Others | ナノ




 一般家庭では夕餉の残り香が消え去り寝支度が始まる頃、吸血鬼と、そうしてそれを相手取る人々は炯々と目を光らせる。さあ夜の街に繰り出すか、吸血鬼はいそいそ支度を整えて、パトロール行くぞ、退治人は気を引き締めて闇夜に目を凝らす。普段ならロナルドも同様に、エンジンが十分に暖まる頃合いだった。今は常と様相が異なり、そうして事務所にはちょっとした緊張感が漂っている。
 ロナルドは警戒していた。
 もう数えるのもアホらしいくらい告白しまくっている相手だ。そうして毎回悪くない反応をしてくれる、なのに頑なに、断固として、今日この日まで頷かなかった相手である。それなのに。何故今なんだ? そう、悲しいことに、咄嗟に湧いたのは警戒心だった。
 君に触れることを許してほしい。ちょっと時代がかった独特の口調で、告白返しみたいなことをされている。


「……お前、それ……返事ってこと?」
「うん」
「じゃあ……じゃあ、ちゅーも、えっちも、俺としかしないってことで、いいんだよな?」

 この期に及んでなし崩しにして堪るか。そんな意地で確認する。もう何かお預け期間が長過ぎて「このまま毎日好き好き言いながら俺はよぼよぼになっていくのか」などと悟りを開きかけていたものだから、やや疑り深くなっている。確実に言質をとらねばと、目を覗き込んで確かめた。どうやら目を真っ直ぐ見られることに弱いらしいと、ロナルドはようやく相手の弱点を把握し始めていた。ここぞとばかりに告白に使いまくっていたが、捗々しい成果はとんと得られず、時に挫けそうになっていたのだが。

 ガンを飛ばす勢いで突き付ければ、ぐっと怯んだように顔をわずかに引いて、それから自身を奮い立たせるように顎を持ち上げて「そうだよ」と挑みかかる勢いで言う。何故そんな喧嘩腰なのか。引っ掛かりを覚えながらも、遅れてようやくじわじわと込み上げる嬉しさに泣きたいような、叫び出したいような、持て余してしまうほどの感情の奔流がどっと押し寄せた。溢れる感情の波に大人しく身を任せたら、くらりときて倒れそうになる。
 隣に掛けていた人外が慌てて肩を支えようと頑張ってはくれるものの、まあ自力で踏ん張らなければ、非力な上に枯木もかくやの痩身が筋肉質な成人男性を支えられるはずもなかった。それでも回された腕を上から押さえ、抱き合うような形になって、より至近距離で目が合っても、頼りなげな細面はもう引かない。それどころかぐいぐい来るものだから、ロナルドは喜びを通り越して不安になった。虹彩の色までよく分かる距離で「キスしていい?」と尋ねられ、おおとかあうとかろくな発声ができず、それでもこの機を逃せば次にこの気分屋の気が向くのはいつになるか分からねぇ! と焦る気持ちでがくがく頷く。
 ずっと張り詰めていた表情がやっと緩んで、ドラルクの口元に微かな笑みが浮かんだ。

 

 隣り合って座っているものだから、腰を捻るようにして互いに互いの目を覗き込んでいる。目を閉じてよ。鼻先がぶつかるくらいの距離で囁く、その声が唇を撫でた気がして、むずむずと口の端が歪む。どんな顔をしていればいいのかさっぱり分からず、ロナルドはじんわりと額に汗が浮くのを感じた。いかにも不慣れな様を晒すことがほんの少しだけ哀しく、けれど胸の内では不慣れもクソも今更だ、どう思われようが構わないと思う気持ちと、それから気が遠くなるような多幸感で圧倒されて、頬を挟んでくる乾いた手袋の感触だけをよすがに、駆け出したいような、跳ね回りたいような、そんな衝動を抑えている。
 何も言えずにただ瞼を下ろすと、掠めるように軽い口付けが唇の端に落とされた。えっこれだけ? 戸惑いに思わず目を開くも、傾けられた顔は離れない。伏せられた瞼と重ねて押し当てられた唇に、焦ってまた目を閉じる。何度も何度も、静かに唇で唇を味わうように触れられる内、息が苦しくなってきて、無意識に呼吸を限界まで抑えていたことを自覚する。え、まだ終わんないの? いやいいんだけど。でもどこまですんの? いやどこまでも全然いいんだけど、でも今から仕事なんだけど。マジで何で今? 何がスイッチだった?

 突然切り替わったその瞬間、どんな会話を交わしていたか。ロナルドは必死で思い出そうとして、そうして失敗した。口付けが次の段階に進んだせいだ。表面を撫でるだけだった相手が少しずつ深く触れてくる。舌先で表面をそろりと撫でられ、かと思えば吸い付かれ、チュッと微かに響いた音にかっと顔中が熱を持つ。はぁ、小さく漏らされた吐息があからさまに興奮の色を孕んでいて、煽られた。気付いたら身体が動いた後だった。食らい付くように大きく口を開いて重ねる。怖がらせただろうかと直後にハッと思って、受け止めてはくれたものの勢いに少しだけ後ろに下がってしまった顔に謝った。ゴメン。それでも、囁いた言葉が直に吹き込めるような、そんな距離のままでいる。
 苦笑する気配と、別に構わないと言うように再び重なったものに、今度はゆっくりと触れる。恐る恐る、動きを真似るようにして、唇で唇を食む。表面を触れ合わせ、擦り合わせるそれが性器同士を合わせる行為を連想させて、首裏が発火しそうに熱くなる。背中まで汗をかいていることを自覚していた。入り込んできた舌先が入り口近くを擽るように這っている。むず痒いような、身体中の皮膚がざわつく思いに、内側でふつふつと穏やかでないものが沸き出した。それでも優しくしなくてはと、もう刻み込まれた力加減で腰に腕を回す。

 そっと舌先が舌に触れてきた瞬間、電流でも通されたかのような刺激が背筋を打ち据えた。
 呻いて、抑えられずにため息のように吐息が溢れても、舌はもう遠慮も何もなく深く入り込んでくる。柔らかく温かく濡れた薄いものが、歯列をなぞって、それから内側で固まる舌に再度触れてきた。息も、声も、もう何も我慢できずに溢れさせながら、躊躇いがちに応える。舌先を触れ合わせるだけで、信じられないほど気持ちがいい。身体を自力で支えられなくなりそうだった。回した腕は縋り付くようにマントに皺を寄せている。ソファの背凭れに体重をかけて、頬は薄い手に預けて、そんなくたりとした状態でも、舌を伸ばしてしまう。止めたくない。続けてほしい。そんな思いで必死に伸ばすその分厚い舌は震えている。捧げるように伸ばされた肉厚な舌を、飴でも舐めるかのように、薄い舌先が繰り返し撫でていた。
 やがて甘く牙を当てられ、唇で挟んでは引っ張られ、また舌を絡めては吸い上げてくる。じゅうと濡れた音が落ちた。その頃にはもうすっかり互いに息が上がっていて、籠る熱と、耐えられないとばかりに時折漏れる声、高まった性感はどうしようもなかった。ロナルドは力の入らない腕を叱咤して、薄い造りの身体をもっと引き寄せようと頑張った。そうして、かつてベッドで肌をまさぐった時のようにあちこち手を這わせて、忍び込ませたマントの内側、重なった衣類越しにも細い身体が何だかやけにぽかぽかしていると感じたその瞬間まで、鮮明に覚えている。後は完全にブラックアウト。





