それは午後の事


午前の授業を終え、一度自室に引き上げようとゴドリックは廊下を歩いていた。
しかし時折、仲の良い絵画に呼び止められる。そしてその度に彼は立ち止まった。
そのせいで、午前の授業“呪文学”の教室から、中々離れられない。
しかしゴドリックは、まったく気にしていなかった。
絵画と話すことは趣味のようなものだったし、幸い午後の授業は受け持ちが無い。
いくらのんびりしても、誰にもとがめられることは無いのだ。
それに、ゴドリックは上機嫌だった。午前の授業で生徒全員が、今日の課題をきちんとこなすことができたからだ。
その余韻も手伝って、彼は昼食よりも絵画たちとのおしゃべりと、生徒の自慢話に夢中になった。
彼のこういうところが、他の三人に呆れられる点であり、ロウェナに「子供っぽい」と言われる由縁なのだが、本人は気づいていない。

「ゴドリック?」

階段の踊り場に飾られた“貴婦人の茶会”と話しているときのことだった。
優しげな声音で呼び止められ、ゴドリックは振り返った。下の方から声がした。
下り階段の中ほどに、ふわふわの髪の毛を無理やり二つに結ったヘルガがいる。
最近「髪の毛が邪魔だ」と、よくこの髪型をしているが、あまり似合っていない。
しかしその事実を、誰一人口に出来ないでいる。
ゴドリックら三人はもちろん、他の教授や、生徒ですら言うことははばかられた。
ヘルガ自身が、気に入っているからだ。
そしていい大人であるはずの彼女は、とんでもなく傷つきやすい。
今の髪型を否定されれば、もう二度と髪形を変えないであろうことは、誰にでも予想できることだった。
ゴドリックは一瞬「やっぱりその髪、やめたほうがいいよ」と口に仕掛けたが、慌てて飲み込み、笑顔を浮かべた。

「どうしたんだい、ヘルガ」

ヘルガは階段を上ってきて隣に立つと、少し怒ったように顔をゆがめた。

「それはこっちの台詞よ。しもべ妖精に聞いたんだけど、お昼食べていないんですって? こんなところで何をしているの」

きつい口調のはずなのだが、声質からかイマイチ怒っているように聞こえない。
これがロウェナに言われたら、さぞかし申し訳ない気持ちになっただろう。
ゴドリックは余裕の笑みを深めた。心無しか、“貴婦人の茶会”の婦人方も笑っているようだ。

「おしゃべりだよ」
「そのようね。わたしが聞いてるのは、どうしてそんなことをしているのってこと。午後の授業が始まるわよ」
「午後は無いからね、俺。これからのんびり遅めの昼食を食べて、森で散歩してくるよ」
「あら、いいご身分だこと」

ヘルガの優しいソプラノ声とは正反対とも言える、艶やかなアルト声が間に入った。
驚いてそちら――階段の上、四階の踊り場――に視線を向ける。

「ロウェナ」

声をかけると、彼女は何冊かの本を抱えたまま階段を降りて来た。

「あなた、レポートの採点はどうしたの?」

とん、とヘルガの隣に軽い音を立てて止まった彼女は、怪訝に眉を寄せた。
厳しい空色の目に、思わず一歩足を引く。
ロウェナはそれだけで察したらしく、呆れたとばかりにため息を付いた。

「午後授業が無いのなら、採点をしなさいよ」
「わたしもそう思うよ、ゴドリック」

ヘルガがこくこくと頷く。
するとロウェナがそれはそれは嬉しそうに、顔をほころばせた。
ヘルガに優しく微笑みかける。彼女のこの笑みが、ゴドリックに向けられたことは、ほとんど無い。

「私、そんなヘルガが好きよ」

唐突にそんなことをのたまったロウェナに、ヘルガが目を丸くする。
ゴドリックは、ついていけないと視線を“貴婦人の茶会”に戻した。
婦人方は、放って置かれたことが気に入らないのか、つんとそれぞれそっぽを向いている。思わず苦笑を浮かべた。
しかし次の瞬間、視界の隅で空色の目がこちらを見たので、“三次元”に意識を移す。

「俺の顔に何かついてるかい、ロウェナ嬢?」

ロウェナは目を開いて、それからわずかに頬を染めた。それは照れというよりは、怒りのように見えた。

「あなたは午後、採点をするのよ」

平坦な口調のロウェナは、こちらを睨んで目を離さない。
ゴドリックは天井を見上げ、肩を落とした。

「わかった、わかった。降参だよ、レディー達には」

両手を挙げて、参ったのポーズを取る。
ヘルガが「もう」と笑いを堪えたような声で、咎めた。

「お前達は一体何をしているんだ」

不機嫌な声に、三人とも視線をそちらへ向ける。
ただ黒いだけのローブをまとい、それ同じ漆黒の髪を持つ美貌の人が、階段を上りながらこちらに目を向けていた。
教材らしいガラスの瓶を幾つか抱えている。

