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輪っかの中で追いかけっこ



わたしが小学生の頃。都心に珍しく雪がたくさん降ったことがあった。画面越しでしか見たことのない光景に心奪われたわたしは父と一緒に雪だるまを作った。わたしの身長よりもいくらか小さい雪だるま。その雪だるまをつい出来心で突き飛ばすようにして倒した。すると家の中からその様子を見ていた母が息を切らしながら走って来てわたしにこう言った。

「お願いだから、あなたは濁らないままでいて。」

その言葉は母の口癖で、ことあるごとにわたしを抱き寄せてそう祈った。どんなに小さなことにでも敏感になって、娘の色相をしつこいくらいにクリアに保とうとする。わたしからしてみれば、濁らないように努めること自体が濁らせる原因になりかねなかったのだけど、母はこれっぽちも気付こうとしなかった。濁らないようにって考えてる時点で気疲れしてしまう。数値のわずかなぶれさえも母の不安を煽るには十分で、悪い夢を見て一時的にサイコパスが上がった日なんて家から出させてもらえず学校を休んだ。どうしてこんなに不安がるんだろう。学校のみんなも色相の変化には気をつけているけれど、話を聞く限りではうちの母の反応は異常に見えた。それでも、身近な人が突然急に潜在犯として連行されていったりするこの世の中じゃ、色相がクリアで悪いことなんか何もないのだと思う。だから母は正しいんだ、少しくらい窮屈でも色相の数値が健常値なら何も問題なんて、

「なーにしかめっ面してんの、紗希乃ちゃん。」
「か、滕くん。」
「こっち刑事課だけどー?」
「あ。滕執行官!スイマセン!」
「そーいうイミで言ったんじゃねえよって。」

ぼんやりと昔話を思い出していたら、目の前に明るい髪の毛がふわふわと立ちふさがった。まるで玩具をみつけたかのようにニヤニヤしてる。わたしよりも数か月前に公安局入りした同い年の男の子。主に食堂で、時たま廊下で出会うと話をする。今日はヒールが高めのパンプスを履いているせいで、滕くんとの目線の高さがほぼ同じだった。

「で?管財課の新人ちゃんが刑事課に何の用〜?」
「新人ちゃんって、滕くんだってまだ新人でしょうに!」
「刑事課は実力主義なんでね!」
「そんなこと言って、監視官にいいように使われてるんじゃないの。」
「いいようにも何もオレたち執行官は監視官から使われる身だっつーの。」
「そ、そういうことじゃなくて…。」

いけない。つい、踏み込んでしまうところだった。一介の管財課の人間が刑事の事情へ首を突っ込んだりしてられない。まあ、突っ込むも何も執行官という名がついている時点で彼が公安に飼われているという周知の事実がそこにあるだけなのだけど。

「トレーニング用ドローンの破損が最近立て続いていて、壊れた原因と注意の書類を持って行くようにって言われたの。」
「要するにパシリか!」
「ちがうよれっきとした仕事だよっ。」
「でー、それ誰に届けんの?オレが代わりに持ってったげよーか。」
「ほんとう?!」
「えっ、なにそんなに刑事課イヤ?」
「嫌ってわけじゃないけど…一係の人苦手なんだ。」
「みんないい人ばっかだと思うけど」
「だって見てよこれ。ドローンの破損ほとんど一係の使用後に報告されてるんだからね!」

シビュラに守られているこの世の中で、かつてのような闘い方が必要とされるとは思えない。刑事課の人はシビュラの管理下で稼働しているドミネーターとかいう銃を使って潜在犯を処分している。実際に潜在犯へ直接手をくだすのは己の腕や足ではない。トレーニングに精を出すことは良いことだと思うけど、毎回ドローンが破損するほどの攻撃性を持っている人物がいるということに驚きと、すこし怖さもあった。

