わたしの彼はいつも前に歩いて行くんだ。早歩きとかじゃなくてなんとなくだけど、わたしに付いて来いと言っているような感じ。背中ってかっこいいんだよ。んー、と。もしわたし達を数直線に例えてみるとすると彼が+の位置かなあ。それで、わたしは真ん中の0。大きな数へ向かって歩いて行く彼を、後ろから何時までも彼を見つめる事が出来るのってステキだと思わない?彼が振り返る先にはわたしが居たい、彼の背中はわたしが守ってるようだから。

  だからね、フラン。わたし、後ろから大きな背中を支えてあげられるような恋したいんだ。


「…あのセンパイ、全く意味がわからないですー」


  わざわざ任務帰りの後輩を向かえに行った帰りだった。会話は恋愛の話になれば、気づくと止まらない。一通り話してあげると、即座に返ってくる生意気な後輩からの答えだった。勢いよくカエル帽子をペチン!と叩くと、フランもわたしを呆れたように見るのだ。


「まず1つ、好きな人を後ろから見て何が楽しいんですかー」
「…むっかつく…!フランの分からず屋!」
「というか数直線?は?センパイ、頭大丈夫ですかー?初めて彼氏が出来たからって適当に恋愛について語ってませんかー?だとしたら止めた方がいいです、全く意味がわかりませんー」
「失礼な!何時までたっても優しくないんだから!仮にもあたしは年上の先輩ですけどっ」
「関係ないですよーセンパイそれで彼氏と上手くいってるんですかー?まだ1ヶ月ですけど破局ですかーそうですかー」



  再びカエル帽子を叩くと打ち所が悪かったのか、わたしの手のひらの方がじんじんと痛い。ざまーみろといった様な顔で、手を抑えるわたしを見てフランは口を釣り上げた。そんなやり取りは見慣れた光景で、仕事帰りの後輩を向かえに行くのは部下の仕事でもある。わたしは高校の先輩でありフランの部下なのだ、先に所属していたわたしより気づけばフランは幹部の座についた。最近はこき使うようになるし、正直早くわたしも同じ位置に就きたい。なんかフランがわたしの上司っていう感じじゃないし。


『ただの綺麗事だ』


  フランの声が木霊する。考え込んでるだけだ、と言い聞かせる。その言葉が妙に突っかかりぼんやりと遠くを見つめた。後ろから見つめる方が楽でいいじゃない、面倒臭い事だって1歩下がれば答えが出るし、まず彼の背中が好きだっていう答えをしたらもう解決じゃない。わたしは今の彼の振り返る笑顔が好きなの、隣を歩いて行くなんて到底出来ない。
  けど、わたしはフランの最後の言葉に何も言い返せなかった。いつものように憎たらしい顔で、いつもの口調で言った言葉なのに、頭から離れなくて思わず考え込んだ。なんで後輩、いや上司…とは言いたくないけれどこんな話をしたのだろう。今思えば、わたしはフランに助けて欲しかったのかもしれない。


・・・


パンッ


  乾いた音が部屋に響くと、見る見るうちにわたしの頬は熱と赤みを帯びていく。痛みを感じて手を頬に当てれば、彼は冷酷な瞳でわたしを見下ろした。


  フランとアジトに帰ると彼からメールが入っていたのだ。理解も何もしていなかったわたしは、自然にフランに手を振って彼の元へ向かった。部屋に入った瞬間いつもと違うオーラを醸し出す彼に気づいたが、彼は素早くわたしの髪を掴み上げ床に叩きつける。しばらく状況が理解出来ていなかったが、『ああまただ、』と自然と受け身に入る。ゆっくり目を閉じた瞬間、再び自分の頬に鋭い痛みが走る。