 その夜、ドラルクが事務所を訪れた時、ロナルドはソファにいた。大抵は机に向かっている。事務作業をコツコツ進めていたり、原稿を推敲していたり、あるいは電話で退治人仲間と情報交換をしていたり、とにかく、忙しなく何やら取り組んでいるのが常だった。勤務中にソファに掛ける機会はせいぜい来客に応対する時くらいなもので、だから「珍しいな」と、ドラルクはまずそう思ったのだ。
 次いで、のろんと向けられた顔に違和感を覚え、隣に腰掛けてあれこれと尋ねた。今日は何時に起きたのか。何を食べたのか。どこかいつもと違うところはないか。要領を得ない答えを一通り聞いて、何やらぼんやりした目を眺めて、手袋越しに額を検分して、そうして「風邪だ」と結論が出る。
 だのに、ぽわっと顔を赤くしたまま、頭すら支えられずふらつく身体で、当たり前のように出掛けようとするから。
 約束がある。もう引き受けたものだ。風邪? バカ言え。んなヤワな造りしてねぇわ。
 体力勝負の退治人業界に身を置き、基本的にはやたらと元気な若者だ。限界を越える機会がそうそうないためか、越えるまで本気で分からないらしい。そういえば以前うちで行き倒れていたなと、ドラルクは思い出していた。いずれにせよ、こんな明らかに本調子でないと分かる男に現場を任せられるものか。これで怪我でもしたら誰より落ち込むのは本人だし、万が一死なれでもしたらどうすると、己の想像ながらあまりに不快な可能性にぎゅっと顔を顰めた。向こうに行ったって追い返されるような気もするが、しかしそうでなかったら困る。困るし、単純に、こんな弱った状態で外に出したくない。
 どうしたものかとドラルクはしばらく悩み、素知らぬ顔で依頼内容を確かめて、組合経由で引き受けたこと、約束の時間まであまり猶予がないことを把握する。肚を決めて、向き直った。

「お願いがあるんだけど」

 真剣に告げれば、何かを予感したのだろう。相手は平素のキリリとした感じを多少は取り戻し、見返してきた。君に触れることを許してほしい。続きを聞いて、ぽかんと呆けた退治人は、たっぷり1分はフリーズしていた。



 結果として今、ソファにぐったりと頽れる発熱体がある。
 最後に注がれてからどれくらい時が経ったろうと、内心指を折って数えた。久々に取り入れた生々しい精気に、ドラルクは大きくため息をついて、身体中に籠る熱を逃そうと試みる。弾んだ呼吸はなかなか落ち着かない。頬がやけに熱かった。指の先まで温かく、シャツの内側に薄らと汗ばむ気配さえある。立てなくなる程度に吸ってやろうと思っていた……抑えようと、努力はしたのだ。うっかり夢中になってしまった。それこそ限界まで吸い取られ、相手は完全に気絶している。立ち上がり、少しだけよろめきながらも持ち堪え、マントを外す。沈んだ重たい身体にとりあえずと掛けて包み、そうしてまずは仕事の話だと、表の札を掛け替えて組合へ連絡を入れた。


 精気を強制的に吸い取られれば、相手は中が空っぽになるまで励んだ時と同じような状態に陥る。さらにやり過ぎれば、衰弱させてしまう。酷い時は丸一日全く何の反応も返さないなんてこともあったなあと、やってしまった、どうしようと酷く狼狽した若き日の自分をドラルクは思い返している。
 体調不良が重なれば、さらに回復は遅れるかもしれない。狭いソファでは横たえることも難しく、とりあえず寒さを覚えない程度には気を付けてやろうと空調を調整した。
 早く家に帰したいなあ、ていうか朝まで目が覚めなかったらもうどうしようもないなあ。放置して帰るしかないけど大丈夫かしら。考えを巡らせる内にもあれこれ世話を焼く。風邪の看病など経験にない。ただ年の功というやつで、治療の心得ならば一通りあった。あとは便利な情報化社会に頼る。ネット上であれこれ知識を仕入れ、物資を買い込み、できることはあらかた終えて、今は黙って傍にいる。冷えピタって超便利。固まらない氷枕って何それ。物珍しさも手伝って必要以上に買い込んでしまったあれこれを検めつつ、時々唸り声だか寝言だか、ため息のように漏らしながらも眠り続ける男をただ、見守った。











 城は探検なぞしてみたくなる広さだ。
 階段の上から眺めると、ホールの天井の高さがよく分かる。曲線を多用した優雅な造りのシャンデリアは、しかし黒を基調としたデザインのせいか、火が灯らないせいか、どこか寒々しい。白く華奢な蝋燭が突き出た骨のように浮き上がって見え、あれに火が灯ればさぞ雰囲気があるだろうなとまじまじ見つめた。そうして、とても気軽に手が伸ばせるような場所とは思えないのに、蜘蛛の巣ひとつかかっていないことに気付く。薄暗い中あちこちに顔を近付けて眺めるが、チリや埃が集まりそうな隅にさえ何も見当たらない。一人暮らしもそこそこ長く、まして土足で立ち入る事務所を構える身だ。人の過ごす空間に埃がどれだけ積もるものかロナルドは経験的に知っていたので、だだっ広いくせに尋常でなく管理の行き届いた空間にただ驚嘆した。お掃除ロボットでもいるのかと訝しむ。ゲームなんぞ嗜む吸血鬼まがいだし、喜んで手を出しそうだ。自分の想像にふっと笑いが零れて、ひとりで何をやっているんだと我に返り、それなりの時間が経っていることに思い至った。部屋に戻ろうと踵を返す。
 小用を足して帰りだった。ゲストルームからやけに近いなと城主に感想を伝えれば、ひとつじゃないからねと事もなげに返されて「へえ」と唸るしかなかった。その後で「私は使わないけど」と告げられたその意味が本当に分からなくて、そういう縛りの特殊プレイかと口に出したら軽蔑したような目で見られた。心外だった。どう考えても伝え方が悪い。


