初めて覚えた名前



【我愛羅side】



-2年前-



「こんな事、言われなくてもわかるだろ普通!!
馬鹿かお前は!」

目の前で俺の作った資料を
パンパンと机に叩きつけながら
怒鳴り散らしている上司の名前は…はて、何と言ったか。


この会社に入社して一週間が経ったが
正直、誰の名前も覚えていない。
人の名前を覚える事は昔から苦手だった。
ただ単に人に興味がないからなのかもしれない。


我愛羅がそんな事を考えていると
「おい!お前、聞いてんのか!?」
と、先から怒鳴っている上司が
机をバン!と叩いて、オフィス内が一気に静まり返った。


申し訳ありません。とりあえず、
そう言おうと我愛羅が口を開いた時だった。


『申し訳ありません』


凛とした女の声が隣から聞こえた。

隣を見るといつの間にか俺の隣に立ち、
上司に頭を下げる女がいた。
面識はない。もちろん名前も知らない。


『資料の作り方、私が彼にアドバイスしたんです。
自分もよく分からないまま
誤った方法を教えてしまった私の責任です。
申し訳ありませんでした。』

「!!」

そう言って隣の女が上司に頭を下げた。
我愛羅は身に覚えの無い事を言っている女を思わず凝視した。

「分からない事は"先輩"に聞くだろ普通は。
猿でもわかるよそんな事。
今日中に訂正して提出しろ。」

パサリと我愛羅の作った資料を床に放り投げ
上司はズカズカと大股でオフィスを出ていった。

女は、床に落ちた資料を
そっと拾って我愛羅に手渡した。

『まだ入社一週間目なのに
あんなに言わなくても良いのにね…はい、これ。』

ふいに笑顔を浮かべた女に
一瞬、ドキリと我愛羅の心臓が跳ねた。

我愛羅は、ハッとして資料を受け取りながら口を開いた。

「…なぜ、あんな嘘言ったんだ?」

『んー、だって昨日遅くまで残ってこの資料作ってたよね?
私、隣のデスクだから帰る時に見えて、』

我愛羅は驚いた。
自分の周囲観察力の無さに。

「(ああ、でも言われてみれば
この女、いつも隣に座ってたかもしれない、)」と今更ながらに納得した。

『あの人、我愛羅くんが一生懸命作った資料に
アドバイスも一切無く、ケチつけるだけつけてるのがね、
私、どうしても許せなくて思わず口出しちゃったよ。』

女の言葉に我愛羅は目を見開いた。

「な、ぜ…」

(何故この女は自分になんの得にもならない事を
すんなりとしてしまうのか。
しかも、関わりのない俺の為に。)

『同期だからかな?なんか、ほっとけなかったの(笑)
余計なお世話だったらごめんね。』

「同期?」

『え、もしかして知らなかった?』

『何回も顔合わせてるのになぁ、席も隣なのに…』
と女が困った様に笑った。

『まぁ、いいや。同期の名無しです。
改めてよろしくね、我愛羅くん』

ふわりと笑って手を差し伸べた。
名無しの小さくて柔らかくて暖かい手を我愛羅は遠慮がちにそっと握った。
我愛羅は不思議と名無しの名前を直ぐに覚えた。


名前を覚える事が苦手な筈だった我愛羅がこの会社で一番最初に名前を覚えた人物が名無しだったのだ。


その日の出来事をきっかけにデスクも隣同士だった事から
二人はよく話す様になり、お互い打ち解けるまでに
そこまで時間は費やさなかった。






いつの間にか我愛羅は
名無しを目で追うようになっていた。
名無しの発する言葉一言に一喜一憂し、
小さな仕草一つに、目を奪われた。


そんな中、女性社員から、
そこそこ人気のあった我愛羅は、
言い寄られる事が多々あったのだが、
まるで流れ作業の様に全て断っていた。
名無し以外の女性に我愛羅は全く興味が無かったのだ。



そして、名無しには
既に付き合っている男性が居て現在は同棲している、
という事実を我愛羅が知ったのは
名無しに対して自分が特別な感情を
抱いている事を自覚して暫く経った後だった。







それから時は流れ、名無しと我愛羅が
初めて会話をした日から2年程経った頃、
毎週金曜の夜に開かれている会社の飲み会に
今日は珍しく名無しが参加すると聞いた我愛羅は
仕事を終えると、
飲み会が開かれる居酒屋へ初めて足を運んだ。





『ねぇねぇ、我愛羅ってさ
結構イケメンで性格も良いのに、
なんでまだ独身なの?結婚しないの?』


すっかり酒に酔い、
顔を真っ赤に染めた名無しが
我愛羅の隣で疑問を口にした。







お前の事が好きだから。






反射的に口から出そうになった
その言葉を飲み込むように
我愛羅は酒の入ったグラスを一気に煽った。








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