Others | ナノ




「あーつかれた」
「お前何もしてねぇだろうが」
「しただろ。滅茶苦茶クレバーに突っ込み入れて、バリバリ役に立ってただろうが」

 真夜中を過ぎている。
 すっかり慣れた調子で退治人の後ろに続き、ドアをくぐる際には外出中を示すプレートを忘れず回収する。定位置となったソファに頽れて、くたりと横たわった。給料もらったっていいと思う。そんな呟きを個人事業主であるロナルドは黙殺した。おもむろに棒付きキャンディの封など切って咥え、どっかり机に落ち着いている。ソファの座面に腹這いになり、頬杖をついた痩身が「今日で7日目」と笑った。


 発売延期のニュースも下火になり、当初は阿鼻叫喚だったネット界隈では応援コメントが目立つようになってきた。
 一度公表したものはほいほい撤回できるものでもない。間に合いそうなんですが。ロナルドが恐る恐る電話連絡を入れた先、担当編集者はいつもと同じ調子で淡々と、ほんの少しだけ満足そうに、新たな〆切日を告げた。今度、パートナーの方と是非お会いしたいです。最後にそう締めくくられ、ああ、こいつの手綱も握る気か……と、思惑を推し量ったロナルドは自身の担当の抜かりなさにひっそり慄いた。

 せっせと執筆に勤しむ作家先生を、揶揄いと励まし半々に見守る影がある。今は友人として、遊びに来たり来られたり、仕事に付き合ったり茶々を入れたりして、それなりに愉快に過ごしているドラルクだった。

「君、いい人ができたのかって噂されてるけど」
「どこで」
「ツイッター」
「何でだ」
「禁煙宣言したからじゃない?」
「俺的には今すぐにでもできてほしいんだけどな」
「ねえ、駄菓子屋にあるみたいなでっかい瓶入りの飴買おうよ」

 自分から振ってきたくせに雑に話題を切り替える。そのつれなさに、ついさっき咥えたばかりの飴をバリンと噛み砕いてしまった。ソファに寝そべっていた影は黙って起き上がる。少しだけ緊張したようなその表情を認めて、ロナルドは頭をかいた。今は思いのままに、気持ちを口にするわけにはいかなかった。約束してしまったせいだ。もう交わらなかったかもしれない線を、ロナルドは努力の末に引き寄せ、沿わせている。





「お前さ、ずっと気付いてただろ」
「なにが」
「性格わりぃぞ」
「もう、喧嘩買う元気ないんだけど……」

 むにっと頬を潰されて、唇が尖る。恨めしそうに見つめられて、ドラルクは察した。ああ。だって。

「説明しようと思ってたんだけど、何かタイミングつかめなくて……」
「あ?」
「口って、一番効率よく精気を貰えるんだよ。下手するとね、死なせちゃう」
「……はっ?」
「いや、実際そんな目に遭わせたことはないよ。ギリギリな時はあったけどさ。君はまず大丈夫だと思うけど、ちょっと、何ていうか」
「……何だよ」
「あー、あの、どうしてもわーっと吸っちゃって、そしたらそういう……その、そっちの元気がなくなっちゃうから」
「……え……」
「それじゃつまんないんだもん……まあ、君が煙草臭かったってのもあるけど」
「悪かったな…………その、わーってやっちまうの、特訓とかできねぇの」
「脳筋な発想するなぁ。さてねえ。試したことないから分からないよ」
「……それ、吸血鬼相手なら大丈夫だったりすんの」
「ええ? いや、そんなことないよ。あ、滅茶苦茶力がある高等吸血鬼なら、平気かもね。私の父親とか祖父みたいに」
「えっ……お前家族ともそういう」
「はっ? んなわけないだろ! 私の他は普通に吸血鬼なんだよ。こんな自由人身内じゃ私だけだ、みんな紳士で真っ当なんだ」
「自分が真っ当じゃない自覚はあるんだな」
「うるさいな……仕方ないだろ。何か造りが違うんだもの」
「……で? そんなレベルの高等吸血鬼なら平気なわけ」
「まだ続くのかその話……あー。かもねってだけだよ」
「ふーん……あのよ。その、お前の家族って、近くに住んでたりすんの」
「うん? 近くではないけど……たまに城に遊びに来るよ。こないだ君が一気に半分くらい食べてったニュージーランドのバターも、父のお土産」
「…………バター」
「いつもはね、お土産貰ったら何か作って、家族の団欒過ごすんだけど、こないだは君が来るって分かってたから。追い返しちゃってさ、すごく拗ねられた」
「……………………」
「そうだ。父は君と、少し似てるところがあるよ。気が合うかもしれないって、引き合わせようかと思ったこともあるけど」
「えっ」
「私、そこでどんな顔してればいいか分かんないから、やめた」
「そうか………………親父さん、でっけえ蝙蝠に変身して訪ねてきたりする?」
「あれ、君会ったことあったっけ?」
「……ない。ねーよ……あとそのバターの日だけどな、俺の人生最悪の日として胸に刻まれてるから」
「私だって失恋記念日だ。君、怖かったよ。ずっと不機嫌でさ。かと思ったらいきなり何か言い出すし」
「何かとは何だよ……人の純情を。よくも振ってくれたよな」
「痛み分けだ。私だって死ぬかと思った」
「てめーは自業自得だろ。余計な策略巡らすから。最初っからちゃんと喋れや」
「気を遣ったんだ。お子様は年長者が守ってあげないといけないからね」
「変なとこ年上ぶってんじゃねぇ。精神年齢ガキのくせに」
「正真正銘のガキに言われたくない」
「……やめようぜ」
「おや。なかなか大人じゃないか」
「てめぇよりはな」
「……やめよう。本当に。また罵倒大会になる」

