【巳の刻】
「藤袴様。」
名を呼ばれ、ムーヴの髪を持つ男は緩慢に振り向いた。純白の衣装に身を固めた人影をその腕に抱きながら、酷く面倒臭そうに答える。
「何、じいや。」
いつも通りの燕尾服をまとった老執事は部屋の片隅に立ち、男――藤袴を敬うように頭を下げた。
「若紫様のお迎えが参っておりますが、どうなさいますか?」
「追いかえして。」
「しかし…、」
藤袴が片腕を上げる。苛立ったように眉間に皺を寄せ、ムーヴの髪をぐしゃりと掻きまわしながら男は言った。もとより整った顔立ちが、そうすることで殊更に荘厳さを増す。
「今日は若紫と一緒にいたいんだ。邪魔しないでよ。」
「畏まりました。」
音なく老人が出て行き、ゆっくりと若紫が睫毛を上げる。彼の前髪を優しく撫であげながら、藤袴は咎めるように小さく笑った。
「おはよう、若紫。狸寝入りだったの?」
「…違う。今、目が覚めただけじゃ…。」
「そう。疲れはとれた?」
ふるふると小さく首が横に振られ、若紫が頼りなげに腕を藤袴の背にまわす。幼子をあやすように若紫の肩を叩きながら、藤袴はゆっくりと語りだした。
「桐壷にはもう会ったかい?」
「会ってない。会うつもりも、ない。」
「ああ、それは賢明だね、良い子だよ。僕の紫。」
頬を撫でる指に目を細めていた若紫が、撫でられた頭に反応し唸り声を立てる。言葉を使わない拒絶の仕方に、藤袴は益々笑った。
「ごめんね。でも、少し意外だ。君は、桐壷が好きだったじゃないか。」
「痛いのは嫌い。」
「成程。そうだね。それもそうだ。」
「…今のじじ様は嫌い。桐壷がすこしでもぐずると、すぐ怒る。」
拗ねたように鼻を鳴らしながらぼやいた若紫に藤袴は可笑しそうに目を細める。幼少の頃より大好きであった当主を疎むほどに今の状況が若紫にとっては煩わしいらしい、というその事実が藤袴にとってはなんとも珍妙であった。可笑しがる男の様子に気づいたのか頬を赤く染め眉を逆立てた若紫が藤袴の膝から降り、手元に置いてあった恵比寿の面をかぶりそっぽを向く。
「今の藤も好きではない!気味の悪い笑い方をしおって、不愉快じゃ!」
「ごめん、ごめん、紫。謝るからその面はおやめ。お前の可愛い顔が見えないじゃないか。」
「わしは男じゃ!可愛いと言われてもこれっぽっちも嬉しゅうない!」
色留袖が皺になるのも構わず、腰を下ろしたまま畳を這う若紫は抱き上げるようにして脇に差し込まれた藤袴の手を高い音を立て叩く。笑ったままの恵比寿面がしかと男をねめつけた。
「若紫…、その面じゃ君に口づけられないよ。」
「口づけはべとべとになるから嫌いじゃ。」
「べとべとかぁ。」
「うむ。べとべとじゃ。」
優しい目をして藤袴が笑う。二十歳を過ぎるまで四十川本邸の奥の間で日の光にも晒さぬようにと育てられていた若紫の恋愛観はその年齢にそぐわず幼い。皆に愛されすぎて育ったゆえ、筆卸さえもさせてもらえぬままにここまで育ったのである。
藤袴は猫の機嫌を取るように若紫のたおやかな手の甲に口づけながら嘲笑う。
四十川で最も優れぬであろう容姿の若紫がこれほどまでに蝶よ花よと愛でられているのは、何も本家直系の血筋であるから故ではない。それならば彼と同じ血が流れる藤袴も同じ扱いを受けるはずだ。もちろん藤袴とてぞんざいに扱われていたというわけではない。何もせずに寝ていても一年が過ぎるほどの生活をしてきた。若紫が特別であるのは、当主にただ一人、寵愛を受けていたからである。目が見えるようになるよりも早くに当主に抱かれ、当主直々に育てられた若紫はその至る所に祖父の面影を残す。不釣り合いで滑稽にも思える話し方は、紛れもなく当主から移ったものであった。
