変わったことなど何もない。あれから歳を重ねただけだ。アルコールを飲める年になった途端、付き合いというものが増えた。正直それまでそういう場にも行こうと思わなかった、というのが正しいだろう。グラスとグラスを合わせて、無理矢理笑顔を作り上げる。時間の経過というものは傷を少しだけ癒してくれたのだ。漸く友人との時間を楽しめるようになってきたが、どんなに楽しくても何故こんなにも落ち着かないのか、それは理由がある。


  今日二年ぶりに彼が帰ってきた、らしい。


  あの時彼の言葉を待つことなく着いて行きたいと伝えれば、受け入れてくれたのだろうか。そんな後悔の念に苛まれていたこの二年。お酒に溺れながら会いたいという気持ちと、恐怖が交差していた。


・・・


『また連絡する』


  思い返せばさぞかし不完全な別れの挨拶であったと思う。始まりは今から二年前、イタリア行きを決めた雲雀さんからの別れのメッセージはポストにこんな一通の手紙が入っていただけだ。どうしてこのご時世機械越しのメッセージではなく手紙なのだろうか、当時のわたしには全く分からなかった。流石にどういうことか問詰めようと電話をするが『この電話はーーー』と切なくわたし耳で機械音が鳴り響くだけだった。


  これは18歳の春高校を卒業し、夢だった大学に合格した時の事の出来事だった。並盛中の応接室に行けばすぐに恋人の姿を一目見る事が出来ていたことから、あんな手紙が非現実的であるように思っていた。だが電話もメールも繋がらない、ただ手紙に『また連絡する』と彼の字で一言書かれていただけであった。捨てられたのだろう、と馬鹿なわたしでも冷静に理解していた。


  手紙を受け取ったわたしの足は自然と並盛中に向かっていた。学校自体が休みの日であるからか部活の声が鮮明に聞こえ、当時を思い出した。応接室ドアを軽く叩き扉を開けると、あの頃の雲雀さんがわたしに『おかえり』と優しく微笑んだ。頭の中ではいくらでも雲雀さんの姿を思い浮かべる事が出来るにも関わらず、たった今視界に入れた応接室は寂々としていて、使用していた机と椅子の位置も気持ち悪い程変わらなかった。


  ああ、やはり夢じゃないんだ。彼は、此処にはいない。


  一緒の高校に行こうと言っても『僕は此所に残る』と並盛を離れなかった雲雀さんは気になる事がある、とイタリア行きを決めた。とことん追求する性格であるから、きっと何か興味を示す物を見つけたのだろう。同級生である沢田くんからマフィアの夢のような話を聞いた事がある。雲雀さんは既にマフィアの一員でそこでも最強なんだって。すごいなあ、なんて感心した。けれど結局雲雀さんからは何一つマフィアの事を知らされる事もなかった。今回のイタリア行きの事さえ雲雀さんから伝えられる事もなく、全ては沢田くんから聞いた話だった。そして出発する日も告げず姿を消した。残ったのは一枚の手紙だけだった。捨てられたんだ、フラれたんだよ。頭の中で誰かがそう声をかける。連絡がきっとある、彼を信じて待ち続けるしかない。そう思っても空っぽになった応接室を見てボロボロと涙を零した。


  並盛中からの帰り道、かつて雲雀さんの連絡先だった番号を見つめる。スライドさせると懐かしい名前を見つけた。『沢田綱吉』その名前を見つめながら再び考え込んだ。沢田くんから少し話を聞くことは出来ないだろうか。だが沢田くんに聞いた事を彼は嫌がるだろうか。いやいや、とその瞬間勢いよく首を振る。何を言っているんだ、理由を知る事で断ち切りたいから、彼を忘れる事が出来るなら直接聞いた方が良い。携帯から乾いた電子音が小さく響き、そっと耳に当てると鮮明に聞こえた。


  しかし電子音が続いた瞬間ハッとしたように、電話を切る。干渉を嫌う彼の事を思い出して葛藤し、電子機器を握りしめた。
  辺りが暗くて助かった。このぐちゃぐちゃに全てが混ざってしまった思いをどうしたら良いか分からず涙が止まらない。沢田くんからの折り返しの電話に出る事も出来ず、彼の事を聞く勇気が持てなかった。捨てられた事を認めたくなかった。けれど認めざるを得なかった。


