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――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
わたしの頭に、そんな脈絡もない言葉が浮かんだ。
「Good afternoon ,miss」
わたしが目覚めると、そこは医務室らしき場所のベッドで、二人の――どこからどう見ても、日本人ではなく、そして外国人としても変わった格好をしている――男の人が二人、わたしを覗き込んでいた。
そのうちのベルトに挟めるほどのひげを持つ、銀色の髪をしたおじいさんがその綺麗なブルーの瞳をキラキラと輝かせてわたしに先ほどの言葉をかけたのだ。
まったく――まったく、この状況は身に覚えがない。わたしは先ほどまで、本当につい先ほどまで、アルバイト先である図書館にいたのだから。
「
驚かせてしまったかね」
そのおじいさんはもう一度、英語でわたしに語りかけた。それはなんとか聞き取れたもののしかし状況がまったく把握できていないため、わたしは何を言おうにも頭が真っ白だ。
一つずつ思い出そう。
わたしは、確実に図書館にいた。海外の小説の翻訳家を目指しているため、勉強をしながらそこでアルバイトをしているのだ。
そうして、司書の青山さんに、海外図書のある辞典を取ってきて、と言われて――。
「ああ〜〜〜〜!!!!」
わたしは思わず周りを気にすることなくそんな素っ頓狂な声を上げた。おじいさんの後ろに控えた男の人は、警戒するように体を固めたけれど。
そうだ、わたしは脚立に乗っても届くかどうか危うい棚の一番上にあった分厚い辞典を取ろうとして、必死に手を伸ばしていた。
そうして、それになんとか手が届き、引っ張り出そうとした瞬間、脚立がぐらりと揺れ、あっけなく後ろの棚を一度クッションにしたもののバランスを崩し本を何冊かばら撒きながら落ちてしまったのだ。
そうして、わたしの頭に思い切り辞典の角が降ってきて――。
そこからの記憶がまったくないので、それで気を失ったのかもしれない。
しかし、それがどうしてこうなるのだ。
わたしはしこたま打ち付けたのであろう頭に手をやりながら、もう一度おじいさんの顔を見上げた。彼はそんなわたしの様子を、ただ見守っていた。そうして、その後ろに立つ全身を黒で固めた、おじいさんよりはずいぶん若いであろう男の人はほとんど睨みつけるようにしてこちらに木の棒を向けている。
木の棒?どこかで見覚えがあるような、まるであの小説の――と思いつつ、そうしていても埒があかないのでわたしはたどたどしい英語でおじいさんに尋ねた。英語を読むのは毎晩勉強しているのでまだ得意だけれど、話すのは流暢ではないと自覚している。
「
まったく状況がわからないのですが、ここは図書館の医務室ですか?」
するとおじいさんは図書館!とくすくす笑い、
「
ここはきみの知る図書館かね?」
と尋ねた。わたしはその言葉に首を振る。そんなわけがない。
わたしが雇われている図書館は、本当にこじんまりとした小さな規模のものだった。もしかしたらこの部屋はあそこの半分くらいの大きさはあるかもしれない。
「
要領を得ませんな。校長、こやつにVeritaserumを飲ませてみては?」
後ろの黒衣の男の人が、焦れたようにそう言った。Veritaserum?
「
いいや、セブルス。そんな乱暴なことをしてはいかんよ。そもそも、生徒に――たとえ、まだ入学前だとしても――それを使うのは禁じられておる」
「セブルス!?」
わたしの耳に飛び込んできたその名前に、わたしはそれ以降の言葉を全て聞き漏らしてしまった。そしてわたしはもう一度、素っ頓狂な声を上げた。今度は口をあんぐりと開けて。
「
おや、セブルス。彼女はきみを知っているようだ」
おじいさんはとうとう楽しげな様子を隠しきれずに黒衣の男の人――セブルスと呼ばれた彼に声をかけた。
彼は心底不愉快そうに鼻を鳴らすと、わたしをぎろりと効果音がつきそうなほどの迫力で睨め付けた。
「
私は存じませんな、このような小娘は。しかし、ますます怪しいですぞ。Death Eatersが生徒に化けているのやもしれません」
Death Eatersという単語に、先ほどのVeritaserumという言葉と合わせて耳を疑った。どちらも、『ハリー・ポッター』に出てくる言葉じゃないか。
目の前にいるこの人が、セブルス・スネイプだというの?わたしは到底信じられなかった。じゃあ隣にいるのは、もしかしてダンブルドア?『ハリー・ポッター』シリーズは、わたしが翻訳家を目指すきっかけになった、とても大事な本だ。
その中の登場人物が、目の前にいる?
