「…お坊ちゃま。身支度はそろそろお止めになさいませんと、お約束の時間に遅れてしまいますよ。」
「じいや。」
幾人ものメイドに囲まれ甲斐甲斐しく世話をされていた男がかけられた声に振り向く。老人は恭しく目線を下げたままで彼に苦言を呈した。
「先程、若旦那様から到着はまだかとご連絡がございましたので。」
男はちらりと壁に掛けられた時計を見、憂鬱そうに溜息をついた。
「まだ約束の三十分前だよ。」
「ええ。今から出ませんと御予約のレストランに間に合いません。」
老人と男の目線がかちりと嵌り、しばし見つめあった後、男が大げさに肩を揺らした。渋々といった体で立ち上がり、その割には颯爽とした足取りで老執事と肩を並べる。メイド達は主人が立ち上がるのと同時に立ちあがり、深く腰を折り曲げた。
男は足にまとわりつくティアードを鬱陶しそうに見やり、深くため息をついた。裾から除く足は丁寧に手入れをされ陶器のような輝きを持ち美しい曲線を描いていた。
「あの人も、俺にこんな恰好させて何が楽しいんだか。」
老人が控えめに喉を鳴らす。優しげな眼差しで男を見て、宥めるように薄いジュレの上から肩上の糸屑を払った。
「若奥様にとてもよく似ておいでですからねぇ…。」
「俺が何時間かけてこの化粧したと思ってるの!ここまでくればもう俺じゃないよ。この顔は別人さ!」
「お声も話し方も、貴方にとても似ておいででしたよ。」
「じいや!」
叫ぶような声が部屋に響く。メイド達は頭を下げたまま微動だにしない。老人は優しく微笑んだままだ。男だけが声音荒く眉を逆立てている。
「俺はね、そんな話が聞きたいわけじゃないよ。わかってるだろ。言わせないでくれ。」
「ふむ…。それは出来ぬ相談ですな。今日は必ず貴方をお連れするよう申しつけられておりますから。」
「……見逃してよ。」
「私の雇い主は若旦那様ですから。」
男を半ば無理やり車の後部座席に押し込めつつ老執事が笑った。浮かない顔でその笑顔を受け止めた男は情けなく口をへの字に曲げて重苦しい息を吐く。
「………ブラジャーのワイヤーが痛いんだ。」
「いい加減に慣れてくださいませ。」
「…可笑しいって思わないの。なんで男がこんな痛みに慣れなくちゃいけないのさ。」
「休日によくご自分でその恰好をなさって遊び回っているではありませんか。さあさ。じいやとお話しするのはもう時間が許しません。どうぞいっていらっしゃいませ。」
「ちょ、ま、待ってよ!」
言葉を遮るように閉められたドアに、運転手は心得たようにエンジンを駆ける。閑静な住宅街の道路を我が物顔で一台の車が走った。
まだ働き盛り、三十半ばの運転手は馴染みの乗客の顔に気軽に声をかける。
「坊ちゃん。今日はまた随分と別嬪さんですねぇ。」
「…ありがと。」
「若旦那様とお食事ですか?」
「そーだよ。美味しいフレンチレンストランを見つけたから食べに来いってさ。」
心底面倒臭そうにぼやく男に運転手は快活に笑い声をあげた。
「仲がいいんですねぇ。そうだ、学校の方はどうですか、坊ちゃん。」
「学校?」
男が繰り返し、考え込むような沈黙の後、幾らか機嫌を直したかのような声で返事が返る。
「まあ、悪くはないよ。」
「お友達は出来ましたかい?」
「うん。イケメンなのが二人ね。俺、毎日比べられて嫌になっちゃう。」