「吸血鬼ってトイレ行かないのか」
「んー。現代っ子は、多分行くんじゃないかな? 人間社会に馴染んでる内に、体質が変わったりもするらしいよ」
「現代っ子って……お前、年いくつ?」

 毛布と布団に埋まるようにして微睡む人外に問えば「秘密」とはぐらかされた。愉快そうに笑っている。これは応える気がないなと、諦めて隣に潜り込んだ。素肌に触れるシーツの滑らかな質感が心地良く、うっとりと息が漏れる。自分の荒れた手で乱暴に扱えば、鉤裂きなど作ってしまいそうだ。薄明かりにも艶々と反射する、柔らかな風合い。既に行為を終えた後で、掠める匂いがある。ただ、いつ部屋になだれ込んでもベッドは綺麗に整えられていて、剥いだリネンからはふんわりといい匂いが漂うのだ。見た目からは想像がつかないことに、この生き物は相当な綺麗好きらしいと、ロナルドはここに至って確信する。思い起こせば、マントを落として上着を脱がせて、そうして現れるシャツは確かに毎回ピシッとしていた。薄闇の中で眩しいくらいに白く、手触りは持ち主の肌に負けず劣らず心地良かった。
 几帳面に留められたボタンを眺めるその度に、ロナルドはちょっとした罪悪感に襲われている。多分一生消えないなと苦い思いで手を伸ばすのを、大人しく甘受している相手がどう受け止めているのか訊いたことはなかった。尋ねてもきっと愉快な展開にはならない。頭を振って払い、話を戻した。

「ここって管理人とか、掃除に来る人とか、いねぇの」
「城に? 必要ないよ。私何でもできるもの」

 あくまでも家事の面に限って言えばと但し書きがつくものの、それが誇張でないことは、キッチンでの手際を思い返せば納得できた。ふぅんと頷くと、布団越しに眠そうな声が「さすがに水道管のトラブルとかは業者呼ぶけど」と続ける。
 まあ、時間があるからね。大抵の不具合は自分で対処するよ。快適な引きこもりライフに家事テクは必須なんだ。
 歌うように言うだけ言って、満足そうに寝具に包まり直して寝る体勢に入っている。もう、自分で引きこもりって言っちゃってるじゃねぇか。呟いても返事は返らない。ふむとかうんとか、唸るような生返事が申し訳程度に届いたそれっきりで、目を閉じている。もう少し喋っていたい。そんな風に思うけれど、負担をかけている自覚はあるもので何も言えない。そう時も置かずに深く静かな呼吸に移行する、嵩張る布に包まれた寝姿をただ見守る。合わせるように深い息をしていたら、いつの間にか自分もとろとろと眠りの層に引きずり込まれていく──











 実際にはドラルクの予想よりも数段早く、ロナルドは目覚めた。ただし、起き上がった身体は剣呑なオーラに包まれている。言葉を交わすごとに露骨に目と声から感情を削ぎ落としていく男に、あっちゃぁと、ドラルクは少々げんなりした。

「……仕事」
「予約ないでしょ。依頼も1件だけだよね。体調不良でお休みしますって連絡したよ」
「……どこに」
「組合」
「……お客、来るから」
「いやもう休業日って表に出してるから」
「…………これ」
「だって君、風邪だもの。汗かいてたし。後はショウガ湯とか卵酒とか飲んで、あったかくして家で寝なよ」

 状況を把握し終わるなりロナルドはぴたりと口を閉ざし、以降一言も喋らない。仕事でも日常でも、案外とよく喋る男である。無言の重圧はなかなかのものだった。
 まあ、怒られるかもしれないとは思ったけどさ。ドラルクは肩を竦めた。ちょっと過保護な母親みたいな真似をした自覚はあった。
 何故だろう。最近どんどん、自分は彼の母親なのではなかろうかと思うことが増えてきている。けれどまあ、退治業は割と命の危機に直結する職業なのだ。本調子でないと分かりきっている人間をのこのこ向かわせ関係者に気を遣わせるのも、当事者はおろか仲間を危険に晒すのも、避けるべきだという考えは正しいと思う。最終的には彼のためだ。ドラルクとしては考えに自信があったので、謝って機嫌を取ろうなどという気は毛頭なかった。元気になって頭が冷えたら感謝を捧げてくれて構わないよ、それくらいの気持ちでいた。黙りこくったロナルドが静かに陥っていた感情の坩堝には気付かないまま「じゃあ君ちゃんと家に帰って養生するんだよ」って満足して帰り支度を始めようと立ち上がり、そうして細い影は、怒りと哀しみの底にある般若によって首根っこをつかみ上げられた。
 きゅっとネズミか何かのような鳴き声が漏れて、力強い腕に「なんだ元気そうじゃないか」とドラルクは怖々振り返る。

「お前さ」
「あっハイ」
「分かってんだろ。俺の気持ちをよ」
「えっ……ハイ」
「何でこんな、都合良く使って……利用するみたいなことすんだよ」
「えっいや」
「浮かれた俺がバカみたいじゃん」
「えぇ……」
「このっ……冷血漢。人でなし。ミミズ以下のへなちょこ。吸血鬼の、残骸みたいな、砂野郎のくせに……」
「……」
「バカ。クソバカ。チクショー……好きだ……」

 おでこに冷却シートを貼り付けてマスクを着用、首にタオルを巻かれた挙げ句、取り合わせなどまるで無視した保温性重視の在宅療養系コーデ。そんな男にしくしく泣かれながら恨み言をぶつけられ、かつ告白されている。相手が真剣なだけに状況のシュールさに磨きがかかり、ドラルクは何だか心を遠くに飛ばしたくなった。
 責められるかもな、とはほんのちょっとだけ予測していた。告白を利用して、騙し打ちのような真似をして精気を奪ったこと。ただ、子どものように泣かれるとはさすがに思っていなかった。男泣き、と表すにはあまりに開けっぴろげな湿り気たっぷりの泣き様に、ドラルクはもう何を言われても腹が立たない。呆れるだけだ。
 ちなみにロナルドはようやっと新刊の原稿を上げたばかりで、完全無比に2徹をキメた身体でひとりテンション爆上がり、まだ外気温が冷蔵庫並みに落ち込むことだってある深夜に半裸でパーリナイを繰り広げ寝落ちしたその極めつけに風邪をひいたという、そんな背景がある。無論ドラルクの預かり知らぬことである。知っていたら、おそらくこうまで甲斐甲斐しくは世話を焼かなかっただろう。

