Others | ナノ




 いつだったか。
 まだアヘン窟の恐怖を甘く見て、抵抗したがっていた頃の話だ。見てしまえばさすがに我に返るだろうって予想を立てて、積極的に暴きにいったことがある。それはもう、激しい戦いになった。性器に口で触れた時の比じゃないくらい滅茶苦茶に抵抗されて、そうなるとこっちも何か意地になってしまって、最終的には全くやらしい意味じゃなく互いに組み合って息を乱して、まあ向こうが力で勝てるわけもないからあっさりレイプ再びみたいなことになった。屈辱的な姿勢を強いて、震える狭間を暴きたてて、ただし予想は完全に、外れに外れた。
 雄のくせして雄を受け入れるそこはこれまでお世話になってきたエッチなあれこれに勝るとも劣らない興奮をもたらした。もっとじっくり見たくて薄い肉を無理矢理つかんで割り開いて、そうやって強引に目前に晒されてひくつく様子にどうしようもなくなって、衝動のまま舌で触れたら甲高い悲鳴が耳を打って、びくりと鞭打たれたような気持ちになった。何回も身体を重ねたけれど、それでも今まで聞いたことのなかった種類の声にびっくりして、反射的に舌を引っ込めていた。けれど、諦めきれずに、代わりにと指先で触れて、それで解放はされないのだと悟った相手は、その頃にはさめざめと泣いていた。

 普段は幾重にも守られている箇所は外気に晒されていかにも頼りなげだった。上気した周辺の肌と比べてもはっきり血の色を透かす薄い皮膚。なぞると籠った呻きが短く漏れる。ささやかな下生えはとてもそこまでを隠すには至らず、柔らかな薄い皮膚が色付いた様は、こうして尻を強引に割り開けば丸見えだ。指先で辿り、自分を呑み込む縁をそうっとなぞり上げた。ここが、いざ雄を含ませられれば、不安になるくらい引き伸ばされる。ぴったりと張り付く。それを、触れた感覚で知っている。今度はそれも、じっくりと見てみたくなった。

 早く蕩けさせて、押し入りたくて、逸る気持ちのまま、何も考えずに舌を尖らせてねじ込んだ。瞬間叫んで、やっぱり悲鳴を上げて暴れる身体を力ずくで押さえ込んで、性器を握り込んで黙らせる。それでも囁くように訴えていた。いやだ、いやだ、繰り返されたその言葉には完全無視を決め込んで、息を吹きかけて、襞のひとつひとつを舌先で伸ばすように、執拗に辿った。何度もなぞり返す内に、ぴくぴく揺れるものにどんどん血が集まっていくのが伝わって、安心した。何だよ、ちゃんと悦いんじゃないか。快楽にてんで弱い奴。勝手に背を押されたような気持ちになって、濡れ始めた割れ目に指を滑らせ、幹を擦り、蕾には舌を差し込み擬似的な挿入を果たした。抜き差しを模してぬるぬると前後させれば、そう間を置かずに身体が揺れて、擦り上げていたものがあっさり弾けた。びくびく揺れながら吐き出される度、悲痛な声が一緒にシーツに散らばって、ぐったりと力の抜けた身体が沈んで、そうして、もう一度抱え直そうと伸ばした手を、ぱしんと叩かれてびっくりした。こちらの手を止めさせようとすること自体滅多にないし、あったとしても、そんな時は大抵穏やかな、優しい触れ方をする奴だから。
 力はほとんど感じなかった。多分入らなかったのだ。ただ、射込んでくる目の鋭さに気圧されて、手を引いた。涙でまだ潤んでいても、怒りに燃えているのはよく分かった。嫌だって、言ったのに。それだけをようよう言って、あとは言葉にならなかった。布団にぎゅうぎゅうにくるまって、内側でひたすら泣いていた。そこに至ってようやく、自分が酷い失態をしでかしたのだと悟って、あとはもう、平謝りするしかなかった。

 君にこんなことさせたくなかった。
 落ち着いた頃に、真っ赤な目をしてぽつりと呟いたその意味を、俺は随分と図りかねて悩んだ。奴なりに俺のことを大事にしてたってことじゃないのかって、そんな解釈はできないだろうか。これ以上ないくらい無様に振られた今や、いよいよもって解釈のしようがない。ただ、以降、意識して優しく触れるようにしたつもりだった。満足げに享受して腕の中で寛ぐ姿に、罪滅ぼしができたかどうか、心中推し量るのが癖になっていた。果たしてちゃんと相殺されたのか。今となっては確かめようもない。











 深く鮮やかなマヤブルー。
 私のお気に入り。
 次に会う時はどんな姿に嵌め込まれているだろうか。
 髪は雪のように冷ややかな銀色なのに、あの男の目は南の海によく似ていた。陽光にきらめくその青色を自分の目に映すことは叶わない。それでも、むせ返るような生命の匂いがする暑い国の海の気配を知っている。恐ろしいほどに深い色をした、うっかり近付けば引きずり込まれそうな夜の海。一度足をとられれば、抗うことは難しい。そんな瞳を覗き込む度に、かつて栄華を誇っただろう、熱帯地域の文明を想起した。チョコレートの魔力をキリストの遥か以前から知っていた、太古の息吹を伝える国。発見された遺物に施された神秘の顔料。何百年と時を経てなお瑞々しく美しい、南国らしい快活な青。
 私のマヤブルーと、それを口にしたことはない。心の中で唱えるだけ。あの青を受け継ぐ子どもを見るのが楽しみだった。女の子だといいなと思って、やっぱり洒落にならないから男の子でいいやと勝手なことを思う。長年生きてきたことで蓄えた知識のひとつとして、娘に対する男親の尋常でない愛の深さを知っているから、容易に想像ができた。彼の娘に近付こうものなら、自分は迷いなく銀の弾丸をぶち込まれるだろう。息子なら、まあ何とか。頑張れば、こっそり仲良くなれるかもしれない。そんな想像をして、楽しんだ。想像だけなら、自由だ。もうずっと、そんな想像に浸かってやり過ごしている。棺桶から這い出すのに、1週間ほど、そうやって、心を甘やかさないと駄目だった。

 マヤブルーは世紀を越えて受け継がれてきた世界の宝だ。
 己のもとにとどめて自分ひとりで楽しむなんて、そんなのあまりにもったいない。人の世で、人の胎に受け継がれれば、永遠を越えていける。うっかり盗もうとはしたけれど、あるべき場所にきちんと戻せた。自分なりの方法で守ってあげられた。取り縋り我を失うなんて、そんな見苦しい真似を見せずに済んだ。
 深入りするな、溺れるな、返してやれ。責め立ててくる理性の声に聞こえないフリを決め込んで、あのまま耽溺していれば、人の子なのだ、ひとたびこの世で燃え上がれば、自分たち夜の住人が瞬く間に炭になる。そうして手放せないまま死なせでもしたら、きっと自分自身を許せなかった。

 ドラルクは自分の行動に満足していた。自身を唾棄せずに済んだと安心していた。よく頑張ったと心から褒めてやりたかった。己を生んだ血族に恥じない振る舞いをした、その自負が辛うじてドラルクを生かした。例えようのない喪失感に、半身を失う思いがしても。痛みは薄れるはずだからと。だってあの青は、今日も元気に人の世界で生きている。


