わたしはあれから気付くと、あの時の小さくなっていくおそ松の背中を思い出していた。寂しそうに、消えそうな背中を思い出すと心臓が鷲掴みされたように苦しくて、もう思い出したくなくる。考え事をしたくないからバイトを沢山入れてしまいそうだ。そろそろ誰かに会いたくなる頃、珍しくトト子からのメッセージを受け取り、思わず電話をかけた。トト子の女の子らしい高い声を受話器越しに聞いた瞬間、わたしは数日前おそ松から聞いた知らせを思い出す。


「トト子聞いたよ〜!結婚おめでとう!!」
「知ってたの?なんだ、今言おうと思ったのに」
「幸せそうで、本当良かった!」


  受話器越しからの声からも分かる、幸せそうな声に自然と口角が上がる。久しぶりの電話に話が弾み、昔話にも花が咲く。「ふふ、なまえも早くこっちに来なさいよ」トト子が可愛らしく言うものだから、冗談も言えずそのまま言葉を飲み込んだ。あの頃の恋心を思い出すとチクリと胸が痛み、脳内におそ松を思い浮かべてしまう。


「何言ってんのー、相手がいないよ」
「え?おそ松くんは?」
「っ、ないない」


  トト子からおそ松の名前が出て来た瞬間、唾を飲み込んだ。わたしはトト子とカラ松の事を素直に喜べているからこそ、おそ松の恋を応援する事は出来ない。わたし達は仲間、なんだ。この立場でないと一緒に居ることが出来ない。トト子は石油王と結婚した方が良い、と熱弁しても最後にはおそ松を勧めてくるから厄介だ。おそ松の気持ちを知っているからこそ、トト子にわたしの気持ちを悟られないようにしなければいけない。質問を流すように答えて電話を切れば、携帯は元のホーム画面に戻っていて、現実に引き戻される。


「だってあいつは、まだトト子の虜だよ」


  独り言で声を出した余韻を感じていると、もう二度と声が出ないような錯覚に陥る。誰かと話した後は、無性に誰かが恋しくなるのだ。


  トト子との電話を切った後家のチャイムが鳴り、出てみると、先ほどの電話での悩みの種である顔が玄関口から見えた。驚いてその場から動けなくなるけれど、あまりにもおそ松が酷い顔をしていたからか、わたしの体は思っていたよりも素直に行動していた。ドアを開けるとその音に驚いたのか、おそ松は硬い表情を崩した。


「なんて顔をしてるの…」
「なまえ電話出ねーんだもん」
「…ごめん電話してた」
「よかった〜怒ってんのかと思った!」
「怒ってないよ!なんか、…わたしも悪かったなって思ってた」
「俺も、ごめん」
「いいよ、気にしてない」


  数日前の喧嘩をお互いが謝ると何も話さない時間に耐えきれなくなって、わたしはおそ松を家に上げた。もうこんな事もないと思っていたのに、ベクトルさえ隠してしまえばわたし達は、まだ一緒に居ることが出来るのかもしれない。ベッドに座るとおそ松はわたしの肩にゆっくりと寄りかかる、…普通逆だと思うんだけど。肩からからの温度を感じて、安心して目をとじるとおそ松はわたしの手を握った。どくん、と心臓がリズムを上げて鳴り始めて、顔に熱が勢い良く集中していく。あれ、こんな筈じゃない、久しぶりだからか嬉しくて、恥ずかしくて、柄にもなく照れてしまう。思わず握られた手を解こうとするが、彼はきょとんとわたしを見つめてくる。手を繋ぐだけで熱くなるなんてバレたくない、この顔を悟られないように話題を振った。


「さ、さっき実はさトト子と話してて、再来月には松野さんだって」
「…うわー、何か変な感じだわ、やらしい目で見そう」
「…正直だね」


  乾いた笑い声が聞こえると「冗談だって、」と困った顔でわたしに笑った。ああ、この表情は彼女の事を想っている表情だ。おそ松はわたしの手で遊びながら、ぽつりと心の中から溢れた言葉を声にする。


「…俺もなまえも本当に好きだったよな」
「…うん」
「じゃあ、もうお互いこれで終わりにしよーぜ」
「おそ松がそんな事言うなんて、強い子、えらいじゃん」
「あやすな」


  何故かあまりにも苦しそうな声だったから、おそ松の髪を撫でた。そこで初めて視線を絡めて、あ、わたし達はキスをするんだと冷静に考えていた。おそ松の事を好きだと自覚してからのキスはいつも緊張する。触れる瞬間も、わたしは彼の顔を見る事が出来ない。手を絡めて押し倒されると、自然と舌を絡めた。余裕のない呼吸を聞くとわたしは、彼を一層愛おしく感じてしまい、どうしようもなく苦しくなった。一瞬おそ松との未来を考えてしまう。まだまだ彼はだらしないけれど、もし結婚、したらわたし達はどんな話をするのだろう。どんなキス、セックスをするんだろう。こんな遊びのような絡め合いじゃない、愛おしい行為をするんだろうか。ほしいなあ、彼が、おそ松が。