  雲雀さんがいない一年は初めてだった。最初の数ヶ月は正直記憶がない、近くにいた友達に誘われていろんなサークルを回り講義も一緒に決めた。忙しかった。バイトもがむしゃらにした。毎日スケジュールは詰まっていて一人でいる時間は少なかった。夏休みに入る頃、一人でいる時間が増えた。学校がなくなりバイトを掛け持ちする。空いた時間は誰かと一緒に過ごす。徹底的だった。彼がいない日々は何処か色あせていて味がない、京子が心配してわたしの家を訪れた時はこの時期だった。久しぶりに京子を見たわたしは、何か張っていた物がプツリと千切れたように涙腺が崩壊した。夢だった大学に入学したのに、ちっとも楽しくない。新しい友達が出来ても、いろんな出会いがあっても何も記憶に残らない。わたしは彼を忘れる努力をしたつもりだった、のにこの心は消えやしない。泣き続けるわたしの背中を優しく摩る京子に酷く安心した。恐らくそこで吹っ切る事が出来たのかもしれない。


「彼氏作らないの?」
「バイトして未来の彼氏に貯金してる」
「ちょ、やば」


  漸く恋話が出来るようになったのは肌寒くなってきてからだ。彼氏が出来ないわたしに同情してか出会いが増えた。捨てられた話を笑い話にしてくれる友人が出来た。どうせ忘れる事が出来ないのならば、忘れなくて良い。そう思えば少しだけ体が軽くなった。


  学生の頃と変わった事といえば20歳になってお酒を飲める様になった事、一人暮らしを始めた事。並盛を出ようと思ったけれど彼が愛するこの場所から離れる事は出来なかった。京子から教えてもらった沢田くんの連絡先はそのままだった。もう連絡する気は更々なかったが、心の何処かで彼を待ち続けていた。


「帰ってくる!?」
「うん、一時的にだけど戻って来るんだって」


  忘れていたはずの気持ちを思い出す事になったのは、あれから二年後の事だった。バイト終わりに久しぶりの京子からの電話に出ると彼女は声を弾ませ、沢田くん達帰国する知らせを告げる。家までの道のりがあっという間だと思うほど会話に集中していた。気にしていないと思えば思うほど日付をカレンダーで確認したり、気持ちが落ち着かない。帰国予定日まであと数日、正直わたしは誰を迎えに行く訳でも、待っている訳でもない。その日付を気にする必要は無いにも関わらず、知らせを聞いた瞬間わたしは嬉しかった。雲雀さんはこの場所を完全に離れた訳ではないのだと、安心した。

  無駄に携帯のカレンダーを確認するが、その日は大学の授業のメンバーでの打ち上げという名の飲み会であった。予定が無く一日中そわそわしているよりかはマシである。この町に帰ってくる彼に会いたい、けれど真実を知る事が怖い。

  矛盾する気持ちに押し潰されそうになりながら、考える暇も無く彼らの帰国日を迎えてしまった。


・・・


  グラスとグラスが合わさり、音を奏でる。

  もう二年前の話ではあるがつい最近の事のように思えるのは、何故だろう。ようやく授業の研究発表に解放されたメンバーはやっと遊べる、とでも言うようにお酒を注文する。何杯目かのグラスが空いた頃、体が熱くなりふわふわと宙に浮くような感覚を感じていた。しかし恐らくもうすでに此処、並盛に帰ってきているだろう彼らを思うと何処か冷静になる。酔いが覚める事を何度も繰り返していた。ついでに行動も落ち着かないのか携帯を何度も付けては、消して。何かの大事な連絡でもあるの?と言われた程だ。見ての通り結局は何か予定があっても気になって仕方がない。あまりの情けなさにわたしはまたお酒を追加してしまうのであった。

  飲み会も終盤に近づいた頃、手元にあった携帯が急に震え出し体が跳ねる。

  働かない頭をフル回転させて画面に映し出された名前を見ると、先日電話を迷っていた相手であった。沢田綱吉、という名前を見てわたしは飛びついた。


「もしもし?沢田くん?!もしもし!」


  勢いよくそう話しかけても周りの雑音にかき消され、沢田くんの声が聞こえない。慌ててフラフラと席を立つ。漸く携帯から声が聞こえるが、飲みすぎたせいか頭が重い。ドキドキと心臓が高鳴っているのは、酔いのせいか分からないが、わたしは二年ぶりに雲雀さんに会えるかもしれないと、期待していた。


