空を舞う花びらを捕まえて手のひらのピンク色を見つめる。もう冬は過ぎていて、手のひらで溶けた雪が懐かしい。どんな小さなものでもわたし達は重ね歩いて来たはずだよね?

「お前は花より団子だって思ってたけど、案外花の方も見てんだな」

  二人で花見に行った時ベルはそう言った。風が吹けば何枚ものの花びらが宙を舞う。ああ、なんて綺麗なんだろう。その瞬間花びらを掬うようにしていた手の上にもう一枚花びらが重なった。わたし達が今まで積み上げたものってなんだろう、途端に不安が沸きこの綺麗な風景が少しだけ憎らしくなった。


・・・


「なまえ、帰ったぜーしし、」
「…くっっさい!お酒飲みすぎ!」
「いーじゃん、あーやっぱお前は可愛いな」
「…っ何言って!あっ服脱がすな!酒くさい!」


  今まで築き上げてきたものって何だろう。自分の彼氏が毎日のように酔っ払って帰ってくるようになるほど気を許した事?お酒の匂いに耐えながら毎日過ごしてるわたしの事?お前の性欲処理のために居るんじゃない!アルコールの匂いを纏ったベルはベッドの上でわたしを抱きしめる、そんなフワフワな頭が憎らしくて軽く叩いた。いい加減にして離れろこの馬鹿と腕や肩やいろんな所を押して暴れてみるが、そう簡単にはいかない。さらに力を込めて抱きしめられると、同時に鼻につくような強い匂いを感じてグッと唇を噛んだ。


  …ああ、またか。ベルから感じるのはお酒の匂いだけじゃない、この男は分かってるのか分かってないのかが謎だけど、わたしは何種類ものの女物の香水の匂いを知っている。


「ねえ、くさいって言ってんじゃん」
「あー?」
「…」
「、なまえ?」


  違うって言ってるよね。お酒の匂いじゃない、今のベルからは妙な匂いがする。嗅いだ事もない女物の香水の匂い。分かってはいるけれど、いつも慣れない。視界が滲むと同時にわたしは我慢が出来なくなった。もうこんな軽い男とは縁を切って新しい道を選んだ方が幸せになれる、わたしの近くで誰かがそう叫んでいる気がした。何かを言おうと口を小さく開いた瞬間、携帯が机の上で震えだしベッドから手を伸ばしてそれを取った。余分な音に会話を遮られ沈黙が続く中、未だわたしを抱きしめるベルの肩をバシバシと叩いた。


「…ボスが呼んでるから離れて」
「んで今更?」
「どうせ今こんな事になってるのくらい予想つくんじゃない?さすがスク先輩」


  大きく伸びをしてわたしの上から退いたベルはベッドから降りた。ふらふらとしながら「つまんねーの」と片手を上げて部屋を出て行く。視線を逸らし彼がいたベッドを視界に入れると、再びため息をついた。


  春は何かの始まりのように思えるから好きだった。積み上げられた物があるからこそ新たな始まりがあるのだろう。今のわたし達には何もない。何もないからこんなにも悩んで始まりを恐れている。


  見えるのは終わりだけだ。


  部屋を暗くしてテーブルライトだけ付けた部屋は少し不気味だった。そして右手の薬指にある指輪を抜いて机に置く。英語で指輪に彫られた文字を見て視界が滲んだ。あんなにふらふらするまで酒飲んで、女と遊んでわたしの所に来てなんの意味がある?机に突っ伏してわたしは目を閉じた。考えるのもめんどくさいし、どこかに逃げてしまいたい。その瞬間机にポツリとおかれた指輪がわたしを呼んでる気がした。ねえ…ベルは何回わたしを裏切ったのかな?


  振り切るように外へ駆けると、冷たい夜独特な生ぬるい風を感じた。携帯を取り出し電話をかけ電波音が耳に響く、プツと途切れると機械から声が聞こえた。


「もしもし、」


・・・


「いっつもいっつも、妙な香水の匂いプンプンさせてなんなのよあの男はさあ!」
「あーそうですね。でもいきなり呼ばれるミーの身にもなって下さい。ミーまだ未成年ですがー」
「ごちゃごちゃうるさいよ、フラン。ていうかアンタはウーロン茶でしょ?あー飲み足りない」
「…なまえさん大丈夫ですかーやけ酒ですかー」


  近くの居酒屋にフランを呼んで、わたしは飲みつぶれていた。隣で呆れる後輩に余所にわたしのグラスを注ぐ回数も増えていく。


「足りない」
「やめて下さいーミー介抱するなんて絶対嫌ですよー」


  新しく注文しようとしたわたしの手を軽く叩き、フランは勢いよく首を振る。実際わたしは頭も真っ白で顔にだって熱が篭っている。「寝るのだけは止めて下さいお願いしますー」と棒読みで言われ仕返しに残りのグラスを飲み干した。その瞬間フランが呆れたように携帯を取り出し、機械を耳に当てた。