「なんで他の男と一緒に居るんだよ、しかも最近は幹部かよ」
「ち、違う…!ただ向かえに頼まれただけ、っ」


  再びパン!と同じの頬に鋭い痛みを感じる。グーで殴られないだけまだましだ。それでもきっとわたしの頬はすでに真っ赤なんだろう。もう少しだけもう少し我慢すれば大丈夫だ、そう言い聞かせてあたしはいつもの暴力に耐えて耐えて、耐えて。そう、これは初めてなんかじゃない。暴力はここ最近ずっと続いていた。原因はいつもフランにあるのだが、暴力が嫌なら一緒に居る事を止めればいい話だ。でもわたしはフランと一緒に居る事を止めない、何故なんて聞かれるとその理由は解らないけど。痛みが振ってこない事に気づき、閉じていた目をゆっくりと開ければ、優しく彼の腕に包まれた。


「…ごめん、本当にごめん…!」
「…」
「ごめん、ごめん…!」
「うん、大丈夫…あたしも、ごめんなさい」


  人には誰にでも欠点はあるでしょう?ただ彼の欠点がこのような部分に出てきてしまうだけ、この時以外は本当に優しくて大きな手で包むから、震える手でわたしを強く抱きしめる腕に悲しさを覚えた。ぎゅっと背中に手を回せば、それに比例して力強く抱きしめられる。振り向けばいつも側にいる、振り向けばいつも笑うから、アナタの隣を歩こうなんて思わない、ただ忠実にくっついて行く子犬の様な存在でもいいよ。


  彼は本当に優しい人、優しいから。それを理解してあげなければ。わたし上手く恋をしてるはずだよ、フラン。


  朝鏡の前に立ってみれば明らかに頬が赤みを帯びている。何をされたかなんて即座に指摘されてしまうような自分の頬をそっと撫でて、直ぐに氷をあてた。どうか少しでも腫れが引けばいい。


「センパイ最近向かえに来る前酒飲んでますー?」
「…え?何言って」
「ここ最近やたら頬が赤いですよね、とうとう酒豪の本領発揮ですかー精々キス魔にはならないように気をつけて下さいね気持ち悪いからー」
「ふ、ふざけんなクソガエル!」


  向かえに上がれば憎たらしい言葉も忘れずに目を細めたフランは、わたしの頬を指差した。すばやく頬を押さえていつものように言い返せば何故か不思議そうに首を傾げた。お酒なんて飲んでるわけない、だってこれは。


「つい、最近ちょっと飲んじゃうんだよね」


  そんな嘘をついてみる。それ以上何も言えなくて反応がないわたしを心配したのか「どうかしたんですかー」なんて問いかけにただ「何でもない」と首を振るだけだった。帰りの道のりは一歩道を歩いて行くだけだが、フランはわたしの歩幅に合わせて歩く。その景色が何故かしっくり来なくて歩幅を小さくしたが、それでもフランはわたしに気付いてそれに合わせてくれる。視線を横に向ければ見慣れないフランの綺麗な横顔、こんな景色あたしには見た事が無かった、いつも彼の一歩後ろを歩くから手を強引に引かれた、歩幅なんて気にしたことが無かったんだ。視線に気づいたフランがふと笑うとわたしの頬は違う熱を持った。アジトに帰ると「ありがとうございましたー」と一言だけフランは告げて去って行く、そしてわたしはそれと同時に気づいていたメールを開く。

  今更止めてなんて言えないでしょう、何が起こるか知りながらあたしは敢えて彼の元へ向かった。


・・・


  真っ暗な自室に籠もった瞬間熱を持った右頬をゆっくりとなぞる。部屋の隅っこで小さくなるわたしは本当にちっぽけな存在だという事を思い知らされ、両腕をぎゅっと握りしめて震える体を抱きしめた。ヒリヒリと熱を持った頬に冷たい涙が伝った。


  瞬間『助けて、』とこぼした言葉はきっと嘘じゃない、誰か此処から連れ出して、為す術もないわたしはただ祈るだけだった。浮かび上がったのはムカつく後輩の姿、優しくない優しくないと言ってるけど何かと気を使うわたしの後輩。フラン、フラン、フラン、助けて。泣き疲れるくらい、わけがわかないくらい、届くとも思えない手を伸ばし続けた。


