思い出せないくらい不鮮明で、わたしの記憶のフィルムは色褪せてボロボロに古びてしまっているようだった。忘れていると思っていたことは、わたしが忘れようとしていたからだった。けれど今はもう嘘はつけない。わたしの中の記憶は既に鮮明で、思い出してしまった。わたしはあの時からずっと思い寄せていた。醜い感情だと思っていたそれは胸の奥底で小さく輝いている。
・・・
他のクラスの催し物にあまり顔を出す事が出来なかった。そう思いつつも自分の寝起きの顔を見つめながらのそのそと体を動かし始める。今日は文化祭の結果と委員会の催し物に、後夜祭。帰ってしまう生徒も居るがバンドの演奏やら、何より花火が結構楽しみだった。後夜祭が終われば丹精込めて作り上げた装飾を一瞬にして壊してしまう何とも悲しい片付け。後夜祭が来ると文化祭が終わってしまったと強く実感する。楽しいけれど憂鬱な日だった。ジルくんからの連絡で起きたわたしは、柄にもなく緊張していた。頑張ったからには賞が取りたい、委員会の一員であるジルくんは自分は結果を知っていると言うような言い方で焦れったく返事をしてきたのだった。眠れなかったのか目の下に出来た隈を見てため息をついた。
この装飾を見られるのもあと少し。惚れ惚れと教室を見渡しながらも寂しい気持ちで一杯だった。クラスTシャツももう着る事はない。徐々に賑やかになる教室に安心しながらも、何処かわたしはそわそわとしていた。
「おはよ」
ポン、と肩を叩かれわたしは思わず飛び上がった。ビクビクしながら振り向くと、ベルがお腹を抱え笑いを堪えていた。まさかこんなに驚くとは思わなかったと、まるで何かが弾けるように飛び上がったわたしに笑ってしまったらしい。
「ごめんなって、もう笑わねーし」
「ベルがいきなり声かけるから、」
あはは、と笑った声は小さく消えていった。昨日の一件で目元を擦りすぎたのかヒリヒリと痛い、この鈍い痛みが昨日の事が現実のものだという事を意味していた。HRが始まる合図に彼は背を向けた。壮大な装飾を周りにHRが始まると文化祭のカウントダウンが始まる。ぞろぞろと体育館に向かう群れの中からきょろきょろと周りを見渡している。昨日の事が鮮明に、一つ一つ彼がする呼吸の音さえも覚えている。それを認めたくなくて、思わず目を閉じた。
・・・
『優秀賞』
黒板にはそう書かれた賞状が貼り付けられ、クラスメイトも心なしか嬉しそうではしゃいでいるように見えた。わたしはというとその賞状がぼやけてしまうくらいずっと見つめていた。賞状を受け取りにいったのはわたし、そしてジルくんから受け取った賞は『最優秀賞』ではなく『優秀賞』だった。ジルくんは笑っておめでとうと言ってくれたけれども、素直に笑うことができなかった。
委員会の出し物もあっという間に終わっていて、残すは後夜祭だけとなった。教室に戻ればクラスは写真の撮影会になりその中に自然と入っていった。賞状を持ってわたしは真ん中に座った。記念撮影にはしゃいでいると教室のドアからジルくんが顔を出しているのを見つける。
「おっ、いたいた」
「ジルくんさっきぶりだね」
「しし、優秀賞良かったな」
「えー、ちょっと悔しいよ。ジルくんのクラスに負けちゃうなんて」
「オレのクラスが相手だったからなー」
わざとジルくんは残念そうな顔をしてわたしを笑わせる。けれどわたしはジルくんが文化祭の準備をすごく一生懸命になっていたことを、知っている。夜遅くまでずっと頑張っていた。だから悔しいけれどその賞の意味を理解出来ていた。
「来年はみてなよ、絶対勝ってみせるから」
「しし、同じクラスになるかもだろ」
そっか、ジルくんとおんなじクラスになれば文化祭ももっといい出し物ができるかも。そう考えてしまうわたしは、ジルくんの言う通り文化祭オタクなんだろうな。そう思うと、ジルの側に小柄の可愛らしい女の子が駆け寄って来る。そっとジルくんから距離をとり後ろを向いた。話そうとしている内容はすぐに想像できた。後夜祭は花火とバンドの演奏だ。手持ち花火も委員会から配られるし、小さい花火も打ち上げられる。後夜祭はそれをカップルは一緒に見るという習慣があり告白のチャンスでもある。やっぱりモテるんだなあ、目の前で笑っているジルくんは同じ笑みをわたしにも向けていた。ベルもジルくんも人気者で特別な想いを抱いている人が多いと思い知られされる。その瞬間、わたしはジルくんに思いっきり引っ張られ彼は唖然とする言葉を発した。
