空いた席が多い。今日は営業から直帰が多いのだろうがスケジュールを確認する事などはしない。時間つぶしのために乱雑に貼り付けてあった資料をファイルに移動させパソコンのデスクトップを綺麗にする作業もついに終わりだ。やる事が無いわけではない。ただ、やりたくないという気分だった。もう休み明けに片付けてしまおうとパソコンを閉じる。ポツリ、と呟いた独り言に反応したのは同じ部署の弟だった。


ーーーあいつさ、何をしても許してくれて、俺の我儘だって聞いてくれて、いつも俺を一番にしてくれるんだよ。


「…おそ松兄さんの一番もなまえちゃんでしょ?」


  今更何言ってんの、とでも言うようにチョロ松は振り返ってため息を吐いた。再びパソコンと向き合うと、資料と睨めっこしなからキーボードを打ち込む音だけが聞こえる。もう定時は過ぎているし、今週はラッキーな事に早上がり日だ。上司も珍しく早く帰宅の準備をしているから、今日は早く帰る事が出来そうだ。あとこれだけ、と思いっきり伸びをすると「僕も今日は早く帰るからね」ぽつり、後ろから声がした。この態度は…もしかしてあの女の子か?と勘付いた瞬間思いっきり口元がニヤけてしまい、真っ赤な顔をしたチョロ松に殴られた。


  今日はもう帰れそうだ。なまえも今日は仕事だったな、何時頃帰って来るのだろうか。連絡を送ろうとした瞬間、前はこんな風に連絡を送った事もなかったように感じる。益々、心が重くなる。


『おそ松兄さんの一番もなまえちゃんでしょ?』


  誰かのお疲れ様です、の声を聞きながらチョロ松の言葉を思い出していた。なあ俺、ちゃんとそういう風に見えてた?正直なまえが居るから、遊びも楽しかった。そこも含めてなまえはそんな俺でもこれまでずっと、一緒に居てくれたんだ。携帯のメッセージの画面を開いては閉じてを繰り返し、結局なまえに連絡を送るのは止めてしまった。


・・・


「…ただいま」
「あれ、おかえり。わたしも今帰った所」


  重いドアを開けて部屋に踏み入れると髪の毛を結んだなまえが台所に立っていた。早く帰ってきた俺に目を丸くしながらも、それ以上は何も言わずに迎えてくれる。換気扇はちゃんと回ってる。手慣れたように料理をする背中を見て煙たくなる心を誤魔化すように、普段通りに過ごす。1つ動作をする度に靡く髪に胸が騒つく。俺のためになまえが料理を作ってくれている、その事実が今更嬉しく感じている。なまえと話したい、時間が欲しい、そう思ったのは情け無くもいつ振りだろう。「出来たよ」とテーブルに夕飯が置かれていくと俺の向かい側に座った。


ーーー明日休みでしょ?どっか行こう。


  今月のなまえのシフトは帰り際に再確認してきた。なまえに気付かれないように箸をゆっくりと進めながら、付き合いたての恋人のように誘い文句を考えていた。しかし緊張を腹の底に感じこんな簡単な言葉も出て来ないのだ。何年も一緒にいるのにも関わらず、だ。ヘタレなのか、そうか。


「あのさ、どっか行くの?」
「…?」
「明日、休みだろ?」


  漸く言葉にした問いはあまりにも不恰好で、情けない。緊張でお茶の入ったコップを何度も口につける。喉が渇いているがお茶が喉を通る様子はない。ふとなまえの表情が歪む。以前のなまえならば俺の休みの日は必ず予定を空けていたのだから、今回もそうだろうと思っていた。妙に間が空くと少しだけ嫌な予感がした。


「あ、明日なんだけど…予定入れちゃったの、おそ松出掛けると思って…」


  なまえの言葉を聞いて訳の分からない憤りが胸の奥に湧き、思わず俯く。そう何度も言うが、以前のなまえならこんな事は無かった。俺の予定を第一に考えて、合わせてくれていた。なまえを踏み躙ったのは誰だ。たった一回合わなかっただけにも関わらず、怒りに体が囚われていく事を感じた。


