おそ松が出かけて行ったのは夕方の事だった。その時わたしは予定の時間が近付き、建前上の化粧を整えている最中だった。いってきます、と声が玄関で響き慌ててその後を追うけど、おそ松の背中だけがわたしの目に焼き付いた。どこ行くの、何するの、帰ってくるの、形にしたかった言葉が喉で疼いた。


『でもなまえだって同じだろ?』


そう何処かでおそ松の声が聞こえたような気がして、わたしはまだ少し時間があるのにも関わらず予定の場所へと向かった。同じなわけないじゃん、独り言を呟くけど肝心の相手はもう何処かでよろしくやっているのだろうと思うと、悔しくて唇を噛み締める。自分の歩く足音を聞きながら、冷めた気持ちになる自分を感じていた。直した化粧がまた崩れてしまうというのに、わたしの涙は止まらなかった。



  予定の場所に着くともうすでに同僚が店の前で待っていてくれていた。勢いよく手を振られたので、わたしも手を振り返す。でもそうじゃない!とでもいうように勢いよく手を横に振り、早く来いの合図をされた。思わず走り出すと、同僚に勢いよく肩を掴まれる。只事じゃない雰囲気を醸し出す同僚だが、わたしも何があったのかが理解出来ずとにかく落ち着いてもらおうとするが、同僚の勢いはとまらない。


「なまえのための飲み会なのになんでおそ松くんがいるの」


  え?と間抜けな声を出したと思う。だっておそ松はわたしが出かける前に出かけて行った筈だ。その事を同僚に話すと今度は同僚が首をかしげる番だった。でももう席にいるんだよ、と困ったように言うものだからわたしもわけが分からなくなった。とにかく行ってみる方が分かる、そう思ったのは同僚も同じだったのだろう。飲み会の席までわたしの手を引いた。個室のドアを開けると、揃っている男性に目を奪われる。バチ、と音がするように噂のおそ松くんと目があったのだった。初めまして、と用意していた言葉が声にならず口が自然と開きっぱなしになってしまう。それは噂のおそ松くんも同じで、わたしを恐ろしい物でも見ているような顔をしてダラダラと汗を流していた。


「ぼ、僕ちょっとお手洗いに…」
「あ、わたしも手を洗ってくる…」


  そう言ったのはほぼ同時だったと思う。怪しげにわたしたちを見つめるその他のメンバーは、静かに行ってらっしゃいと言うだけだった。わたしはこの人と会った事がある。おそ松と同じ顔をした兄弟、この人は何番目だ。そして私服の中に桃色を見つけた瞬間、わたしは彼等の色に気付いた。そして席から離れた所で前を歩いていた彼が振り返り、やっと彼が何番目であるか思い出したのだった。


「まって、ほんとになまえちゃんなんでいるの?」
「ト、トド松くん、だよね?」
「久しぶり、あまりにも見た事がある顔だったからさすがにびっくりしたよ」
「トド松くんとは久しぶりだね、やっぱり似てるねえ」


  なんて話しかけてみるけれど、ようやくここでトド松くんに出会った事によって、今日の事が細かくおそ松に伝わってしまうリスクに気付く。伝わってしまってもやましい事は何もないけれど。トド松くんはまだ慌てているような様子で、「ほら帰るよ!」とわたしを帰るように促す。帰った方がいいのだろうけれど、おそ松が出て行った家に帰るのは嫌だ。また帰ってきたおそ松にどう会えばいいかも分からないし、もう心の中がぐしゃぐしゃだ。なんでわたし此処にいるんだろう、あんな事をされ続けてもおそ松がいいの?おそ松がいい、おそ松がいいけれど、彼にはわたし以外でもいいのだ。


「おそ松兄さんには言わないから早く帰りな!」
「…帰りたくない」
「え?」


  そういうと何かを察したように、トド松くんは頭を抱えた。ぶつぶつと「あーもう、またあのクソ兄さんは…」と独り言が聞こえるけれど、聞こえた言葉は聞こえないフリをした。トド松くんは何だかんだ、わたしとおそ松の仲を心配くれている。他の兄弟がわたし達の事をどこまで知っているのかは分からないが、何か察している部分があるのだろう。わたしが飲み会の席に戻ろうとする姿をトド松くんは止めるわけでもなく、ため息をついて静かに後を追うのだった。