「それって大体コウちゃんだぜ。平気だよ、何も怖くねーって!」
「滕くんは毎日会ってるから怖くないかもだけどさ!わたしはそんな怖そうな人やだよ。」
「フーン。じゃあ、いいや。オレが届けるからそれ頂戴。」
「いいの?口頭注意もしろって上から言われてるんだけど…。」
「かわいこちゃんが涙目で訴えてマシターって言っとけば十分だな。どのみち他の言うこときかねーだろうから。」
「それじゃダメなんだよっ、また壊されたら始末書ものだってば。」
「まー、そうなったらなったでギノさんが局長にかけあってくれるとオレは思う!」

束になった書類をばさばさ振って、滕くんは楽しそうに笑った。お金を賭けてもいいと彼は言うけど、そんな色相が濁りそうなことしないよ。わたしがそう言い返す前に「紗希乃ちゃんはやらないだろうけどねー」と軽い言葉を投げかけられた。その言葉に曖昧な返事をしていると、左手首につけた携帯端末が軽く鳴る。届いたショートメールは上司からで、書類を届け次第昼休憩へ向かっていいとのことだった。

「お。ちょーどいいじゃん、オレも飯行くとこだったんだ一緒行こうぜ。」
「いいよ。」

公安局の中でも特に高い階に位置する食堂。昼休憩の時間はそれぞれの課ごとに違うから大混雑することはあまりない。今日もまばらにいる人たちにまぎれて食事をとることになった。

「あ、雪。」
「ウソだろ、いくら12月って言ってもここら一帯は降ったりしないって。」
「ニュース見てないの?今日は雪が降るかもしれないって言ってたのにー。」

刑事課なのに世の中のことに疎くていいの、と問いかければ「オレはそういうの担当じゃねーの。」と吐き捨てるように言われた。ただ興味がないだけなんだろうな。きっとこれが新しいゲームの情報だったのならいち早く情報を手に入れていることだろう。口の中に放り込んだフライドポテトをもぐもぐ咀嚼しながら窓の外を見つめる。灰色の空に同化していて、目を凝らさなければ降っている雪を認識するのは難しい。

「積もるかなあ。」
「すぐ消えそー。凍んなきゃいいけどな。凍った上で出動させられちゃたまったもんじゃねーぜ。」
「きっと犯人も氷に反応できないからこっちのもんじゃない?」
「照準合わせんのに苦労しそうでやんなるね。」
「ふーん。」

銃の類は触ったことが無いから照準も何もわからない。カレーを食べている滕くんは、さっきのわたしのようにぼうっと窓の外を眺めている。珍しい雪に感動している様子もなくて何だか拍子抜けしてしまう。滕くんなら真っ先に喜びそうなんだけどな。

「雪はいつ以来だったっけ。ニュース見てないならわかんないか。確か、わたしが小学生の頃だから…ああ、そうそう。11年くらい前だ。滕くんは覚えてない?たくさん積もったよね。」
「さあねー、11年前ならとっくに施設ん中だし雪なんか見も触りもしたことないね。」
「あ、」
「今の雪もホログラムにしか見えねーし、正直実感わかねえ。」
「………ごめんなさい。」
「つーか紗希乃ちゃんさあ、オレが潜在犯だって時々忘れてるでしょ。」
「忘れてない、って自分では思うけど……。」

忘れてない、というかそもそも滕くんから潜在犯らしい様子をあまり感じたことがない。ちょっとだけ、人をからかうのが好きでお調子者の男の子。わたしのなかでの滕くんはそんな感じだった。どうしてこんな人が犯罪係数が高いっていうんだろう。シビュラは不思議だ。

「滕くんって、とっても自由に見えるの。だから悪い考え方できる人には元から思えない。」
「はあ?どこかだよ。一人で外にも出られないこの現状が自由だって?」
「それはそうなんだけど、何て言うのかな、心の持ちようっていうのかな。」