「サラザール」

ヘルガが顔をほころばせ、慈しむようにその名を呼んだ。
サラザールは、静かに階段を上っている。
絵画の中の女性達が、その美貌を一目見ようとギリギリまで詰め寄っていた。
近づいて来るサラザールを見ながら、ゴドリックはわずかに口の端を上げた。

「珍しいことがあるものだね。四人が偶然揃うなんて、めったに無い」

ロウェナが「特にサラザールは校内を必要以外うろつかないから」と笑う。
サラザールは階段を上り終えると、呆れたように三人を見渡した。

「それはいいが、午後の授業が始まっているぞ」
「えっ」
「うそー!」

悲鳴を上げたのは、女性陣二人だ。
ロウェナは慌てて階段を降りて行く。去り際に「教えてくれてありがとう」などと叫んだ。
ヘルガは逆に、階段を上り始めた。振り返りながら「またあとでね」だのと、焦った顔で告げて行く。
二人を見送ったゴドリックは、ちらりと“貴婦人の茶会”を見た。
どうやら、機嫌を損ねるのも飽いたらしく、絵画には誰一人残っていない。出かけたようだ。
ふ、とため息を付く。

「今日は女難の日だな。“茶会”のご婦人方には嫌われちゃうし、ロウェナには睨まれるし、ヘルガは髪型がヘンだし」
「ヘルガの髪は同感だが、他は何の話かわからない」

サラザールが無表情で答えた。
それにわずかに笑って、“茶会”が飾られた壁に背を預ける。

「いや、独り言だよ。君は午後の授業は無いのかい?」
「無いからここにいる。夜中に天文学があるから、その準備をしに行こうと思ってな」

サラザールは言いながら、“茶会”を挟んだ隣に同じように背中を付けた。
それを見て、小さく笑い声を上げる。
ぴくりと、サラザールの眉が動き、続いて紅い瞳が貫くようにこちらを見て、低い声が「なんだ」と不機嫌な声を出した。

「ああ、ごめん。準備はいいのかなと思ってね」
「夜までの時間を持て余している所だった」

ぶっきらぼうに答え、ガラスの瓶を持ち直す。
カチャリと、瓶同士がぶつかる音が沈黙に落ちた。

「この“学校”はどうだい?」
「なんだ、いきなり」

問いかけに、問いかけで返してきた友人へ、笑顔を向ける。

「ただ、聞いてみたいだけだよ。俺から言おうか?」
「聞きたいとも思わないが、言いたいなら言え」

遠まわしな物言いにわずかに笑って、ゴドリックはその笑みを貼り付けたまま口を開いた。

「最高だよ」

感情がこれでもかというくらいにこもった、熱の入った言い方だった。
サラザールが一瞬驚いたように目を見張って、それからふいと視線を逸らす。
その瞳を追いかけるように、ゴドリックは壁から背を離した。

「君は?」

サラザールは戸惑ったように、口を半開きにしたままそれ以上動かさなかった。
そして一瞬の沈黙の後、短く息を吐いて眉間にしわを寄せたまま、告げる。

「……困る」
「ごめん、もう少しわかりやすく」

真正直に意味が解らなかったと苦笑すると、彼は今度は長いため息を付いて、視線を下に落とした。

「ここは、居心地が良すぎて困る。正直……どうして良いのか、わからない」

あまりにも真摯にそんなことを言うので、ゴドリックは呆気に取られてしまった。
そして次の瞬間、満面の笑みを浮かべる。

「どうして困ることがあるんだ。良い事じゃないか」

サラザールは、「だから困る」と苦笑した。
そしてそれ以上語るつもりは無いらしく、壁から体を持ち上げる。

「私は、そろそろ屋上へ向かおう。お前はまた森に行くのか?」
「それが、ロウェナにレポートの採点が終わってないことがばれてしまってね」
「……なるほど。ではな、ゴドリック。夕食のときにでも顔を合わすだろう」
「そうだろうね。じゃあ、またあとで」

ひらりと手を振ったが、当然サラザールが振り返すことは無く、彼は黒いローブを翻して階段を上って行った。
その背が次の踊り場につき、折り返したところで、小さく苦笑する。

「困る、か」

どうやら、思っていた以上に彼の感情は複雑らしい。
思考にふけろうと、再び壁に体を預けようとしたところで、腹の底から悲鳴が上がった。
そういえば昼食がまだだったと、今更思い出して、肩の力を抜く。
まずは昼食が先だ。それからレポートの採点をして、時間があったら屋上に行くとしよう。


Fin


- それは午後の事 -
目次(9)