当主が何かを決断する時、本家の近しいものは皆若紫の動向を見る。今回の事も、当主が何らかの動きを見せるであろうことはすぐに分かった。それまで片時も離さず傍に置いていた若紫を、一年前のある日唐突に手放したからである。まあ―――それがあのような事だろうとは、誰しもが思わなかったが。
ああ、当主も惜しいものを手放した事よ。
顔立ちこそ凡庸であるものの、若紫はこれほどに愛らしいというのに。
ようやく機嫌を直し、恵比寿面をしたまま若紫が藤袴の膝の上へと腰を下ろす。ゆっくりと面を外してやりながら藤袴は憐れむように声を出した。
「お前のじじ様は、もしかしたら桐壷が大好きになってしまったのかもしれないねぇ。」
「ん?」
床に落ちていた毬で遊んでいた若紫が首を傾げる。露わになった顔の、円らな瞳が藤袴をくっきりと映した。
「紫よりも、桐壷の方が好きになってしまったのかも、しれないね?」
きょとんとした顔の若紫が、何を馬鹿な事をとでも言うようにその桃色の紅のひかれた唇を動かす。
「藤はじじ様から聞いておらぬのか?」
「――――聞く?」
「わしは約束したのじゃぞ。じじ様はのう、桐壷をどうとも思っておらぬのじゃ。」
藤袴が瞳孔を微かに開きながら強く訪ねた。
「どうして、そう思うの?桐壷を、なんとも思ってないなんて。」
「どうしてと言われても…桐壷は、かか様にちっとも似ておらぬからではないか?」
言葉を失う。独り善がりな沈黙がその場に溢れた。
藤袴の眼球が忙しなく動き、指は慌ただしく唇を叩く。
若紫はそんな様子の藤袴を心底不思議そうに見つめていた。
暫くの間そうしていた藤袴は、長針が三から四にうつる丁度その時、静かに口を開いた。
「―――約束とは、なんだい?」
酷く愛らしく、頬を桜色に染めて若紫が答える。
「祝を喰ってくださるのじゃ。」
【丑の刻】
夜も深まり、屋敷が静まり返る頃。竹林を走る雨の音が響く一室で祝彩芽は苛立たしげに花瓶を床へと叩きつけた。激しい音と主の信じられぬ行動に彩芽の秘書である黒住は言葉を失う。
腹心の部下の動揺にも気づくことなく、彩芽は収まらぬ苛立ちに飾られていた花瓶を端から割っていく。
「何故だ!何故見つからない!?なんとしてもあの男より早く手を打たなければならないというのに…!」
連なる水の零れ、ガラスの割れる音。破片を踏みつけた足が血で汚れるのも厭わず彩芽は只管に部屋を荒らす。
「内通していた奴らも全て無駄、わざわざ桐壷に会い尋ねてみても首を傾げられる、ようやく得られた浮橋の居場所を全て浚ってもどこにもいない!」
一際大きな音を立て、百合の花が彼の足もとに散らばる。その白い花弁を無慈悲に踏みつけながら、彩芽は黒住に向かって怒鳴り散らした。
「貴様も貴様だ!ただの人間一人、どうしてすぐに見つけられない!この日のためにあの妾腹を弄していたのではなかったのか!」
「も、申し訳ありません。私としても、あの者がまさかあれほどに無知であるとは思わず…。」
「その身に流れる血が違うからと本家の物の名を誰ひとり教えぬなど、さすが四十川!人の皮を被った鬼共め…!あれほど血に固執するのは奴らが生き血を啜って生きているからに違いな、い…」
罵倒を中途半端に止め、彩芽がその端正な顔を茫然と呆けさせる。
一瞬でその身から感情という感情がごっそりと抜け落ちた。
しばし言葉もなく立ち尽くした彼は、夢から覚めたような面持ちで、その場に立ち尽くした。
「そうだ…。そもそもそこが間違っていた。嫁の家柄まで拘る程の奴らが、妾腹を当主にするはずがない…。したとして、その裏に何もないわけがない…。」
弾かれたように動き出した彩芽は衣装箪笥の一番下を漁り、様々な書類の中から彩芽は一枚の紙を取り出す。すでに紙の劣化が始まり、インクが所々掠れ読みにくくなっているその十枚ほどの紙を彼は床に敷き詰めた。
