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※斉藤と久々知が親子










夕方の国道、日中の暑さを吸ったアスファルトがむんと熱気を放射している。ひしめいた車の排気ガスが辛い。自転車ならば火照った顔を風で紛らわせられるけど、十代の頃に買ったスポーツサイクルは子どもと二人乗りするには無理がある。
僕は歩幅を広く取って信号を渡った。

兵助を預けている保育園は、自宅から歩いて十分足らず。なるべくならいつだって触れ合って一緒に過ごしたいけれど、限られた時間を全て一人息子に捧げるには僕は甲斐性が足りなかった。



兵助は赤ん坊の頃からあまり泣かない子だった。

今年で三歳の男の子というのに、喚いたり走り回ったりもしないで絵本や積み木に触れたがる。
周囲のやんちゃ坊主たちとの違いに不安になった僕は育児書や雑誌を片っ端から読んだけども、落ち着いてひとまず見守るという、担任の先生による助言以上の対処法は見つからなかった。
正直なところ、周りの子たちとの差異に心配になったと言うよりは、湧き上がった罪悪感に僕自身が耐えられなかったのだ。



大学三年生の頃から数え切れない程の振り落としを味わって、漸く見つけた就職先を見限ったのは去年の秋の話。

不採用通知の山に埋もれげんなりしていたさなか、間違ったみたいにぽつんと一通の分厚い封書が届いて。合格の知らせに「認められた」という純粋な喜びと興奮、入社前はただひたすらやる気に満ち満ちていた。
組織の色に染まる覚悟は固めていたし、やっと掴んだ職を投げる事になるだなんて毛程も過ぎらなかった。

けど内容の良し悪しでなく、いかに売り上げを伸ばすかだけに執拗に拘る利己主義をまざまざと見せられた僕はいつまでも割り切ることが出来なかった。
明らかに効能の劣る機器を、会社の利益のためだけにお客さんに売りつける。
あまりの世知辛さに感じる激しい違和感とショックは年を重ねるにつれ大きくなっていった。

決定打は、首切りであった。

研修を終え配属された営業課では、口が上手くて上司に取り入る術を持った要領のいい先輩たちが日々仕事を捌く傍ら、酷く現実的な処分が時折下される。中年層が成績不振という理由でばさばさ切られていくその様子は、これといった資格もない自分の行く末を明確に予想させてくれた。



春、僕はかなり歳の離れた若い人たちに混じって美容師の資格が得られる専門学校へ入学した。
技術を得たいというよりは、人生の大半を費やす仕事って分野に、後ろ向きな気持ちで取り組みたくなかったのだ。
例え給与が低かろうと暦通りに休めなかろうと、自分の本当にやりたいことを、やっていて楽しいことを、自分を捧げたって後悔しないことをやりたかった。





けれど今になって、それは僕一人の勝手なエゴだったんじゃないかって考えが、まるで孫悟空の頭の輪っかみたいに僕を締め付けている。

学費や生活費を稼ぐために、夜は学校指定の美容院でアルバイトを繰り返し、日中は当然学生生活。保育園には夜間の部があって、働いている間兵助を一人ぼっちにする事態は避けられた。けれど、離れ過ぎて僕の顔を見忘れるんじゃないかってくらい、最近僕たちの間には触れ合いがない。

全く違う環境に飛び込んだのは僕だけじゃない。

社員のために会社が運営していた保育園から突然転園させられて、兵助は慣れ親しんだ遊び場や先生や友達を全部失った。

おまけに、(これを考えると自分のバカさ加減に頭をかきむしりたくなるのだけれど、)例え休みの日であっても掃除洗濯、買い物や勉強に追われてあくせくしていた僕は、兵助が絵や読書といった一人遊びの器用な子になっていた現実に気付くのが遅れた。

元より引っ込み思案ではあったのかもしれない。けれど本来なら外へ連れ出して、同じ年頃の子どもたちとじゃれ合う楽しさに触れさせなければならなかったのだ。

その機会を潰したのは、紛れもなく僕だった。








「あ! 不破先生、遅れてごめんなさい」

「ああ、斉藤さん」

毎日勉強お疲れ様、と微笑んで応対してくれたのは「ろば組」担任の不破先生。
まだぎりぎり夕方といってよい時間帯だったが、もうほとんどの子どもたちは帰ってしまったのだろう。後は夜間の部だろうから、お迎えはずっと後になる。今は中途半端な時間だった。

オレンジに薄っすらと翳りが混じり始めた光を浴びて、カラフルなブランコや雲梯、キリンを象った滑り台が寂しげに佇んでいる。
昇降口を掃き清めていた先生は、「いいところに来ましたよ」と笑顔で僕を手招きした。
何だろうと案内されるままに靴を脱ぎ、教室までの廊下をスリッパでぺたぺた歩く。

「もうだれもいないんですね」

「あ、兵助くん、竹谷先生と遊んでるんです。遊具室にいますよ」

そうなんですかーと返しながら辺りを見回す。ミニチュアめいた水道場、おもちゃみたいな机や椅子に、何度見ても妙な感動を覚える。僕もこれに見合うサイズだった頃があるのだと思うと不思議な感じがした。

きょろきょろしながらそう長くもない廊下を歩けば、先週までは確かになかった華やかな一面が目に飛び込んできた。思わず立ち止まる。


「……わぁ……」

「さっき貼り終えたんです。教室じゃスペースが足りなくって、今回は廊下一面」


園児たち全員の作品だろう。

そう大きくもない画用紙からはみ出さんばかりに、思い思いに引かれた色鮮やかな線が踊っていた。油分を含んだクレヨンの匂いに妙に郷愁が掻き立てられる。


「すごい……これ、何かテーマとかあるんですか?」

「そうですねえ。どう思います?」


先生は悪戯っぽく笑ったけれど、僕には正直整合性が見えてこない。
園児が力を込めて引いたらしい線は圧力に負け潰れたクレヨンの滓をたくさん纏っていて、その懸命さが酷く可愛らしいと感じた。
端から一つ一つ、眺めていく。