 3日と空けず注がれていたはずの精気は、1週間でほぼ失われ、ドラルクは元の死にやすい身体に戻っていた。
 ひたすらに眠り続けて、目が覚めてもまだ眠る、そんな日々をようやく終えて、少しずつ起き上がれるようにはなっていた。折りを見ては棺桶から抜け出して、洗濯したり、誰も歩かなくとも薄ら溜まる城内の埃を払ったり、くすみかけたクリスタル製のグラスを磨いたり、そんな馴染み深い労働に身を任せてリハビリを試みて、けれどそんなことをしていても、向こうは特に問題ないだろうかと、どうしたって考えてしまう。
 ご飯をきちんと食べているだろうか。
 昼の子なのに、吸血鬼に合わせて夜型の生活を送って、それでも規則的に過ごせばいいものを、気を抜くとすぐ生活のリズムを崩していた退治人を思い出す。何時間もPCに向かっていた、前のめりな姿。
 ああ、そういえば、新刊の準備をしていた。手に取れるのはいつ頃だろう。
 まだ鋭く胸を抉る、けれどどこか甘い痛みを覚えつつ、そんなことをぼんやりと思い出し、棺桶に戻った際に寝転びながら検索してみる。そうして、サマリーに綴られた内容に眉を寄せた。











 最初は空白だった。底知れない穴みたいな。勘違いだと突き放された瞬間からずっと、ゆらゆらと足元が定まらなかった。夢の中にいるように、上手に地面を踏みしめられない。踏んだはずの階段が本当に自分を支えてくれるか不安で、玄関までいつもの倍は時間をかけて降りた。針を落としたって響き渡るくらいにしんとした城内で、振り返って気配を探ろうとしてもさっぱり感じられずに、初めて訪れた時よりも余程、この城を知らない場所のように遠く感じた。

 しばらくは、使いものにならなかった。依頼が入っていて良かったと思う。そうでなければ、それこそアヘン窟の廃人みたくなりかねなかった。外に出て、すべきことだけを考えていれば、何とか自分を取り戻せた。問題は仕事の後だ。意識の隙間、鮮烈に繰り返される。言葉。仕草。硬く冷たい表情。好きじゃないときっぱり拒絶されて、その瞬間からずっと、猛烈に後悔している。言わなきゃよかった、見なければよかった。そのまま飲み込んでさえいれば、こんな思いはしないで済んだ。それじゃ根本的な解決になってねぇだろと分かっていても、内側で子どもの自分が駄々をこねる。何で言った、何でキスした、何で我慢しなかった。そのまま何もしなかったら、きっと今でも一緒にいられた!
 全部がひっくり返ったあの日のことが、どんなに止めようとしても自力では止められず、延々とリピートされる。その度に、毎回きっちり同じ痛みを覚える。どんなに繰り返されても、全く薄れる気配もない。選ばれなかった。切り捨てても構わないものだった。何より大事にしたいものに、そうは思われなかった。その事実が何度でも心を打ち砕く。
 自分には何の価値もないと思えて仕方なかった。











「君が好きなものを集めたら、お子様ランチプレートになるよね」
「通はみんなお子様ランチが好きだ」
「気恥ずかしいからって壮大な嘘をつくな」

 嘘じゃねぇ。みんな、てんで足りないから頼まないだけだ。または年齢制限があるから頼めねえだけだ。理想がぎゅっと詰まったすげぇワンプレートランチだろ。俺の理想のメニューはだな……ってそんなことを意気揚々と語る。

 瞳がキラキラしてた。行為の名残りで頬は赤く、明かりを受けて髪がピカピカしていた。不意に、衝動が胸を突き動かして、焦燥感に全身が焼かれた。今すぐ彼を連れ去って、どこか、誰も知り合いがいないところに行こう、行かなくちゃって、喉元まで言葉がせり上がる。やましさに胸を焦がして、掠め取った財宝みたいに棺桶に隠して、海を渡ろう。山を越えよう。誰にも捕まらないように、何にも知られないように。彼を隠してしまわなければ。甘美な夢想は一瞬で脳を灼き、抗い難い力で全身を侵した。指先にまで痺れるような熱が行き渡る。
 けれど、その時私は立ち上がって彼の腕を引くことはなく、代わりにまだ熱さを残す肌に唇で愛撫を施した。すっかり食い気に切り替わっていた意識を無理矢理色気に引き戻して、乗り上げて貪って搾り取った。何も考えられなくなるくらいに溺れたかった。
 何もかもを捨てて、未来永劫襲い来る自己嫌悪にも耐えて、代わりにただひとりの男を背負い込む生き方が選べたら、私にその覚悟があれば、多分応えてやれただろう。かつて確かに選択肢のひとつだった、あったかもしれない未来に思いを馳せる。

 そんな未来を選ばなかった、自分を切り捨てた生き物に手を差し伸べられたとして、果たして彼は受け入れるだろうか?

 どう考えても、顔を見せるには早過ぎる。
 せめて数年は必要だろう。
 けれど、どうにも、このままではちょっと困ったことになりそうなのだ。
 検索したら上がってきた複数のニュースサイトに、ひとつひとつアクセスしては確かめた。あの本の発行元のサイトまで開き、どうやら間違いないらしいと確信するに至って、これはもしかしなくても自分のせいかと考える。何とかなりそうだと頑張って執筆していた姿を知っている。それなりに筆は進んでいたはずなのに、どうして今更こんなことになったのか。答えはひとつしかなかった。
 引っ掛かりはしばらく胸にとどまって、横たわっていても、眠りから覚めても、去ろうとする気配さえ見せない。それどころか時を追うごとに濃く重くのし掛かり、またぞろ起き上がれなくなりそうなまでに膨れ上がった。解消しないことにはどうにもなりそうにない。

 仕方がないと諦めて、久方ぶりに遠出をする必要がありそうだとドラルクはため息をついた。











 またかよと思った。
 外で幻覚を見るのも、もう慣れっこだったから。マントで覆われた痩躯がひょいひょい足を動かしてアスファルトを渡って行く。見間違いようのない、触角だか耳だかツノだかよくわからん癖のついた髪。


 やらかしたって、そんな後悔だけじゃない。一時期は朝から晩まで時を選ばず、色んな感情が突然爆発的に押し寄せてきて、揉みくちゃにされた。悲しみと怒り。呪いの言葉が零れ出て、でもそれを相手に向けるとひどい罪悪感に襲われた。だから自分を呪うしかなかった。別の理屈で生きてるものだと、初めから分かりきっていたのに。人の世界の外に来て、人の都合を説いてどうする。通じ合ったと心を許して舞い上がっていた自分が哀れで、愚かしくて、間抜けに思えてならなかった。

 人の身体はよくできている。このままだと駄目になると、脳が上手いこと調整したらしい。時間が経つにつれ、だんだんと、悲しみも、怒りも、不思議なくらい感じなくなっていった。
 感情が出て行ってしまったら、また空白が来た。その空白は仕事をこなすにはうってつけだった。余計なことは何も考えず、ただ黙々と目の前の作業を片付けていくだけでいい。淡々と依頼を受けて、作業をこなし、自宅と事務所を往復する。何やらびっくりするくらい時間が余って、何でこんなに効率いいのか不思議になって、空いた時間にいつも一体何をしていたんだってそんなことを考えてしまって、ああ、俺はそんなに多くの時間をあの城で過ごすために割いていたんだとそこでしみじみ実感した。良かったじゃねぇか。俺は俺の時間を取り戻した。俺のためだけに使えばいいさ。うじうじしたって仕方がない。前向きに言い聞かせて、けれど、空いた時間にやりたいことなんて、何も思い浮かばなかった。


 その内、実体を伴っていそうなくらい鮮やかに、声を、姿を知覚するようになった。
 腕が脇から差し出される。肩に手のひらが乗せられる。あるいは指先でつつかれる。時にはドアの前だったりキッチンだったり、そんな場所に立って、こちらを顧みている。視界に入ってぎょっとするも、目を向けたら何もない。当たり前だ。いるわけがない。なのに残る。声が。感触が。含み笑いが。濃い気配が纏わり付く。