「…今どこにいるの?」
「もしもし?よく聞こえなくて、外出てる。今駅前の居酒屋で飲んでる」
「…へぇ」


  沢田くん、そう懐かしい名前を呼ぶと、電話口から声が聞き取り辛い。辛うじて聞こえたのは、今どこにいるのか、という問いであった。

  久しぶりに話すにも関わらず、アルコールを摂取している状態は些か失礼にも感じるが、仕方ない。漸く外に出ると火照った体も少しだけ楽になるのを感じた。


「もう帰ってきたの?京子のとこ、早く行ってあげてね」
「…」
「ずっと沢田くんのこと、待ってたんだよ」
「…君は、待ってたの」
「わたしは、」


  沢田くんからの返しに、思わず言葉を飲み込んだ。酔いのせいでぼんやりとした頭に浮かんだのは、雲雀さんの背中だった。憎らしいその背中は追いかけても、隣に並べない。それでもわたしはこの二年間、胸を張って努力したと言えるだろう。隣には立てなくても彼の存在がわたしの背中を押してくれた。


「頑張ったんだよ。学校でも賞を取るくらいいい成績とって、もちろんバイトも」
「…」
「今もずっと雲雀さんを追いかけてる」
「…、」
「彼に言っておいて、頑張ってるって」


  アルコールが入ると泣上戸になってしまうわたしは、雲雀さんを思い出すだけで目に涙が溜まってしまった。声が震えないように声を張りバレないように鼻を啜る。

  これ以上話すと止まらなくなる、そう思ったわたしは目を抑えながら沢田くん、と再び懐かしい名前を呼ぶ。


「また飲み会終わったらメールするよ」
「…」
「じゃあ、」
「なまえ」


  そう言って電話を切ろうとした瞬間だった。少しだけ頭が回るようになったのか電話口の声が鮮明に聞こえるようになり、凛とした声が響く。あれ、沢田くんはこんな声だっただろうか。この美しいアルトの声を、わたしは知っている。

  なまえ、そうわたしを呼んだのはもう一人しかいない。

  雲雀さん、彼の名前も声にならない程動揺して思わず手で口を抑える。


「ねえ、なまえ」
「、え、あ、」
「君の家の前で待ってるよ」


ーープツッ


  電話口からの電子音が心地良く感じた。どれくらいその電子音を聞いていただろうか、冷んやりとした緊張感に飲まれ微動だに出来ない。


(君の家の前で待ってるよ)


  あの声を思い出したその瞬間地面を蹴る。階段を駆け上がり席に戻って来た時には息が切れていた。掛けていたコートとバッグを乱暴に抱えて「すみません!帰ります!」そう叫んだ。飲み会のメンバーは何事かと目を丸くしていたが、声をかけるタイミングを失っていたようだった。自宅の最寄り駅だった事からか、煩くも聞かれず上手い事抜け出す事が出来た。
  此れだけ全力で走った事はもう高校の時の徒競走以来だ。コートが嵩張り、一歩一歩進む度肩に掛けたバッグが駄々をこねるように跳ねて、一層体力が奪われる。それでも足を止めなかった。髪も乱れて可愛くなど無いけれど、早く、早く会いたい。

  見慣れた家のロビー近くの壁に寄りかかり腕を組んだ、男。空を見上げた姿は見惚れてしまうほど綺麗だった。


「…ひ、雲雀、さん、」


  馬のように走った後の私の声は、継ぎ接ぎだらけで何とも汚い。膝に手を当てて息を整えていると、漆黒の瞳がわたしを捉える。鋭い視線がじわりじわりと押し付けられて息苦しくなる。彼はまだ言葉を発さない。


「どうして、」
「君こそ、あんな騒がしい場所に良く居たね」
「…さっきの、電話」
「ああ、沢田綱吉に電話を借りただけだよ」


  そういえば、二年前電話も繋がらなかった事を思い出す。久しぶりの再会ではあるが、彼の冷たい視線はぞっとするほど異様な迫力に満ちていた。最初から威圧感は感じていた。肩で息をして肩からバッグがだらし無く落ちているわたしとは違い、雲雀さんは何年経っても変わらず綺麗だった。どんなに冷たい視線を向けられても、二年間積み重ねていた焦がれる気持ちが溢れて、目の辺りが熱くなる。


「…楽しかったかい?最初いろんな男の声がしたけど」
「…」
「人の心はこんなにもすぐ変わるんだね、がっかりだ」
「…」


  雲雀さんは珍しく饒舌だった。そんな事などある訳がない、二年間忘れる事などひと時も無かった。最初わたしを捨てた行ったのは貴方の方じゃないか。言いたい事は山程有るのにも関わらず、わたしの格好はだらし無いままで。微動だに出来ず彼の視線から逃げる事が出来ない。