 つい先刻一頻り罵り合ったばかりだった。お互いが咳き込んだのをきっかけに沈黙が落ちたのだ。そこでロナルドは3杯目のコーヒーを淹れに立ち、だんだんと疲れてきてしまっていたドラルクはソファにぱたりと伏せた。2人掛けのソファなもので全身はとても伸ばせない。膝から下は折りたたみ、器用に座面で丸くなる。戻ってきたロナルドは見下ろして、それからマグカップをテーブルに置いたのち、おもむろにドラルクの頭を持ち上げて除け、座り、そして自身の膝の上に戻した。悲しいくらいに固いとドラルクは文句を言って、それでも以降ずっと、ごりごりの筋肉枕に頭を乗せたままで会話を交わしている。これは友人の距離ではないかもしれない。そんなことをまだ考えている。今更だった。

「あのさぁ……何でてめぇが失恋すんだよ。普通に考えたら両想いの日だろ」
「あー。うーん……君が出てって、ホッとしたのが半分、失恋気分が半分。だったかな」
「おい。何にホッとしたって?」
「一緒にいて、いきなり失くすのが一番イヤだもの。下手したらほんと、死んじゃう。ショックで」
「ああ……そ」
「失恋しなきゃいけなかったんだ、私は。手放せて良かったって、捕まってホッとする犯罪者の気持ちだったよ」
「……んだよ、それ……」
「墓まで持ってくつもりだったけどね。私、多分、君が初恋なんだ」
「はあっ!?」
「動かないでよ。あーあ。ほっそりした、うなじの綺麗な淑女のために、用意してたんだけどなぁ」
「……は? 何を」
「椅子」
「はぁ?」
「まさかこんなチンピラ退治人を座らせる羽目になるなんて……」
「何かよく分かんねぇが、喧嘩売られてんのか俺は」
「いや、愛を囁かれているんだ」
「テキトー言ってんじゃねぇ」

 本当なんだけどな。
 もう何かヤケクソだった。尋ねられるまま、もういいかとぶちまけている。
 湯気の立ち昇るコーヒーを口に運ぶ節の目立つ手。動く喉仏。触れた全部から伝わる体温。マグカップを取ったり置いたり、そうやって身体を折る度に上半身が覆い被さるように近付くのが辛いような嬉しいような、何だかもう、よく分からない。疲れてしまって、眠たくて、一度は本当に心を許した匂いがまたすぐ傍にあるのがいけない。精気を貰えたら、なんて、そんな欲求が頭を擡げてしまう。抑えるように口元に拳を当てて、目を閉じた。

「お前、産めたりしないの」
「……なんの話」
「ガキ。赤ん坊。子どもの話」
「……産めません。産めるわけないだろ」
「何かお前、よく分かんねぇ生きもんだし、できそうな気がすんだけどな」
「……」
「寝るなよ」
「あぁ。あんまり話がぶっ飛びすぎて、つい」
「飛んでねぇ。繋がってる」
「……第一、私に産めるなら何も悩んだりしてないよ」
「ああ、そっか」
「そう」

