昨日の今日だからか、わたしはなんとなくそんな予感がしていた。大学の帰り道、携帯におそ松から不在着信がある事に気付く。気付いた時に折り返しは何故かしなかった。いつもの道を歩けばトト子の魚屋さんを通る事になるが、そこにおそ松が居るような気がしたからだった。話したくないとは感じていたけれど、道を変えようとはしなかった。怖くてもいつかは話さなければならないと思っていた。魚屋さんに顔を出すと、案の定、いや予想通り同じ顔が店の中で並んでいた。


「お、なまえ今帰りか?遅いな」
「あ、カラ松と、…おそ松」
「てかお前電話でろよー」


  よく落としているボロボロの携帯電話を片手に、おそ松はわたしを待っていたようだった。「なんだ、おそ松。なまえと待ち合わせだったのか」はは、と困ったように笑うカラ松の薬指にはシルバーのリングがはめられていた。きっとトト子にも同じリングが薬指にはめられている事だろう。会ったらトト子に見せられる前に見てしまった事を怒るかな、なんて考えているとふふ、と気持ち悪い笑いを浮かべてしまった。


「なまえきもい」
「だって嬉しくて。カラ松、結婚おめでとう」


  もうカラ松はハチマキを巻いて、魚屋に馴染んでいる。もう青いパーカーを来たカラ松をどれだけ見ていないだろう。それでも何処かのポケットからサングラスを取り出して、カッコつけながらお礼を言うカラ松は、変わらないわたしの好きだったカラ松だった。


「わたしね、」
「なんだ?」
「昔カラ松のこと好きだったんだよ」
「…!?え、なんかそれはそれで、照れるな…」
「やだなーもう昔の事だよ」


  そう、もう昔の事だ。言ってしまえばわたしの記憶のカラ松は少しずつ消えて行く。あれだけわたしを侵食していた青を塗り替えていくのは、隣で少しムスッとした表情をしている彼だ。 サングラスを付けたり、外したりするカラ松が可愛らしくてまた少し笑ってしまった。カラ松はわたしとおそ松を交互にみると、小さくため息を吐いて笑った。


「そうか、ありがとう。これからも…兄貴の事頼むな」
「…え?」
「え?」
「…え?いや、二人は昔から付き合っているのかと思っていたが…違うのか?」


  カラ松の言葉にわたし達の間抜けな声が響いた。昨日流れとはいえ、おそ松に告白した事を思い出すと急に恥ずかしくなり助けを求めておそ松を横目で見た。けれどおそ松はそのままカラ松を笑って見つめていて、否定する様子が無かった。思わず焦って否定しようと手をぶんぶんと振り回せば、おそ松は忙しく動かすわたしの手を掴んだ。その力が何時もより強くて、何も言えなくなっていると「じゃ、合流出来たから帰るわ」とカラ松に無理やり手を振った。何かを察したような表情のカラ松はおそ松に手を引かれて焦りながら振り返るわたしに、ゆっくりと手を振っていた。手を振る中でもカラ松の左手の薬指が光り、わたしは大きく手を振るのだった。


「なんだよ、さっきの」
「…ちゃんと言いたくなったの」


  カラ松と別れておそ松に手を引かれて歩いていた途中でおそ松が不機嫌な声を出す。それはそうか、昨日告白しておいて日の弟に昔の恋心を伝えたのだから。またおそ松はわたしが酷くカラ松に恋をしていた事を知っているから尚更の事だっただろう。正直予想はしていたとはいえ、うまく唾が飲み込めないほど緊張していたのに、意外と話せている自分に驚いていた。ふとおそ松が立ち止まると、わたしが一番恐れていた言葉を投げかけた。


「…なあ、昨日のって、」
「…言われると思った」
「俺の事を好きなの?」
「…うん、」
「いつからだよ」
「…もう結構前から」
「んだよ、早く言えよ」


  ふい、と顔を背けるとまたわたしの手を引いて歩き出す。おそ松に伝わっている、そう思うと心臓が握りつぶされたように苦しいのに、手を引いてくれているからか期待する気持ちも少なからずあった。緊張で手に汗をかいているのがわかる。手を離して欲しいと思うけれど、おそ松はそんなわたしの手でも強く握ってくれた。


「なまえ言っただろ、」
「…?」
「松野になりたいって」


  ぽつり、と呟くように零したのはわたしが昨日おそ松に言った言葉だった。素直にトト子とが羨ましかったのは本当だ。わたしが恋した二人は、トト子のことが大好きだ。もちろん、わたしもその一人だけれど。冗談めいた言葉だったけれど、今では何であんな事を言ってしまったのだろうと、穴があったら入りたい気分だった。顔に熱が集中して泣きそうになる。何も言わないわたしに痺れを切らしたのか、おそ松はあーもう!と少しだけ大きな声を出した。


「わかんないの!昨日から言ってんじゃん!俺がいるって!」
「…!」
「そんな顔させたくないの!結婚って聞いてからのなまえ、ほんとおかしかったし!」
「それは!おそ松がトト子の事まだ好きだと思って、それを考えるとつらくて」
「なまえこそ、カラ松を今度こそ諦めてくれると思ったのに、全然反応ねーし!なんか告白してるし」


  やっと視線を合わせた時、おそ松も着ているパーカーと同じくらい真っ赤な顔をしていた。早口で言いくるめられると、大きく息をしているおそ松の肩を呆然と見つめる。結婚って聞いた時、頭に浮かんだのはいろんな感情が混じり合ってぐちゃぐちゃな顔のおそ松だった。わたしはその表情を初めてセックスをした日に一度、見たことがある。わたしはその顔を見るのが一番辛かった。その表情をする度、失恋した気分になるから。今までわたしのベクトルは一方通行のはずで、これからも側に居ることが出来るならそれでもいいと言い聞かせていた。


  なのに、そんな顔をされると、そんなことを言われると期待しないわけがない。


「…昨日のもっかい言ってよ」
「っやだ!」
「なんでだよ!へるもんじゃないだろ!」
「やだ!おそ松だって、まるでわたしの事好きみたいな言い方してさ…!」
「は!?…わかんないの!?」


  頭の中がぐしゃぐしゃで、思わず掴まれていた腕を離してしまう。少し距離を取れば、おそ松の顔がよく見える。なんだかその続きの言葉を言ってくれそうな気がして、わたしはその場でおそ松と視線を合わせ続けた。その視線に先に耐え切れなくなったのはおそ松の方だった。視線を泳がせて頬を指で掻く。


「あ、のな」


彼の掠れた声が周りの虫の声と一緒に耳に響く。口がカラカラに乾いて、ごくんと自分の唾を飲み込む音が聞こえた。これまで何倍も恥ずかしい事はしているはずなのに、肝心な事は伝えられてなかったし、知らなかった。相手の気持ちを知る事って、こんなに怖かっただろうか。だけど気持ちが通じた時は、きっと恐れていた気持ちより何百倍も嬉しい。彼の口が開き、頬が熱を持つ。彼の動く唇を見つめて、再び視界がぼやけた。ようやく繋がった気持ちに、胸が熱くなり信じられなくて手で口元を隠した。

  思い出すのは、幼い頃のやんちゃな彼の姿であったり、本気でわたしの親友に恋をする彼の姿であったり。それでも記憶に残るのは、悲しげに唇を噛み締める姿だった。こんな風に思われたいと何度願った事だろう。それが現実となった今、わたしはまた一つ、彼の事を好きになる。


掠れた声でなぞる
2016.0824