正直それはありえないことだ。だって、本の中の世界なのだから。
「夢に決まってる」
わたしはぼそりと呟いた。もう一度目を閉じて眠ったら、きっと目を吊り上げた青山さんがわたしに片付けを命じるだろう。
「ああ、どうせ覚めるならずっとここにいたい。夢の中でもわざわざ英語で話すなんて、昨日の徹夜がよっぽど効いたのかしら」
わたしの日本語のつぶやきに対して何を言っているのか理解できずに眉を寄せるセブルス・スネイプと、断定できないものの、これが夢ならこの人は確実にダンブルドアであろうおじいさんの顔を交互に見てわたしは言った。
「
ここはきみの夢かね?お嬢さん」
不意に、ダンブルドアらしきおじいさんが言った。わたしの言葉を理解したの?と思ったけれど、言語に精通しているということだし、そもそもこれは夢だ。何があってもおかしくない。
「
そうに決まってるでしょう。だってあなたは――」
――本の中の登場人物なのだから。
わたしがそう言うと、二人は顔を見合わせた。
「
きみは――」
おじいさんがそう言いかけたとき、突然わたしは眠気に襲われ、まぶたが開けられなくなっていった。もしかしたらこれが夢の終わりなのかもしれない、生まれて初めて、そんなことを意識したけれど――。そうして、わたしはぐらぐらと視界が揺れるのを見ながら、彼の言葉を最後まで聞かないまま、目を閉じた。
「
――目を覚ましたかね」
薄いカーテンの隙間から光が差し込んでくるのが眩しくて目を開けると、先ほどとまるで変わらない風景がそこにあった。
「わたし、まだ目覚めてないの?」
思わずそんな言葉をこぼしながら、体を起こす。長く寝ていたからか――夢に、そんな現実感があるなんて――体がひどくだるい。
先ほどわたしに声をかけたのは、わたしが眠るベッドの横に椅子を置いて座る、先ほどと全く同じのおじいさんだった。セブルス・スネイプは姿を消していた。
「
あなたはダンブルドア?」
夢の中なのだし、とそう問いかけると、彼は「
いかにも」と穏やかに答えた。
「
わたし、夢を見てるみたい。すごく長い夢ね。でも、夢の中でもあなたに会えてすごく嬉しいです。あなたたちのファンだから」
わたしがそう言うと、彼は小さくほっほと笑い、それは嬉しいことじゃと答えた。
「
きみは私たちが本の登場人物だと言ったね」
「
ええ、だってそうでしょう。あなたたちは『ハリー・ポッター』のキャラクターなのだから」
わたしがそう言うと、彼は「
ハリー・ポッター……」とその名前を神妙につぶやき、しばらく顎に手をやって考え始めていた。
「
夢なのにすごくリアルだわ。本当に現実みたい」
わたしは布団の柔らかな生地を撫で、周りに置いてある薬が入っているらしい瓶を見回した。
「
きみの名前を教えてもらえるかの」
そんなわたしにダンブルドアはそう言った。わたしの夢なのにわたしのことを知らないのね、とくすりと笑いながら、英語の授業で一番最初に習った言葉を口にする。
「
わたしの名前はミョウジナマエです。ナマエがファーストネーム」
そう答えると、ダンブルドアはわたしに一枚の紙を見せた。それは英語で書かれていたため一目見て理解する、ということはできなかったけれどきちんと目を通すと、「入学通知書」と書いてある。そうして、わたしの名前も。
「
これはつまり……ホグワーツへの入学許可証?」
彼は先ほどと同じくいかにも、と答えて、わたし手の中にある紙を指した。
「
きみはこの紙を握りしめて、天文台に倒れておったのじゃ。そしてそれを、セブルスが見つけた」
まったく見に覚えのないことだ。
そろそろ、この夢があまりに現実的すぎることをわたしは認めざるを得なかった。わたしはそこで初めて、ここが夢ではないのではないかと疑い始めた。起こっていることはどう考えても夢でなくては説明がつかないのに、夢というにはあまりにリアルすぎる。
もう、何もかも夢とは思えない。
「
………もしかして、ここは夢じゃないんですか?」
わたしは恐る恐る尋ねた。彼なら答えを知っている気がした。
「
きみにとっては知らぬが、我々にとってはここが現実なのじゃよ、ナマエ」
わたしはその言葉にベタだけれど頬をつねった。痛い、当たり前に痛い。けれど、目一杯つねる。やはり痛い。
わたしのそんな様子をダンブルドアはくすくす笑いながら見ていた。
「
ここがきみの夢でも、そうでなくても、きみの入学通知書がある限りきみはこのホグワーツの生徒として生活する権利がある。どうするかね」
彼はどこか試すような目でわたしを見ていた。わたしはそんな彼の目を見つめながら、それ以外ないだろうという答えを返す。
「
……わたし、ホグワーツに通いたいです。子どもの頃夢みてたことが叶うなんて、本当にこれが夢でも現実でも、どちらでも構わないほど素敵」
彼はそんなわたしをきらきらとした目で見つめ、頷いた。
「
その答えが聞ければ、わしは満足じゃ。もう一度眠りなさい。顔色がいいようには見えぬからの」
確かに、わたしは体がひどくだるかった。これはねすぎたせいではなく、何かしらの理由で体調が優れないのかもしれない。
ダンブルドアはわたしに甘いお菓子を一つ渡すと、医務室のベッドを区切るカーテンから去っていった。
その甘いお菓子を一口食べると口の中にどこか懐かしいような、しかし初めて食べる味が広がった。
すごい、これはハリー・ポッターの世界のお菓子なんだ。
わたしはそこで初めて本当の実感が湧き、お菓子を一口ずつ大切に食べると、ダンブルドアの言う通りベッドに体を沈めた。
眠りは思ったより早く、そして深かった。
01暫し邂逅を待たれよ