名前のない手紙を受け取ったのは夏のことだった。

  太陽は皮膚じわじわと侵食し、蝉の声は暑さを上げるような真夏日。数学が苦手なわたしは自由参加の補講を受ける事にして、せっかくの休みも補講で丸潰れ。主に成績の悪い人が受けるのだが、部活後の時間が暇だからとわたしは真面目にも補講を受ける事にした。友達も受けるからと渋々中途半端な気持ちで受けた結果がこれだった。暑いわ問題はわからないわ眠いわで、面倒くさくて堪らなかった。けれどいい事なんてまるでないと思っていたが、わたしの臆病な恋心は動き出した。

  太陽の下激しい運動をした所為で下着は汗で湿り気持ち悪い、明日からは替えの下着を持ってこなければと思うほどだった。朝から部活をこなし、午後からの補講に備える。体力もないわたしにとって、こんなハードなスケジュールをこなす事は至難の技だった。教室で既に集まっていた友達と話していると、同じクラスのおそ松くんが先生に連れられて教室に押し込まれていた。これも夏休みに入ってから恒例の出来事だった。おそ松くんは成績が悪いから補講は強制参加らしい。
  けれど本人曰く、こんな事をやらなくても本気を出せば点数なんて簡単に取れる、とドヤっている。学校に来ないという選択肢は無いからこその、逃亡。そしてすぐ連れてかれる。わたしは実はこの光景が好きだったりする。


  補講が嫌なら休めばいいという話だ。数学が苦手だから受けたとあたかも真面目に振る舞っているが、本当はそうじゃない。友達と迷っている最中聞こえて来た、おそ松くんとは違う澄んだ声。「やっぱり止めようかな」と言う友達に制止をかけ、わたしは補講を受ける事になった。おそ松くんとは違い大人しい雰囲気の彼は、勉強はできる方だったと思う。いかんせん同じ顔が6人も居るものだから、誰が成績が良いとかは分からない。ただ、少し抜けている所、困っている時に助けてくれる所、怖そうに見えて柔らかく笑う所、クラスでずっと彼を見てきていい所を沢山見つけた。何時か沢山彼と話してみたいと思うけれど、名前を呼ぶことにも一苦労だ。

  松野一松くん、心の中では何度も呼ぶ事が出来るのに、わたしの口からはその瞬間頭の中は真っ白になり緊張して話す事が出来ない。一松くん、一松くん、一松くん、今日もかっこいいなあ。



「…、」



  おそ松くんが机に寝そべっている中、何かに気づいた一松くんはわたし達へ、ゆっくりと歩み寄る。滅多に話をした事が無いわたしは其れにさえ緊張し、思わず友達の背中の影に隠れただ俯いた。


「これ、誰の?」


  柔らかい細い目がわたしへと、視線を向けた。体育とかの授業で運動をしているのにも関わらず、一松くんの肌はまるで綺麗な水のように澄んでいて、綺麗だった。友達に視線を向けられている事に気付くと、わたしは慌てて一松くんの持っている物を漸く視界に入れる。あ、この種類のシャーペン知ってる。書く度芯が回ってずっといい感じて字をかけるシャーペンだ、わたしも愛用している。ふと一枚くんが持つシャーペンの傷に注目すると、何処かで見たような見慣れたような、傷跡。ハッとした時には叫んでいた。


「わ、わ、わたしのでした!ごめんなさい!」


  一松くんに向かって大きくお辞儀をしてシャーペンを迎えようと、両手を差し出す。暫くそうしていると、くすくすと笑ってわたしの手へペンをそっと置いた。その瞬間少しだけ一松くんの手が触れ、触れた部分が熱く熱を持った。

  今一松くんの目にわたしが写っていた、その事実だけでも嬉しすぎる事なのに、落とし物まで届けてもらってしまった。友達はわたしの気持ちを唯一知っているから、真っ赤になっているわたしをバシバシと叩いた。





・・・





  嫌々ながらも受けていた補講は何時の間にか、楽しみの一つとなっていた。朝から苦痛で仕方なかったのに、ノートの数式はスラスラと解けていく。ノートの隙間に『一松くん、ありがとう』なんてピュアな事を書いては消してを繰り返していた。今日の補講はなんて目の前の席が一松くんだった。それもあってか気分もよくて、拾ってもらったシャーペンをニヤニヤしながら眺めていた。