男はわざとらしく肩をすくめ、グロスが塗られた肉厚な唇を前に突き出す。あまりに模範的な拗ね方に、運転手は小刻みに肩を揺らした。
「そういえば、坊ちゃんの学校に、桐壷さんも通われる事になったそうで。」
一対の黒が過ぎゆく街灯に揺らめいた。
男は鼻から抜けるような声で適当に頷く。
「そうだね。まあ、妥当なとこなんじゃないの。」
「妥当、と言いますと?」
「予想はついたって事。」
赤色に光る信号に足止めされた運転手は、不思議そうに首を傾げた。
「それは、また、なんで。四十川家の後継者様は学校になんぞ通う必要はないじゃありませんか。」
「まあ、普通はそうだけど。」
バックミラーに映った自身を見た男が、軽く眉を寄せ前髪を整える。控えめな桃色の爪が闇に光った。
「うちの学校には祝の次代がいるからね。大方桐壷が当主に泣きついたんだろ。」
運転手が息を呑む。
「ま、さか…、まさか、坊ちゃんは。」
浮橋が左右対称に口の端を上げる。完璧に作られた笑みに、運転手が一瞬目を奪われる。
「まさか坊ちゃんは、当主様が老碌されたと、お考えで…?」
弾けるような笑い声。
視界いっぱいに広がった光にハンドルが思いきり切られブレーキが踏み潰される。衝撃の一瞬のち訪れた静寂に運転手は気を失いそうなほどの恐怖に襲われる。
未だ響く笑い声の持ち主は、目じりに涙さえ浮かべたままで運転手に語りかけた。
「何言ってるのさ!あの爺がボケちまったのなんて、もう何十年も前の事じゃないか!」


「くっどっお!」
「…な、なあにー?門倉ぁ。」
「お、俺!俺!工藤のこと、好き!」
「ま、マジでぇ?ありがとー…?」
ガタンガタンと机を揺らしながら迫ってきた門倉に目を丸くして驚きながら、工藤はいきなりの愛の告白に曖昧な笑顔を見せる。門倉はそんな反応に構うことなく頬を薄く赤らめ全身で工藤への愛を示す。
「くどう!くどう!好き!大好き!」
「う、うーん…?な、なあに?いきなりぃ…。」
腰に腕をまわされ腹にぐりぐりと頭を押し付けられ、工藤は状況を呑みこめていない顔で首を傾げた。門倉は無言で工藤の腹に顔を埋めていたが教室の扉が聊か乱暴に開けられる音を聞くと過敏に反応を示した。射抜くような視線に唐突に晒された、珍しく時間通りに登校した川西が首を傾げる。彼は堂々とした姿勢で一方的な矢印でじゃれあう二人に近づいた。
「…何をしているんだ?」
工藤はその問いに困ったように笑う。
「う、うーん…?俺にも何が何だかわかんないんだよね。」
「工藤!工藤!俺みて!俺の事見て!」
「う、うーん?見てる、見てるぅ。」
「…何をしているんだ?」
門倉が顔の向きを変え川西を見上げる。どこか眠たげな風貌の門倉と、見るからに不良めいた外見の川西がにらみ合う様は異様だったが、クラスメイトは別段取り沙汰することもなく談笑を続ける。巷では最強の不良と恐れられる川西だったが、気に留めることなく笑いかける工藤の所為かクラスではある程度の交流を保っていた。
門倉はしばらく川西を値踏みするかのように見つめると鼻で笑う。戸惑う川西を構うことなく片腕で工藤から離すように彼の胸板を突っぱねた。
「な、なんだ?」
「川西はー、…えーと…俺と工藤のー…らぶらぶをー…なくそうとしてるんでしょおー…?」
「いや…そんな事をした覚えはないが…。」
そもそもお前達はらぶらぶだったのか?