  どうしてですか、何故何も言わず置いて行ったのですか。何故今更会いに来たのですか。

  群れる事を嫌う彼だ、わたしが騒がしい場所に居たことが気に食わないのだと分かる。置いて行くなら、わたしの事を気にしているような言い方をしないで下さい。安心して下さい、忘れようとも貴方はわたしの心に根を張り枯れてはくれない。言葉にはならない思いが涙となって溢れ出す。一滴、また一滴と頬を流れる雫を手で拭う事もしなかった。

  アルコールのせいで火照った頬に、雲雀さんの冷たい手が触れる。そしてそのままわたしの涙を優しく拭う。


「…なまえ、」
「…」
「…なまえ」


  名前を呼んでもらえる事が何より嬉しい。胸の中で何か温かいものが広がる。一歩一歩共に雲雀さんが足を進め、距離が近く。こんなに背が高かっただろうか、髪は少しだけ短くなっているような気がする。


「僕は君を置いていった最低な男だ」
「…」
「それでも、僕は、まだ君の中にいるかい」


  大きな腕がわたしを包む。久しく感じて居ないこの温度に酷く安心した。雲雀さんに体を預けて背中に腕を回す。漸くわたしはこの虚無感から開放される、漸くハッピーエンドを迎える事が出来る。

  目を閉じてもちろん、そうわたしが大きく頷こうとした瞬間だった。


「…これで、諦めがつく」


  ひゅう、と息を吸い込んだ。全身から汗が吹き出しているような恐ろしい感覚。今度こそ確実に失う、そう思うと不意に水でも浴びたように心が震えた。雲雀さんの背中に回していた腕が力無く落ちる。頭では何か伝えなければならない言葉が暗号のように巡り、整理が出来ない。

  体を離されるとさらに彼は綺麗な声を紡いでいく。


「君はこっちに来るべき人間じゃない、君の心が変わった事が決定打だ」
「勝手に、!」


  漸く言葉になった声は途中で遮られる。勢いよく口を塞がれ、俯いていた雲雀さんが顔を上げた。漸く彼の表情を視界に入れる。見たことの無い表情だった。弱々しく、今にも壊れそうな表情の彼にわたしはまた言葉を失う。


「…待っていてくれるなんて、ある訳がない」


  君の口から聞きたくないんだ。


  つん、と鼻の奥に痛みを感じる。その、ある訳がない事をしていたわたしを驚くだろうか。ごめんなさい、何かで紛らす程辛かった。忘れたくとも忘れられない。その事を伝えたら嫌いになるだろうか。雲雀さんの細くても引き締まった腕を掴むと、あれ程声に出なかった言葉がスラスラと形になる。


「勝手に、わたしのこの2年間を分かったように言わないで下さい」


  ガラガラで可愛くもない声、久しぶりの雲雀さんの前ではせめて普段通りの声でいたかったなあ、なんて。

  雲雀さんは目を丸くして、再び視線を合わせる。


「置いてかれたと知った時、どれだけ悲しかったか、沢田くんに理由も聞けなかった。嫌がる事はしたくなかったから。貴方を忘れないと迷惑がかかるけれどこの2年間、忘れた事なんてひと時もない、」


  あーあ、もう顔も涙でぐちゃぐちゃだ。支離滅裂だけど伝わっただろうか。情け無く涙を拭うと雲雀さんは「擦らないの」とわたしの腕を掴む。優しく涙を掬い取ると、彼は少しだけ笑い彼の胸の内を初めて聞くこととなった。


「…なまえが、大学に合格出来たのに余計な事をしたくなかった、時機に忘れられると思ってた。君には夢があるから、それを応援したかった」
「…わたしの夢は貴方がいるから夢だったんです」
「…卒業したら迎えにいく、待っててくれるかい」


  真っ暗だった視界が色づき輝いていく。見えなかった未来への道が漸く開かれた。


  2年間、何を忘れようとしていたか。彼の字で書かれた『また連絡する』という短い言葉の意味を考えたくなかった。連絡も繋がらない中、待つ事が正しいのかも分からなかった。迷惑では無いのか、迷惑に決まってる。それでも『また』という言葉を信じるしか無かった。2年間わたしは、自分の行動を正当化する言葉が欲しくて欲しくて堪らなかった。何年でも良い、共に過ごす事が出来るならわたしは何時迄も此処で待つ。


「…待ってます、ずっと」


  だって、わたしはその言葉を待っていたから。


07.1224 1117
輝いた