 耳が痛むくらい静かな部屋でひとり、その日の業務記録を淡々と打ち込んでいると、脇から影のように黒い腕がカップや皿を差し入れてくる。袖口からは真っ白なシャツの袖が少しだけ覗いていて、手袋との隙間からそれよりなお白い肌がチラリと見えるのだ。見上げれば、大抵眠そうな目をして口元はご機嫌に笑んでいる。礼を言って休憩に入る。それが習慣だった。コーヒーの香り、甘いものが焼ける匂い、手元を液晶を顔を覗き込む影。

 ぴったり身体を重ねて微睡む夜にも、言葉が下りてくることがある。離れ難くて、でも浮かんできた内容はどうしても何かに刻んでおかないと消えてしまう。腹這いに寝そべり皓々と光る液晶に向かっていたら、いつの間にか起き上がって覗き込んでいたりする。咎められたわけでもないのに後ろめたくて、思わずぎくりとしたけれど、特に気にした様子もなく無言で頭を撫でてきて、それから、ひとりでさっさと丸くなり寝入ってしまった。暖を取るように背中をくっつけられて、それを見たら抗えず、背後から覆うようにして自分もまた眠ってしまった。
 時々ものも言わずに冷たい手足が腹の下にずぼっと差し込まれることがあって、そんな時は軽く戦争になったりした。

 真っ暗な部屋でカタカタ言わせていたら「こっちの方が明るいよ」と手を引かれ、電気の点く書き物机まで案内されたこともあった。前のめりにPCに向かっていたら肩を引かれて、背中を無理矢理伸ばしてきたりする。液晶にどんどん近付く頭を、引き剥がそうと非力な手が力を加えてくることもあった。手袋越しでもひんやりしていた指先が心地良くて、そうされると思わず脱力してしまうのだ。手に手を重ねて額とか首筋とかに当てて、そんなアイスノン扱いに甘んじて、可笑しそうに笑ってた。


 もう。
 頼むから。
 勘弁してくれ。


 机だろうとベッドだろうと、下手をしたら外でさえ、亡霊のようにそこかしこに現れては笑いかけたりムッとしていたり、あるいは泣いていたりする。その度に胸が潰れそうになる。息をどうやってしていたのか忘れてしまい、身体が異常な反応をする。手のひらで、ぎゅっと、衣服ごと身体を握り締めて耐える。気を抜くとダメだった。仕事中はまだいい。集中している時は大丈夫。けど常に意識を張り詰めっぱなしでいられるわけもない。そうしたほんの僅かな隙間に亡霊が必ずちょっかいをかけてきて、正直毎日ギリギリだった。病む寸前。もしかしたら既にやられていたかもしれない。毎日ちゃんと寝ているのに、起きた瞬間からものすごく疲れている、そんな日々。だって亡霊は夢でこそ実体を持つ。生々しく記憶を蘇らせ、感触をそこに生み出すのだ。限界だった。もう限界だと思いながら、けれど自分には責任があるから発狂して逃げ出すわけにはいかなかった。引き受けた仕事がある、支えなきゃいけない家族がいる。だから、何とか生きていた。そうでなければとっくに取り殺されている。あの亡霊に。


 だから、あれが本当に亡霊なら、後ろ頭をスリッパでどつき回しても俺は許されると思う。多分。いや絶対。世界で一番許される。
 背後から見ればいよいよ影のように真っ黒な、細長くてやせっぽっちの、亡霊と目される何か。その動向を探らんと、一定の距離を空けつつ背後を歩く退治人の顔付きは荒んでいた。
 亡霊は生意気にもスマートフォンを持ち、何やら操作をしてはキョロキョロし、首を傾げ、道ゆく人に声をかけたりしている。
 ……あ?
 あれ俺以外にも見えてんの?
 どうやら同じ方向に目的地があるようだ。結果として完全なるストーキング状態だったロナルドは、そこでようやく影の実在を確信するに至った。

 何やってんだ俺は。
 そんで、何やってんだよ、てめぇはよ。











「何やってんだよ……」

 低い低い、地鳴りか何かのような声にドラルクは飛び上がる。振り向いたら訪ねようとしていた本人がいた。驚いたのち、手間が省けたとスマホを仕舞う。「久しぶり」と手を上げてみせると、戸惑うように表情が揺れた。何かの感情が見え隠れして、それを探ろうとドラルクは目を凝らした。交渉の余地はあるか、確かめようとしたのだ。なのにあっという間にかき消えて、元の仏頂面に戻ってしまう。仕方がないので観察などしてみる。

 自分が言えたことではないが、隈が酷い。色素の薄い造りなものだから、青黒いそれはひどく目立って、男を随分と物騒に、不健康に見せていた。少し痩せたようだと思う。元から引き締まっていた頬から肉が削げ、眼窩が少しだけ目立っていた。ちゃんと食べていないか、寝ていないか、あるいはその両方か。そうして、纏わり付く煙の匂い。無意識に眉を顰めていた。
 全部が全部自分のせいだと思うほど傲慢にも、そうではないと言いきれるほど無責任にもなれない。過去には何にも触れずに、ただ友人として立ってみようとドラルクは考えている。とても難しいけれど、やってみようと。二重に追い込まれるのは、いくら何でも気の毒だ。そこは単純に、彼の著作のファンでもあるから、道理に合った言い訳は立つと考えている。


「引きこもりが、ふらふら人間社会に出て来んじゃねぇよ。車に轢かれて死ぬ前に帰れ」
「ひとを里に降りてきたタヌキみたいに……」
「割とそんな感じだろ」
「交通ルールくらい心得てるよ。私のマリカー捌きは君も知ってるだろう」
「お前……道交法って知ってるか?」

 人目があるからだろうか。何事もなかったかのように、かつて引きずり出されて同行した時のように、会話を交わしながら、並んで歩いている。当たり前のようにロナルドは車道側を歩いていて、それに気付いたドラルクは何とも言えない気持ちになった。
 ほんの1ブロック歩いたところにぽっかりと狭い入り口を構えた雑居ビルがあった。目的地のすぐ近くで迷っていたドラルクは、道を1本見落としていたんだなと周囲を見渡す。ロナルドは迷いなくその入り口に足を掛け、振り返っている。ドラルクが建物を振り仰ぐと「さっさと帰れ」と顔を顰められた。しっしっ、追い払うように手を振っている。


「ああ。君の事務所に行こうとしてたんだよ」
「……は?」
「うん。えーと、新刊、発売延期って聞いたから。陣中見舞いに」
「……引きこもりのくせに、ニュースとか見てんだな」 
「それで、手伝おうかと思って」
「は?」

 ロナルドが向き直る。こんなところで立ち止まっていても通行の邪魔だ。もうじき終電の走る時間帯だが、まだちらほらと駅から人が流れてくる。声も響くし、せめて建物の中にと思って後を追い短い階段へと足を踏み出すも、立ち塞がる退治人は無言の仁王立ちである。
 距離が近くなり、空気が動いて匂いが濃くなる。ドラルクは鼻がいい。製菓にも調理にも随分と重宝しているが、こんな時は辛い。黙って一歩後ろに下がった。

「……何考えてんだ、お前」
「何って。言葉そのままだよ。純粋に、心配になったから。私は内容に関わってもいるだろう?」
「いや…………普通に、ムリだろ」
「駄目かい? まあ、話だけでも聞いてからにしなよ」