 倹約家のロナルドが設定したためほぼ冷風を吐き出す暖房の設定温度を適温に修正し、部屋を暖め、乾燥対策にとタオルを干すのも忘れない。仕事の内容如何では盛大に衣服を汚すこともあるから、事態に備えて常時替えが置いてあることをドラルクは知っていた。全て取り出して使えるものを見繕い、湯に浸したタオルで汗を拭って乾いた衣類に着替えさせ、粘膜を乾燥から守るため口元にはマスクを当てた。水分補給にと経口補水液と湯冷ましを用意し、ソファを寄せては足を上げさせ、限られた条件下で少しでも楽に過ごせるよう、心を砕いた。意識がなければ筋肉がみっしり詰まった天然鉄アレイ、片腕を持ち上げるのさえドラルクにとっては容易ならざる大仕事なのだ。精気を摂取していなければ何度死んだことだろう。
 ここまでしてやったのは誰だと思っているのか。ここまでしてやる相手をどう思っているのかなんて、分かりきってるだろうが。ため息をついて、しかしながらきちんと言葉にする大切さを最近学んだ吸血鬼もどきは口を開く。覚悟はとっくに決めていた。


「私が方便で返事をしたと思ったのか?」
「……違うってのかよ」
「違うよ。きちんと、君のことを想っている。だから言ったんだ。今夜のことは予定外だったけど……まあ、最後の一押しにはなったかな」
「……」
「唇も、肌も、私が許すのは君だけだよ。君が望む限りね」
「……ほんと?」

 ああ、やけに子どもっぽい物言いをすると思っていたが、弱っているせいなのか。ドラルクにとってみれば真実子どものような若さなのだが、その拙さがまた妙に可愛らしく思えて、自然と邪気のない笑みになる。ほんと。頷いて、マスクの上からキスをする。

「早く元気になってね」
「……元気だ。超元気」
「え、君すごいな……でもそういう元気じゃないから」

 互いに笑う。緊張していた空気は緩み、ロナルドは思ったのだ。ああ全てが上手くいく。頭は何だかぼんやりするが、それがまた雲の上を歩くかのような夢見心地に拍車をかけた。ごく近くに寄り添う身体を抱き寄せて、幸せいっぱいにふにゃりと笑う。前途洋々。開けた道の先の先まで見通せるような、そんな晴れやかな気持ちでいた。本当に、上手くいくと思っていたのだ。残念ながら、そうは問屋が卸さなかった。





 おともだちを了承してもらい、そうしてお百度参りめいた告白を始めた当初からずっと、ロナルドは応えてもらったその瞬間にでも押し倒す心意気でいた。世間一般の常識に照らし合わせれば、お付き合いの返事を得るなりベッドインなんて、そんな性急さが許されるのはセフレかワンナイトラブか不倫か、とにかく肉体関係ありきの話だろう。ただ彼らは世間一般の尺度で測れるような関係ではなかったし、始まりが始まりなので、お互いが似たような認識でいた。だから、物事の入り口までは順調だったのだ。
 君が入り浸るから用意していた食材、傷みそうだからちょっとまとめて片付けに来てよ。早めの対応が功を奏したか基礎体力の賜物か、風邪は翌日には治っていた。数日後に誘われて、いよいよだと緊張と期待にロナルドの胸は震えた。告白を受け入れられてから初めてのお宅訪問である。期待しない方がおかしい。ロナルドは当日、気合い十分に万全の体勢で臨んだ。

 そうして、ベッドで盛大に転んだ。事態が転んだのだ。



「ごめん。無理、かも」
「はあっ!? って、おいいいいぃ!」

 初めてのお泊まりデートで女の子に「始まっちゃった」って言われた時の野郎の気持ちってこんな感じか。こういう時こそ男の真価が試されると、メンズなそれ系雑誌に興味がないわけでは決してなかったロナルドは知識として仕入れていた。仕入れてはいたが、まさか「仕方がないよと身体を労ってあげる」などという必要性があるとも思えず、ここまで来て「無理」が来るとはこれっぽっちも疑っていなかったため、時が止まった。相手の時も止まっていた。というか塵と崩れてシーツにぶちまけられている。罪悪感か後ろめたさか、他にも何やら抱えているのか、その復活速度はなかなかに遅い。ロナルドは肩から上着を半端にずり落としたまま、呆然とした。まだキスさえしていなかった。何で死なれたのか、さっぱりだ。

 どうしよう。こんなのシミュレーションしてねぇ。え、ベッドまで来てから「無理」って言われた彼氏って、なんて返すべきなの?

 ふざけんなとキレ散らかしたらいけないよなと、辛うじて理性が衝動を抑え込んでいた。とりあえず落ち着こうとおもむろに筋トレなど始めるも、息が上がるだけである。諦めて、ただ待って、そうして胡座をかいてイライラと時計を確かめるロナルドの理性はそれでもきちんと働いていた。ただそれも、かつてなく長く感じた数分が過ぎ、形を取り戻した相手に理由を尋ねるまでの話だった。

「あのさ……………………何で?」
「はっ、恥ずかしいから」
「はァ?」

 シャツのボタンをひとつふたつ外され死んだドラルクはといえば、向き合っている美しい男に盛大にメンチを切られ、再び死にそうになっている。焦ってもいた。自分でもコントロールできない何かが、激しく身の内で暴れている。逃げろ、身を隠せ、ここは危険だ。身体を内側から駆り立ててくるその警戒が何を意味しているのか考える暇はなかった。とにかく、目前のブチ切れ状態の退治人を宥めなければと必死に言葉を取り繕う。

 分かる、分かるよ。自分でも「は?」って思うよ。ふざけんなこのアバズレが、カマトトぶってんじゃねえ! って君が言いたい気持ちは分かるけど、そんなに怒らなくてもいいじゃないかぁ!

「んなひでぇこと言ってねー!」
「顔が言ってるんだよぉ!」



 何とかもぎ取った毛布にドラルクはくるまっている。距離を取ろうとしたらロナルドのこめかみに青筋が見えたもので、後ろから抱きしめられることには渋々同意した。肉襦袢を羽織っている心地だった。やたらと暑苦しいし、緊張は続いているが、顔が見えなきゃまだマシだと内心自分を励ましている。およそ、想い人への対応からは程遠い。

「おかしいだろお前。何とも思わねぇ奴にはどちゃくそエッチなことすんのに、何で付き合ったら顔見るのもダメなんだよ」
「何ともってわけじゃ……いやあの、ダメって、ダメなわけじゃなくてだね、ちょっと、あの、心の準備が」

 何だろうね、ほんとにダメなんだもの。触れられたとこから焼け死にそう。見られてるだけでもうダメ。目を見ようもんなら即死する。こないだは君の危機だったもの。あんな状態で仕事に行こうとするから。とにかく止めなきゃって使命感があったから耐えられたんだ。

「なんだよそれ……」

 項垂れた頭が肩口に当てられる。ね。何だろうね。今ぴったり重なっていられるから、何やら熱くて物騒なものが準備万端なのも分かるけどね、もう何かそういうのもいちいちダメ。キツい。しんどい。恥ずかしくって、逃げ出したい。興奮されているって思うだけでダメなんだ。

