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――深い眠りから覚めると魔法界だった。
わたしはベッドでゆっくりとまぶたを開くと、その丁寧な装飾の施された天井を見つめてそう思った。
目を開くのが少しばかり怖かったから、そこに変わらず同じ風景があることに安堵する。それは、お気に入りの夢を見続けたいと願う幼子のような気持ちだった。
こんな気分なのは久しぶり、と何もしなくても――もっとも、わたしにとってはずいぶんの幸運だけれど――抑えきれない胸はずむ気持ちにくちびるがゆるんだ。
「
起きたか」
そんなわたしに、カーテンの外からぶっきらぼうな声がかかった。どうやらそこに誰かいるらしい。
慌てて「
はい!」と答えると、短く刺すような声色でその人は答えた。
「
校長がお呼びだ。校長室まで連れて行く、早く来い」
よく聞けばその声は先ほどのセブルス・スネイプ――今は、なんて呼べばいいのかわからないけれど――のようで、わたしはこれが現実であると認識し始めたおかげで彼という存在への胸の高鳴りがやっと機能し始めた。
わたしはセブルス・スネイプがいちばん好き、というより、ほとんど恋焦がれているのだ。理想の男性は?という問いかけに、必ずセブルス・スネイプ!と答えてきた。友人は呆れたような顔をしていたけれど。
わたしはどきどきと跳ねる胸を抑えきれずにカーテンの外に出ると、そこには見まごうことなく先ほどの黒衣を着た彼が立っていた。
「
お待たせしました、お手間をおかけします」
こう反射的に言ってしまうのは日本人の特性なのかもしれない。彼はわたしのかしこまった態度が意外だったのか、ふんと鼻を鳴らしてわたしの前を歩いた。
医務室から出ると、歴史のある広々とした廊下が広がっていた。
ここがホグワーツ!ここが、魔法の城!
わたしははしゃぐ気持ちが抑えきれなくなり、くちびるを震わせて叫び出したい気持ちになった。
それをようやく我慢し、わたしの前をすたすたとよどみなく歩く彼を必死に追いかける。なぜだか、この城の中ではわたしは小人になったようだった。城の天井があまりに高いせいだろうか。それとも、彼がものすごく背の高い人なのかもしれない。
「
あの、すみません。スネイプさん」
わたしはそう声をかけた。とりあえずそう呼んでみたけれど、わたしはそれどころじゃなかった。
「
なんだ」
少し歩くスピードを落とした彼は、振り向くことなくそう低いバリトンのような声でそう答える。
「
なぜだか体が小さく感じられて、すごくのろまなんです、今日のわたし。魔法族の方ってもしかしたら背がずいぶん高いのかもしれない。よかったらもう少しだけゆっくり歩いていただけますか」
そうわたしが息を切らしながらいうと、目の前を歩いていた彼がいきなり立ち止まるものだからわしはその背中にぶつかりそうになった。
慌てて立ち止まると、彼は振り返ってわたしを見下ろした。
「
何を言っている。君が年相応の背をしているだけだろう」
妙なことを言い出すなと言わんばかりのその言葉にわたしは首を傾げた。わたしはそこでようやく自分の体を見直した。そうして、手のひらを広げて目の前にかざす。
――小さい。小さすぎる。
「何これ!?」
わたしはもう3度目になるであろう素っ頓狂な声をあげる。今まで目まぐるしくいろいろなことが起こっていたせいで、まったく意識していなかった。
わたしは手のひらを何度も裏表にして見つめ、自分の頬を両手で挟んだ。心なしか、ファンデーションを毎日塗っていたあの時と比べてもちもち、すべすべとしている。
「
……君に何が起こったのかは知らんが、校長に話せ。私は知らん」
彼は胡乱そうな口ぶりでそう言い捨て、また前を向いて歩き出したものの、その歩幅はずいぶん狭められていた。
「
おお、来たかね。ナマエ」
校長室の中まで連れられると、ダンブルドアがわたしを迎えた。もしかしたら校長先生といったほうがいいかもしれない。
わたしは校長室の合言葉だとか、ガーゴイルだとか、そして小説の描写にあったさまざまな道具への興奮があったものの、まず最初にこう言った。
「
わ、わたし、何歳に見えますか」
その言葉には、ダンブルドアも、それから彼の横に控えたスネイプ教授も不思議そうにわたしを見た。
「
何歳もなにも、君にホグワーツの入学通知が行くということは、君が11歳であることを示しているのではないかね」
わたしはもう一度、両手で自らの頬を挟んだ。今度は、ムンクのように驚愕の顔をして。
「
あの、わたし本当は成人…あっちの世界では20歳が成人なんですけど、成人してるんです」
わたしがそう言うと、ダンブルドアは小さく「
なんと」と呟き、顎に手をやった。
「
君はこの世界の人間ではないうえ、年齢まで幼くなってしまったのじゃな」
「
校長!荒唐無稽な話です。あの者の話を信じるのですか?」
間髪入れずスネイプ教授が声を上げた。確かに荒唐無稽すぎる。自分でもまだ信じられないのだから。
「
セブルス、まずは信じることじゃよ」
ダンブルドアはそんなスネイプ教授にそう穏やかに言うと、わたしに椅子を勧めた。
「
さて、ナマエ。君の話を聞かせておくれ」
ダンブルドアはそう言うと、興味深そうにわたしに目を向けて机の上で指を組んだ。
結果的に言うと、わたしが伝えたのは彼らがわたしたちの世界――これがただの過去なのか、それとも世界軸自体が違うのかはわからないため一応そう言っておく――では有名な本の登場人物であること、それからわたしが今までどのように過ごしていたか、だった。