 痛みを堪えるような顔に、戸惑いと呆れと、あと何か判別できない色々な感情が混ざっている。おそらく頭の中で、向けられた言葉の意味を懸命に考えている。そのままの意味なんだけどな。ドラルクは思い、まあその隙にと退治人の横をすり抜けて、早く案内しろと顧みる。ロナルドは、虚を衝かれたような顔をしていた。


「えっ。階段で行くの? エレベーターないの?」
「……」
「ちょっと、はやっ、置いてかないで」
「帰りたきゃ帰れ」
「もう。会話になってないよ……」

 完璧なる引きこもりだ。鍛えてもいない。今は特に弱っている。注意深く足を出しては身体を引き上げて、子どもにだって追い抜かれそうな速度でしか進めない。目指す背中は全く歩みを緩めずに、軽やかに登っていく。そうして行ってしまうかと思えば、気が付いたら少し先で速度を合わせてくれていた。「お人好しなまんまだね」と思って、それからどうしようもない情動が込み上げてきて、うっかり泣きそうになった。しっかり蓋をしてから出て来たのに。階段だけを見つめて足を前に出す。帰ったら靴を磨こう。先端がぴかぴかに光るように。そんなことを考えて、平静を保った。

「原稿、君、割と書けてたはずじゃないか」
「……そーだな」
「発売予定日も決まってたでしょ。なのに、延期になったってことはさ」
「……」
「編集の人にも、本屋さんにも、いっぱい迷惑がかかるわけだろう」
「…………」
「ネット見てる? ツイッターとか、すごいよ。君のファン結構熱烈だよね」

 こいつは悪魔か。
 反応が劇的なのはネットを覗くまでもなく知っている。身を以て味わっているからだ。行動的な一部のファンから、事務所に直で嘆きの電話を貰っていた。出版社よりかは遥かに少ないだろう、そう頻繁にかかってくるわけではない。ただ自分が全面的に悪いと重々承知しているからだ、一度応対すると神経が摩耗しきって、しばらく何も手につかないくらいにはへとへとになった。退治人として開業しているからには事務所の電話線を抜くわけにもいかず、軽く電話恐怖症になりかけている。悪魔に指摘されるまでもなかった。
 ロナルドは、事態を省みて、激しく後悔した。自分をハチャメチャに苦しめる元凶に、わざわざねぐらを教える羽目になっている。事務所を訪ねるって、手伝うって、何言ってんだこいつはと訝ったが、何のことはない。指差して笑いに来たのかもしれない。
 まだ瘡蓋にもなってない。生々しい傷口は、ぱっくり赤い肉を見せている。姿を見ただけでまだじくじくと痛んだ。声を聞き、仕草を見て、目の前に奴が立った、それだけでなお深く抉られる。トドメを刺されてしまう。感じるのが痛みだけではない分、なおのことタチが悪かった。
 おまけに自分でこさえたできたての傷口にまで塩を丁寧に擦り込まれ、因幡の白兎もかくやの苦しみに歯を食いしばって耐えている。振り向いて、蹴り倒してやりたいが、その後どうせまた後悔する。

 ぜってぇ入れてやんねぇ。
 鼻先でドア閉めてやる。
 決意も固く足を速めると、慌てたように靴音もついてきた。そして息を切らしている。ほんとイモ虫。とっとと帰れ。苛立ったまま乱暴に解錠し、勢いよくドアを開いた。

「……は!?」

 振り向いたら奴は死んでいた。





「ひとの事務所の真ん前で死んでんじゃねー! マジで嫌がらせに来たのかよ!」
「臭いぃ! 酷い、何これ、うわっ! 部屋がブレードランナー!」

 ディストピアかここは! 仮にも客商売だろ!もっと気を遣え!
 辛うじて再生した身体は、部屋を覗き込むなりぎゃあぎゃあ喚き出した。弾かれたようにドアから離れ、後退りして廊下に這い蹲り、目に見えてダメージを受けている。ロナルドは困惑した。ついさっきまで過ごしていた部屋だが、確かに一旦離れると、籠っている匂いの強さを自覚できる。煙草の消費量が激増したのは確かだった。仕方ないと、ロナルドはその点だけは己に甘くなる。だってアヘン窟を失ったから。代わりが必要なのだと、仕方がないと、許していた。
 今夜だけで少なくとも2箱近く、手持ちの分を全て煙にしてしまい、我慢しようと努力はしたのだ。結果として叶わず、シケモクを強引に咥えてみたりしたものの無理があり、どうにも堪らなくなって買いに出たところだった。

 大袈裟だ、嫌味ったらしい奴。苛立ちながら部屋を歩き回って窓を全て開け、風を通す。いつもならば依頼人が来た時のために換気扇を回しているが、外に出る時に切っていた。改めてスイッチを点ける。ため息をつき、買ったばかりのパッケージの封をほぼ無意識に切ろうとして、考え直し、見えない場所にと机の引き出しに押し込んだ。入り口を見る。ドアは開いたまま、しんとしていた。姿は見えないが、まだいるだろうとロナルドは確信した。おそらくは少し離れた場所で、空気が入れ替わるのを待っている。
 事務所の奥には給湯器が備え付けられた小さな流しがある。来客に茶を供し、事務所の主が簡素な食事を準備する、半畳ほどのささやかな簡易キッチンだった。ロナルドは少しばかり考えてから、電気ポットに湯があることを確認し、インスタントコーヒーの瓶を探した。



「まだ臭い」
「うるせぇな……」

 マントで顔の大部分を覆いながら、そうっと真っ黒な影が足を踏み入れてくる。恐る恐る歩を進めるその姿は、好奇心旺盛な猫が警戒しながらも見慣れぬ場所を探検する様を思わせた。窓まで辿り着き、備え付けのブラインドを断りもなく引き上げている。外へ顔を出して息をする細いシルエットを、ロナルドはコーヒーを啜りつつ眺めた。うっかりすると火傷しそうに熱い、その熱のおかげで少しだけ気力が戻る。狭い室内をほんの数歩、ロナルドが歩いたその後を芳香が追いかける。椅子に掛けると、どっと疲れに襲われた。窓はすぐそばにある。腕を伸ばして、ギリギリ届かない程度の距離だ。桟に手をついた痩身が、実体を持ってそこにいた。ドアは開いたままにされている。空気が動く。あの城の匂いが届いたような気がして、痛みと慕わしさに胸が締めつけられる。叩き出す気にはもうなれなかった。


「気付いてないかもしれないけど、君、服もすごい臭いよ」
「せめてタバコ臭いって言え」
「それで依頼人と会ってるのか? 大丈夫?」
「巨大なお世話だ。わざわざ嫌味言いに来たのかよ」

 実際、会う人会う人に「大丈夫ですか」と判で押したように尋ねられていた。退治人が纏う暗く澱んだ空気がそうさせていた。常に物腰穏やかな、ただし、どんな時でも決して譲らない、そんな担当編集者でさえ引いてみせた。延期にしましょう。初めて聞いた声音を思い出す。傷口がまた開いて、呻きそうになる。マグカップを傾けて誤魔化した。まだ熱いコーヒーに救われる。多少は匂いを誤魔化せるかと淹れたのに、熱を取り入れた身体は案外としゃんとしてくれて、予想外の強い効能に密かに感謝した。


「違うってば。君の著作の話だよ」
「言っとくがな、発売中止じゃねぇから。延期だから、大丈夫だ。その内出るから買ってくれ」
「えっ、くれないの?」
「……図々しいな」