「彩芽様…、それは、一体…?」
「四十川に伝わる遊び唄の歌詞だ。奴らはこの歌に沿って、その代に生まれた男児に渾名をつけるらしい。」
「成程…。それで、あの方は“桐壷”なのですか…。」
一枚一枚なぞるように文字を辿り、八枚目の紙にようやく探していた名が見つかったのか彩芽が動きを止める。段々とその表情が変わり、屋敷に月明かりが一筋流れ込んできた瞬間、黒住は小さく息を呑んだ。
ぎりぎりと歯軋りさえしそうな勢いで唇をかみしめた彩芽はその身体から燃え立つような怒りを漂わせていた。もとより厳かでさえあったその容貌にさらに磨きがかかり、彼を尚艶やかに染め上げる。
その美しさに恍惚とした表情を浮かべた黒住は、穏やかに彼に尋ねた。
「彩芽様、なにか、お分かりになったのですか…?」
【酉の刻】
クリーム色の柔らかな髪をふんわりとさせた四十川姫路は、万人に愛されるほどの可愛らしさで微笑んだ。
ああ、やっと。
やっとあの人と会えた。
美しい黒髪の匂い立つような美しい人。
いつだって優しく微笑みかけて、気にかけてくれた愛しい人。
十歳の頃に引き取られたこの四十川家で、姫路は信じられぬほどの恥辱と孤独に晒された。一歩でも自室の外に出れば屋敷に使える女共が自分を見下すような視線を浮かべながら口々に自分を罵る。
妾腹の穢れた血。
若奥様のご不幸を喜ぶ卑しい下民。
若旦那様を誑かす汚らしい売女と子。
耳を塞ぐようにして駆けこんだ自室さえも、当主の息子の正室に与えられるものとしては信じられぬほどに狭くみすぼらしいものであった。いつだって自分を大切にしてくれた大好きな母。ちょっとしか見た事がないけれど素晴らしくかっこいい父。愛されていたという姫路の幼い記憶は、音を立てて崩された。
見も知らぬ『若奥様』とやらの所為で、姫路は言われの無い侮蔑をこの身に受けてきた。狭い部屋で冷たい視線から逃れる生活は、息苦しくて、寂しくて、惨めで、ああ、でも!
そんな生活さえも、あの日彼と会ったことで全ては変えられたのだ。
あの日、まるで塔の上のお姫様を救いに来てくれる王子様のように自分を救いだしてくれた愛しい人のおかげで!
彼にあってから姫路は血の滲むような努力をしてきた。勉強も、運動も、なんだってした。そうしてようやくその努力が認められたのだ。当主から告げられた言葉が魔法のように姫路に囁きかける。
僕が、四十川の次期当主になる。
ああ、きっとあの人は喜んでくれる。これであの人に釣り合える。これでやっと、あの人をなんの戸惑いもなく愛する事が出来る―――!
喜びを醒まさせるように、ふと姫路は思い出した。
そういえば、久しぶりに会えたというのに、あの人は自分に知りもしない人の名前を訪ねてきた。どうやら探しているようだったけれど、いったい誰なのだろうか。
自分の知っている人間ではないけれど、四十川姓と言う事は――――幼いころの思い出が呼び起こされる。嘲笑する声と視線から逃れるために走っている内、迷い込んでしまった屋敷の奥。
ずっとずっと会いたいと思っていた大好きな父に抱かれる知らない子供。
恵比寿の面をつけた、和服姿のおかしな子。
その子に、自分には見せた事がない、愛しさに溢れる視線を注ぐ父の姿。
名前も知らない、嫌な子。
ああ、まさか!
姫路は腸が煮えくりかえるような思いをしながら今日来たばかりの卸したての制服の裾を掴んだ。
ああ、そうだ。きっとそうだ。あの子だ。あの子が『浮橋』なのだ。
ああ、なんて憎らしい―――!
早く当主の座を譲りうけなければ。あの人が何故あの忌々しい子供を探しているのかは知らないが、きっと見つかる前に、そしてあの子供をこの屋敷から追い出してしまおう。そうでなければ、追い出されるのはきっと―――、
カラン、と屋敷の奥で何かの外れる音がした。