「…俺が、いつ出掛けるって言った?」
「ご、ごめん…聞いてなかったよね」


  自分が寛大ではない事は自分が1番分かっている。これ以上は止めろ、と何処かで誰かが叫んでいる。それでも不愉快で堪らず口調が荒くなる。鼻に付くような言い方をするとなまえは顔を真っ青にさせた。なまえも言い訳を考えているような様子だった。そんな様子を見て不謹慎にも心の中でほくそ笑む。それ以上は駄目だと頭では理解していたが、言葉が止まらない。如何にかしてなまえを困らせたいという妙な感情が生まれ、嫌な予感がしつつも質問を投げかける。


「何処行くの?」
「同期とご飯行くんだ」
「この前の同期?」
「…え?」
「この前なまえを合コンのやつだろ?」
「…明日飲むのもこの前会った良い人達だし、トド松くんもいるから、大丈夫」


  なまえの焦ったような表情で余裕を感じたのは確かだ。現に数十秒前まで口元が緩むのを堪えていたからだ。しかし不意になまえの口から二十数年生活を共にした弟の名前が飛び出し、思わず目を丸くしてしまう。そんなに仲良くなったの?いつから?たった一日で?


「…なんでトド松…?」


  思ったことを口に出してしまえば止める事など出来ない。弁解しようとしているのか珍しく饒舌ななまえにもさらに苛立ち、態とらしくため息を吐いた。


「…俺とトド松ならどっちをとるんだよ」
「…おそ松だよ」
「だったら何で行くの?」
「ごめん、約束しちゃったの、」
「それなのに行くんだ」


  呆れたように笑えば、なまえの目に涙が溜まる。やってしまった、今の言葉全て俺に投げかけるべき言葉である。今まで俺はなまえを優先した事があったか、なまえに甘えてばかりで俺は遊んでばかりいた。流石に我を失いすぎだとなまえの手を取る。『ごめん、』謝りかけたその瞬間、勢いよく手を振り解かれなまえの目から涙が溢れた。泣いてる顔か好きだったとよく言えたものだ、今その表情を見て俺は胃がふやけるような焦りを感じていた。


「おそ松は、いつもわたしを優先してくれなかったくせに、そう言うんだ」
「…違う」
「おそ松は、わたしじゃなくても言う事を聞いてくれれば誰でもいいの?」
「なまえ待って、違う!」
「わたしが言う事を聞かないからでしょ?この前だって…」


  その続きが形になる事は無かった。なまえはハッとしたように唇を噛み締めて俯く。まるで此処まで言うつもりは無かったとでも言うように、悲しそうに顔を伏せた。

  この前だって、お互いに別れる選択肢を口にしようとしたよな。初めてこの選択が正しいのかもしれないと思った。なまえちゃんが可哀想だ、いつもチョロ松から釘を刺されていた事を思い出す。なまえはどうしたいのだろう、俺はなまえをどうしたいのだろう。そりゃ兄弟の言う通り、俺のしたことを思い出せば離れることが正解だ。


  けどな、無理だよな。


  一歩後ろに下がり静かに「ちょっと、出掛けてくる」と言えばなまえは焦った表情を浮かべる。背中を押してやることなんて今はまだ出来やしない。


「…ごめんな」
「おそ松、どこ、行くの?」
「どこも行かないよ」
「待って、行かないで」
「少し、頭冷やしてくるだけだからさ」


  なまえの口元に当てた手が泳ぐ。微かに震えた手は、俺の腕を掴もうとしているようだった。縋り付くなまえを見てもかつての様な余裕など無かった。何方かが口にしてしまえば、終わる紙一重な関係。今までしてきた事を思えば何を言っても無理だろう。背を向けて玄関の扉を開けるまで数秒、静かにそれが締まる音を聞いてどうしようもなく後悔した。今側に居ても俺は彼女の最善の選択肢など出来やしないのだ。時間が欲しかった、彼女から離れるための覚悟が欲しかった。
  家の扉に背を向けると何か冷たい物が頬を流れる。思わず空を見上げて、ゆっくりと足を進めた。


2017.0418
きっと元には戻れない