 何もかもが、思い出させる。当たり前に触れていた頃を、気遣われていた頃を、引っ張り出して一緒に依頼人のもとを訪ねた頃を。こいつは知っている。『ロナルドウォー戦記』は最新刊で大きなターニングポイントを迎え、ヒロイックな退治人に相棒ができる予定だった。全部を読ませたわけではないが、勝手に液晶を覗き込んでは好き勝手に口を出していた。己の描写に文句をつける、薄明かりに照らされる寛いだその姿を思い出して、やっぱりダメだと強く思う。
 駄目だ。無理だ。しんど過ぎる。
 今すぐ首根っこをつかんで叩き出せば、これ以上煩わされずに済む。なりそこないっぽくてもベースが吸血鬼である以上、家主が許さなければおそらく二度と入れないだろう。分かっていても、それでも、会えて嬉しいと感じる気持ちもどこかにあって、それで、立ち上がれない。身動きが取れない。抗いようのない自然災害みたいなものだ。無力な人間は過ぎ去るのを待つしかない。そんな後ろ向きな覚悟を決めて目線を剥がす。
 程よく熱の落ち着いたコーヒーを含んで、そうしたら、淡々とした調子で言葉が続き、うっかりと咽せそうになった。


「ねえ、発売が延期になったって、それをはっきり公表したってことはさ、もう確実に原稿が間に合わないってことだろ?」
「……」
「君は、そういうの、いちいちすごくへこむじゃないか」

 求められると、断れないだろ。期待されると、応えようって無駄に頑張るだろ。自分の都合で、他の人の都合をみんなダメにしちゃったって、へこんでるだろうって思ったんだよ。

 落ち着き払って言い募るその言葉が、すぐには入って来なくて、けれど集中して聞かなくてはいけない言葉だと理解して、神経が一気に張り詰めた。机に置こうとしたマグカップが静止する。

「千体目の私とこれからコンタクト取れないせいで書けないんなら、仕事上の付き合いだけでも続けられないか、訊いてみようと思ったんだよ」
「友人としての立場でね」
「君が書いてたのは、そんな受け取り方ができるような内容だったから」
「もう、そんな風には書かないのかい」

 あの原稿はお蔵入りになるの?

 尋ねられて、延期にしましょうって言われた声がまた蘇った。ほんの1週間前。依頼があったおかげで何とか人の形を保っていられた、そんな状態で担当編集者に会いに行った。無理ですって、ぶちまけた。助力を得られそうにない、だからこの方向ではもう書けません、そう訴えたロナルドに、黙って聞いていた編集者はしばらく沈黙を返した。そうして、次に口を開いた時、原稿を寝かせることを提案したのだ。

「……俺は、」

 まだ、書くつもりだった。
 半分以上仕上がっていた原稿を全て破棄する羽目になっても。何が何でも間に合わせるつもりだった。中身はこれから考えますって、訴えた。きっと頷いてくれると思った。これまでも、思いを却下されたことはなかった。最終的にはロナルドの思うようにさせてくれた。手綱はぎゅうぎゅうに締め上げられていたが、そのおかげで、思いは必ず形になった。だから、今回延期を提案されて、縋るよすがをまたひとつ失ったと、そんな気持ちに陥ってしまっていた。

 本が、作家と出版社だけで仕上がるわけではないと、今の立場になって初めて知った。言われた通り、既に発売日は決定していた。決定して、動き出していた。編集部、営業部、印刷所、装丁を担当してくれるデザイナー、資材の手配を請け負う人たち、いざ仕上がれば売ってくれる書店、他にもきっと、自分が知らないだけで、いっぱい迷惑をかけてしまった。動き出して、タスクを組んで、待ち構えていてくれた全ての人の仕事の予定を、作家ひとりの都合で狂わせた。始まる前から止めさせた。全てと関わっている担当編集者はどれだけ割を食っただろう。想像しただけで胸が詰まる。
 求められれば、期待に応えようと奮起する。ブログの頃でもそうだった。きっかけが宣伝活動でも、軌道に乗り始めた頃からは、読んでくれる人がいるっていうその手応えこそが原動力だった。そこに届けるまでの肝心要の原稿を、自分の仕事を、責任を、果たせなかった。
 人生初の告白で玉砕し、直後に仕事を落っことして、結果、今現在ロナルドの自己肯定感は過去最低にまで落ち込んでいる。

 どうしてと思う。
 それだけだったら、涙なんか出ない。この1週間もさっぱり出なかった。内側で潤うべき何かが枯渇してしまったかのように、目も心もカラカラに乾いていた。
 それなのに今この瞬間、沸き立つように胸も顔も熱い。必死で飲み下そうとするのに、さっぱり引いていかない。涙の気配がそこまで来てる。
 今正に陥っている心理状態まで深く、自分を、自分のことを想って、理解してくれていると感じて込み上げる激情のせいだ。
 どうして。
 そんなに俺のこと分かってんのに、何で俺の近くにいてくんねぇの。



 部屋に残る匂いがどうしても不快なものだから、ドラルクは窓から離れない。それでも、相手の様子が尋常でないことにはいやでも気付く。机にごとりと落ちた頭にぎょっとして、ほんの数歩先の机に寄ろうとして躊躇った。迂闊に近付けば、やっぱり、どうしたって、さらに深く傷付けてしまうと分かっていた。そこそこの時間迷い、それでも微動だにしない頭に、まともな友人ならば心配するのは自然だろうと考え直す。

「……えーと、大丈夫?」
「うるせぇ。俺に優しくすんな」

 このアヘン窟め。
 何やら罵る口調で言われてアヘン窟って何だと思う。時間が必要かもしれないな、とも。
 今夜は退こうと考え始めている。ここに来るまで、予想以上に時間がかかった。電車を乗り継ぐだけであっという間に夜が更けて、おい滅茶苦茶遠いなって思わずぼやいて、それから、そうした距離を毎回越えて会いに来てくれていた退治人のことを思った。自分に割いてもらっていた時間のことを考えた。自身と比べればあまりに短い一生の、決して少なくない時間。命を割いて与えられていたようなものだと分かっている。そうして、やっぱり行くべきだと思いを強くして、ここを探したのだ。自分が与えられた、もしくは奪ってしまった分を返せるくらいのことが、できればいいなと思うのだけど。受け入れられるかは相手次第だ。

「まあ、考えてみてよ」

 今夜は帰るね。

 幸いそれなりに賑わう場所だ。日中籠る場所は選べる程度はありそうだと、駅周辺を見渡して目星は付けていた。沈んだ銀髪に声だけ落として、そっと離れた。一歩踏み出してから、抵抗を感じて振り返る。伸びたマントの先を眺めて、努めて表情筋から力を抜いた。厄介なことに、どんなにささくれていても、美しいものは美しいのだ。むしろ、草臥れていると余計に世話を焼きたくなって駄目だった。努力したって、蓋が弾け飛んで溢れ出しそうになって困る。
 手繰るように引っ張られて、無表情を保ちつつ大人しく寄る。見下ろした顔は神妙で、痛みを堪えるように歪んでいた。それでも、真っ直ぐに目を合わせてくる。

「仕事上の付き合いだけでもっつったか」
「うん」
「あのな、それは、俺が無理だ」
「……そう」

 残念だな。
 きっぱりと断られたドラルクはそう思って、思っている以上に、ショックを受けている自分を見つけて、心のどこかで「きっと断られないだろう」とタカを括っていたことに気付く。また一緒に過ごせるかもしれないと期待して、その高揚があった。自分だって、いや自分こそ酷いやり方で相手を拒否したくせ、一丁前に傷付いている。
 甘い。弱い。嫌になる。
 拒絶された痛みと自己嫌悪に落ち込んで、だから腕を辿るようにして手を取られたことに反応が遅れた。手袋越しに熱が届く。