 たらればを話したって仕方がない。でも、この男との間で命を育んでいけたら。それは温かく、満ち足りた想像だった。手袋に押し付けた唇が、勝手に笑みの形に持ち上がるのが分かるくらい。切なくなるくらい。

「お前、友人として、仕事上の付き合いなら続けてみようって言ってたよな」
「……うん」
「無理っつったけど、撤回するわ」
「そう」
「だから、ほら」
「あ、?」

 肩をぐっとつかまれて、寝かせていた身体をあっさりと起こされる。解けた髪が一筋、はらりと額に落ちた。微睡みかけていた身体はぐんにゃりと頼りなく、座面で窮屈そうにたたまれていた脚をほどいて下ろすドラルクが目をきちんと開くまで、しばらく時間が必要だった。インスタントコーヒーの匂い、それから飴の甘い香料が鼻をかすめて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「ちゃんと起きろよ」
「うん」

 そっと、壊れ物を扱うように慎重に、両手を取られて目を向ける。血色や肉付きが、そこ数時間で劇的に変わるわけもない。それなのに今夜初めて見た時に感じた荒んだ雰囲気はすっかり鳴りを潜め、寝不足で過労気味な、ただのイケてる兄ちゃんがそこにいる。ドラルクはようやく、無理に離れたことに対する後悔を感じ始めていた。引き剥がして血を流し、体より心を先に死なせるような、そんな痛みを互いに覚えてまで本当に実行すべきだったのか、考えた。考えて、やっと、謝るべきなのかもしれないと思った。傷付けてしまったことを。自分から手を伸ばして、甘い水で酔わせて、散々甘やかしておきながら、これでもかと痛めつけて、放り出したことを。

 今更のように胸を苛む罪悪感に、大人しく口をつぐんでいる。そんな細面を眺めてロナルドは「疲れているのだろう」と労りたい気持ちになっている。へなちょこだしな。精気を分けてあげられればいいんだが。けれど今度こそ順番を間違えない、そう決めているから、安易に情に流されたりしない。してはいけないと自分を奮い立たせた。
 ドラルク。
 呼んだら、夢見るようにぼんやりと揺れる目を向けられる。何か考えに沈んでいたらしい。きちんと焦点が合うまで待って、細心の注意を払って、薄い両手を包み持つ手に力を込めた。

「お、ともだちから、お願いします」
「は」

 ロナルドの誠意溢れる、精一杯の告白だった。











 仕事上の付き合いだけでも続けられないか、訊いてみようと思ったんだよ。友人としての立場でね。

 確かにそう言った。
 つらつらと、ドラルクは自分の発言を振り返っている。新刊の、今後のロナ戦シリーズのためにそう提案したのだ。あくまでも限定的に。その役目以上のことを請け負う気はなかった。少なくとも発言した当時は、そのつもりだった。何と無謀なことを口にしたのだろう。あの時「無理だ」と即答した青年の方が、余程考えが深い。確かに無理だ。こんな距離で、こんなに愛しい相手に指一本触れられないなんて。
 ちょっぴり泣きたいような気持ちで、机に向かう事務所の主を眺めた。仕事中に、プライベートは持ち込まない。そういう約束だった。そうでないと仕事にならなかった。向こうはともかく、自分が。だから誓わせた。仕事中は絶対にそういう空気を出さない。口説かない。好きって言わない。
 そう、あくまでも向こうの言う「おともだち」は出発点だったから。

 おともだちからお願いします。そう請われて「はい」と応えたのは確かに己だ。だって断る理由がなかった。居城からわざわざのこのこ出て来たのは、それが目的だったのだから。真剣な顔で返事を待っていた男の、ホッとしたように笑ったその顔は晴れ晴れと美しく、可愛らしくさえあって、思わず見惚れた。そうして直後「ダチから彼氏に昇格できるように頑張る権利、俺にはあるよな」と確認されて固まった。以降、プライベートにおいてはほぼ四六時中、熱烈にかき口説かれる日々が続いている。