「センパイ、」
「んーなあに?」
「センパイのタイプってどんな人ですかー?」
「…やっぱり優しい人かな」
「…へえ」
「フランは優しくないからね、もう少し優しくなった方が女の子にモテるよ」
「優しくなくて結構ですよー」



  翌日の迎えもいつも通りにこなす。いつも通りフランの問いかけに答えて隣を歩くだけ。優しいだとか優しくないだとか言葉では簡単な事だ、でもどういう事が優しくてどういう事が優しくないのかなんて思い返してみれば解らない。口を尖らせて生意気な口調で言うフランをどう思っているのか。フランはあたしをどう思っているのか。そこまで考えた瞬間ハッと我に帰る、今少なくともフランに連れ出してほしいと願ったから。


  彼の事が好きだと思い込んでいた。今の恋愛が辛いと思いたくなかった。でも逃れる事なんて出来ない、怖いから、何かされるんじゃないかと別れる事も怖くて。


  そうだよわたしが言った事は全て屁理屈だ、奇麗事だ、ただ彼の隣に居る理由が欲しかっただけだ。年下のくせにわたしの事全部わかったような口をして、最初から言うこと全てを否定して、そんな事分かってるよだったら今あたしが考えてる事ぐらい当ててみせてよ。


「…先輩?」
「何ー?」
「何泣いてるんですか…」
「泣いてない、お酒のせいよ」
「それこそ意味が分からないですー」


  ヒリヒリとした頬にポロポロと流れた。意味が分からないのはわたしのセリフ、今どうして泣いてるのかさえ自分でも分からないのだ。わたしより少し背の高いフランが、小さく屈んで俯いた。わたしに視線を合わせれば、そっと赤みを帯びた頬に触れた、チクリと痛みが走りピクリと体を震わせると、フランはいっそう酷く怒ったような表情をした。思わず立ち止まるフランを置いてアジトに帰ろうとする。その間に頬に流れた涙を袖ですぐに拭って、そのまま早歩きで真っ直ぐに進んでいく。


「ちょ、待って下さいよー何ムキになって先にいっちゃうんですかー」
「用を思い出したの!」
「じゃあ言わせてもらいますー」
「聞きたくない!」
「何で叩かれて黙ってるんですか、センパイの恋ってこういう事なんですか!」


  背中越しの棒読みの声が、最後だけ強くなった気がした。ハッしたように足を止めると、紡いだ声は少しだけ震えていた。言葉を選ばないと、思わず助けを求めてしまいそうで。


「叩かれてなんかないもの…変な想像は止めてよ…」
「じゃあなんで右頬だけ真っ赤なんですか、説明して下さいよ」
「それは、」
「先輩の優しいってなんですかー、謝って抱きしめるだけが優しいと言えるんですか」
「も、もう黙ってよ!!フランには関係ない!」
「関係、ありますー」
「いちいちわたしの事に首突っ込まないでよ!」
「関係ありますよ!」


  ビクッと体が跳ね上がるのは、いつも冷静なフランが声を張り上げたからだった。その時どうしようもなくフランの顔が酷く悲しそうに見えて直視する事なんて出来ない。自然と視線は避けるように違う方向を視界に入れじっと重い空気に耐えた。それはフランがはあ、と大きくため息をついた事によって消される。同時にわたしを通り過ぎて行く足音に考えもせず声を張り上げていた。


「ま、待ってフラン!」
「…」
「言い過ぎた…ごめんなさい、だから…」
「…今日は、1人で帰りますー」
「そ、か…」
「…先輩も、早く帰って片頬だけ赤くなるお酒でも飲んだらいいんですよ」


  気付いたら既にアジトの前まで辿り着いていた。先ほどフランの背中が見えなくなるまで立ち竦んでいた。いつも見えていたフランの顔が見えず、背中しか見えない事に苦しさを覚えた。ただ胸を押さえ最後の絞り出したようなフランの声が、耳から離れない。去っていくフランの背中だって、目に鮮明に焼き付いて離れない。初めて後ろから見つめる苦しさを味わう、これってすごく辛い事なんだね、今更だけど痛いほどわかったよ。