「あの原稿」
「ん?」

 そこまで時を挟んだわけでもないはずが、随分と久しぶりに思えるその熱があまりに心地良くて、失いたくないと願ってしまって、判断が狂った。これは友人の距離じゃないのに。

「お前が横から読んでたやつ。あれ、別に友人って立場で書いてたわけじゃねぇよ」
「……そうなんだ」
「お前は友人とも寝るのかよ」
「まあ……そういうことも、あるよ」

 何とか言葉は返しながらも、おや、と思う。胸が冷える心地がした。怒られていると感じたせいだ。正しくロナルドは怒っていたし、実際に「そういうの、やめろよ」と唸るように口に出した。自分が口を出すことではない。それは変わらない。けれど、どうせこれっきりなら、せめて言いたいことは全部言おうと、ひんやりした手に触れながらロナルドは決意していた。

「お前が特別って決めた相手ならともかく。友人とか知人とか、俺と同じような立場の奴とも、そういうこと、すんのかよ」
「……えぇと」
「そういうのはマジで、やめろ。俺が言えた話じゃねぇけど」
「……」
「でも本当、殺しちまうかもしれねぇからさ」

 何やら物騒なことを言う。
 発言した本人は「いや違ぇ」「そういうこと言いたいんじゃない」と首を振ったが、もう耳に届いてしまったし、両手を拘束されているから塞げないし距離も取れない。ドラルクは静かにゾッとした。

 ん? あれ、私判断間違えた? 吸血鬼じゃないけど私は似たような存在で、ここは吸血鬼退治事務所だ。自分にとって世界一危険な場所に自分の足で来ちゃったのかな?

「だって、お前。吸血鬼とも寝るだろ」
「え、そりゃ、」

 昔はね。人の方がずっと多かったと思うけどね。続けようとした言葉の前に「そんで俺は退治人だろ」と続いて「そうだね」って頷いた。それ以外に何が言えただろう。

「そういう機会があれば知らない内に俺やっちまうかもしれないし。知ってたら多分」
「……多分?」
「多分、分かったら、」

 不穏なところで言葉を切るな。
 焦ったものの、退治人は何やら自分の言葉にショックを受けて項垂れている。初めはすわ殺害予告かと固まったが、どうやらそうではないらしい。交わした内容を落ち着いてなぞり返し、そうしたら、相手がひとり陥っているジレンマにドラルクは容易く気付いた。そして「バカだな」と心底思った。

「……君、それ、取り越し苦労だから。大丈夫だよ」
「は?」
「もうずっと、それどころじゃなかったし。ここ半世紀? いやもっとかな。私と寝たのなんて、君ひとりしかいないよ」
「は……」
「昔はまあ、それなりに……吸血鬼は長生きだし、今もどこかにはいるだろうけど。まずこの国にはいないね」
「……」
「だから君が会う機会はまずないし、殺してしまうこともない」

 よかったよかったとやけくそで発しながら、ドラルクは複雑な心境だった。こやつ、私が必死に押さえ付けている蓋を、無理矢理こじ開けるような真似を素でしおると、憎くさえ思った。それで、そうした感情が些細に思えるほど、胸を圧倒するのは歓喜の情で、それを自覚したらごく単純な事実にも思い至って、死にたくなっている。
 未だかつてないくらいに、たったひとりに入れ込んでいる。こんな経験は他にない。
 それ、初恋だ。
 多分、初恋だ。
 気付いたら、自覚をしてしまったら、もう駄目だった。今すぐ振り払って逃げ出さないと。この手を振り払って逃げないと、今逃げてしまわないと。今だって可哀想なくらい囚われているこの男を逃してあげられない。私から、この男を逃してあげられない。

 だのに、手どころか、今ドラルクの腰には熱くて重い筋肉の束みたいな塊が縋り付いているのだった。マントの上からきゅっと腕を回されて、身体に重みを掛けられて、縫い止められたかのように足を一歩も動かせない。解放された手で、肩をそっとつついてみる。

「ねえちょっと、重い」
「死んじゃうよ」
「私今すごく弱ってるんだから」

 弱っているのは本当でも、自分が抱き潰されて死んでしまうことはないだろうと、ドラルクには分かっていた。身体がきっと覚えている。死なせないけれど逃しもしない、絶妙な力加減をこの退治人はあの城で習得していた。椅子からも崩れ落ちて、体面も何もなく、ただ無言で柔らかく拘束してくる銀色のつむじを見下ろす。このままマントでくるんで連れ去ってしまいたい。やっぱりそんな思いが湧いて出て、自分にそんな力がなくてよかったとドラルクはホッとしている。

 与えられた言葉が真実か否か、それを確かめる術はない。ロナルドはそう思いながら、それでも込み上げる激情を今度こそいなせなかった。突き動かされるままに、けれど膝に力が入らず、縋り付くように薄い腹に頭を預ける。自分の纏う煙の気配で死ななきゃいいけど。そんなことだけを心配していた。誰のものでもないと分かっただけで、灼けつくような痛みは随分と薄れていく。拒絶されたショックと交互に心を苛んだのは、嫉妬だったから。自分の踏み入れなくなった城で、他の誰かは迎え入れられ身体を許されていると思うだけで気が違いそうになった。どろどろしたどす黒い靄が胸に溜まって、殺してやるって本当にそんな思いが口をついて出るくらいには、追い詰められていたのだ。そんな心配いらないと、こいつが言うならそれでいい。
 チクショー。好きだ。
 とんでもなく酷い奴だと思うのに、言いたいことといったらもうそれだけだった。

「好きだ」

 顔を見る勇気がなくて、だから前回は密着したまま告げたのだ。重ねていた身体から相手の気配はよく伝わって、だから全身を固くした相手から拒絶されたその夜を、忘れたわけでは決してない。それでも、今もまた苦しいくらいに胸にいっぱいになって、自分ではとどめようがなかった。どうしても言いたかったし、言うなら、顔を、目を見て言うべきだと思ったのだ。

 黙ってつむじを見下ろしていたドラルクはといえば、不意に見上げてきた青と目が合ってぎくりとした。今はあんまり顔を合わせていたくない。そう思った矢先に真っ直ぐ想いをぶつけられて、咄嗟に何も返せなかった。自分と比べればほんの小さな幼な子だ。手を引いて、正しい方向へ導いてあげないといけない、そんな相手によりによって初恋なんて。自覚して、うろたえて、固めてきた鎧を全て剥がされた思いだった。身を守る暇もない中で、とりわけ自分が弱いあの青に貫かれて、素顔で受け止めるしかなかった。

 困らせるだろう、とはロナルドにも容易に想像できた。冷たい無表情で、言い募ればまた憂うように眉を寄せて、嗜められる。それでもよかった。だって生きているのだから、停滞してこのままずっと淀んでいるわけにはいかない。とにかく前に進むしかない。せっかく向こうから来てくれたのだ。困らせようが、傷付こうが、自分の心の赴くままに、行くしかないと肚を決めていた。

 だから、全く予想外の反応に、咄嗟に何も返せなかったのはロナルドも同様だった。視線を遮るように慌てて手が間に入っても、耳の先まで真っ赤に染まった顔色は隠しようもなかった。見つめて告げたその言葉が届くなり、さっと刷毛で刷いたかのように鮮やかに染まった、うろたえて眼差しが揺れたその瞬間を目の当たりにして、どういうことだと戸惑った。互いに困惑して、言葉が途切れる。
 狼狽しきって揺れた表情をしっかり見定めたくて、ロナルドは思わず立ち上がった。手首をつかむ。思いきり顔を背けられて「オイ」って今度は頬に触れる。両手で挟むと、素手に伝わる体温に驚いた。最中を思わせる温度だった。

