わたしは柱の陰から、廊下を大股で歩く真っ黒な人物の様子を伺った。
こんな日にじめじめした地下牢の廊下を歩く人なんて、ただ一人しかいない。みんな、中庭や窓から明るい光の差し込む廊下で思い思いに浮かれているというのに。
黒いマントを翻して、いつも通り不機嫌そうなオーラを撒き散らしながら歩くスネイプ教授は、今日が何の日かだなんて気にもとめていないようだ。
わたしはいつの間にか手が震えていた。それは緊張なのか、それとも武者震いゆえなのか、自分でもわからない。
今日はバレンタインだ。一年で最も、チョコレートが口にされる日。
みんな自らの恋人や意中の人にどきどきしながらも可愛らしくチョコレートを渡しているだろうに、わたしといえば何なのだ。さっきからまるで東洋の”ニンジャ”のように、彼の様子を伺っている。わたしがスネイプ教授を見る目はまるで、恋する乙女というよりはいっそ、狙いを定めるスナイパーだった。
今日はわたしにとって、ロマンチックな日ではない。ほとんど、戦争なのだ。
しかし、わたしは一旦先生を視界から外すことに決めた。休戦だ。こんな緊張状態が続くなんて思ってもいなかった、いや、それは嘘になるけれど。あの堅物・皮肉屋・じとじと・陰険といったワードを並べ立てられる教師にチョコレートを渡すなど、ほとんどインポッシブルなのだ。
しかも、わたしが胸に抱えるこれは明らかに見た目が――彼向きではない。つまり、どピンクのハート型だ。その上、メッセージカードからはハートの泡がぽこぽこ現れるように仕掛けがしてある。
しかし教授の姿を見るともうダメだ。勇気が出ない。
どうせ、「そのような馬鹿げた産物を生み出す前に、魔法薬学の成績を少しでもあげるよう努力したらどうかね」だとか、「無駄なものをかき混ぜる能力はあるようですな」だとか、そういうとびきりの嫌味を言われるのだ。もしかしたら睨みつけられるだけでさっさと行ってしまうかも。
もう渡すのをやめてしまおうか、けれど、これを作るためにたくさん苦労したのだ。スネイプ教授に恋い焦がれているだなんて友人たちに知られたら笑われてしまう。わたしの恋を誰かに笑われることは耐え難かった。だから、わたしは誰にも知られないように隠れて色々な材料を調達し、こっそりと夜中に作ったのだ。そのせいでいまはちょっぴり隈がひどいけれど。
わたしはほとんど半泣きになりながらチョコレートの箱が少しひしゃげてしまう程度にそれを抱きしめた。
「そこで何をしている、ミョウジ」
わたしはその言葉に思い切り飛び上がった。
顔を上げると、目の前にわたしが先ほどまで後ろをつけてまわっていた張本人である黒衣の――スネイプ教授がいた。彼は思い切りわたしに顔を近づけて、何か悪事を働いていないかを確かめた。けれどそれをされているわたしはというと、ここまで接近したのは初めてだったのでどうしようもなく、動揺していた。
「あ、あの、先生」
わたしの声はほとんど震えてしまって意味をなしていなかった。まさに、今のわたしは蛇に睨まれたカエルなのだった。見つめているときは「今日もステキなローブ!」だなんて妄想に浸っていたけれど、実際顔を合わせるとあのときの浮かれ具合なんてなかったも同然になってしまう。心臓はきっとパーシーのスキャバーズと同じくらい早く鼓動を打っているはずだ。
「その手に持っているものは何だ。もしや、ゾンコの品か?見せてみなさい」
わたしがあんまり見せないように隠すので、スネイプ教授は疑いを強めたのかわたしに手を差し出した。い、今なの?わたしが想像していたのは、スネイプ教授を呼び止めて、静まり返った廊下で、彼に「ずっと好きでした」と伝えながらこのチョコレートを渡す、そんな場面だった。しかし今それに合致しているのは廊下が静まり返っていること、ただそれだけだ。
しかし、先生が差し出す手をそのまま宙ぶらりんにしておくわけにもいかず、わたしは震える手でその上に箱を乗せた。もう、見るからにバレンタインのチョコレートと分かるだろう。もうほっといてほしい、没収などせずわたしに投げ返して欲しかった。
先生もそれが何かわかったのか、ふんと鼻を鳴らした。
「こんなものを持ってなぜ地下牢などにいる。今ここにいる人間など、私のほか――」
そこで、スネイプ教授はあるものが目に留まったらしく、言葉を止めた。
ああ、わたしは本当に馬鹿だ。浮かれ気分の馬鹿だ、わたしほどの馬鹿は他にはいない。
わたしは意中の人物――つまり、スネイプ教授にその箱が渡った瞬間、メッセージカードが開くように呪文をかけていた。そして先生は、馬鹿にするようにもう一度チョコレートの箱に目を向けた瞬間それを見つけたのだ。「親愛なるスネイプ教授へ」と書かれた宛先を。
「これは何だ」
先生がこんなに馬鹿げた質問をしているのを聞いたのは初めてだ。見れば分かるだろうに。わたしは真っ赤になっているだろう耳を隠すように両手を当てながら、「…メッセージカードです」とか細く言った。
わたしがちらりとスネイプ教授の様子を伺うと、意外なことに教授は手の中の箱を見下ろして固まっていた。それきり押し黙ってしまった教授を前にどうすればいいかもわからず、わたしもただ沈黙する。
「…何かの罰ゲームかね」
スネイプ教授はやっと口を開いたと思ったら、そんな言葉を押し殺すような声で言った。
先生はこれを、ただの罰ゲームだと思っているのか。わたしはその言葉に昨日の夜の努力が全て無駄だったように感じられ、不本意なことに涙まで出てきそうだった。視界がぼやけるのを感じながら、わたしはそれが頬に流れ落ちないようにうつむいて唇を引き結ぶ。そうしていないとみっともなく泣いてしまいそうだった。
「すまない、そんなつもりでは」
それは初めて聞く、スネイプ教授の優しい声だった。
わたしが思わず顔を上げると、少しうろたえた様子の彼は手を伸ばしてわたしの目尻を親指で拭う。涙がこぼれ落ちそうだったのはお見通しだったらしい。
「すきです、先生」
わたしはとうとうぽろりと涙をひとつぶこぼしながら、スネイプ教授を見上げてほとんど反射的にそんな言葉を口にしていた。スネイプ教授はその目を驚きに見開いている。そんな顔も初めて見るものだった。
しばらくそんなこう着状態が続いたものの、しかし、わたしは先生の答えを待てるほどの余裕はなかった。先生が口を開こうとした瞬間、わたしは廊下に響くほどの声で言った。
「先生、チョコレートに罪はありません!味見はしたので是非食べてください!」
わたしはそんな言葉を残して、教授のローブをくぐり抜けて走り出した。「ま、待て、」という先生の声が聞こえた気がしたけれど、立ち止まれるはずもない。
先生の、あんな顔が見られただけで十分だ。
そう思っていたわたしに、後日スネイプ教授の署名が入ったメッセージカードが届くことも知らずに。
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