・・・




  おそ松兄さんは大馬鹿だと思う。初めて『やらかした』話をその日に自慢するように言った兄は大馬鹿者だった。それは兄弟全員が知っているし、そう思っている事だ。実家で兄さんはいつもの調子でその話を切り出したのだ。「超焦ったよーなまえが許してくれたからもう大丈夫だけど」なんて最後に言うものだから、突っ込みを入れて良いのやら分からない雰囲気の中でただただ思ったのは兄さんは馬鹿だ、という事だった。その後全員からなまえちゃんの事を考えろ、だの調子にのるな、など大バッシングを受けていたが当然の事だ。


  僕達兄弟が働くようになってから、華金になると兄弟集まって飲む事が多くなり、何となく話を振ると兄さんはまだ調子にのった事を続けているような素振りだった。同じ部署のチョロ松兄さんはおそらく大部分の事は知っているのだろう、胸糞悪い事は知りたくないし関わりたくないな、と思った事を覚えている。けれどおそ松兄さんは何時までも馬鹿な事は繰り返すけれど、なまえちゃんの事になると無自覚なのかは分からないが、ムキになったりする。
  そんなおそ松兄さんの口癖は、「なまえは俺のことを愛しちゃってるから大丈夫」だ。それはきっと反対だろ、兄さん。きっと誰もがおそ松兄さんがなまえちゃんの事を大切に思っているのは知っている。傷つける事で愛を確かめるなんて、やっぱり年を重ねてもこういう所は成長してないんだな、と我が兄ながらそう思っていた。いつかフラれても知らないよ、と思いながらも何処かでハラハラする思いもあったのだろう。


  その心配は楽しみにしていた合コンになまえちゃんが来た時、確かな物となった。


・・・


  おそ松兄さんになんて言おう、なんて考えていたけれど、先程の心配が嘘のようになまえちゃんはおそ松兄さん一筋だった。恐らく幹事である隣の女の子に誘われた様子だった。なまえちゃんは落ち込んでいる様子だったけれど、僕達男子メンツも落ち込んでいる子に無理やり付け入る奴はいない。最初はなまえちゃんが何のつもりで今日来たのかと思っていたけれど、兄さんの言う通り『兄さんの事を愛しちゃってるから大丈夫』とでも言うようなガードっぷり。なまえちゃんの隣にいる同僚らしき女の子は、それをあまり良いように思っていない様子だった。なまえちゃんは意外と楽しんでくれる性格の子だったけれど、落ち着いて会話を処理する感じ兄さんに仕込まれているのではないかと思ってしまった。
  今日の飲み会はまたこのメンバーで飲みに行こう、というような雰囲気でまた次がありそうな終わり方だった。女の子達も可愛いし、楽しんでくれるし、僕も満更でもなかった。ただなまえちゃんの事は気掛かりだったけれど、この子なら大丈夫だ、と安心していた。けれど、居酒屋を出た時男子の中の1人がなまえちゃんに声をかけている姿を見て、嫌な予感がした。バレないようにこっそり耳を傾けると、そいつは酔っ払っていたのが嘘のようなはっきりとした声で「連絡先教えてほしいんだ」となまえちゃんに伝えていた。意外と本気?彼は結構真剣な目をしている。なまえちゃん、なんて言うんだろう、なんて心の中で妙な葛藤をしている間に僕の体は動いていた。なまえちゃんの手を掴んだ僕に、2人分の視線を感じた。


「トド松くん?」
「…〜!帰るよ!!」


  僕は何をやってるんだろう。おそ松兄さんがしている事は決して許せないこだし、理解も出来ない。だけど僕はおそ松兄さんとなまえちゃんが、お互いをすごく大切に思っている事を知っている。だからこそなまえちゃんが他の誰かとなんて、考えられない。ああもう!全然関わりたくなかったのに、と独り言を漏らして僕はなまえちゃんの小さな手を出し握りしめて走り出した。これはなまえちゃんの友人さんからも、ぼくの友人からも怒られそうだなあと思いながらも、なまえちゃんの手だけは離さなかった。



2016.0608
心を決めないと前には進めない