「ねえ、おれお礼されるようなことした?」



  突然上から降ってくる声にびくりとすると、一松くんが振り向いていた。そして、事もあろうことかわたしのノートを覗いていたのだった。ノートを体で勢いよく隠して、涙目になりながら謝った。まさか消したつもりだったのに、恥ずかしさで消えてしまいそうになった。何て言い訳しようと考えていると、手に持っていた傷だらけのシャーペンを見て咄嗟に声を出した。


「シャーペン、拾ってもらったから」
「ああ、それね」
「う、うん。だからありがとう」
「ふーん」


  シャーペンを拾ってもらった日からは何日も経っているし、言い訳がその場凌ぎすぎる。再び背を向けた一松くんを見て変に思われて当然だ、と思った。チャイムが鳴り、一斉に部活へ向かう人が多い中、わたしはただ一人呆然としていた。一松くんに見られた言い訳を永遠と考えて反省していた。友人に声をかけられた所で気付き、ため息をついた。今日もあまり話せなかった。



  やっと補講が終わったかと思うと、炎天下の中部活が始まる。クーラーが効いている校内から出るのが嫌で少しでも時間を潰したくなるが、友人達は急ぎ足で進んでいく。部活へ向かうため下駄箱から靴を取り出した時、ルーズリーフをちぎった四つ折りの紙が入っていた。何だろうと取り出して開いてみると

『好きです』

と薄く小さな文字で書かれていたのだった。


  ぐしゃり、と小さな文字ルーズリーフを握りしめると、心臓の音がどんどん早くなっていくことが分かった。キョロキョロと周りを確認してしまうあたり、わたしはこういう事に免疫力が全くない。まさか悪戯?と不信感を募らせていく。怖いなあ、嫌になっちゃう。「なまえ!」と友人に呼ばれた事により、急いで靴を履いて部活に向かったのだった。






・・・




  彼女の焦ったような「ありがとう」を聞いた瞬間、思わずノートの端を破って、手のひらより小さいサイズに四つ折りにした。中には震える手で書いた、文字。伝えるつもりは微塵も無かったけれど、あんな風にノートに書かれたり、言われてしまうと童貞は酷く期待してしまったのだ。

  別に成績は悪くはないから補講を受ける必要はなかった。けど、同じクラスであるおそ松兄さんが駄々をこねたことにより、参加することになった。彼女も最後まで迷っていたようだが、最悪受けなくても部活がある彼女にもしかしたら会えるかもと思って補講を受ける事にしたのは内緒だ。補講の初日に彼女もしっかり受けていて嬉しさに顔がにやけてしまったら、おそ松兄さんに気持ち悪いと引かれた。手紙を書く時にちゃんと、名前も確認したし、ちゃんと届いるはず。いや、名前?名前…おれの名前。




  …自分の名前を書くのを忘れた。



  テストの名前か?もしくは提出書類のことか?いや違う。告白だ。ルーズリーフを破ったものを四つ折りにして、今日好きな女の子の下駄箱へ手紙を入れたはずだったのだ。ただ、名前を書いた記憶が一切なかった。これじゃあ悪戯だと思われても仕方ないじゃないか!そう思った自分が恥ずかしくて石を思いっ切り蹴った。

  明日が緊張する、彼女はどう思ってくれているのだろうか。でも名前を書き忘れたから誰のか分からないか、なんて自虐を入れると頭を抱えてしまう。もう一度ただの一方的な恋だという事を思い知らされたような、感じ。あいつがありがとうなんてノートに書くから、と彼女のせいにしてみたりしてみたけど、モヤモヤとした気持ちは一向に消えてくれなかった。家の扉を開けると、5人の悪魔がニヤニヤと待っていました、とでも言うような顔で座っていた。


「一松兄さん〜、僕見ちゃったんだよね」
「な、なにを」
「一松兄さんが女の子の下駄箱に手紙入れると、こ」


  背筋が凍るような感覚だった。トド松がスマホで撮影した写真に、はっきりと自分が手紙を入れているシーンが映っていた。



「直接連絡先聞かないあたり一松らしいね〜」
「さっそく、愛の手紙の内容について語ろうじゃないか」
「で、何て書いたの?」



  やられた、とガクッと力なく崩れ落ちた。質問攻めにされる事なんて予想している訳がない。頭の中が真っ白になって、全裸になって尻を出したい気分だった。

「名前書き忘れたからどうするも何も、無理だよ」

  俯いたままそう言うと、騒がしい声がぴたりと止んだ。そして告白したのに名前書き忘れたの?とおそ松兄さんに笑われた所で、この人と同じクラスだという事を恨んだ。続いて爆笑が起こり、耐え切れなくなった所で二階へと逃げた。明日おそ松兄さんに何か言われたらどうしよう、なんて考えていた。けれど本当に怖いのはおそ松兄さんではなかった。