 最近よく、陥落する自分の幻覚が見える。今粘っているのは、自分で自分を納得させるのに必要な時間という、ただそれだけなのかもしれない。相手もそれを承知で「こうしてるこの時間こそもったいないと思わねぇのか」と、何とも小賢しい搦め手で攻めてくる。どこまで意地を張りやがる、と。
 だんだんと別の心配にシフトしていることを、まだドラルクは打ち明けていない。応えてくれって。頼むから応えてって、祈るように真剣な目を、顔を向けられるそれだけで心臓が止まりそうになる。こんな状態で肌を許して、何ができると言うのだろう。きっと触れられるそばから燃え尽きて、灰になる。実際に、手を握られて応えを迫られたそれだけで何度死んだか分からない。よくよく愛想を尽かされないものだと不思議に思う。
 当惑と歓喜と慕情。それからお前は何のために頑張ったんだと、今からでも遅くないと粘る理性の声。その時々で、それぞれが、うねる波のように大きく盛り上がってドラルクを押し流す。それでももう、譲れない思いが自分の芯に居座ってしまったことを自覚していた。だから常に纏わり付くのは罪悪感だ。人類の至宝みたいなこの男をとうとう手離してあげられなかったという、忸怩たる思い。足を取られそうになりながら、悪あがきと知りながら、諦めるのはまだ早いともがいている。





 ロナルドは決して気が長い方ではない。むしろ短気だ。自覚もあった。
 仕事に区切りをつけて椅子に座ったまま伸びをして、それから席を立つ。こっちが事務作業に集中している内、ソファで丸くなって眠ってしまった人外の傍に寄る。
 イモ虫だってこいつよりかは逞しい。1日働いたら1日お休みが欲しいとか舐めたことを抜かす根性なし。鼻を鳴らして見下ろした。
 触れたいけれど、今はもう、許しを得てからじゃないとどうにも落ち着かない。ソファの脇に屈み込んで、安心したように眠り込む無防備な寝顔を眺める。ダーティだったりシモ系だったり、退治案件には精神力を試されるものも多い。仕事に付き合わせる間はどうしても、眉間に皺の寄る厳しい顔ばかりを見る羽目になる。全部のパーツから力が抜けた、親の庇護下にある子どものような寝顔は、同衾していた頃だって、飽きもせずよく眺めて過ごした。そうしてこのところよく思い出す。自分が落とし穴に完全に落ちた顛末、トドメを刺された日のこと。





 器用に丸くなるものだと、感心する気持ちでいた。ずっと同じ体勢でいるのはそれなりに辛いものの、引き受けたからにはきちんと勤め上げなければと腕に力を入れ直す。
 胎に含まされたものを取り込んでしまおうと、内側ではきっと今も体力を消費している。今はマントで隠されてはいても、外側だって可哀想な有り様なのをロナルドはちゃんと承知していた。自分の脚の間、腕の中に収めた生き物が死んだように静かに眠るのを見守りながら、罪悪感がふつふつと湧いて、ただそれと同じくらい抑えられない好奇心がうずうずと騒ぐ。首を捩って、息がかかるくらいすぐ傍にある顔を窺う。名残りだろうか、目元にはまだ色が残っていた。つい先程、余計なことを言って怒らせてしまったせいかもしれない。

 行為の間中ぺったりと伏せられていた耳は、今はしゃんとしている。あまりに薄くて、それなのに芯が通ったみたいにぴんと天を指す造りが不思議で、落ちかかった髪をかき分け、そうっと触れてみる。耳朶にさえ膨らみはなく、先にいくほどますます薄い。
 ふにふにとこりこりの中間のような感触に無心で集中していたら、意識に上らないくらい穏やかだった息が乱れて、微かに唸り声が漏れた。身動いで、頬を押し当てていた肩口に、顔をさらに埋めている。不埒な手から逃れようと、居心地の良い場所を探そうと、鼻先をぐいぐい押し付けてくるその力はぎょっとするほど遠慮がなくて、寝惚けているんだろうと分かった。人に馴れきった動物じみた動きに、少し笑えてしまう。むずがるような不機嫌さが滲む吐息に、宥めようと半ば反射で手のひらを伸ばしていた。
 髪の流れに沿ってしばらく頭を撫でていると、徐々に凭せ掛けられる重みが増して、それから埋もれていた顔がゆるりと表を向く。マントが割れてほっそりした手が伸び、こちらの腕を辿って、探り当てるようにしてまだ髪に当てていた手を取られた。

 ああ、頭は駄目だったかなと大人しく力を抜いて任せていると、そのまま頬に持ってきて当てている。どうやら暖を取りたいらしい。ひやりとした感覚があるから、向こうはきっと温かく感じているだろうと、そんなことを思う間に、見るともなく眺めていた眼下の表情がうっとりしたように緩み、柔らかくほどけるまでを間近に認めて、鼓動が跳ねた。直後に、何故だか胸が圧されるような、苦しいような感覚に囚われる。花が綻ぶような笑みだった。半覚醒の意識も朧な状態で満足げに笑うその様を、ちゃんと正面から見たい。そう思って、けれど今は動けなくて、ただ全身で呼吸を、体温を、預けられたその重みを感じていた。