画用紙はそう大きくはなかったけれども、枠を越えんと塗られた鮮やかな色のために決して小さくは感じられない。
円から直接手足の生えた、子どもならではの発想で描かれた人間。赤で塗られた太陽の下、その、いくつもの頭足人が散らばる絵を見つめる。園庭で遊ぶ光景だろうか。
クローズアップして、大きく描かれたものもある。友達とか家族の肖像なんだろう。自分自身かもしれない。
かと思えば、一面青で塗られてぽつぽつとカラフルな点が散らばるシンプルだけれど鮮烈な作品があったり。
でかでかとケーキと思しき鏡餅のような白い巨塔が縦に描かれたものには吹き出しそうになった。添えられているケーキを囲む人間の小さいこと!
緑の地平に、象、なのか?長い鼻を振り回す水色の生き物をはみ出しそうに大きく取り上げた絵もあった。


「テーマは好きなもの、ですよ」


集中してまじまじと見ていたら苦笑と答えが渡された。なるほど、人から動物、景色に食べ物までバリエーション豊富なのはそういうことかと納得する。
兵助は何を描いたろう。

遅ればせながら我が子の作品を求めて目を走らせる。後ずさるように反対の壁際まで下がって忙しなく視点を動かしていたら、やたらと通る明るい声に意識が逸れた。

「お! お迎えだぞ兵助」

開いた遊具室のドア越しに「こんにちは」と眩しい笑顔をくれる竹谷先生の、後ろから小さな影が見えた。駆け足で近寄ってきた愛息子を掬うように抱え上げる。
この年頃の子は膝が上手く曲がらなくて、だから走る度に左右に傾ぐ危なっかしさにいつも冷や冷やさせられる。

「へいすけ、お待たせ」

抱え上げる前に覗き込んだくりくりした大きな目は、眠いのかもしれない、少しとろんとしていた。このまま抱いていたら眠ってしまうかもしれない。
よっこいしょと声をかけてしっかり抱え直す。


「兵助くん、お父さんに、見せてあげて」

「あ、そうだった。兵助、なにを描いたの?」


ゆらゆらとあやすように体を揺らしながら壁に向かい一緒に作品群を眺めた。なかなか教えようとしないはにかみ屋の彼より先に答えを見つけようと目をこらす。

その一画がオレンジ色なのは差し込む夕日のためだと思った。

「あ……、」

手に持たされたいびつな銀色のそれがハサミなんだと自覚できたらもう駄目だった。おそらくは先生が書いてくれた、読みやすい字で「へいすけ」と名札が貼ってある作品から目が離せなくなって、涙腺が勝手にじんわり緩む。


「お父さんに切ってもらってること、俺たちにも自慢してくるんですよ」

「兵助くんのお父さんは、プロになるんだもんね」


抱えられたままの兵助はむずがるように肩口に顔を埋める。園内での自分の言動を父親に知られることを気恥ずかしく感じているのかもしれない。

何も気にすることはないよって、兵助に届くように「ありがと、兵助」「上手だね」ってくり返す。俯けてしまった顔は見えないけれど耳はどんどん赤みを増した。暮れつつある日の光はもう人の顔すら曖昧にしか照らせずにいて、それを有り難いと思う。
兵助よりも僕の方がよほど、赤い顔をしている自覚があった。


僕は二週間に一度は必ず、兵助の髪を切る。接客練習って言いながらタオルからカバーまで一式揃えて。スタンド式だけど割と奮発した、歪みのない巨大な鏡の前で。

兵助の視点から見えるもの全てが、画用紙に再現されていた。
そこに、足りないものは何もなかった。

ふわふわの黒髪、いつも練習に使っているアイボリーのカバー、オレンジのアシンメトリー、銀色のはさみ。兵助と僕。にこにこ笑顔の二人。

僕は、いつも、こんなに楽しそうに笑えていたんだろうか。



「理容師さ……あ、美容師か。俺床屋しか行かないから、ピンとこないスけど……いっつもプロに整えてもらって、いいなあ兵助」

「髪切りに行きたくなっちゃうね。最後に肩揉んでもらうの、すんごく気持ちいいし」

「お。雷蔵せんせも床屋っぽいな」


散髪談義に花を咲かせ始めた二人の先生の存在にお構いできないくらいに、とにかく幼いこの生き物への愛情でいっぱいいっぱいになって、腕の中でもじもじする兵助にぎゅっと頬を寄せた。
正直泣き叫んで世界中にアピールしたい程の幸福だったけれど、それじゃ兵助には伝わらないから、涙で震えそうな声はひそめて、抱きしめて、撫でて、ただ笑った。

だって悟ってしまった。
これから兵助がどんどん大きくなって、自分の世界を広げて、たくさんの色んな人と交流して、僕の存在がとても小さなものになったとしても、僕は今と全く変わらずに絶対の愛情をこの子に捧げられる。
今自分のために生きている分だって、何だって、いつだって、全部捧げることができる。それでいいんだ。



僕が負い目を感じようと、この子は迷わず僕を好いてくれた。その分以上に、必ず愛し抜こうと決めた、オレンジ色の今日の光景を、いつか自分は死ぬ時に懐かしく思い返すんだろう。










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140927
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