川西が首を傾げる。門倉が首を傾げる。工藤は何かを考えるかのように顎に手を当てた後、結局何も言わずにへらりと相好を崩した。
「とりあえずさぁ、俺今日めっちゃ肉まんな気分なんだけど二人も食う?」
コンビニの白い袋を掲げて笑う工藤に、彼らは顔を見合わせた後お揃いの表情で頷いた。
「えーと、門倉はピザまんで、川西はあんまんね。んで、俺が豚まん!」
「これはどういうチョイスなんだ?」
川西があんまんを受け取りつつ工藤に問う。工藤は事もなげな表情で二人から代金を徴収しつつ答える。
「だってさー、門倉はこの前ピザまん好きって言ってたし、川西は甘いもの好きだろぉ?んでぇ、俺は肉!やっぱ男子高校生は肉食わんとね!肉!」
川西はその言葉に少し息を詰める。自分が甘味好きだという事を工藤に言った覚えはなかったが、当り前のようにそれに気づき配慮してくれている事に少しだけくすぐったい気持ちになりつつ門倉を見る。彼も同じような顔をしていた事に気付き、どこか可笑しさを感じた川西は財布からファストフード店のクーポンを取り出し工藤に渡した。
「え、なに?」
「なんとなく。お前にやるよ。」
「ふうん?さんきゅー。」その光景を見ていた門倉は、慌てたように鞄を漁り、少しぐしゃぐしゃになってしまっていたポイントカードを工藤に押し付ける。
「お、おお。な、なんだ、なんだ?」
「あげる!俺、超頑張ってスタンプ押してもらった!工藤にあげる!」
「んんー?まあ、ありがとお。」
十個中四個しかスタンプが押されていないポイントカードと期限切れのクーポン券を財布にしまいつつ工藤はどこか幸せそうに微笑む。門倉はそれに満足げに笑い、川西の胸板に頭をぐりぐりと押し付けた。川西はそれを受け止めつつ、柔らかく笑う。
「つか、さっさとソレ食えよぉ。冷めるだろぉ。後、ミヤザッキー来たら煩そうだし…って、あ。」
ガラっと開けられた教卓側の扉。入ってきた神経質そうな男と工藤の目が合う。工藤は何かをごまかすように笑い、男はわなわなと震える。
「く、工藤!この馬鹿!馬鹿め!校舎内での飲食は禁止っつってんだろ、この馬鹿!馬鹿!」
「あはは。ごめんってば、ザッキー。」
「そのふざけた呼び方を止めろ!敬え!教師を!担任を敬え!」
「敬ってるよー、ザッキー様様ぁ!」
「あああああ!うざいいいい!」
「あはは。ひどいなあ。」
「朝から…!朝から工藤と会ってしまうなんて…!俺はなんて不幸なんだ…!」
頭を抱えぼたぼたと涙を零しながら宮崎教諭は律義に出席を取る。教卓の右斜め前に座った、学園中から王子と称されている青年が、そんな担任を困ったような愛しそうな顔で見つめた。
「大丈夫ですか?雛佳先生。」
「…っ!ひ、ひひひ、日村…っ!な、名前で呼ばないでくれ!お、俺は自分の名前が大嫌いなんだあああ!」
「ああ、そんなに泣かないでください。目が赤くなっちゃいますよ。」
「ひいっ!なんて良い奴…!理不尽に怒って教師ぶった俺を怒りもしない…!嫌な顔さえしない…!なんていい奴、日村…!ああああ、俺は…俺が恥ずかしいぃいっ…!」
「あはは、先生可愛いなぁ。」
「俺は、俺は、俺は教師失格…人間失格…!あああ、こんなだから俺は転校生の校舎案内さえ理事長からまかせられないんだ…っ、あの時間暇な教師かっこ俺かっこ閉じがいるというのにわざわざ生徒会の二番目に偉い奴にまかされたりするんだ…っ」
淡々と豚まんを咀嚼していた工藤の動きが止まる。真っ黒な球体が教卓に縋りついて咽び泣く教師とそれを慰める秀麗な生徒を映した。
「大丈夫です先生。先生には俺がいるじゃないですか。」
「ひ、ひむら…!あああ、ほとけ…!ほとけかお前は…!」
「先生は大げさだなあ。」
「ほとけ…!」
くどう?舌足らずな低い声に名前を呼ばれる。工藤は柔らかな笑みを門倉に向けた。ゆっくりと顎を動かしながら唄う鼻唄に、川西が暫し動きを止めた。
喉仏が上下にスライドして動き、口の中が空になる。
工藤は表情をまっさらにリセットし、小さく呟いた。

「転校生、ね。」

唇を拭った人差し指には―――微かに桃色が残っていた。








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