 向こうが心から満足して気を許す、そんなものを自分が与えられるならいくらでも、望まれるならいくらでも差し出す。そう思ってしまったのだから仕方ない。何に負い目を感じて躊躇っているのだか正直なところよく分からないが、素直に享受してもらいたいと考えて今日も差し出す。まあ、時間がかかるのはしょうがないと、その点は少しだけ共感する。臆病になる気持ちなら、自分にも理解できるから。
 どっからどう見ても「私も」って顔なのに、今日も絶賛抵抗中の吸血鬼っぽい何か。ぎゅっと目を閉じて顔を背けていても、いっそ可哀想なくらい、首筋まで真っ赤に染まってる。

「いい加減、観念しろや」
「うぅぅ……いいから君、もう離して」

 耐えられないと死んでしまうことはあっても、自分から振り解こうとは決してしない。膂力の関係上できないせいでもあるが、抵抗らしい抵抗を見せたことはない。憎からず思われていることに、疑いはもうない。問題は、あくまで向こうの内側における葛藤だと、ロナルドにも分かっていた。しかし。
 こうしてる間にオッサンになっちまいそう。呟いたら「駄目じゃないか!」とドラルクが騒ぎ出す。

「てめーがさっさと腹括ればいいんだよ!」
「いやだってそれは色々と問題が」

 どさくさで立ち上がり逃れた影が、けれど勢いを失って目を逸らす。ロナルドも立ち上がって対抗した。分かっていたってイラッとくる時はある。それでも、ロナルドには余裕があった。

「まあ、仕方ねぇか。なんたって、初恋だもんな」

 へっ。
 勝ち誇ったように傲然と腕を組み、わざわざ顎を上げて見下ろした。さすがにそこまで口に出されては、ドラルクも黙っていられない。カチンときて、思わず伝家の宝刀を振り下ろした。

「君なんか、もう私にプロポーズまでしてるんだからな」

 ハッ。
 鼻で笑い、ドラルクはつんと顎を反らして応戦した。互いに見下すかのように対峙したのは一瞬で、目を剥いたロナルドは大音声で反論する。

「してねぇよ!?」

 まだしてねぇ……よな? えっ。いつ? いつだよ。声は一気に小さくなり、腕を解いてオロオロし出す。
 自分でも自信がなくなっちゃってるじゃないか。ドラルクは呆れた。でもまあ、事実だもんな。いつ気付くだろうか。










 ああやっぱり殺された。
 目が覚めたら原型がなかった。分かっていたって何だか悲しくなってしまう。少しだけ、心が通じ合ったと思う瞬間だってあったのに。これだから身体の交わりは厄介だ。それが面白くもあるのだけれど。どれだけ長く生きたって、傷付く時は傷付くものだ。
 すっかり再生してしまい、もぞもぞ身じろいだところで、自分のマントの上から更に、すっぽりと布で覆われているのに気付いた。えっ何これずだ袋? 包まれて燃やされる系? それともセメントとかに混ぜられちゃう? えっ嫌だ!
 恐慌をきたす寸前、布の上から手と声が降ってきた。

「目ぇ覚めたかよ」
「あっ? ああ、退治人くん」

 まだいたの?
 これなに?
 今からトドメ刺す?

「何のネタにもならねぇクソ雑魚、退治したって仕方がねぇだろ」
「悪かったな」

 私だって好きでこうあるわけじゃないわ。反発心が湧き起こり、ブツブツ文句を言いたくなる。だから人違いだって言ったのに。恐るべき吸血鬼なんてここにはいない。帰れ帰れ。とっとと別の獲物を探しに行け。
 実際に小声で文句を零していると、すぐ近くにいるらしい退治人が何かを飲み込むように、躊躇うように、言い辛そうにしているのに気付く。言いかけては引っ込めて、何度も繰り返すものだから気になった。何だ。謝罪か。受け入れんぞ。いや言い方にもよる。言ってみろ。
 そんな居丈高に喧嘩を売るなんてことはちょっと恐ろしくてできず、黙って向こうの出方を待ってみる。相当な間を置いて退治人が口にしたのは「名前……」っていう問いかも微妙な一言だった。
 名前。
 名前ね。
 私の名前は知っているだろうに。ミドルネームとファミリーネームまで言えってか。いや違うな。これは私のことじゃない。さっき職業で括ったせいだ。もう何度目だったか覚えてもいないが、最中にもせがまれたのを思い出す。案外とロマンチストなのかもしれない。