わたしなんて色相が濁らないように、セラピーに通ったり薬を飲んだり、本当に色々なことに気を配って生活している。それはわたしだけじゃなく、今の世の中で生きている人みんな同じだと思う。街の色んな所に設置されているサイコパスの簡易スキャナーを見つけたら簡易診断を受ける。常に色相が濁っていないか気にしてばかり。健常値であるならそれでいい。確かにそうだ。でもそれって、健常値に抑え続けるのって難しかったりするんだ。誰しも色相が濁ることなんてある。それの度合いが違うだけだ。

「濁らないようにしよう、クリアでいようって気をつけるのって疲れるなあ、って思っちゃって。」
「……まー、オレはもうすでに濁ってるからそんなん気にする必要なんかないもんね。濁らないようにしてても濁るモンは濁るんだよ。オレだって濁りたくて濁ったワケじゃねえ。」

むかし自分で倒したぐちゃぐちゃに崩れた雪だるまが頭の中でぷかぷか浮かんでいる。倒そう。明確にそう思う前に手は伸びていて、気付いたらぐちゃぐちゃ。それは単純に起き上がりこぼしみたいだと思っての好奇心による行動だった。あの時のことをわたしはそう思い込んだ。けれど、もしかしたら、本当はあの時のわたしは……。

「潜在犯になるくらい濁っちまったら正直すこしくらい濁ったところで、あーハイハイ。って感じで流せる。だから余計なことに気を配んなきゃいけねーストレスはないから、それは健常者と比べたら確かに楽だ。お前らみたく小さな変化に恐れながら生きてたら、楽しみも楽しめなくなるだろ。」

カレーの具をスプーンで磨り潰すようにかき混ぜている滕くんは、いつもよりも真剣で、すこしだけうんざりしたような表情をしていた。ああ、わたしはひどいやつだなあ。自分の尺度でしか語れないから、色相が濁らないようにする努力に疲れたことから逃げるあてを自分の近くから探していたんだ。滕くんのような潜在犯にならなっちゃってもいいかな、って思っていたのかもしれない。そんなの上から目線で、最低だ。最近の色相が濁りつつあるのも、そういった考えが心の奥で燻っていたせいなのかもしれない。

「オレはそんな生き方は嫌だ。でも、」
「でも…?」
「オレはきっと、心のどこかじゃお前らをずっと羨ましがってるし、紗希乃ちゃんがそっち側で良かったって心底そう思うよ。」

だから、こっち側にくるんじゃねーぞ。声にならない言葉が滕くんから聞こえた気がした。もしかしたら、滕くんはわたしが濁らないように寸でのところで抑えてくれているのかもしれない。自分のようになるな、と暗に示していたのかもしれない。それでも直接的な自由が奪われていることは十分伝わっていたけれど、心の自由さだけは逆にわたしたちよりも自由なように見えていた。互いにないものねだりなんだろうな。お互いに欲しい自由は違うんだ。滕くんが欲しい自由はきっと手に入らない。手に入れられる自由はすでに手に入れてるはず。わたしが求める自由は、堕ちて行けばすぐに手に入る。けれどきっと、堕ちる前には必ずあの日の母を思い出すだろうし、滕くんが紗希乃ちゃんどうしたー?なんて笑いかけてきて、そっと助け舟を出してくれるんだろう。

「紗希乃ちゃんには真っ白なんて似合わないから、今くらいのでいーんじゃねーの。」
「…ありがとう、滕くん。」
「いーえっ。あ、そのポテトいっこちょうだい。」
「いいよ。」

きっとわたしはこれからも窮屈だと思いながらも毎日色相のチェックをして、週末にはセラピーに通うだろう。綺麗にするのは難しいから、現状維持していくことになるけれど、きっといつか、もうこの数値でいいやって投げ出すような日が来たら潜在犯と仲良く塀のなかに入るかもしれない。たぶん、滕くんは許してくれないだろうけどね。


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