「もしもーし、ベルセンパーイベルセンパーイ」
「ちょ!フラン!何してんの、っ」
『…は、なまえ?』
「そうでーす、早く来て下さーい、もうミーはやってられませんー」
『ふざけんな、お前らどこいんだよ』
「コンビニ近くの居酒屋でーす、もうかなりヤバめなので早く来て下さーい」
「は?何すんの立たせないで、え?立てないからっ!帰らないよわたし!」
『…待ってろ』


ーーーブツッ


  ツーツーと嫌な機械音がフランの携帯から聞こえる。ハハッと無表情で笑ったフランの頭を勢いよく叩いて、わたしは机に突っ伏した。


「もう帰るしかないですよー置いてきますよー」
「全部フランのせいよ」


  わたしの手をフランが引っ張るから泣く泣く立ち上がり居酒屋を後にする。これじゃさっきの男と同じ状況じゃないか、こんなはずじゃなかったのに…。 腕を捕まれたまま歩くわたしはなんて情けないんだろう。夜の歩道は静寂に包まれて、どんな音でも空気と振動し中に引き込まれていく。わたし達の歩く足音だってそうだった。ふわふわと意識が何処かへ行ってしまいそうになる中で、夜の虫の音を聞いていた。ふとフランの携帯が鳴ると、なんともやる気のない声で対応し始めた。


「もしもーし、じゃあミー帰りますねーあっナイフだけはやめて下さいよーむしろ感謝して下さいーさよならー」


  じゃあベルセンパイ来るのでこのへんで、と近くの公園のベンチに座らされたわたしはフランから水を貰った。ペットボトルを開けて口に水を含み、喉を鳴らしてごくりと飲む。大人しいわたしが心配なのか、フランはまだ近くに居てくれた。しばらくするとフランが小さく声を零し「じゃあセンパイ、迷惑かけられましたー」 となんともムカつく言葉を残して去って行った。フランが去って行く音と何かが近づいてくる音、二つが混ざってわたしの頭をおかしくする。この動機はお酒のせいじゃないはずだ。…何を緊張してるんだろう。近づいて来る陰がわたしの前で止まった瞬間、息が出来なくなった。


「…何してたんだよ、お前は」
「ただ飲んでただけだけど」
「…てめ、」
「なに?」
「なんで外してんの?」


  顔を覗き込むように屈んだと思ったら、勢いよく手を掴まれる。いつどんな時もわたしの右手にあった指輪は、手元にない。それもそのはず、わたしは初めてあの指輪をせずに出掛けているからだ。右手をなぞるように触れられて、反射的にその手を振り払った。


「…ベルにそんなこと言われたくないんだけど」
「は?」
「いつも女の子と遊んでるベルには言われたくない、言われる筋合いなんてない」


  酔っている事が理由ではないけれど、吐き気がした。ぼやける頭でわたしは思っていた事を吐き出していた。息をせずに言葉を発したからか、少し息が切れる。手には冷えた水を持っているのに、頭の先から足の先まで熱かった。何かを話さなきゃいけないのかと、頭で葛藤し続けている自分に苛立ってしまった。ついに沈黙が耐え切れずわたしは立ち上がろうとするが、反動でよろけてしまう。咄嗟に腕を捕まれ思わずベルの顔を直視し、気まずそうに目をそらすベルを見て、自然と唇を噛んだ。


「あー。悪かったよ、その場とはいえ合コンとか飲み会行って」
「え!合コンっ!?そんな所行ってたの!?最低!」
「わ、悪かったって、帰ればなまえが居ることに安心してた」


  自然とベンチに座ればやっと落ち着いて視線を合わせる。ベルはわたしの手を取って握りしめた。


「オレさ、どこに行ったってなまえが一番かわいいと思うんだよ」
「〜っ何!言ってんの!、今更」
「嘘じゃねーって本当だよバーカ」
「そんなので許すとでも?」
「…んー、だめか」


ーーオレが悪かった、思い詰めてるかもしれないけど考え直してほしい


  驚いてベルを見つめると、歯を見せて笑った。


「全部無駄じゃねーよ、今から考える事も過ぎた事も」
「…わたしの事好きなの?」
「バカじゃん、オレお前の事けっこーまじで好きだからさ」
「…なんか本気に聞こえないよ」
「だからさ、」


  ベルはわたしの髪についた花びらを一枚取って手の平に乗せた。今はきっと話すことが足りなかっただけ、オレとお前が一番わかってるはずじゃん。花びらをぎゅっと握りしめて目をつぶった、いつもはこんな言葉言わないのに変なの。でも、すごく嬉しい。ふう、とベルが一息つくとすぐに片手で顔を隠した。


「だから…お願いだから。ココ、オレのために空けておいてよ」


  わたしの薬指をなぞりながら、耳まで赤くなる彼の顔を見て思わず吹き出した。笑うな、と怒られたけれど、わたしは幸せだった。


  これから過ごしてく日々もきっと積み重なる、そして今までの日々も。一つ一つわたしは覚えているから、これから始まっていく季節に期待したい。

君と過ごしていく季節を。

10.0503
おでこには春の呪文を