「ごめん、オレこいつと見るから」
は?とジルくんを思わず見つめると、女の子はお辞儀をして去って行く。ジルくんの腕を叩くもののジルくんは悪戯に笑っていた。そしてジルくんはわたしの腕を掴んで、まるでわたしの瞳を食べてしまうかのような視線を向ける。
「嘘じゃねーよ。なまえに話がある。オレと見ること、考えておいて」
そっとわたしの腕を下ろし、ジルくんは柔らかく微笑む。言われた言葉の意味を理解出来ずその場に立ち尽くしていた。まさかあのジルくんからお誘いを受けるだなんて、夢のようだった。歯を見せて笑うジルくんは、わたしの背に視線を向けたと思うと一層楽しそうに笑った。何事かと後ろ振り向くとベルがジルくんを睨みつけていて漸くその意味を理解した。
「また連絡する」
背を向けて手を挙げたジルくんになにも答える事が出来ず途方に暮れていると「…アイツなんか言ってた?」直ぐさま今の事を問われるが話す事が出来ず何でもない、と答えを濁した。言う必要も無いと思ったし、何よりベルが恐ろしい表情を浮かべていたからだ。この兄弟はお互いを嫌悪し合っているのだと改めて思う、これ以上ジルくんの話を出すのは止めようと馬鹿なわたしでも理解した。続かない会話をどうにかして途切れまいと奮闘するが、残念ながら頭の中は真っ白だ。
「どうしてベルは此処に?」
考えて考えた結果間抜けな質問が口から溢れた。未だにジルくんの去って行った方向を睨み続けるベルは、苦虫を噛んだ様な表情を浮かべる。不味い事を聞いてしまった様だ、やはり会話など続けようと思わない方が良かったか。けれどわたしに体ごと向き合うと何処か真剣な視線に射抜かれる。意を決したように口を開いたベルだったが、声は形にならなずわたしと同じように答えを濁すだけだった。
「あー、…なんでもねーよ」
その答えに落胆した様な感覚に陥る。ジルくんに誘われたからと舞い上がっていたのだろう。ベルがわたしを誘ってくれるのではないかと一瞬でも思ってしまった。恥ずかしさで顔を隠したくて堪らなくなり、ベルの顔を直視する事が出来なくなった。
ーーーーーーもうすぐ後夜祭を始めます!参加希望の生徒は校庭に集まって下さい
この放送にどれだけ救われたことか。わたし達は顔を見合わせ、気付いたように歩き始めた。校庭まで出てしまえば既に沢山の生徒達が集まっていてその中に友人の姿を見つけると、各々後夜祭に向かうためベルに軽く挨拶をしてその場から去って行った。
この後ステージでナンバーマッチングの発表が行われ手持ち花火が配られる。校庭にあるステージにも活気が湧いてきた夕方、その様子を校庭の端で見つめていた。夕焼けで真っ赤に染まった後夜祭は思わず息を忘れてしまうくらい綺麗だった。何故此処に居るかというとジルくんから今日のお誘いについての連絡に迷いを隠しきれなかった。ジルくんのような素敵な男の子からのお誘いを断るなんて有り得ないだろうが、指が凍ってしまったかのように連絡を返すことが出来ない。
「なまえ行かないのー?」
友達から声をかけられても何処か上の空で、簡単な返事を返した。第一印象は最悪で、関わりたくもないと思っていたジルくんは文化祭を通じて変わっていった。文化祭で過ごした時間は掛け替えのない物であったがそれでもジルくんに答える事は出来ない。そう返信しようとした瞬間友達がわたしの肩を叩く。視線の先のふわふわのパーマが揺れる彼を視界に入れた時、何もかもが止まってしまったかのような感覚に陥った。
「ベルまってよ!」
「王子つまんねーから帰る」
ベルの歩くスピードに必死に着いて行く女の子は残念そうな表情を浮かべる。校舎の方へ歩いて行く姿を見るとわたしのなかの何かが騒がしく動き始め、動かなかったはずの足が一歩前に進んだ。そして友達はわたしの肩をもう一度叩き、まるで素直になれとでも言うようにわたしの目を見据えた。頭の中に色褪せたフィルムが、綺麗な色を持って頭のなかで再生する。そしてぼろぼろと、落ちて行く。涙が頬を落ちて行く。
「今行かないと、ずっとこのままだよ」
友達が強く背中を押した瞬間、わたしは彼に向かって走り出した。
自分の奥深くから求める声の存在を、消すことが出来なかった。本能が求める唯一無二の存在に、どうしようもなく恋い焦がれていたのだ。
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16.1123
本能が叫ぶ