足元の土をスパイクでならし、頬を伝う汗を肩で拭う。視線を前に向け、十数メートル先に座る相方を見た。彼は黒いキャッチャーミットを拳で叩き、左にずらした。目を合わせ、頷く。
右手に握ったボールの縫い目に指を這わすと、それは意識を持っているかのように巧の指に自然にすいついた。両手を振りかぶり、左足を上げる。右腕を引き、左手を前に突き出す。上げた足を前に持ってきて……「きゃーっ原田くん格好いいーっ!」
力が抜けた。フォームが乱れ、あの大きなミットに荒々しく飛び込むはずだった白球は地面に突き刺さり、勢いよく跳ね返った。主審の数メートル後ろで試合を眺めていた沢口が慌てて追いかける。

「ボーク!」

主審の戸村が叫んだ。打席に立っていた吉貞が、にやにや笑いながら累に出る。にやけ顔のやたらと似合うそばかす面をほんの少しだけ目で追い、レフト側のフェンスに視線をずらした。そこにいたのは予想通りの人物であり、巧を唯一悩ませる人物でもあった。

「あっ原田くんこっち見た! やっほー!」

フェンスにつかまり、その場で飛び跳ねながら手を振る女子に苦笑いも出ない。
手のひらをズボンに擦りつけて下を向いていると、ふっと影がかかった。

「どうしたんじゃ巧、しゃきっとせんか」

肩を叩かれる。豪からしたら軽く叩いたのだろうが、巧の肩は前に大きく動いた。
帽子を目深に被りなおし、豪のつぶらな瞳を見つめる。呆れているのか困っているのか、彼の眉尻は下がっていた。やっぱり犬に見える。秋田犬。
巧が何も言い出さないと悟ると、豪はさっき巧が見ていたレフト側のフェンスを見た。そこにはまだ例の女子生徒がいて、やはり目が合うと手を振られた。豪は軽く会釈する。

「あの人が気になるんか、原田」

巧は口を開かない。豪はこれ以上言っても効果がないと諦めてきびすを返し、自分の定位置へと帰っていった。


「はい! 試合の結果はー? ドゥルルルルルルルルルルルル……パッ、俺らの勝ちー!」

一人で盛り上がる吉貞に目も向けず、巧は小さくあくびした。隣では豪がぼんやりと空を眺めている。巧もつられて空を見上げた。深く青い空に綿飴をちぎって、そのまま浮かべたような形の雲がところどころに見られた。夏の訪れを感じた、刹那。

「っひ」

首筋の急な温度変化に小さな叫び声が漏れた。振り向くと、そこにはしたり顔で得意気に笑う彼女がいた。首にあてがわれたのは、一見どこにでもあるハンドタオルだとわかった。しかし放っている冷気が明らかに違う。水で濡らし、クーラーボックスで極限にまで冷やされたタオルだった。

「ぷくくっ巧くんそんな声出すんだ。可愛い」

彼女は堪えるようにして笑う。笑われることよりも、堪えきれていないことに苛立った。その場にいた皆に無視されていた吉貞が、ざまあみろとばかりにタクミクンカワイーカワイーと連発する。それを東谷が殴って黙らせた。
彼女――名字は三年の新聞部部長だ。一週間前に出会ってからというものの、最近はずっとつきまとわれている。巧にとっては集中をかきけされる迷惑な存在だった。タオルで顔を雑に拭かれる。その手を軽く払いのけた。すると今度は瞳をのぞかれる。

「ああもうほんと巧くん綺麗な顔してるよね。うらやましいなあ」
「近いです。それとさっきから名前呼びやめてください」
「ツンデレ属性も持ち合わせてるの? 最高!」

追い払おうとすればするほど近寄ってくる名字に、巧は苦手意識を抱いていた。もともと人とあまり干渉したがらない巧だ。このタイプの女性といるとかなり疲れがたまる。視線を落とし、爪を撫でる。綺麗な指だね、と名字が言った。ほめられるのは嫌いではない。

「てか何すか何すか、先輩って原田にメロメロな感じい?」

吉貞が興味津々と言った様子で名字に訪ねた。周りの豪、東谷、沢口も顔をこちらに向ける。名字はにっと笑って曖昧な答えを返した。

「そう! そうなの。もうね、格好いいよね、野球部の最有力エース候補でイケメンでスタイルも運動神経もいいしツンデレ属性っていうね! これは新聞部部長として追っかけないとって思ったの。『運動神経抜群容姿端麗、あの男子は新田東中野球部次期エース!? 期待の新人原田巧にせまる!』みたいな?」
「じゃて、原田」
「なんだよ」

沢口が哀れむような顔で残念じゃったな、と言う。

「というか」

吉貞は更に口を開く。彼の目は好奇心で爛々と輝いていた。
この野郎。

「名字先輩って海音寺さんと付き合ってるって噂立ってるんすけど実際どうなんすかー?」
「馬鹿野郎!」

東谷が吉貞の坊主頭を思い切りひっぱたいた。ぴしゃりといい音がし、ほかの部員達の視線を一気に集めた。

「お前っ聞いていいことと悪いことがあ」
「えー私? 一希と? えーないない、ただの幼なじみだって」
「とか言っておきながらほんまは?」
「違うってー。ねえ一希!」

名字が部室から出てきた海音寺に手を振る。おう、と言って海音寺も名字に手を振る。ほらね、と言って彼女は立ち上がった。吉貞がつまらなそうに唇を尖らせる。

「最後に写真とってもいいかな? 新聞に掲載したいの」
「……お好きに」
「やった!」

名字は首に下げていたデジタルカメラを手に取り、電源を入れた。シャッターをこちらに向けてピントを合わせている。

「はーい、原田くんこっち向いてー」
「……何で名字さんも写ろうとしてるんですか」
「きーっ原田くんとツーショットだなんて許せないっ私も入るわっ」
「ヨシきめえ」
「自分が入りたいだけじゃろ」
「アホやな」



結局、二人だけ写る予定だった写真にはその予定の三倍近くの人が写り込んでいた。
後に全校生徒に配られた校内新聞の六月号。吉貞がメインになっている写真を見つめ、巧はふっと笑った。

「なー俺イケてるよなー。何で名字先輩、取材の対象として俺を選んでくれんかったんじゃろ。原田なんかより優しく応じちゃるし充分記事になると思うけどなあ。『部内随一の野球センス! 明るくみんなの人気者、毎年バレンタインにもらうチョコの数は平均五十個! 超新星吉貞伸弘!』かっけえだろ、なあ原田!」
「うるさい」

窓を勢いよく閉める。ガラスの向こうで吉貞の怒声が響いた。
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