、漸くなまえに触れる。温度を噛みしめるように、忘れないように。瞬きをする度にボロボロと溢れていく涙を、漸く受け止める事が出来た。


「恭弥さんだ、夢かな、夢じゃないといいなあ…」


  真っ赤な目をしたなまえが微笑む。僕は彼女の細い腕を力任せに引き寄せ、抱き締めた。彼女の腕が背中に回った瞬間、幸せだと心から思うのだ。

08.0624

アンコールが鳴り止まない