「いいなあ”松野”、だって」
「トト子ちゃんが羨ましいんだ」
「そりゃあ、ね」
「じゃあさ、いいじゃん、俺で」


  楽しそうに笑いながら上から降ってくる言葉に、時が止まった。何言ってんの、馬鹿じゃん。普段ならそう言って流す事が出来ていただろう。それに対しておそ松も冗談を返して、笑って…。それなのに今はどうだろう、冗談だと分かっているのに嬉しくて、思わず顔を隠した。何言ってんの、そう言おうとしても掠れて声も出ない。顔が沸騰したように熱くて冷めてくれないから、もう顔を背けるしか手段はなかった。最後に見たおそ松の顔は、わたしがあの冗談を受け取れなかった事に焦っている様子で、口を開けて呆然としていた。終わった、そう思いながらも顔の熱は増して行くばかりで、どうしたら良いか分からない。


「え?なまえ?」
「…、なに」
「何何、どうしちゃったの〜?なまえらしく、ない」


  らしくないって、どういう事だ。いやいや、わたしは第一おそ松とどうこうしたい思いなんて諦めていたはずだ。でも両思いになる事を少しでも望んでしまえば、彼の言葉に一喜一憂して…こうして涙が止まらなくなってしまったりする。利き腕で目を隠しながらもボロボロと溢れる涙はベッドのシーツを濡らしていく。「なまえ?どうした?」おそ松の声が耳に響くけれど、なにも答えたくなかった。望んでも叶わない、また叶わない恋をしてしまったと後悔し続ける。このままこの顔を見られたくないと、勢いよく体を起こしティッシュで鼻をかみ涙を拭いた。おそ松は視線を泳がせてわたしにかける言葉を探しているようだった。


「…おそ松、ごめん、今日は帰って」
「…なまえ、何かあった?カラ松の事そんなに、気にしてんの?」
「違くて!」


  彼の捨てられた子犬のような表情を初めて見たような気がする。全部カラ松、カラ松って。会う度おそ松が彼女の事を忘れていない、その事実を突き付けられる事が辛かったんだよ。話を合わせられなくなる自分も嫌で、慰め合う行為もいつからか、気持ちも欲しくなってしまった。こんなに気持ちが溢れてしまうなら、隠す事が出来ないならもう駄目だ。もう今まで通り、おそ松に接する自信なんてなかった。


「…っこんな関係ずるずる続けるのって、おかしいと思って、…今更だけど、気になってた」
「…っだったら!何で俺を家にあげんの?なんで俺とちゅーしたの?」
「それは、っ」
「っ…あーもうわけわかんねー」
「…ごめん」
「…っそう言われるとフラれたみたいじゃん、俺も涙でそう…」


  おそ松がずっと鼻をすする音に唇を噛み締める。持っていたティッシュで目を抑えたけれど、止まったはずの涙が零れ落ちた。鼻の下を擦り、わたしを射抜く視線は優しいものだで、何か勘付いたようにゆっくりと問い掛けた。


「他に好きな奴できただろ?」
「…うん、出来た」
「そっか」


  何時も馬鹿をして好き勝手やっているのに、そんな顔をされると困る。沈黙が続いた後、さて帰るか、とおそ松が立ち上がりわたしに背を向けて玄関まで歩き出す。今までどれだけ励まし合ったのか分からない、何かを相談する時は一番に顔を思い浮かべた存在だった。見慣れた背中なのに急に寂しくて、飛びつきたくなる。思わず立ち上がり、玄関で靴を履くおそ松に駆け寄ると、彼は振り向かずに小さくわたしに謝った。


「俺、お前に甘えてたよ」
「…っわたしも、おそ松に甘えてた」


  とんとん、とつま先を立てて靴を整える彼の姿をわたしは呆然と見ていた。まだ居て欲しい、でもどうしたら、どう伝えたらまだ一緒に居てくれるのだろう。玄関のドアノブにおそ松が手をかけて扉を開けると、夜の虫の音が鮮明に聞こえて、耳がじんじんと痺れる。行かないで、でももう一緒に居たくない、そんな想いが交差してわたしはおそ松の背中を眺めるしかなかった。じゃあな、とおそ松が振り返ると少しだけタバコの香りを感じて、思わず視界が歪んだ。あの腕に抱き締められる度に感じる香りは、今のわたしには十分過ぎるほどに切ない。ああ好きだ、昔のわたしはまさかおそ松の事を好きになるとは思わなかっただろうなあ。手を振るおそ松の手に触れたくても、叶わない。近所に住むおそ松に会えなくなる事は無いだろうけれど、どうしてかずっと隠して来た気持ちを伝えなければいけないような、義務を感じた。今伝えなければ、きっとわたし達は曖昧なままで、傷付くばかりだろう。


「好きだよ、おそ松」


  思ったよりしっかりした声が響いた。扉が閉まる瞬間、おそ松が驚いたように振り向く。どくん、と心臓が嫌なリズムで鳴り始め、何故かボロボロと涙が溢れる。そんな中で言ってしまったという後悔と、肩の荷が下りたような安心感を感じていた。扉の向こうからはしばらく経っても足音は聞こえない。きっと今ドアを開けば、おそ松が居るのだろうけど、開ける勇気など持ち合わせてなどいなかった。


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