  最初から間違っていた。数直線の0の位置だとか彼は+の位置だとか、綺麗事だった。彼が前に居たら、わたしもそれを追いかけたい。隣を歩きたい。ねぇフランあなたは、今+だよ。だってわたしはまだ絶対値0から一歩も動いていないんだもの。


  チクリと胸が痛んでいるのは何故だろう、フランが離れて行った時に感じたあの寂しさ何なんだろう、答えは簡単だ。考えれば考えるほど答えは見えてくる、あたしはきっと…。


「今日は、1人で帰って来たんだ」
「…う、ん」
「オレが言った事守ってくれたんだ…ごめんね」
「ううん、大丈夫…」


  アジトに帰れば1人で帰って来たわたしに彼がほっとしたように微笑む。その笑顔にどこか妙に突っかかり、上手く笑えなかった。頭に彼の大きな手が置かれ髪をクシャクシャと撫でると、気持ち悪さで体に冷や汗が流れる。じゃあまた明日、と笑顔で帰る彼を見て足の震えが止まらなかった。呆然と立ち尽くして彼が去っていった方向を見つめる、あたしは言えなかった、怖くて別れようと言う事が出来なかった。

  わたしはまた前に歩き出せなかった。また1つまた1つと拭っても拭っても涙が止まらない。ついに顔を両手で覆い鳴咽も隠す事が出来ない。思い出すのは去っていった彼じゃない、有り得ないくらいわたしを支配しているフランの事だった。あの背中にしがみつく事も出来ず、遠くなって行くフランが寂しくて辛かった。ムカつくぐらい好きだったんだ、もっと早く気づけば良かった。助けてほしいと求めたのも、全てそんな気持ちからだったんだ。
  人気の無い廊下から足音がトン、と聞こえピクリと反応すればわたしを呼ぶいつもの棒読みな声が耳に入る。その声はすぐにでも解る、今すぐにでも会いたかったフランだった。思わず振り返るとチャームポイントの帽子を外したフランがわたしを見つめていた。


「…何泣いてるんですか泣き虫」
「…泣き虫じゃない、泣いてないし、っ」
「センパイって言い訳しようと思ってませんよねー」
「そんな、事ない」
「辛いクセに何時までたっても愚痴こぼそうとしないし、馬鹿だから辛いって気づいてなかったのかもしれませんけどー」


  何も言い返す事も出来ずフランを見つめる。1歩1歩、フランがゆっくりと近づいてお互い視線も離せない。掠れた声で名前を呼ぶと、フランも小さな声であたしの名前を呼んだ。ねぇフラン、わたしが今言うこときっと本心だよ。ずっとアナタを求めてた、今わたしが手を伸ばせばきっと、アナタに届くと思うんだ。


「…助、けて」


  絞り出したような声でそう言うと、その瞬間ぎゅっとフランに包まれた。わたしより少しだけ大きいだけだと思っていたが、ほっと安心する感覚に思わず体を預けた。ずっとずっと隠していた言葉、こんなにも時間がかかってしまったけれど、届くかわからないそんな小さな声に気づいてくれた。拭う事さえも気にしないボロボロと零れていく涙はフランのせいだ、フランのバカ、フランのバカ。


「そんな事言わなくても、わかってます、遅いんですよ」
「でも、さっきフランが怒っちゃったから、どうしようかと、思ったっ…」
「センパイのせいですよ」
「…や、優しくない」
「…何とでも言って下さーい」
「バ、カ本当にムカ、つく」
「ミーは、センパイの事だったら何でも動けます、だから、後ろからなんて見ないで下さい、…一緒の、景色を見て下さい」


  瞬間夢中でフランにしがみついて、泣きじゃくった。泣き虫だとか何とでも言ったらいい、関係ないくらい今が嬉しいから。抱き締め返してくれる、温度もまた愛しい。行き場のないわたしの手を握ったのはムカつくくらい優しくて、優しくない、後輩。


願いはどうか絶対値0からの救出を


09.0719
ゆらり陽炎 ひらり切望