話の展開を話すべきか迷ったものの、ダンブルドアは「
その、ハリー・ポッターが主人公の本とやらは、完結しているのかね?」と聞いたきりだったので、結局話す機会はなかった。
「
私は信じられませんぞ」
スネイプ教授はどこかあっけにとられたような目でわたしを見ていた。その気持ちは正直、わたしにもわかる。
「
わしは、信じられん話ではないと考えておるよ、セブルス。何が起こっても不思議ではないのじゃ」
ダンブルドアはそうきらきらした瞳でわたしを見つめながら言った。
「
ナマエよ、君が何のためにこの世界へやってきたのかは、まだわからぬ。しかし、君が来るべくして来たのだと、わしはなぜだか確信を持っておる」
わたしはその言葉に何だか目が潤んでしまった。
最近は将来の夢に対しても、それから生活に対しても行き詰まり、どことなく毎日に不安を感じていた。
そんな中このような新しい世界に放り込まれ、希望を持ちながらもどこか遠慮がちな自分がいたのだ。ここにいていいのか?と。
しかし、ダンブルドアの言葉はわたしの心を軽くし、一瞬であたたかくしてしまった。わたしは思わず声が震えてしまうのをこらえながら、「
ありがとうございます…」というのが精一杯だった。
「
わしは君に会えて嬉しいよ、ナマエ」
ダンブルドアはにっこりと微笑むと、「
さて、」と前置きして、
「
君はこれからホグワーツの生徒になるのじゃから、寮に住むとよい。組み分けが終わるまでは……今は幸い夏休みじゃ。スリザリンに、空いたベッドがあるのではないかね?セブルス」
と笑みをそのままにスネイプ教授へ目を向けた。当然話を向けられた彼はその内容に眉をひそめ、「
到底納得できませんな」とぶっきらぼうに言った。
「
いいや、そうするのじゃセブルス。ナマエは君を知っているようだし、彼女を見つけて運んだのも君じゃ。それなら、新学期が始まるまで君が彼女を世話するのもなんらおかしいことではない」
スネイプ教授は眉を吊り上げて今にも怒り出しそうな顔をしたけれど、唇を引き結ぶことでそれに耐え、「
あなたがそう言うなら」と一言だけ返した。
「
では、ナマエ。君がこのホグワーツで、得難いものを得られることをわしは願っておる。さあ、セブルス、案内しておあげ」
ダンブルドアはそう言うと、わたしにウインクを一つしてみせ、スネイプ教授を急き立てた。
「
ついてこい」
スネイプ教授は不機嫌さを隠そうともせずそう言うと、ここへきた時と同じようにすたすたと歩き始めた。
今度は、先ほどよりずいぶんゆっくりと。
すごく優しい人なんだなあ、とわたしはそう思いながら、彼の後ろを歩く。何か声をかけたら火に油を注いでしまう気がしたので、口をつぐみながら。
地下牢へと降りていく階段に、わたしたち二人の足音だけが響いた。光の差す廊下に比べると、ここはどこか寒々とした印象を受ける。
スネイプ教授はきっとそれが自分のペースなのか時折だんだん足早になったけれど、すぐに気づいて振り返りわたしが付いてきているかを確認した。
「
そのようにちょこまかと歩くから遅いのだ」
と、バカにするように言われたけれど、何だかそれもイメージ通りで嫌な気がするどころかくちびるがゆるんでしまう。
そんなわたしをまるで宇宙人を見ているかのような目で――あながち間違いでもないのかもしれない――見ると、またスネイプ教授は歩き始めた。
「
わたしは、まだ君がただの生徒であると認めたわけではない」
――妙な真似をしないか、いつも見ているからな。
振り向きもせずにそう言った彼に対し、「
いつも気にかけていただけるなんて恐縮です」とぺこぺこしながら答えると、「
それは嫌味か」と吐き捨てるように言われた。何を言われても、まったく堪えないのだけれど。
そうしてまた無言が続き、わたしたちはいつのまにか地下牢の奥まで来ていた。
「
ここで合言葉を言え。もし忘れたとしても、私は答えぬぞ」
そう言いながら湿った石がむき出しになっている壁にスネイプ教授が合言葉を唱えると、そこは扉となってゆっくりと開いた。
ああ、ここにハリーたちが、ポリジュース薬を飲んで忍び込んだんだ。そう考えるとついついまわりをキョロキョロ見回してしまう。
「
ついてこい」とあきれた様子でスネイプ教授に怒られてしまったけれど。
わたしが与えられたのは、女子寮のいくつかベッドの並んだ部屋だった。きっと、新学期が始まったらこかに何人かの女の子たちが生活を共にするのだろう。
「
何も質問がなければ、私は自室に戻る」
部屋を眺めているわたしの背中に、スネイプ教授はそう声をかけたもののさっさと出て行こうとしてしまう。いかにも時間が惜しいと言うように。
「
あの、スネイプさん…いえ、教授、一つだけ!質問が……」
わたしがその背中にそう言うと、スネイプ教授は渋々振り返った。
「
なんだね」
「
今、この世界は何年なのでしょうか……」
スネイプ教授はその質問に眉を小さく吊り上げ、しかしなんてことないように答えた。
「
1991年だ。――1991年の、7月31日。」
ああ、なんてことだ。わたしはなんて運命的な日に、ここへ来ることになってしまったんだろう。
スネイプ教授が呆然としたわたしを放ってスリザリン寮から出ていくのを見送りながら、その偶然に頬に手を当てる。
今日は、ハリーの誕生日だ。そうして、ハリーがただのハリーから、魔法使いのハリーになる日。
そうしてわたしも今日、また偶然にも、ただのナマエから、魔法学校の生徒になることが決まったのだった。
02 1991年7月31日