「……やなのかよ」
「嫌じゃない、嫌じゃないけど、セックスは無理かもっていうか、多分ダメ……」

 沈黙があまりに痛く、何か喋らなきゃとドラルクは懸命に言葉を繋いだ。その一言一言がボディーブローのように相手を深く抉り、意味が沁み込むほどにより重くダメージを与え続けているのだが、そんなことにはとんと意識が回らず、ただ自分の身を守ろうと躍起になっていた。異変に気付いたのは、毛布越しに回されていた腕から力が抜けて、だから支えようと両の手を掛けてからのことだった。

「……」

 ドラルクは「君泣いてるの?」と口に出しそうになり、何とか堪えた。相手は犬のように背後から鼻筋を擦り付けてきて、けれども顔を背けるような向きで肩に懐いている。首を僅かに捻れば、ふわふわとした銀の髪が頬を擽った。否が応にも気配で分かる。ロナルドは少しだけ泣いていた。
 自信満々の外装は、著作が流布するにつれて広がった世間的なイメージを壊すまいと努力した結果だと、ドラルクはとっくに知っていた。内面はナイーブで傷付きやすく、こと世間様の声と色恋沙汰にはとんと弱い。なまじ自力で乗り越えていく根性がある分、周りに甘えたり頼ったりするのを良しとしないで無駄に頑張ろうとする。
 私には、もう晒してもいいって思ってるんだなあ。
 その弱さを幾分情けなく、そうして可愛く感じて、自分のことでいっぱいいっぱいになっていた心にようやく、ほんの僅かに余裕が生まれる。そんなにヤりたいのか……と若干呆れもした。実際のところ、ドラルクはキスだけで十分満足できる自分を先日見つけていた。我ながら意外だとしみじみ思い、それでも、肉体のピークの只中にある若者はそんなわけにはいかないだろう、仕方がないから頑張って付き合うか、そうした義務感に近い形で応じたのだが。まさかここまで身体が拒否反応を起こすとは思わなかったのだ。おかしい。気持ちいいことは大好きなのに。
 指先であやすように銀髪を撫でながら、思案した。

「うーん……どうしたものだろうねぇ」
「他人事みてぇに言うなや」
「ごめんごめん。あー、やっぱり君、今からでもさ、考え直したら」
「それ以上言ったらぶん殴る」
「……君って結構ワイルドだよね」

 一緒にいたい。それは偽らざる本心だ。ただ未来まで縛るのはどうしたってやっぱり後ろめたくて、だから、とことん付き合って満足したら心が自然と離れるかもしれないと、ドラルクはそんな可能性にかけることにしたのだった。正直に話せば積極的に塵にされる予感がするので、思惑は当然伏せている。

「……お前、こういう作戦だったりする?」
「ん? 作戦って、何が」
「だから。無理って拒み続ける作戦」

 そんで、我慢できなくなった俺がよそに行くよう仕向けてんのかよ。

「やだなあ、それはさすがに考え過ぎだ」
「いや。お前、そういうのやりそう」
「ええー……偏見だ」

 まあ、鋭い。
 今温めている案はそこまでの生殺しコースではない。とはいえ、最終的なゴールは同じだ。似たようなことを考えている手前、あまり強くは否定できなかった。おいおい、私の思考回路ちょっと分かってきてるじゃないか。痛い目に遭わされているだけのことはあるなと感心する。

 伏せているつもりで、思惑がしっかりと言葉に滲み出ていることに、ドラルクは気付いていない。「君が望む限り」という言い回しに、ロナルドはほんの少し不穏なものを感じていた。お前は望まないのかと、そう尋ねたかった。当初は気付かなかった。記憶をなぞり返す内に、ふと気にかかったのだ。兼業とはいえ作家でもある。言葉に関しては敏感だった。そんな不安がある中で触れ合いを拒絶され、これで何も思うなという方が無理な話だ。

 低い低い湿った声に「あのさ」と声を掛けられて、ドラルクは黙って続きを待つ。

「……お前、嫌とか、駄目とか言うな。それだけ、頼む」

 マジで頼む、そう続ける声は何だかうるうるしていて、さすがのドラルクも、ただヤりたいというレベルではないなと、ようやく意識が相手の内面に向いた。ダメとは言ったけど、嫌だなんて言ってない。嫌じゃないって言ってるんだよ。言い訳をしようとして、それから力なくただ重みが預けられた腕にもう一度触れて、思い直す。

 苦く、辛い記憶が胸に蘇っていた。自分がこの男を傷付けた夜。心残りなど欠片も与えないように、手酷く拒否しなくてはいけなかった。そんな風に決めて、心を晒した相手を酷いやり口で思いきり拒絶したのは確かに自分だ。差し出された好意を無惨に叩き落とした。その傷が癒えてはいないことに気付いて、ようやく、しなくてはいけないことを怠っていたと自覚した。思い出した。警戒も羞恥も消し飛んだわけではないけれど、ただそれ以上に溢れてしまった罪悪感に追い詰められて、回された腕の中で身体を捻り、毛布が落ちるのも構わずに俯いた頭を抱き寄せた。

「ごめんね」
「……何に謝ってんだよ」

 謝られると、いよいよお断りされたみたいなんだけど。少しは持ち直したのか、声はいつも通りに聞こえる。抱き合うように胸を合わせて、だから表情は分からない。

「でも、だって、謝らないといけないことがあるから」
「……どれのことだ」
「え、そんなにないだろう」
「お前は……謝ってんのか喧嘩売ってんのか分かんねえよ」

 そうかなぁ。まあ、謝られている側がそう感じるなら謝罪になっていないのだろう。面倒な。掠めた思いがないでもないが、ここできっちり詫びを入れれば筋は通る。大義名分さえ得れば内心ひしめく罪悪感とはオサラバだ。
 だんだんと自分の心の安寧を優先させつつあるドラルクは、それでも努力して言葉を吟味した。

「うぅん。あの。好きじゃないとか、言ったこと」
「ああ。嘘じゃないって言い張ってたな」
「まあ確かに、嘘ではないな」
「……てめぇは、やっぱり、トドメ刺しに来てんのか?」
「だって、好きどころの話じゃないもの」
「あ?」
「いなくなるのを黙って待つくらいなら、子どもを残して世代を繋いでほしいって思うくらい、大事に想ってるよ」

 私にとっても、世界にとっても、君は得難い存在だから。とても大事にしたいんだ。君も君を大事にしてね、風邪くらいちゃんと自覚しろ。ていうか体調管理くらいしっかりしろ。社会人だろ。しかも自営業なんだから、緊急事態でもない限り自分で調整できるはずだろう。

 徐々に説教じみてくる。母親化現象はドラルクが認識している以上に深刻であった。対するロナルドも途中ハッとしたように腕に力を込め直したりしたのに、今は「うるせぇな」とか呟いている。