・・・




  翌日嫌々補習へ向かうと、女子が固まって騒いでいた。嫌な予感がしたが、おそ松兄さんと適当な位置座る。そしてヒソヒソと女子の集団の中には困ったように笑う彼女がいた。

「手紙入ってたんだって」
「名無しとか怖くない?」
「ちょっと、あまり大事にしないで」

  周りの女子は楽しそうにうわさ話をしておりその中心にいるのは彼女だと気付くと、手紙、名無し、というワードに反応したおれ達は女子が固まっている方向へ視線を向けた。暑さではなく、体が凍ったように冷えていき、汗が噴き出す。あれはおれの手紙だ。そんなおれに気付いたのか、おそ松兄さんは、女子に「おーいなんか先生の足音聞こえたよー」なんて声をかけて席に座るように促してくれた。

  彼女はどんな顔をしているのだろうか、気持ち悪いよな、名前のない手紙なんて。しかも誰だかわからないし、気味が悪い。補習中も冷や汗が止まらなくて、昨日なんで手紙なんて書いてしまったのだろうと後悔し続けた。「一松ぅー」はっとおそ松兄さんの声で我に帰ると、既に補講は終わっていた。部活に向かう奴らは急いで準備をしている。兄にも馬鹿にされるのか、と卑屈な考えでいると先ほどの女子の集団がいた所を小さく指さされる。中心にいたのは、まだ補講の問題が解けていないのか傷だらけのシャーペンを手に一生懸命紙とにらめっこしている彼女だった。


「俺はもう帰るけど、なんか言わないの?」


  なんて普段は言わない事を言うから、少しだけムキになって「…名前言ってくるよ」と言ったら笑われた。



  落ち着くまで座った席で問題を解いていると、おれと彼女以外の人は居なくなった。どうやって話かけようか、と悶々と考えていると、彼女も部活がある事に気付く。解き終わってしまったらすぐに向かってしまうのではないか、と思い彼女が座っている席に視線を動かすと、ばっちりと目があってしまった。へら、と彼女が笑うと今しかない、と重い腰を上げて彼女の席へ向かった。

「終わらないの?」
「あ、も、もう終わるよ!あっ」
「…また落ちたけど」


  あの日と同じようにシャーペンを拾うと、彼女は嬉しそうにそれを受け取った。あーあ、フラれるにしてもちゃんと断られたかったなあ、なんてドMか。そもそもなんでこんな良い子に告白しようと思ったんだ、夢の見過ぎだろ馬鹿か。卑屈な考えが浮かびどんどん自信がなくなっていく。


「名無しの手紙とか、気味が悪いよね」


  気付いたら口から零れたのは自虐の言葉だった。何も言わない彼女は、きっと肯定の合図だ。そりゃおれだって、名前のない手紙で告白されたらビビるし、怖くなる。


「…まじキモいし、捨てちゃえば?」
「そ、そんな言い方」
「じゃあ、この誰かわからない奴と付き合うの?」
「そういうのじゃなくて、悪戯だと思うんだけど…」
「…へえ」
「嘘だとしても、捨てるのは良くないかなって。だから騙されやすい、って言われるんだろうけど」


  誰からかわからないけど、こういうの初めてだから嬉しいんだよね。照れたように笑うと彼女は問題集を閉じて、ノートと一緒に鞄に入れた。ふとペンケースに入っている四つ折りのルーズリーフを見て、体に衝撃が走った。彼女がペンケースを片付けようとする瞬間、その華奢な腕を掴んだ。驚いて大きな瞳を向けてくるから、思わず視線を逸らしてしまう。


「…これがおれの手紙でも、持っててくれますか…」


  そう言うと、彼女の顔がぼっと赤くなるのに気付き、自分も顔が熱くなる。分かりやすい子だとは思っていたけど、ここまで顕著に顔に出てくれるとは。


「そんなの、一生大事にする、宝物にする」


  彼女のペンケースに入っている四つ折りのルーズリーフを取り出し、松野一松、と書き忘れた自分の名前をこっそり付け加えた。


2016.0517
本音でも綴ってみようか