箱庭に錠をかける人
あの日のことはよく覚えてる。真っ赤なランドセルを背負って歩く、いつもの帰り道がやけに静かだったから。目を合わせちゃいけないよ、耳を貸してもならないよ。小学校に上がる前から親にきつく言いつけられていたその言葉なんて必要ないくらい静まり返っていた。

「ただいまぁ」

お家に帰っても誰もいない。1年生の私と違ってお兄ちゃんは6年生でまだ学校だし、お父さんもお母さんも仕事に行っている。日本家屋が立ち並ぶこの一角は、皆おなじ一族に使えている人たちの家がたくさんある。大きな敷地を囲う塀の裏門から入るとすぐ家だ。いつもだったら、本邸で使用人として働いてるお母さんが私の様子を見におやつを持って来てくれるけど、その日は姿がない。あれ?と思った後に気づいたのは、縁側にある畳みかけの洗濯物。今日はなんだか変。街中にいる黒いあれらも見なければ母がいない。急に不安になって家を出た。お隣りの、お父さんの仕事仲間の家族が住んでる家に庭から入ると縁側の戸が開け放たれていた。冬なのに寒くないのかな。それでもよかった誰かいるんだ、と覗き込めば誰もいない居間でテレビだけがペチャクチャ話してばっかりの芸能人を映し出していた。飲みかけのお茶と、おせんべいがテーブルの上に置かれてる。……みんないない。どうしよう、みんないなくなっちゃった。本邸の人たちはどうだろう、皆仕事でそっちに行ったのかもしれない。内門を通れば本邸に行けるのは知ってる。お正月のご当主様への挨拶しか行ったことがなかったけれど、はやく安心したくて急いで向かった。重たい内門を押して、中に入る。すると、外とは違ってそれはもうたくさん人がいた。皆、忙しそうに走り回っていたり、数人毎に集まってひそひそ内緒話をしている。

「六眼だそうだよ」
「本当に?誰が見たんだ?」
「俺は聞いただけだぞ」
「術式も相伝のを持っているんだと」
「何言ってる!生まれたばかりの赤ん坊じゃ術式持ちかなんてわかんないだろ」
「六眼があるだろ」
「どちらも持っているとしたらとんだ夢物語だろうよ」
「とはいえ術師たちが怯えてる」
「六眼じゃあしょうがない」

大人たちが話しているのを間を通りながら聞いてみた。ろくがん?術式は知ってるけど。うちはお父さんとお兄ちゃんが持ってる。私は"見える"だけ。

「生まれたばかりの赤ん坊……」

そういえば、奥方様に赤ちゃんが生まれるってお母さんが言ってた。もしかするとそのお世話で忙しくなるかもって。ということは、たぶん、この家の跡継ぎが生まれたってわけだ。赤ちゃん見たことないなあ。私より小っちゃい子、五条家仕えの家の人間にはいないもん。見てみたい、そう思って人だかりを駆け抜ける。偉い人の部屋はこんな端っこにない。もっと真ん中。中庭を突っ切って行けば行けるかも。ひらひら外れていくマフラーをぐるぐる巻きなおして走った。人がまばらになって、どんどん減ってく。それでも出入りの多い部屋がひとつだけあった。冬だから障子が開けっぱなしになることはなさそうで、どうしたもんかと中庭にしゃがんでいたら簡単に見つかってしまった。しかも、お母さんに。鬼のような顔で廊下に立っていて、逃げようがなかった。

「このばか娘!どうして中にいるの!」
「外に誰もいないんだもん。となりの川間さんなんて冬なのに居間の窓開けっぱなしだし」
「そっ、れは不用心ね……」
「でしょ?誰もいないから心配になっちゃって」
「心配はいらないよ。皆無事だからね」
「ほんと?敷地の外も変だったから、まだ不安」
「何かと目を合わせてきたの?」
「ちがうよ。いつもいる奴らが全然いないの」
「え?」
「そこらへんの呪いがみんなどっかにいっちゃった」

不意に障子がそっと動いた。慌てて頭を下げているお母さんと、障子の傍で何かを話している人の奥に手招きをしている人が見えた。

「ご当主様がおいでってしてる」
「えっ」
「上がっていいの?」

たくさん走ったけれど、中庭でしゃがんでいたら身体が冷えちゃった。お母さんが持ち上げてくれて廊下に腰掛ける。靴を脱いで屋敷の中に静かに入った。

「急に来ちゃってごめんなさい」
「屋敷の外は静かだったかい」
「はい。いつもいる奴らがいないの」
「消えていたかどうかはわかるか?」
「うーん。まだ、たくさん痕があったから、消えてないと思います」
「残穢は濃く残ってたわけだな」
「はい。なんか"隠れちゃった"みたいだった」
「成程」

ついて来なさい。と言われて、隣りの部屋の襖に手をかけるご当主様にお母さんが何かを言ったけど、首を振るだけで聞きいれて貰えてなかった。和服を着たご当主様についていくと、小さなお布団が見えた。私が使ってるのよりも小さい。

「今日生まれたんだ。ちょうどお前が帰ってくるだろう時間の少し前にね」

布団の隣りに座るご当主様の横に私も正座をして座る。布団の中には真っ白い小さな赤ん坊がすやすやと眠っていた。ご当主様が抱き上げると、さらにちっちゃく見える。目の前に差し出されたその子は不思議だった。"何かがある"と私でも気付けるくらい。ふと開いた眼がビー玉のように透き通っていてびっくりした。

「きれいな目……」

頬はぷくぷくしていて、てのひらをつつけば小さな手が私の指を握る。

「その内、呪霊共が増えていくだろう。お前も身の振り方を考えなければならないね」

ご当主様はひとり納得したようにそう呟いた。あいつらが増えるのなんてごめんだよ。

「この子は悟」
「悟さま」
「そうだよ。お前にはこの子の世話を手伝ってもらおうかな」

呪いが皆一斉に身を顰めたのも、大人たちがずっと騒いでいるのも"五条悟"が生まれたから。ひょっとしてとんでもない役目を貰っちゃったんじゃないかと固まっていると、悟様が泣き始める。小さな小さな男の子。どうやらあなたはすごい力を持っているようですよ。泣いているほっぺをつついたら、ぱくりと指に吸いつかれる。ちょっ、私の指はおっぱいじゃない!

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