「……ロナルドくん」
「おう」

 布越しでも温かな手のひらが、満足げに当てられた。よくできましたというように。どう判断したものか困惑の方が大きくて、困ってしまう。だから強引に話を戻した。

「ところでこれ、なに?」

 目覚めた時からドラルクがロナルドの姿を視認することは叶わない。すっぽりと覆われた厚手の布地は、おそらく向こうのマントだった。周囲はちりちりする気配に満ちている。お前のいるべき場所じゃないと、無言の圧力が身体中を刺すのを感じていた。陰ではあるのだろう。ただ、陽光の燦々と降り注ぐ時間帯にもかかわらず外に身を置くことに、本能的な恐怖が煽られてどうにも落ち着かない。この退治人に守られていなければ、無限に死に続けていたかもしれない。ドラルクは背中にじっとりとした嫌な汗をかいている。

「ああ。お前このままだと死んじまうだろうから。とりあえずの日除け」
「……それは、どうも」
「で、お前棺桶で寝てんの? 普通にベッドで寝んの?」
「棺桶だよ」
「じゃあ運んでやるよ。どこだよ」
「………………秘密」

 はぁ? って返ってくるのに、こっちの台詞だって心の中だけで返した。何も知らない人間め。退治人のくせして勉強不足だ。ドラルクはひとり頬を擦った。

「何だよ。別に、闇討ちなんてしねぇぞ」
「地下まで行ってくれれば、それでいいから」

 退治人は納得したようで、そのままマントに包まれて持ち上げられた。荷物よろしく抱え上げられるかと思ったら、背と膝裏を支える、いわゆるお姫様抱っこをされて死ぬかと思った。とりあえず奥へ。指示を出しつつ、密着した身体の温度だとか息遣いだとかに滅茶苦茶落ち着かない気分になる。まだ身体が覚えてる。どれだけ小さく身体を縮めようとも、動いているのだ。生々しい、滑らかに筋肉の伸び縮みするしなやかな腕、密着した身体から伝わる息遣いに、全く逆らえずただ組み敷かれるだけだった屈辱と、それなのに散々引きずり出されては全身に降り注いだ快楽が甦りそうになる。汗と、他の諸々がそのままなのも辛かった。鼻がバカになりそうだ。

 何かが変わってしまったような気がした。昨日までと同じ、自分の城のはずなのに、それでも匂いが、気配が、空気が違う。朝だから。そんな理由だけなのか。何か得体の知れないものが放たれてしまった気がしてならない。扉が開いて、外に転び出た、何か新しいものの匂い。封を切ったばかりの、溢れんばかりに零れ出て、もう戻らない、そんな何か。

「どうもありがとう」
「……いや」

 地階への入り口まで来れば、あからさまに温湿度が変わる。もう大丈夫と身動ぎをして、下ろしてもらった。自身のマントを受け取った退治人は、神妙な顔をしていた。多少は罪悪感があるらしい。立ち上がり、そうしたら足がもつれてたたらを踏みそうになるのを、腕をつかんで支えてくれる。立ちくらみだった。ため息混じりに礼を告げ、杖の代わりにと遠慮なく退治人を使う。

「ちょっとだけ、貸して」

 呟いた言葉に、きちんと返事はなかったけれど、戸惑ったような吐息と気配を了承と受け取って肩に凭れ掛かる。だって君のせいだからな。

 抱きつくように凭れたまま、肩越しに別世界を覗き見る。縁遠く、恐ろしさしか感じない日の光がホールに差し込んでいた。虚空に散る微細なチリに反射して、きらきらちらちらときらめいている。胸騒ぎに近い小さな興奮に、鼓動が少し速まっている。これから始まる何かに向けて、静かに準備を始めるように。不変のものなんてこの世にない。途方もない時間は、全てのものをやがて粉塵へと変えていく。夜の理で生きる自分は、死ねばそこまで一足飛びに行ってしまうけれど。
 多分、私たちも、このままじゃいられないんだろう。不安と緊張と、それから少しだけワクワクしながら、背筋を這い上がった震えに身を任せた。










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