「ッギャー! 痴漢!」
「誰が痴漢だコラ! でけぇ声で誤解を招くこと言うな!」

 ドアも窓も全開にしたままで、危険なやり取りを交わしている。逃れようとじたばたされても、伝わる力はロナルドには哀れに思えるほど弱々しい。顔を固定する手を緩めず、じっと表情を確かめる。距離を詰めて覗き込めば、びくりと揺れて固まった。それなのに落ち着きなく揺れる目は、決して視線を交わらせようとしない。いつだって滔々と減らず口をたたくのに、今はあうあう震えるだけの唇。頬はますます熱い。

「は、はなして」

 頬を固定した手の上に、恐々と細い指先が掛けられた。薄い胸が上下して、動揺の激しさを伝えてくる。何でだと思う。感じたものを確かめたいのに、あまりに予想外で、そして勘違いだったらと思うとやっぱり怖くて、焦燥に駆られながらも二の足を踏むその間、ロナルドはただ見つめ続けた。意図したわけではなかったものの、その目はドラルクを何より追い詰めた。

「困る、そんなこと言われても、私は、応えられないもの。困るよ」

 ついには目を閉じて、困るとしか言わなくなった相手を、離してなるものかとロナルドは意志を固くした。当惑が確信に変わっていく。意を決して「お前」と真正面から話そうとした瞬間、全ての手応えを失った。

「…………てめぇはよぉ……ずりぃだろ、クソ、このやろ、大事なとこで死にまくってんじゃねえぇぇぇ!」





 本人の意思も反映するのかもしれない。今夜死ぬのが何度目なのかは知らないが、入り口で死んだ時は割とすぐに再生した。だから、今のろのろしているのは、多分「起きたくないなぁ」とかぐずっているのに違いないとロナルドはイライラと思っている。
 腕の中の吸血鬼もどきが塵と化したことに気付いて一通り罵倒したのち、ロナルドは光の速さで判断を下した。ウルトラダッシュでコンビニへと走り、必要なものを購入の上再びダッシュで戻ったその間5分強。そうして「営業中」のプレートを付け替える。休業日。定めた休業日ではない。臨時休業だ。感じた疑念を突き詰めて真相を吐かせるまで、塵を城へ帰すつもりはなかった。


 数個目の飴玉を転がしつつ2杯目のコーヒーを空ける頃、ようやくソファにほっそりした影が起き上がる。ソファと椅子と上着と虚空と。事務所内の布製品を中心に散々ファブったせいで、部屋は全体的にしっとりしている。染み付いていた匂いはいくらかマシになったのか。除菌消臭効果の謳い文句をどこまで信じるべきか自分には分からないが、黙って座っているからには、まあ大丈夫なのだろう。そう踏んで、ロナルドは向かいから様子を窺う。影は自分を守ろうとするかのように、マントでぴっちりと身体を包み、憂鬱そうに俯いている。

「……で?」
「……ハァ」
「ため息つくな。何で俺はお断りされたんだよ」
「…………好きじゃないもん」
「嘘つけ」

 ネジかタガか、あるいは鎧か覆いか建前か。何かが外れたのには違いない。さっきまでと異なり、互いに数段遠慮のないやり取りになっていた。
 嘘じゃないもん。不貞腐れたように呟く。甘えくさった物言いしてんじゃねぇ! と怒鳴りつけたくなるが、そんな調子が妙にしっくりくるのもまた事実で、こいつは絶対末っ子だとロナルドは確信した。
 何で?
 どっからどう見ても「OK」って顔に書いてあったぞ。
 なのに何で俺は振られてんの?

「言っとくけど、きっちり説明してもらうまで帰さねぇからな」
「……横暴だ。朝が来たら、私死んじゃうよ」
「大丈夫だ。物入れは絶対に日が入らない」
「物入れって……私をオフシーズンの衣類みたいに扱うな」
「大丈夫だ。中のものどかせば、俺も一緒に入れるくらいのスペースあるから」
「え」

 元々悪い顔色がさらに悪くなる。血行が良くないとしきりに言うが、血の巡りは悪くない。今の言葉でちゃんと伝わったらしい。そう、夜が明けたなら、場所を変えて続けるだけだ。本当の本当に、逃す気はない。多少汚い手を使ってでも、本音を引きずり出すつもりだった。小さくなってきた飴に思いきり歯を立てる。
 だって、マジであんまりだろ。

「考えたら分かんだろ。納得できねぇよ」

 おかげでこっちは発売延期だ。大損害出してんだからよ。
 あえて相手が気にしていた内容を振りかざし、じっとり見つめると「ウッ」と声を詰まらせる。それこそ横暴な、ほぼイチャモンだというのに。契約を交わしたわけでもなく、金銭の授受があるわけでもない。たとえ向こうが乗り気でも、こっちはあくまでも助力を願う立場なのだ。完全に言いがかりだった。それなのに、余程後ろめたい何かがあるのか。見るからに負い目を感じて肩を落とす痩身を眺めながら、次の飴を口に入れた。若干口の中が鉄臭くなってきている。

 さっきよりもさらに荒んだ目付きをしているな。
 態度悪く飴を噛んでいる男をちらりと横目で眺め、すぐに逸らした。そうやってやさぐれているとチンピラみたいだなと思う。客人用のソファセットは向かい合うよう置かれている。せめてもの抵抗にと斜めに腰掛けたドラルクは、考えあぐねて小さなため息を零した。
 もう、意地だった。ここまで貫き通したものを、あっさり反故にさせて堪るものかという。ならば、どう言いくるめよう。今突き放しても、きっともう、通じない。なら、少しだけ本当のことを告げてみようか。何を話して、何を隠すか。内面で構想を固めていく。


「好きって言うけどね。君、じゃあ、そこからどうしたいの」
「どうって。順番だろ。今までがおかしいんじゃねぇか」
「あー。だから言ったじゃないか。私はセックスワーカーみたいなものだって。感覚が違う。文化が違うんだよ」
「じゃあ感覚変えろ」
「は?」

 おかしい。
 この子ほんとにロナルドくん?
 身体を向け直して、まじまじと見る。マグカップを傾けて、空なのに気付いて態度悪く舌打ちしている。ほんとチンピラ。

「一緒にやっていくなら、歩み寄りが必要だろ。てめぇは日中動けねぇから俺が夜型になるって具合にだな」
「いや、君、退治人だからそれ当たり前……」
「てめーはそのガバガバな貞操観念どうにかしろ。今度初対面の野郎に即尺とかしやがったらぶっ飛ばすからな」
「はっ、はあああ?」
「そんな感じで一緒にやっていきてぇんだが。どうよ」
「どうよじゃないわ!!!」

 構想とかぶっ飛んだ。
 何でいきなり一緒になる前提で話を進める? こんな俺様ワンマン野郎は知らない。
 ふざけるな貴様! 私の可愛いロナルドくんを返せ!