「あと、素人童貞とか言ったこと……」
「お前もう黙れ」

 この偽吸血鬼に何か言われる度に全身から力が抜けていく。何もしていないのになかなかの疲れを覚えていた。それでも、紡がれる言葉から、必要なことはしっかりと選り分けていく。ロナルドは確信する。
 やっぱりこいつは、まだ俺のこと、隙あらば放流しようとしてやがる。
 痛みに顔が歪む。
 自分は、自分だったら、とてもそうは思えない。こいつが本物の蚊トンボ並みにほんの瞬く間で命尽きるとしても、離してやろうだなんて到底思えない。最後の最後まで一緒にいて、1分1秒でも長く独占したい。身体中で覚えていたい。目に焼き付けて、手で触れて、肌に肌を合わせて、奥の奥まで重なって、ひとつになりたい。ひとつでいたい。お前は、そうは思わないのか。
 考えの違いが、想いの差そのものに感じられて辛かった。結局俺はお前にとって、いざとなったら手放せるくらいの存在なのかと、そんな、まるで心を量るようなことを思ってしまう。自分が自分で嫌になるから絶対に言わないけど。思うことは、止められなかった。


「あの、あとひとつだけ」
「……またろくでもないことだったら……」
「迷惑なんかじゃないからね」
「……」
「すごく嬉しい。嬉しかったよ。そこは、嘘ついた」

 引き寄せた銀の頭に頬を押し付けて、ドラルクは一言一言ゆっくりと告げる。あの夜、迷惑だったかとそう訊かれて、是と返した。想われたこと。想いを告げられたこと。この縁はそこで途切れるはずだった。事態が予想外の方向へ転がってしまった今や、どうしても訂正しておかなければいけないと、ドラルクはずっと気掛りに思っていた。静かに言葉を重ねる。

 君と一緒に過ごすのはとても楽しいし、家族みたいに近しい存在になっちゃってたから。あの時はとても、正直には言えなかった。


「家族みたいなのか」
「……うん」
「家族って、どれ」
「え?」
「色々あるだろ。ほら兄貴とか」
「ンフッ。君が? 兄はないだろうよ」
「じゃあなに」
「うーん……君は、やっぱり、子どもだろうかねぇ」
「そこはお前旦那様一択だろうがよ」

 もうプロポーズもしてるらしいしな。
 続いた言葉にドラルクはいよいよ声を上げて笑った。確かにそうだって笑って、気持ちがほどけて、だから身体を離した相手が顔を重ねてきても、もう死んだりしなかった。


 触れるだけで離れて、ロナルドは様子を窺う。頬と頬を合わせて、耳元で「死にそう?」って尋ねれば「大丈夫そう」と返ってきてホッとする。ちょっとだけ貰っていい? 何故かコソコソと訊かれて、何のことだと咄嗟に考え、返事をする代わりにもう一度唇に唇で触れた。少しは頑丈になってもらわないと困る。このままだと、何をしても死なせてしまいそうだった。

 合わせた下唇をぺろりと舌が撫でていく。開いたままでいたら、遠慮なく入り込んできて舌を絡め取られた。ちゅうと吸っては離れ「コーヒーの味がする」と笑い混じりに言う、それに何だか堪らなくなって、痩けた頬を押さえてもう一度唇を合わせた。舌先は鋭敏で、お互いのそれが触れると、もう我慢が利かなくなる。落ち着けようと頑張っていた呼吸があっという間に乱れて、紳士的に穏やかに、ただ触れていただけの手に力が籠る。
 もっと深く合わせようと大きく開いたら、するりと入り込んできた薄い舌が優しく、けれど遠慮なく奥まで触れてきた。歯列をなぞり、口蓋を擽り、舌を繰り返し撫でていく。味を確かめるように何度もなぞられて、かと思えば唇を吸われて、後から後から湧いた唾液は、どこか血の味がした。実際に、どこかを牙で切ったのかもしれない。痛みは全く、意識の埒外にあった。ただただぼうっと熱に浮かされるような、酸素が足りずにくらりと眩暈を起こしたような。いつだったか、肉弾戦が得意な吸血鬼に掛けられた、チョークスリーパーが綺麗に決まった時のあの感覚に一番近い。痛みも何もなく、ただ意識が白んでいく……

「……おい、」
「あっ」

 また落とす気か。
 肩をつかんで引き剥がすように力を込める。名残惜しげに離れた唇との間に一瞬銀糸が見えて、すぐにぷつりと途切れてしまう。ぼうっとしているのは相手も同じで、吸い上げた精気に頬を上気させ、息を荒げていた。ごめんと呟いて、どこか浮かされたようなふわふわした口調で「きもちよくって、つい」と言い訳をしている。
 言われた内容が頭に沁みるのに少しばかり時間がかかって、理解したらはっきりと自覚できるくらいに顔が熱くなる。意識が眩む中、自身もまた、感じていたのは純然たる快楽だった。倦怠感はあるものの、情欲そのものは全く落ち着いた気がせず、引き剥がしたその手で今度は引き寄せた。何の抵抗もなく収まった薄い身体はやはり常より温かい。

 こいつは元々キスが好きなのかもしれない。
 啄むようなそれをあちこちに受けながら、ロナルドはほわんと考えている。だってこうなる前にも、唇以外には、それはもう大盤振る舞いしてくれていた……小さな可愛いリップ音を立てながら、顎に、頬に、首筋に。ゆるゆると触れるだけのキスが落とされる。時折肌を掠めていく吐息はひどく熱かった。
 ドラルクは取り込んだばかりの精気に半ば惚けていて、ロナルドは強制的に吐精させられたかのような倦怠感で、お互いに、今は緩やかにしか動けない。ゆったりと肌に触れてくるドラルクの唇は小動物の鼻面のようで、少しだけ湿って柔らかな感触はむず痒く、擽ったく、誤魔化すように努めてゆったりと息をして、ロナルドはただ受け止めていた。


 贖罪と思えば、平気だ。それから、穏やかに待っていてくれれば、きっと大丈夫。勢いがすごくて怖い時は、口付けでちょっぴり弱らせてやろう。
 少しばかり物騒な算段をつけながら、ドラルクは慎重に愛撫を繰り返していた。ただ当てるだけの優しい接触を、少しずつ、深く、濃いものにシフトさせていく。唇で触れていた肌に徐々に舌を這わせ、晒された鎖骨を甘噛みして、喉仏を唇で優しく食んだ。顎を舌先でなぞり厚い唇まで辿ると、密着した身体が警戒するように強張った。苦笑して離れる。精気を欲しているわけではなく、単純に、口付けが大層心地良くて、どうしても物欲しげに触れてしまうのだった。
 ずっと我慢できていたのに。一度得られれば、断つことは困難だ。そこまで考えてから、ふと思って口に上らせる。

「君の禁煙、成功だね」

 どれだけ近くに寄り添っても、あの、ひと吸いで死んでしまう凶悪な煙の余韻はもうなかった。どんなに舌をなぞったって、喉をじくじくと刺す鋭い苦味は微塵も、気配さえも感じられない。つい先刻嗜んだコーヒーの薫香、残るのはその程度だ。感嘆の思いで告げると「まあな」と得意げな笑みが返ってきた。随分ストレスも溜めていたようだが、ここまでくれば大丈夫だろう。うんうん頷きつつ、最近どうも気になっていることについて釘を刺す。

「飴は、舐め過ぎないようにね」
「何で」
「糖分多いし。よく口の中、切ってるでしょ」
「ああ……」

 顰めっ面をしながら飴を噛み砕く姿を、ドラルクはかなりの頻度で目にしていた。今だって、微かに血の味が残っている。口の中の傷付きやすさ、そして回復の速さも知ってはいたが、痛い思いはできるなら、なるべく、してほしくない。代替品が他にあればいいのだが。そんなことを思いながら、無言で手のひらを固い胸に当てた。軽く力を込めると、戸惑うように見返してくるものの、意図するところは伝わったようで、ロナルドは服もそのままにベッドにぱたりと倒れ込んだ。仰臥したその腰によいしょと乗り上げて、ボトムスに無造作にねじ込まれていたシャツを引っ張り出す。そのまま胸元までたくし上げてもされるがままで、ただ緊張したように、ぴんと張り詰めた顔をしている。
 見目麗しい雄に乗り上げてしどけない姿を強く行為に、ドラルクはどこか倒錯的な悦びを覚えていた。だんだんと生来の享楽主義が疼き出す。それでも尻の下に熱く脈打つ気配を感じて、腰が引けるような、怯えに近い気持ちがぶり返すのも自覚していた。同時に、気持ち良くしてあげたい、満足させてあげたいという思いもまた、胸の内にきちんと居座っている。やおら腰をずらし、奮い立たせるように熱源に己のものを押し付けた。敷いた下半身がぴくりと跳ねる。

 まだ回復できていないのか。剥ぐように衣類をはだけられても、挑発するように股座を刺激されても、ロナルドはベッドに背中を大人しく預けて、黙ってじっとしている。そのままいい子にしていてね。祈るような気持ちで心中呟き、ドラルクは晒された肌に唇で触れた。痕の残らない力加減で吸い付いて、微かに濡れた音を立てながら、雨のように口付けを落としていく。綺麗に割れた筋肉の谷間に舌を這わせれば、期待するように脚が、腰が身動ぎ出す。唾を飲む音がしっかり耳に届いて、そんな若者らしい分かり易さをドラルクは大層可愛らしいことと思っている。
 焦らすようにゆるゆるとベルトを外した。そうして寛げた下衣の内側で、下着を持ち上げしっかりと兆したものを認めて、ホッとしたような、懐かしいような、不思議な感覚に浸っている。滲み出す露に僅かに湿る部分を舌先でちろちろとなぞり、そのまま食むように咥えた。

 じっとりと濡れていく生地の感触、繊維越しに敏感な先端を舌で緩やかに擦られて、未だ味わったことのなかった感触にロナルドはぎょっとする。心臓が、うるさくペースを上げたままちっとも治まろうとせず、どうにもソワソワと落ち着かない。寝そべった体勢からことりと首を傾げるようにして、こっそり見下ろしていた。
 肌を晒して触れ合うのは、本当に久々だった。ブランクは酷い緊張をつれてきて、それより何より立場が違うという気負いがあるせいだ、輪をかけて心が張り詰める。以前こうした時にどんな距離で見つめていたか、どうやって愛撫を受け止めていたか、我が事ながらいまいち思い出せなかった。俺こんなんで大丈夫? そんな心配まであったものを、その辺りは問題なさそうだと、痛むくらいに硬度を増した自身に安堵している。先端を軽く吸われ、濡れた布越しに絡みつく指が上下にゆったりと蠢いた。もどかしいようなひりつくような、未知の刺激に情けない呻き声が溢れる。
 堪えられないといったその声を聞いて、パチンとスイッチを切り替えたように、精を搾り取り餌とする夜の生き物が目を覚ます。息も声も、更に乱してやろうと、恥ずかしいと告げたはずのその口が、今はこれ以上なく淫らな目的に使われていた。一部が色を濃くした下着を引き下ろして、ぶるんと顔を叩く勢いで飛び出したものに吸い付く。舌の窪みに押し当てては幹をしとどに濡らし、食欲と性欲が複雑に入り混じる衝動に突き動かされるまま、滲む唾液を分け与え、滴らせていく。そうしてしっとり濡れた肉茎を柔く握り込み、触れるか触れないかの力加減で摩りながら、過敏な先端を優しく舌先で擽った。
 ああ、このしょっぱい感じ。
 鈴口に舌を這わせて一番に感じるその味に、沁み入るような満足を覚える。遅れて舌に広がる苦味。言葉にして伝えるようなことはしていない。けれど、ドラルクはその味をはっきりと好んでいた。久しぶりに味わうそれに、陶然と身を震わせながら感じ入って、だから、腹筋の力だけで起き上がった相手が、滾るものを必死で押し殺しつつ後ろ手をついて見下ろしているのに、全く気付かないままでいた。

 少しずつ、力を加えながら、ペースを上げて擦り上げる。迫り上がる嚢まで優しく揉んで、びくびく跳ねるものが弾ける瞬間を心待ちに咥えていた。唇で扱くようにぬるぬると前後して、舌で割れ目をなぞり上げて刺激する。覚えてしまった好みの速度で手を規則的に動かし出して間もなく、唐突に飛んできたものにあっと声を上げそうになって、それでも反射的に受け止め、飲み下していく。その間もずっと、細い指は幹に絡んだまま勢いを緩めず擦り続けていた。吐き出される精を全て口内に受け止めて、飲み込んだ後も、道に残る分を啜り上げようとドラルクは音を立てて先端に吸い付く。文字通りしゃぶりつかれて、一連の姿を眺めている間中、むらむらと内側を炙り続けた衝動をどうにかいなそうと、ロナルドはただ努力していた。後ろ手に体重を分散させて、はあっと大きく息をついて、堪えられない震えを逃し、籠る仄暗いものを散らそうと頑張ってみる。
 物理的に放った熱だけではない、確かに身体から抜けていった何か。自分の手で義務的に出すのとは明らかに異なる満足感と虚脱感に、恍惚とため息を吐く。半端にはだけた中心では、勢いをなくした雄を細い指先が捧げ持つように支えている。多少の芯を残すそれを、薄い舌が繰り返し撫でていた。離れ難いようにも、綺麗にしてやろうと世話を焼いているようにも見えて、いずれにしても奉仕されるその感覚に背筋を這い上がるのは暴力的なまでの欲望だった。抑えようと何度も肩で息をする。もういいから。どうにも耐えられなくなりそうで、だから惜しい思いがありながらも止めさせた。シーツに皺を寄せながらずり下がり、物理的に距離を取る。ドラルクは不満げだった。

 恥ずかしいと訴えるその意味するところは、ロナルドにとって正直理解不能である。意味がさっぱり分からない。初対面で股間をわしづかみにされた過去があるせいだろうか。あまりにそぐわないその言葉を、フラットに受け止められなかった。今だって散々いやらしく性器を舐めしゃぶり、鮮やかな手捌きで搾り取ったその口で何を言うのか、どこらへんに恥じらう要素があるのか。まあ理解するのは諦めている。
 どうやら怖がっているな、とは察していた。ただ、どうして今更怖がるのか、その辺りがピンとこない。一番初めの夜は、あれは、退治されるって怯えていたのだ。今更そんなことを想定して怖がるとも思えず、じゃあ何がそんなに怖いのか、あとは自分があからさまに迫り過ぎたのか、それとも緊張のあまり恐怖を与えかねない振る舞いをしていたか……そうだとしてもそれは、ちょっと、目溢ししてほしかった。しょうがない。なし崩しの勢いじゃなく、ちゃんとお付き合いを叶えた相手と、責任の伴う関係を持つのは初めてなのだ。言ってみれば今日が初夜だとさえ解釈している。緊張のあまりボタンを外す手が震えてないか、ちゃんと止まって確かめたくらいだ。あんまり息が荒くなってどうしようもなくて、まあだからって腕上げて深呼吸始めたのは悪かった。ん? やっぱ俺が悪いのか? でも当のこいつは俺が慣れてないのなんか百も承知だろ。笑いこそすれ怖がるってのは解せない。マジで、ますます分っかんねぇ……
 高められた欲求をひとまずは解放してしまい、回るようになった頭で考えるも、同じ場所をぐるぐる巡ることしかできない。こちらからはあまり触れない方がいいのかもしれないと、横たわる時既に及び腰の結論を出していた。中心に伏せて揺れる頭をかき乱したくて、腰を押し付けて揺らしたくて、そんな衝動が沸き立つ度に唾を飲み、歯を食いしばり、手を握り締め、堪えたのはそのためだ。今また、少しだけ落ち着いた頭で考える。どうしてやるのが最善なのか。だって、怖がらせたくはない。

 まだ、鼓動は常より速い。中心に熱が蟠っている。今の内にと、肩から半端にずり落ちていた上着を取り去って、シャツを首から抜いた。汗に湿って、張り付く感触が煩わしかった。下も全て取り去ってしまいたいのに、一仕事終えて疲れたのか、腹がくちくなったためか、分厚い生地越しの太腿に頭を預けて微睡みそうになっている生き物が邪魔で動けない。そんな相手のシャツに手を掛けたくても、ボタンを外しただけで死なれた先刻の失敗がどうにもストップをかける。またシャツにトラウマができてしまった。そんなことを思いながら、頭を撫でるように髪をすいて、そっと名を呼んだ。

 思いを露わにすることを許され、その名を舌で転がす時、自分でも驚くほどに声音が甘くなるのを自覚したのは最近のことだった。無意識に呼んだその声が耳に届いて、平素とのあまりの落差に我ながらカッと頬が熱くなる。慣れない。誤魔化すように、ぐしゃぐしゃと乱暴に黒髪をかき混ぜると、閉口するような唸り声を上げて細い身体が起き上がった。

「……なにするんだ」
「こんな時に寝るな」
「寝てない」

 嘘つけ。
 咎められ、対してむずがるような、どこか舌足らずな口調で否定をしてきたその言葉に、思わず打ち返すように口に出していた。相手は特に気にした素振りもなく、マイペースに髪を撫で付けている。脱がしてぇな。そう思ってじっと見ていたからだ。初めて、そのシャツがやけに身体に沿った造りであることに気が付いた。

「なぁ、おい。まさかこれもオーダーメイド?」
「ん……そうだよ。ていうかシャツこそ一番最初に作ってもらうべきだよ」

 一番下に着込むものだろう。肌に触れるものだし、それにシャツの首回りがきちんと合ってるかはすごく目につく場所なんだから。云々。
 まだぼんやりした話しぶりだが、得意分野の話を振られて覚醒したのだろう。半ば閉じかけていた目が開き、生き生きと喋り始めた。
 服を着せるとか。今一番いらねぇ話だな。
 自分で振っておいて、げんなりとロナルドの目が死んでいく。ネクタイを締めた経験が数えるほどしかないこの若き退治人は、ドラルクがワードローブにかける情熱を理解できないでいる。脳裏に面白くない記憶が蘇っていた。いつだったか、私服の取り合わせをまじまじと上から下まで見つめられた挙げ句、憐れむような目付きをされたことがある。そんな、貶されるものではないと自負している。てめぇとは傾向が全く重ならないだけだと返すと、常にぴしっと三揃いを着込んだ黒尽くめは、ちょっとだけ肩を竦め、武士の情けと言わんばかりに話を逸らしたのだ。
 やや腹の立つ過去の回想に入り込んでイラついていたせいで、現実世界で唐突に投げ掛けられた内容についていけなかった。間抜けに口を開けて鸚鵡返しに繰り返す。

「君の誕生日にシャツを贈ろうか」
「誕生日に、シャツ?」

 そう。きちんと君の首に、肩に、胸板に、腕の長さに合ったシャツ。君はスーツも礼服も滅多に着ないだろうから、普段使いができるカジュアルよりの形がいいかな。ラウンドじゃなくて、スクエアカットがいいだろうね。

「色男に磨きがかかるな」
「……は」

 ぽかんと口を開けたままでいたのは、話の半分くらいが理解できなかったってそんな理由だけじゃない。贈り物の話をする相手が、ひどく優しい目付きをするから。未来の話を、嬉しそうに口にするから。自分の胸に怒濤のように押し寄せてきた感情が何なのか判別できず、咄嗟に呆ける。ただその優しい瞳を、愛しげに細められた目をずっと見ていたいと思うのに、当たり前のように姿を称賛する言葉に遅れて気付き、顔中が火照った。今すぐ冷水を浴びに行きたくなる。見ていたいのに、見ていられたくはなくて、ものも言わずに薄い身体を引き寄せ、抱き締めた。何を恥ずかしいと訴えていたのか。相手の心の動きが、僅かながら理解できた心地がする。
 返事をしない無作法を特に責めもせず、ドラルクは黙って熱い腕に収まっていた。










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