「うるせー!!! テメーこそふざけてんじゃねぇ! こっちがどんだけ生死の境さまよったか知らねぇだろ!」
「私だって死にかけたわ! こっちは気合いで長生きしてるとこあるんだからな! 失恋とか存在消滅の危機だわアホ!」

「失恋ってなに」
「はっ」

 ものの弾みでつい。うっかりうっかり。
 ドラルクは努力したが、ドジっ子ムーブかましちゃった体を貫き誤魔化せる状況では、到底なかった。



「どうしたって成り立ちが違うじゃないか」
「おう」
「一緒にはいられないんだよ」
「何で。今までとどう違うんだよ」
「君が何年生きるか知らないけどね。順当にいったら、せいぜいあと半世紀だろう」
「まあな」
「その時間全部私にくれる気?」
「おう。いいぜ」
「何がいいぜだ! よくないだろバカ! ちょっとは悩めアホ!」
「何で俺が怒られんだよ」

 何故か真横に移動してきた退治人に尋問を受けている。辛うじて接触はしない距離で、ただ元々尋常でなく眼力があるものだから、視線を真っ直ぐ当てられているだけで相当な圧を感じて仕方ない。

「2世紀くらい余裕で生きてるんだぞ、私」
「マジかよ。思ってたよりジジイだな」
「…………だから、例えるなら君が2歳児に手を出すようなものだな」
「嫌な例えすんな!」
「まあ、それはともかく。感覚とか色々違うんだから。先のことなんて予想つかないだろ君。私だって約束できないし、30年後とかに話が違うとか時間返せとか、恨み言を言われたって困るし」
「はーん、恨み言ね……」
「私は君の人生に責任が持てない。だから困るんだよ」
「……」
「ただの遊びなら、楽しくやっていくだけで済んだんだ。いつか君がいい人を見つけるまでね」

 そんなわけで、私にとっては、いつか来る失恋がちょっと早まっただけなんだと、それは心で呟いた。それなら、さっさと人の世界に戻って、せっせと子孫繁栄に向けて頑張ってもらった方がよっぽどいい。建設的だ。世のため人のため、私のために。


「お前は俺の母親か」
「え?」
「あのよ。誰が、てめえに責任取ってくれっつったよ」
「……」
「よく分かった。俺は、お前に、手前ぇのケツも自分で拭けないガキだって思われてたんだな」
「そんなこと言ってないだろ」
「言ってんだよスカタン! 自分の言動分かってねぇのか!」

 何で私が怒られにゃならんのだ。不満げに口を尖らせると、青筋立てた男が真剣な顔でアホなことを言い出した。

「よく聞け。2歳児はちんちん勃たねぇから」
「……は」
「生きもんは交尾できる時点で成体だろ。そしたら20も200も変わんねぇよ」
「いや変わるだろ……」
「何があっても手前ぇで責任取れる歳ってことだよ。自分で決めたことに、恨み言なんざ言わねえわ」

 何が嫌なんだよ。お前本当は、何が怖くて逃げてんの?

 強い目が、ぐっとこちらに傾けられる。覗き込んで尋ねられ、息が詰まった。
 嫌なこと。
 怖いこと。
 返さなくちゃいけないものだった。私のものにはならない。してはいけないものだった。それを本能で知っていた。だって、物でさえあんなに辛かった。


 しっかりと、心の準備をさせてから離れてくれるなら、まだマシだ。けどそうじゃないなら、多分、私は生きてはいられない。突然君を失くしたら、きっと私は生きていられない。それを知っていたから、先に自分で手放した。小癪な計算尽くだった。相手のためだ、英断だって、自分で自分も誤魔化した。結局私は私のこと、自分のことしか考えてない。


 拳ひとつ分くらい。ソファの上で彼がきちんと守ろうと努力してくれていた距離を詰めて、温かな胸に頭を寄せた。耳をぴったり張り付けて、鼓動を確かめる。どうしても今、それを聴いて確かめないと、この息苦しさは治まらない。にじり寄るように近付くと向こうは戸惑って、それでも拒絶はされなかった。
 一緒にいる時、ランダムに突き上げてきた衝動。胸を揺すり、強迫観念に近い強さで駆り立ててきたあの思い。連れ去ってしまいたい、隠して逃げてしまいたい。何から逃げたかったのか。何から隠しておきたかったのか。

 動悸がちっとも治まらず、息は苦しいままで、力を込めていられない。へなへなと膝に崩れ落ちると慌てたように声がかかる。熱い腕が支えてくれる。
 まだ、煙草の匂いが残っている。部屋中、消臭剤の粒子と混じって漂うそれを感じ取って、それでも随分マシになったとは思う。自分の鼻がバカになってるだけかもしれない。退治人の衣装にも染み付いていて、けれどおそらく私が死んでいる間、自分にも振りかけたのだろう。これ見よがしにテーブルの上にどんと置かれている、巷に流布した除菌消臭スプレーの主成分は水らしい。しっとりした衣類は少し冷たくて、尖った薬品のような匂いと、薪や炭の燃えるような煙草の残り香、そうしてコーヒーの芳香なんかが複雑に混じり合っている。その奥から本人の持つ生々しい匂いがして、別に心地良いものでもないのに、それに妙に安堵してしまう。やっと息が落ち着いていく。まだ、今この瞬間だけなら。死は遠い。君を連れて行ったりしない。


「生き物って突然いなくなるんだもの」
「……そりゃあ、な」
「怖いよ。君が明日いなくなったらどうすればいいのさ」
「……」
「なんにも残さないまま死なせたくないよ。君、私と遊んでる暇なんてないよ。早くいい子を見つけてよ」

 私は君の子どもたちと、孫たちとも遊んで過ごすからさ。
 温かな肩に頭を凭せ掛けて、そんな勝手を言った。

 だからね。君。早くお嫁さんもらって、子宝に恵まれて、反抗とかされながら巣立ちまでちゃんとお世話して、熟年離婚されないように奥さんにはきちんと礼を尽くして、引退したら庭木の世話とかしながら奥さんの趣味に付き合ったり自分の趣味見つけたり、あとできたら孫とかひ孫の顔見て、よれよれになってベッドで床ずれの世話とかしてもらって、しっかり心の準備をさせてから、それから逝ってね。


「……嫁さんとか。だから、母親かよって」
「ふ、そうかも」

 納得してもらえたかなと思う。
 刺々しかった声は、今は随分穏やかになっていた。


「じゃあ、アレだ。お前が産めたら一発解決じゃねぇか」
「……………………話、聞いてなかったの」
「聞いてたからだろーが」

 何で俺がてめえのためによそでガキこさえないといけねぇんだよ。そんなんに付き合わされる女の人が大迷惑だろ。

「いや、違う、何か違うよ!? ニュアンスが全然違う! 私そんなこと言ってないよ!?」
「そりゃ、お前が俺の気持ちガン無視してっからだろ」
「うぅぅぅ」
「バカ。ほんとバカ、お前マジでバッ……カだよなぁ」
「……」
「んなバカに振り回されて……俺、滅茶苦茶可哀想」

 まあ、可哀想なのは事実だ。
 バカバカ連呼されてこめかみがピクピクしたけれど、反論をすればするほどドツボにハマりそうなので迂闊に口を開けない。何で来てしまったんだろう。電話で良かったじゃないか。こんなんなるって分かってたらメッセージで済ませた。リアルに死にかけながら頑張ったのに。何もかも台無しだ。
 ドラルクはどんどん精神がやさぐれていくのを感じていた。

「あー……可哀想だね。ごめんね。まあそんなわけなんで。よろしくね」
「は? ああ、これからもよろしく?」
「ちっがう。バカ。何のために死にかけたと思ってんだバカ」
「いやふざけんなや。てめぇがバカ」

 不毛な罵り合いはしばらく続いた。ドラルクは相変わらず退治人の肩に頭を預けていたし、ロナルドは何やらよろよろしているひ弱な人外の肩に腕を回して支えている。ラブソファで寛ぐ恋人同士の距離感で仏頂面を貫く滑稽さを、当人たちはごく当たり前のものとして受け止めていた。










×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -