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 話をしないか。
 そう提案して、果たして真面目に対応してもらえるか。微妙なところだ。初めは純粋な疑問がひとつだったのに、訊きたいことや告げたいことは、いつの間にやらどんどん増えて、今や片手じゃ足りなくなった。重たくね? 我ながらちょっとどうかと思う。ちゃんと言わずに溜め込んでいくところとか、特に。何でこんなことに……と考え始めると大体「割とあいつが悪いと思う」という結論に達する。責任転嫁だけじゃない。だってあいつ、あいつはアレだ。人を駄目にするガリ。密かに「アヘン窟」というあだ名を付けている。ほら、高等吸血鬼ってみんな二つ名持ってるじゃんか。多分自分で考えてんだよな。お前の二つ名「アヘン窟」な。名乗る機会があれば使えよ。我が名は吸血鬼っぽい何か、アヘン窟! 何もかもが締まらねぇ。でも本当に、俺にとってはアヘン窟。映画とかで描かれるイメージ先行の、ちょっと貧しめの発想だけど。俺の中のアヘン窟は退廃的でちょっと幻想的で、どこか淫靡な印象が付き纏う。落とし穴みたいにぽっかり口を開けていて、落ちた人間を徹底的に駄目にする。そんなイメージ。

 まあ見事に落ちている。

 こんな時は特に、そう思う。考えてみたらほぼ最初から落ちていた。でもいつだろう。完全に「あ、落ちる」って、そんな感覚がピシャーン! と来た瞬間があった。あれはいつだ。ああダメだ、今、そういう深く潜らなきゃいけない系の考え事は無理。九九くらいなら、何とか。実はよくそうしてる。気持ちいい瞬間を、できる限り引き延ばしたくて。
 あんまり長く揺すり過ぎたか力尽きたらしくて、背中に回っていた細い指が滑って落ちた。もう持ち上げる気力もなさそうだ。終わりが近くて、だから追い詰めるように何もかもペースを上げて、そうしてがくがくと揺さぶられるまま、人形めいた動きで反らされた顎が揺れている。口ん中噛まなきゃいいけど……
 思うばかりだ。実際に気遣える余裕はもうなくて、駆け上がってしまいそうな時はずっと、腰から下が溶け消えるような感覚が断続的に来る。耐えていれば、波が引く。そしてまた来る。そんなギリギリのところでも、一番無防備な瞬間まで何もかも暴きたいと思ってしまう。だから限界のそのまた先まで無理矢理足を踏み出して、最後の最後まで追い込んでいく。跳ね上がって、反らされて、痛々しいくらい張り詰めた身体を全部晒して絶頂を越えるところ、その後まで、何もかも。

 泡が弾けるみたいに頂点を迎えて、あぁって息に紛れてやらしい声。弛緩した全身がシーツに沈み込んだ。まだ時折ぴくんと跳ねて、忙しなく息を繰り返す。忘我の境地にいるほんの数瞬、呆けたようにぼんやりと霞んだ瞳をしている。ぱかりとだらしなく開いた唇からは唾液が伝うままで、ささやかな明かりを受けて銀色にも見えた。晒された牙がぬらりと光を弾いている。何度か瞬きをする内に瞳が焦点を取り戻し、乾いていたのだろう、薄く、赤い舌がちらと現れて唇を撫でていく。思わず目を逸らした。もう多分、意識がなかろうと、黙って重ねることはできないだろうと思う。いや最初からダメだろって話だけど。
 なあ。
 口にキスしたら駄目なのか?

 躱されるのが辛くて、いつからかもうずっと、試すことをしなくなった。気付かないフリをされるのも嫌で、努力することも放棄した。何よりきっぱり断られるのが怖くて、直接聞けないでいる。それがなくても死にやしない。それがなくても気持ちいい。それがなくてもこいつは笑う。満足そうに。幸せそうに。もういいか。それでいいか。こうして何もかもを晒して、お互いだけで全部が完結している時間、この時だけ、もうどうだっていいかと心底思う。訊きたいことも、告げたいことも、泡沫のように溶けていく。だって心も身体も擦り付けて、ぴったり重なっているんだ。これ以上を望むなら互いに表皮を裂かなきゃならない。

 でも、そんな状況になるまで気付かなかったけど、これ以上ないくらい近くにいるじゃないかって、それは俺にとっては唯一の牙城で、だからそれをなくしてしまったら、もう黙っている理由はなかった。





 難しい顔をしたロナルドの顔は青白く染まっている。薄闇の中スマートフォンの液晶と対峙し、時折唸り声を上げていた。今夜片付けた退治業について、メモだけでもと手に取ったところ、ついあれもこれもと欲張ってしまい、画面では半ば原稿の一節に近い文章が出来上がりつつある。ああでもないこうでもないと言葉をこねくり回す横からは、細い影が口やら手やらをしきりに出す。机だったなら「邪魔すんじゃねえ」と追い払いもするが、ここはベッドなのでロナルドの立場は弱かった。

 これ以上やっても良くなりそうにない。もう諦めようと、潔くメモアプリを閉じる。ごろりと転がって仰臥するついでに、散々ちょっかいをかけてきた悪戯好きの人外を轢く。うぐぇと色気のない悲鳴が上がったが、めっきり死ににくくなったドラルクは塵と崩れることなく持ち堪えた。乗せられた重たい腕と脚をどけようと奮闘するも、途中で力尽き、そのままぐったりと脱力している。
 じたばたともがいたことで毛布が捲れ、露わになった上半身に、重みで死なれても寝覚めが悪いとロナルドは大人しく手足を引く。この城で紅茶を出された時に見た、卵の殻のように薄いティーカップを思い出していた。外側の模様が内側に透けて見えるほどに薄く、羽のように軽い磁器。エッグ・シェル。確か日本生まれだよと、持ち主はあれこれ蘊蓄を傾けていたが、あまりに頼りないその姿にロナルドは壊したらどうしようとそればかりを気にして、紅茶の味はあまり舌に残らなかった。

 肩の造りも肋の骨も、加減を誤れば砕いてしまいそうに華奢だ。理性がきちんと働く内は、間違っても壊してしまわないよう意識する。それなのにロナルドがこのところのめり込んでいるのは、そこに壊れないギリギリの塩梅で小さな傷を残すことである。最中の話だ。柔らかく歯を立てては表面に、唇で吸い上げては内側に。疼くような痛みに身を捩る痩躯が根を上げるギリギリまで、追い詰める。
 真実陽光に晒されたことのない肌に浮かぶ痕は、暗がりでさえくっきりと目を射る。枕元の明かりに照らされた今は鮮やかに赤く、自分でしでかしておきながら、熱に浮かされた間の不埒を目の当たりにして胸に湧くのは慚愧の念だった。無言で毛布を掛け直す。ドラルクは相手の葛藤など知らぬげに、与えられた毛布にぬくぬくとくるまった。



「そもそも、本が出るきっかけって、何だったんだい」
「……宣伝にもなるかなと思って、ブログやってたんだよ。退治業って、人気商売なとこあるからな」
「え、まだあるのそれ」
「検索しないでいい」

 牽制したロナルドが、自分の端末を取りに行こうと動いた腕を柔らかくつかむ。力加減が絶妙になってきたなと、ドラルクは感心した。今ならそこそこ乱暴にされたって死んだりしないと思うが、望んで暴力的に振る舞われたいわけでは決してないので、わざわざ申告したりはしない。逆らわず、引き寄せられるままぴったり重なった。足先を絡めて温かな体温を味わう。夏だったら蹴り飛ばしてしまうかもしれないが、肌寒い季節は、本当に心地良い。喉を鳴らさんばかりに満足げに腕に収まる痩身に、体温高めの筋肉質な身体は黙って熱を分け与えている。ドラルクは目を閉じて、毛布の上から背中に当てられる手のひらに集中した。安定して身体中に、それこそ末端まで、満遍なく血が巡っているのだろう。いつ触れても温かな手。

「温泉みたいだ……」
「何が」
「君の手。好きだよ」
「そうかよ」

 じんわりと沁み入るような熱。なのに、心地良かったそれが何やら落ち着きなく身動ぎを繰り返し、微かな苛立ちを覚えたドラルクが「動くんじゃない」と身勝手な文句をつける寸前、控えめな調子で言葉が続いた。

「あのさ、手ぇだけ?」
「ん? 顔も、好きだよ」
「……他は」
「んー……」

 問いかけに瞼を持ち上げて、ほとんど何も考えないまま答えて、それでも重ねて問われたことに、本当に意図せず、勝手に目線が下がったのだ。
 ほら、だってジュニアだから、家族だから。言い訳にならない言い訳だが、そうドラルクが口に出す前に「セクハラやめろ」と怒られてしまい、弁解の機会は失われた。若干機嫌を悪くしてしまったロナルドを宥めようと手を尽くすも、笑い混じりでは効果はいまひとつである。

「そんなに怒らないでよ」

 ついに背中を向けてしまった退治人に、ドラルクの笑いがようやく治まっていく。毛布を奪われて肌寒さを覚えたので、ベッドから下り、行為の間に落としてしまっていた掛け布団を抱え上げて戻った。にじり寄り、上から覗き込んでみるも、ロナルドはすっかりふて寝を決め込んでいる。困ったなと、ドラルクは口元に手を当てて、苦境を抜け出す方法を考えた。しばらくの沈黙ののち、そうっと顔を寄せる。閉じた瞼についばむようなキスを落とすと、面白いくらいに肩が跳ねた。そのくせ強情にも起きようとはしない。根比べかと面白くなり、こめかみに、耳元に、髪をかき上げて生え際に、音も軽やかに触れるだけのキスを降らせた。ぷるぷると震え出し、見る間に朱に染まっていく白い肌に笑い出しそうになりながら、ぐっと堪える。耳に注ぎ込むように、宝物のように大事にしていた思いを打ち明けた。

「私のお気に入りは、君の目だよ」

 トルコ石みたいにぴかぴかしてる。髪とお揃いの睫毛のおかげで、どっちの色も映えて綺麗なんだよ。それで、美味しいものをいっぱい食べて、キラキラしてる時が一番綺麗。液晶ばっかり見ている時は、ちょっと霞んでてもったいないんだ。スモッグがかかった都会の空ってこんな感じかな。だから君、毎日ちゃんと栄養とって、しっかり寝て、ゲームにハマったりなんかしたら絶対ダメだからね。

 屈み込んで囁いていたら、伸びてきたしなやかな腕に引きずり倒される。シーツを皺だらけにしながら腕を、脚を絡め取られて、ぴったり重なった身体は何も言わない。息遣いや押し当てられた胸から伝わる鼓動はとくとくと少しだけ速く、ドラルクが口を閉じると、静寂の中そのリズムだけが互いの身体に響いた。心地良い体温。その熱がじんわりと沁みたリネン。怠さの残る身体。どうしたって眠くなる。逆らわず、ドラルクは寝る体勢に入った。



 綺麗なのは確かだ。意外なくらい甘いもの好きな退治人は、ある時「ホールケーキにそのままかぶり付きたい」などと抜かして、それはどうしてもドラルクの美意識が許さなかったから却下して、代わりにクロカンブッシュを作って山を突き崩す楽しみを与えた。仕上げに銀色のシュクレフィレを飾り、形になり始めた瞬間から仕上がりまでずっと子どものように夢中になって見つめていたあの時が一番綺麗だった。
 それでも、一等のお気に入りは、熱に浮かされた時の青だった。思わず逸らしたくなるほど強く、灼けつきそうなほど熱の籠った双眸。受け止めきれず、大抵背けてしまって、それでも強烈に瞼に残る。暴かれた箇所が端から炙られる思いだった。剥き出しの肌が粟立つくらいに強く刺さって、どこまでも追いかけてきて、仕留められる最後の、その先まで見届けようと迫ってくる。激しい羞恥と僅かな恐怖と、いつだって逃げきれず何もかもを曝け出す羽目になって、けれどもそうされたい思いも確かにどこかにあるものだから、仄暗い歓びも感じている。自嘲が邪魔をして、素直に好きだとは言えなかった。行為の間、食らい付いてくるその目が好きだなんて、そんな浮ついたこと。



 揺らぐように意識が浮き上がって、境界線上でぼんやりと目覚めるかどうしようか迷う。ほんの数分にも、随分と寝入ってしまったようにも思えた。ぎゅっと瞼に力を入れてから開き、そうしたらばちんと音がしそうな勢いで目が合った。寝起きには刺激が強く、動揺のあまりドラルクは派手に震える。吐息がかかる距離にいた男は「ジャーキングだ」などと呑気に呟いていた。
 違うよ。君は顔面の圧がすごいんだから、やめてほしい。そんな思いを込めて「寝なかったの」と尋ねても、返ってくるのは益体もない返事ばかりだ。
 まだしたいのかな。
 足りなかったのかと様子を窺うも、そういうつもりでもないらしい。手は穏やかで、一定の速度を保っていた。1枚の毛布を分け合えるくらいぴったり重なって、くっついて、そうしてロナルドはひたすらに、黙ってドラルクの髪を撫でてくる。
 暖かくて快適ではあるが、何だかとても落ち着かない。猫カフェにでも来たつもりか。そろそろ帰る時間だろう。私もシャワー浴びに行きたいな。そんなごく自然で、普段なら何気なく言えることを、言い出せない何かがあった。かといって、言いたいことがあるなら言えば? などと言ったが最後、何か恐ろしいことを告げてきそうな雰囲気がある。ドラルクの勘は割と当たる。弱者は弱者なりに、生き抜く術を自然と身に付けるものだ。瞬きはゆっくりと、銀の覆いが被さった瞳は余韻と眠気でとろりと蕩けて、それがひどく甘やかだった。見ていられずに、胸元に頭を押し付けて、目も口もぴったり閉じる。

 結局ロナルドは最後まで、特に何を告げるでもなく、黙ったままでいた。











 色々と推測しては努力したのだ。全く報われなかったけれど。
 もしかして煙草が駄目なのかと、意識して控えたこともある。元より昨今の喫煙者狩りの凄まじさに慄いている一員として、吸う場所には滅茶苦茶気を遣っている。人んちでは絶対吸わないと決めているし、それはこの城も例外じゃない。むしろ絶対我慢する。あの高そうな壁紙ヤニで汚しでもしてみろ。これ幸いと、絶対俺の事務所に修繕費の請求書が届く。

 一昼夜断つだけで鼻がデフォルトの状態に戻ったのか、動く度にふわりと漂う残り香に気付いた。あちこちに鼻を当ててよくよく確かめてみると、どうやら上着に染み付いているらしい。夏でもない限りそうマメにクリーニングに出すものでもない。うわこれ仕事がひと段落しないとどうしようもねえって諦めて、とりあえず脱いだら大丈夫なはずと取り去っても、やっぱり何だか感じる匂い。だんだんと内臓にまで煙が染み付いている気がしてきた。嘘だろ、そんな吸ってねぇのに。ないよな? え、俺って内側からタバコ臭い?
 食道だの肺だのは丸洗いできないから、せめてできるところだけでもって、一所懸命歯ァ磨いてマウスウォッシュ使ってケア用品飲んで出掛けた日は正直期待した。

 俺は忘れない。
 いらっしゃーいって陽気にのこのこ寄ってきたあのバカが「うわくさっ」と胸に突き刺さる一言をぶん投げてきたあの夜のこと。たまに唐突に俺の胸の中で甦り、メンタルをめこめこに叩き潰しにかかってくる。
 あっごめん、でも人工の香料ちょっとキツ過ぎるよ、せめて無香料のやつ使ってほしいな……ってあーもう口開けないで! 喋らないで! 部屋中ミント臭くなる! 君煙草もやるだろう、そっちと混ざって酷いもんだよ。作り物の匂いはこれだから……ちょっと、何してるの、キッチン行くよ、早く何か胃に入れろ!

 フォローぶった追い打ちに、床に頽れて何かをやり過ごさないと次に進めなかった。
 ちなみに奴はがりごりすごい勢いでミルを挽き、滅茶苦茶いい匂いのコーヒーを淹れてくれたが、その後「コーヒーには優れた消臭効果があるのだ」とかドヤ顔でイヤミをかまし、どこまでも自分のためだという利己的な主張を押し通す爽快なまでのクソ野郎っぷりを見せてくれた。こいつ、時々こういうとこがある。











 どうにもおかしなことになっている。
 寝る前でもない限り、身を清める程度ならドラルクは大抵シャワーで済ませる。こびり付いたものを取り去って、身体が多少は温まるまで、湯気の満ちる中熱いシャワーを浴び続ける。吸血鬼御用達の鏡だが、温度差には普通に曇ってしまう。手のひらで拭い去り、映り込む痣に眉を顰めた。
 初めに境界線を踏み越えたのは自分だ。夢中でしがみついて、爪を立てて、唇であからさまな所有印を刻んだ。だからどうにも咎め辛い。それでも、どこかで線を引き直さなければいけないと、そんなことを考えている。楽しいけれど、自分たちは楽しいだけの関係だからだ。そうあるべきだ。

 ちょっとサービスし過ぎたかも。だって、あの顔が見てくるからな。

 あの美しい造形を眺めていられるならと、後先考えず大抵の無理は聞いてきた。そんな危機管理能力の欠如が招いた事態だろうに、未だにあの顔に見つめられればまた無茶に付き合ってしまうだろう自分の意識を顧みて、ドラルクは頭を抱えたくなった。実際に抱えた。
 早くいい子を見つけて番えばいいのに。頭のどこかでそう思う一方、そんなことになったら全くもって面白くないだろうとも思う。
 寝て、ご飯を貰って、与えて、一緒に遊んで、仕事に巻き込まれて、また寝て、そのままゼロ距離で一緒に眠る。あくまでも食事兼レジャーといった感覚だったのに。行為だけではなく、こうした距離感を自分が好ましいと感じている現実に、困惑した。
 気に入っているのは間違いない。姿だけでなく、その在りようまで美しいから。可愛がっている自覚もあった。いちいち反応が楽しいから。

 どうしたことだろう。初めは全然逆のことを心配していたはずだ。何ともおこがましいことに。彼を気に入った一要素だった。変に拗らせる心配はないだろうと。
 ……こっちが拗らせてどうする。
 向こうもアレだ。ちょっとまずいことになっている気がする。最近いやに、手が優しい。隙あらば優しくしようと、手ぐすね引いて待っている感がある。そうして、それがまた、とても心地良いのだった。

 ああ不味い。
 ちょっと、かなり、入れ込み過ぎてしまった。返さなきゃいけないものなのに。私のものにはならないのに。

 それでも、こちら側だけの問題ならどうとでもなる。相談先にも事欠かない。人と違って長生きで、その分知恵も、助けを求める当てもある。しかし、今はもう、それだけじゃ済まないところに多分いるのだ。
 どうしよう。
 考えるほどに、不穏なものが重く垂れ込めていく。向こうがどう思っているか。それについてきちんと考えることを、対策を、完全に怠っていた。何なら、逆にそそのかしたかもしれない。こっちにおいでって。もっと夢中になるといいって。


 ドラルクは究極のひとりっ子気質である。血族の中で男児が自分ひとりという期間があまりにも長過ぎて、どこまでも甘やかされて育ったし、成長しきって久しい今でも現在進行形で甘やかされている。基本的にはマイペースで、ワガママで、自己を優先することに迷いがない。女性に対して遺伝子レベルで紳士的に接する気質を受け継いでいなければ、あと師に多少矯正されなければ、スポイルされる一歩手前だった。幸いなことに空気を感じ取る力は人一倍強く、その後の擬似恋愛遍歴がある種の武者修行ともなり、成人を迎える頃には、社交界から酒場まで、どんな場面でもそつなく振る舞える程度の社会性が身に付いていた。

 その辺りからようやく、誰かに頼られること、必要とされることに対して、憧れとも願いともつかない欲求を感じるようになった。当時弟や妹が得られたならば、それはもう滅茶苦茶に可愛がったことだろう。幸か不幸かそんな存在はついぞ現れず、ごく稀に饗応で、あるいは身内に腕を振るうことでお茶を濁す日々が長らく続いていた。そこにのこのこ現れ、何故だかマメに遊びに来るようになったロナルドである。正しく鴨がネギを背負ってやって来た。世紀単位で甘やかされてきた全ての経験を以てして存分に甘やかしの辣腕を振るいまくったドラルクが、嘴の黄色い若者をしてアヘン窟など想起せしめるまでに駄目にしてしまったのは、無理からぬことと言える。


 もっと早く気付くべきだったと、焦る思いで唇を噛んだ。チャームの話とかもされたのに。違和感はあった。思い起こせば、かなり初期からあったように思う。多分浮かれていて、あまりに楽しくて、だから楽しくない結末が薄々透けて見えた事柄については蓋をして、後回しを決め込んだのだ。嫌がられていなければそれでいいと、その程度の注意しか払ってこなかったことを、ドラルクは今やっと、猛烈に後悔し始めていた。

 粗忽者。
 目先の快楽に流されて、その場凌ぎの適当ばかりを並べるから、そんな目に遭う。

 頭の中のどこかには、いつでも師の目線がある。大層嫌悪を覚えることに。それでもその視点は、窮地に立たされたドラルクがどうにか起死回生を図るヒントをくれるのだ。あと、怒りをかき立てる。そうして嫌でもやる気が湧く。あのスノッブ吸血鬼に、断じて「それ見たことか」と言わせてなるものかと。

 それで、ルールを設けることにした。

 いざその時が来ても、迷わず切り捨てられるように。踏み越えればそこで断ち切る、スイッチとして条件を定めた。まだ覚えたての交接に浮かされている若者が、仮に目先の快楽から未来の約束へと目を向けてしまった時の、予防線だった。
 まあまだ時間はあるだろう。
 これまでの経験からしてきっとあとひと月、いやもうちょっと猶予があると数え、ホッと息を吐く。しばらくは、無邪気に一緒に過ごせるだろうと。そうしたら「その経験とやらは全く当てにならないな」と頭の中の師が馬鹿にした。カチンときたのはその通りだからだ。
 何故ってそれは、今ドラルクが、多分、かつてないくらいに、たったひとりに入れ込んでいるからだった。そんな経験は今までになかった。言われなくとも自分が一番分かっている。師の声は己の理性の声だ。



 親も知らない遍歴を、似たような世界に身を置いているからだ、師はほとんど知っていた。口に出さなかっただけで、もしかしたら全てを知られていたかもしれない。ドラルクがいかにして相手を床に引きずり込むか、何と仮初の愛を囁くか。夜ごと身に付けていった手練手管まで全て。刹那的に繋げてきた擬似的な恋の花蔓のその花弁は、ほんの一晩綻んで、咲いたと思ったらあっという間に萎れてしまい、それはドラルクにはどうしようもなかった。同じ花を咲かせることは意志の力でできることではなかったし、ほとんどの相手は、同様に一夜の共寝を望んでいたからだ。気持ち良くなりたい。ひとりでいたくない。誰かの代わり、なんてことを堂々と求める輩もいて、けれどドラルクは全く構わなかった。自分という生き物を知るために、より多くの生き物と交わることが目的だ。どこまで行けるか、何ができるか、知りたかった。しどけなく身体を擦り付けるのに丁度いい相手は、探せばいくらでもいた。
 覚えたての時期は特に酷かった。一緒に咲かせたものだろうに、花の存在など気にもとめず、毎晩のように一夜限りの逢瀬を楽しんでいた。

 手痛い報いを受けては学び、失敗だったと自覚できる過ちが両手の指では足りなくなる頃、ようやく悟っていた。自分の正体はともかく、身体を繋げるという行為そのものについて、一家言を持つに至ったのだ。時を超越して、一世代でも長く先へ命を繋ぐ行為には、生半可な覚悟では臨めない。自分には向いてない。その覚悟が今はまだ、全くない。それだけが闇に浮かぶ月のようにくっきり浮かび上がり、ドラルクは悟った時からきっぱりと、女性とは関係しなくなった。一緒に命を育みたいと、そう思える相手のために、自分の隣に置いた椅子を守っているつもりだった。
 そう決めてしまったら、行為だけを求めるタチの悪い夜遊びからは、自然と遠ざかっていった。食事に不便を感じたのもほんの短い期間で、むしろなくたって生きていけるという新たな発見に喜んでいた。折りしも大国の産業革命期がピークを迎え、世界中が大きく変容を遂げようとしていた激動の時代である。ほんのひと時目を離していただけで、これまで見たことのないものが次々に生み出されていく驚きと目まぐるしさ。加えてそこに、過渡期が重なっていた。吸血鬼という存在が公に知られ始め、人との関係が急激に張り詰めていく、そんな時期にふらふら遊んでいる余裕はなかった。
 身を潜め、幾多の戦争をすり抜けて、ようやく落ち着けた土地で思いきり羽を伸ばし、寛いで過ごしていた。何だかんだと楽しみを見つけては夢中になる内にあれよあれよと半世紀が過ぎ、そうして、運命を転がす男がやって来たのだ。











 ロナルド吸血鬼退治事務所は駅から少しだけ離れた場所にある。自宅とは別に借りたこの事務所は、交通の便が良いとはお世辞にも言えない。しかし駆け出しの頃はともかく、それなりの知名度を得た今ならば、多少の犠牲を払ってでも訪ねてくれる客は十分にいる。
 手狭だろうと一国一城の主、構えた当初は胸がムズムズするような高揚感でいっぱいで、ちょっとばかりくすんだ壁紙も草臥れた塩ビ材の床も気にならなかった。今だってそれなりに気に入っている。長い間世話になり、あれこれと工夫も凝らしたおかげで、最小限の動きで最大限のパフォーマンスを発揮するベストな配置が完成しているのだ。愛着は一入である。問題は、持ち物が増えてきたことと、移動時間が無駄に思えてしまうこと。最近空き時間があると、ついつい賃貸の情報サイトを見てしまう。もう少し広く、居住スペースも込みで借りられる場所が見つかれば。そうして、ちょっとだけ考えてしまう。
 あいつ、城から引っ越さねぇかな。
 別に、同居とか、いきなりそんなことを言う気はない。でもせめて、唐揚げが冷めない距離くらいには来てくんねぇかなと思う。だって本当、あの城は交通の便が悪過ぎる。電車を乗り継ぎ、しかもそこから先が地味に長いなかなかの田舎っぷり。車を使えば、自分たちが動き出す時間帯の都合で渋滞の影響をモロに受けてしまう。おまけに訪ねるとなると、下手すると丸一日が潰れるわけで、いやその分ちゃんと原稿だって進めてるけど……

 あのパチもん吸血鬼がハッタリかますのに雰囲気重視で選んだだろう城は、自分にとっては立地最悪でも、人外にとってはいい感じなのかもしれない。主要な駅から満遍なく遠く、ちょっと足を伸ばさなきゃならない、ほどほどの田舎。あんまり都市部だと落ち着かないのだろうか。けどカラスとかと一緒で、人里離れ過ぎたら今度は日常生活に困ってしまいそうだよな。
 そんなことを考えていた矢先だった。ロナルドは、パチもんなどではない本物の、それも高等吸血鬼を、城で見ることとなる。

 タイミングは最悪だった。良過ぎたのかもしれない。丁度その場所にロナルドが立っていなければ、きっと、見ないで済んだだろう。丁度その瞬間翼が大きく開かなければ、目をやろうとはしなかった。
 巨大な蝙蝠が羽ばたいて、城の上を旋回した。ぼんやり目で追いかけながら、一瞬で沸き立った血がざあっと引いていくのをどうしようもなく感じていた。それなのに、どくんどくんとこめかみにうるさく響く鼓動のリズム。戦闘態勢みたいに鼓動は速まっているのに、身体中を巡る血は冷え冷えと温度を失くしたようだった。足をどうしても前に進めることができずに、かといって帰る気にもなれず、ただ立ち尽くす。それから、闇がすっかり周囲を覆い隠すまで、一歩もその場から動けなかった。



 視力はマサイ族と揶揄されるほどに良い。退治人として幸いなことに夜目も利く。それを逆に呪わしく思ったのは初めてだった。周辺は木々が疎らに立ち並び、城の外壁を多少なりとも風雨から守っている。突き抜けたいくつもの尖塔は、内側に螺旋階段が設けてあると、もう知っていた。そこから辿れる最上階に広い部屋があり──本来は主寝室だと言っていた──そこに日光がふんだんに差し込む大きな窓があることも、綺麗好きな城主が夜な夜なそこで洗濯を終えたシーツやら何やらを干していることも。当然夜に干して、日没後に目を覚ましてから取り込むのだ。ロナルドは手伝ったこともある。緩んできたロープをぴっちりと締め直して、たったそれだけの労働にやけに喜ばれた。
 私がやると死にかねないって、でもあいつ、最近は結構タフになったはずだけど。そんなことを思い出す。

 その部屋は城の入り口から見れば少しばかり奥まった場所にあるものの、窓を開けば、城に通じる小道が見下ろせる。てくてく歩いてやって来る客人を、確かめようと思えばできるかもしれない。ただし、木々や真下のホールが邪魔をして、遠くに街の灯は望めても、もう城の間近まで迫った人影を見つけるのは至難の業だろう。松明でも掲げて大勢で城を取り囲むなら話は別だが。
 だから、おそらく、向こうが気を付けていたとしても、ドラルクからロナルドは見えなかった。でもロナルドからはよく見えた。さすがに表情までは分からない。けれど、窓から身を乗り出した細い影を、見間違えるはずもなかった。いかにも親しげに寄せ合う顔と顔、ほんの一瞬重なったそれを影が全く拒まなかった様子まで、よく分かった。別れの挨拶だったらしい。張り出すような造りの窓に器用に足を掛け、翼を広げた夜の生き物が紺色の空を舞う。見る間に遠ざかっていく、巨大な鳥のようなシルエットから目が離せなかった。残照が空の端を微かに染めている。ハッと目を戻した時には、窓は既に閉じられていた。



 ちょっと前から自覚はあった。いや割と初めからあった。違う違うと否定していた過去は遠い。
 自分の頭が自分の心を受け入れることはできても、言葉にしたことはまだなかった。ただ、思わずポロッと零れ出そうな時は何度もあった。無我夢中で、薄っぺらな身体のどこもかしこもしゃぶり尽くさんとかき抱く時、いつも内側から突き上げてくる激情。そんな時に言ったって、その場限りになりそうで、だから歯を食いしばって耐える。だからといって、平時になら言葉にできるかと言われればそれも無理だった。


 ロナルドは告白をしたことがない。淡い想いはいつも、告げないままに胸の内側に仕舞われて、日の目を見たことは一度としてなかった。その先に行きたいという気持ちがないわけではなかったものの、相手がいると知っては引き、釣り合わないと考えては引き、そうこうしている内に職に就いて、眠る以外のほとんど全ての時間を退治業に捧げる日々が今日この日まで続いていた。
 されたことならそれなりにあれど、じゃあ真似ができるかと言えば難しい。顔を下から覗き込みつつ「私たち、付き合ってみない?」とか可愛く小首を傾げてみても、向こうは絶対爆笑する。もう一回やって、動画撮るから、ひいひい笑いながらそんなことを言う光景と声までもが鮮明にイメージできて、自分で勝手に想像したくせロナルドはひとりムカムカした。そうして、それならまだいいと思う。え、いきなりどうしたって、シンプルに引かれたらどうしようって不安になって、結局行動を起こすなんて気持ちはそこで小さく萎んでしまう。

 そうやって、何度も行きつ戻りつを繰り返した。膨らんでは萎む衝動。ちゃんと認められたいし、許されたい。なし崩しじゃなくて、暗黙の了解で奪い合うのじゃなくて、約束の上で繋がりたい。他の誰ともこういうことはしないって、ちゃんと誓うし誓わせたい。

 じゃあこんなん絶対駄目だろ。
 普通に考えてあり得ない。

 誓いも約束も何もなく、それでも向こうは当たり前のように触れてくる。こっちだってそれを当然だと受け止めて応えるし、こっちが求めることもある。それをこのまま許していては、これから先には進めない。分かっているのに、ずるずると、何もせず流されるままに時が過ぎて、そうして今夜やっと、随分と乱暴に、現実を鼻先に突き付けられた。
 どうして今まで思い至らなかったのか。
 こいつは、初対面の野郎とだって平気で身体を繋げることができる、そんな生き物だって、最初から分かっていたのに。
 そして俺には、それを止める権利がない。だから、あれは誰なんだとか、俺にはしないことをどうしてさせるとか、そんな文句を言うのはお門違いだ。頭は十分冷静で、分かっている。

 至ってしまえば、これまで何故そんな当たり前の発想がなかったのか、逆に不思議に思えてくる。舞い上がって、テンパって、頭が回っていなかったのか。それとも、無意識に見ないフリをしていたのか。毎日会ってるわけじゃない。自分がいない間、どこでどうしてるかなんてさっぱり分からない。どうせテレビの前でひとりタイムアタックチャレンジ選手権とかやってんだろって思ってた。食事やトイレで席を外す必要がないから、ほんとにぶっ続けでコントローラー握り続けて腱鞘炎になって死んだとか、そんなアホな話しかあいつがしないから。それにしたって余程自分のことだけで頭がいっぱいだった証のようで、恥ずかしくなる。なんてめでたい頭だと。まあ確かに、ここひと月ばかり、自分はずっと浮かれていた。

 手のひらを当てれば、温かいねと頬を預けてくる。腕の中で無警戒に眠る顔。無防備に、何もかも晒して天辺まで一緒に上る。
 どうなんだろう。実際。
 それがあくまでも食事の延長上にあったって、気持ちよくなれる以上、やっぱり精神的な繋がりって意味合いもあるんじゃないか。いや確かめたことはないけれど。向こうにとっては人と寝るのは飲酒、もしくはスポーツみたいなものかもしれない。娯楽の一種。
 でもなぁ。
 脳裏で勝手に像が結ばれる。鮮やかに甦る。満足げな小さな微笑。わざわざ訊いてきて、何度も味見をさせられて、そうして振る舞われた好物。求めずとも当たり前のように与えられた、ささやかな気遣いの数々。多少なりとも心を寄せてくれているって、それは確かな手応えだった。あれが気のせいだと思えない。思いたくないだけかもしれない。
 じゃあ、どうする?





 向こうはといえば、拍子抜けするくらいいつも通りだった。ホットケーキをほいほい焼いている。こいつはそういう、それ専用みたいな道具のこだわりが半端なくて、クレープにしか使わないとかオムレツにしか使わないとか、そんな限定された用品をたくさん持っている。複数のキッチンを使いこなすだけのことはある。最近そこに、やたらとピカピカした銅製の、卵焼きにしか使わないそれが加わったのは、俺が出汁巻きを要求してからだった。箸を器用に使いこなして、くるくると薄くふわふわした黄色い卵を巻いていく、その光景が始まるとついつい見に行って、飽きもせず眺めてしまう。別に卵焼きだけじゃなく、色んなものが、俺の腹に入っていくためのものが、手際よくちゃかちゃか形を整えられていく光景を、好んで眺めていた。たまに「視線がうるさい」とか文句を言われながら。時には振り返って、くるんとひっくり返されて美しく膨らんだオムライスなんかをドヤ顔を添えて見せつけてきたりする。大抵別の部屋で退治の記録を残したり原稿を進めたりしているのだが、キッチンからいい匂いが漂い始めると、いつも、もうダメだった。


「ニュージーランドのバターだよ」

 牧草の香りがするよ。そんなことを嬉しそうに言って、ホットケーキにぴったりの、金色をしたカトラリーを準備している。一番最初の食事は何かすんげぇ長いテーブルで振る舞われたが、匂いにつられてついふらふら向かってしまったキッチンで熱々の出来立てをつまみ食いして以来、もうここでいいってキッチンのテーブルで食べている。空いた皿に「足りなかった?」って尋ねられ、お代わりをよそわれる時の、満足感とも充足感とも何とも言えないむず痒い感じ、上手く表現しきれないそこまでが、ここでの食事ワンセット。
 最上段の、ほかほかしたホットケーキから黄金の蜜が滴っている。熱に輪郭をとろかして、太陽の欠片みたいなバターが香気を立ち昇らせていた。


 構えたところが何もない。
 相も変わらず全部が美味い。
 安心しかけていたところ、触れて、ベッドにもつれ込んで、シャツを開いて現れた首筋から胸元にかけて残る小さな痣にぶん殴られたような衝撃を受けて、薄さに我に返る。自分が残したものだと思い出す。いじましく縋りついて、数えきれないくらい、噛み付くように吸い付いた。正しくマーキング。噛み跡でも鬱血痕でも、ひとたび塵と化せばあっさりと失われる。どんなに痕を刻もうと必死に食らい付いても、死を軽々と飛び越えてこちら側に戻ってくるこいつは、簡単にリセットができるのだ。あれから死んでいないらしいと知って、本当に頑丈になったじゃねぇかと思って、それで、やっと安堵する。なのにしたそばから、今度は「ひとの痕なんざ気にしないヤツかもしれない」とか考え始める。頭で抑制しようと努力はしても、心がついていくかと言われれば、それは別の話だ。無意識に痕跡を探して目が落ち着かない。
 ちょっと、今日はずっと、まともではないのかもしれない。猜疑と嫉妬でおかしくなっているかもしれない。気持ちよくなれるようにって、怖がらせないようにって、どんなに気が急いていても思うことが、今はどうしても後回しになる。見つければとんでもないことになると分かっているのに、誰かが先に踏み入ってやしないか、そんな痕を探さずにはいられなくて、そうした衝動を自分で全くコントロールできなかった。
 まだ早いって思うのに指先が向かう。抱きつくようにして回された腕に力が込められた。構わずに沈めて、食い締めてくる感触に、緊張したように強張る身体に、今日はやってないらしい、けど毎回そうとは限らない、なんて、疑いばかりが膨れていく。どっちだ。そんなことばかり思う。不安と心配ばかりが先走って、我ながら欠片も余裕がない。見つけたいのはどっちだろう。安心したいのか、責め立てたいのか、本当はどっちを望んでいるのか分からなくなりそうだった。





 自分が放ったものが内側でかき混ぜられて、籠った音が時折響く。まだ芯の残る性器で緩やかに行き来すると、かき出された白濁が薄い尻を伝ってシーツを汚した。零れ落ちていく感覚に身を震わせている。こちらにも響いて、堪らなくなって、再び奥に入り込もうと腰を押し付ける。悲鳴じみた短い声が上がって、喉が晒される。まだ、過敏なままでいる。
 ぴったり重なって、重みに呻く声にも構わず押し潰した。上気して、それで少しだけ濃くなった気がする痕に重ねて唇を当てる。首筋はひどく弱い場所で、こんな時は慎重に触れないと、下手を打てば死なせてしまう。平時にだって、何の心の準備もされていない時に触れると、飛び上がって叫んだりするのだ。普段何重にも守られている場所だからかもしれない。唇の表皮で擦るように触れてみる。舌先でなぞって、軽く吸うと微かに声が零れた。息がかかるだけで辛いと訴え、身体を捩って逃れようとする。今は、そんな仕草が堪らなく嫌だった。

「……ぁ、アッ! まだ……ぁ、あっ、あっ、」

 待てって、多分そう言いたかっただろう言葉を全部無理矢理吐息にさせた。弱いと知っていて、殊更にゆったり引き抜いては腹側の一点を擦り上げる。身体を離して、腰だけを引きずり上げて、そうして全容を見下ろすと、こちらに何もかもを明け渡して、ただ息だけを懸命に継ぐ様がよく見えた。震える指先が腕に掛けられて、縋るように、引っかくように、僅かな力が込められる。それに胸をかきむしりたくなるような、正体のよく分からないものが溢れて、どうにもやっぱりコントロールが利かなかった。身勝手に腰を振って、叩き付けるようにぶつけて、吐き出したものが内側で泡立つくらいに乱暴に抜き差しする。ぬるぬるした熱い襞。振りきっては突き入れて、それだけで性懲りもなく限界まで反り返る。膨れる。腰骨にも痕が残るかもしれない。加減ができず、浮き出した骨に指が食い込むくらい力を込めてつかむ。腰を打ち付ける乾いた音、身の内に響く卑猥な音、声が高くなって、掠れて、涙が混じり出す。苦しそうに喘ぐ。痛々しいと、可哀想だと思うのに、どうしてだかますますおかしくなる。身体は確かに快楽に浸ってぐずぐずに溶けている。心ばかりがささくれて、荒れて、いつもよりもっと、本当に苦しそうな声にも止まれなかった。もう声にもなっていない。息に紛れて途切れ途切れの嗚咽が胸を引っかいてくる。何度も跳ね上がってはひくひくしてる、中に何もないのではないかって、それくらいにへこんだ薄い腹。初めてまじまじと見た時にはびっくりして、今だって見慣れるということはない。潰して壊してしまうかもしれないと、ヒヤヒヤしている。意外なほど艶やかな肌が覆うから、辛うじて安堵できる。触れて、確かめて、そうして、何とか膨れないかといつも思う。終盤、もう無理だって、受け入れるのを辛そうにされても、いつだってしつこく中に出すのは、足しになるかもしれないなんて浮かされた頭で思うからだ。いや自分がそうしたいって、それが最初にあるのだけれど……

 悦いところだけをひたすら責められるのは、長く続くと拷問みたいになる。泣きじゃくって、疲れきってふらふらになって、息も絶え絶えの状態で、それでもついて来ようと呼吸を合わせるいじらしさにまた何かが胸の内で爆ぜる。遅れて、駆け上ってくる衝動に抗わず、最奥まで入り込んで、少しでもまだ奥へと爪を立てるような気持ちで震えながら吐き出した。



 弾んだ息が少しずつ落ち着いていく。
 汗が冷えていく。
 重なったまま、穏やかに肉欲の波が引いていくのを感じていた。代わりに精神的なものが押し寄せる。いつもなら満ち足りた時間だった。許されない唇にぼんやりと思いを馳せて、まあいいか、もういいか、そんな風に手の中にあるものだけで満足していたはずだった。今夜ばかりは、どうしても、そうは思えなかった。焦燥に駆られるまま、身体を起こす。

 萎えたものを抜き去るそれだけで刺激になったらしい。微かに喘ぎ声が零れた。まだ肩で息をして、それでも、肌を汚したものもそのままに眠り込みそうになっている。屈み込んで、手をついた。囲うように顔の周りに体重をかけられて、不穏なものを感じたのか、閉じられていた目が開く。見上げてきたそれはまだ忘我の色に蕩けていた。嫌悪も警戒も、およそ否定的な感情は全くない。それだけ確かめて、距離を詰めて、重ねた。
 あの日触れたのと全く同じ。ふにっと柔らかくて、薄い見た目に反して押し返されるような弾力がある。一瞬だけ押し当てて、表情を見定めようと離れたら、びっくりした顔をしていた。眉間から完全に力が抜けた、子どもみたいに無防備な顔。それを見たら堪らなくなって、細い顎をつかんだ。ぴくりと神経質そうな細い眉が寄せられ、不安そうに瞳が曇る。それを認めても止まれなかった。
 シーツに押し付けられて、後ろには下がれない。顎をつかんでいるから、背けて逃げることもできない。近付いて、もう一度、今度はゆっくりと触れる。びくっと揺れて、それからぎゅっと目が閉じたのが分かる。睫毛が当たる。首を傾けて食むように唇を動かすと、高い鼻がますます頬を擦った。
 ぎゅっと一文字に結ばれた口は緩まない。息を継ごうと僅かに離れた隙に、薄い手のひらが間に差し込まれた。息を止めていたらしい。手のひらの向こうで、開いた唇が、苦しそうに喘ぐように空気を取り込んでいる。

「……あぶない、よ」

 短く息を継ぎながら、そんなことを言う。牙があるからか。吸血鬼だったら構わないのか。子どもみたいに駄々をこねてしまいそうだった。何で俺にはさせないんだって。何で、何で! だって、俺じゃない誰かにはさせるのに。
 言ってはいけない。
 そんなみっともないこと。
 だって、俺は、こいつと、何も約束をしていない。気持ちいいことだけをもらって、美味しい思いをさせてもらって、大事なことを置き去りにした。考えず、突き詰めず、心地良いことばかりを求めて、その上もっと寄越せって、貰えないことに文句をつけるだなんて勝手を、そんな格好悪いことできるわけない。


「……どうしたの」

 あんまり痛むものだから、動けなかったのだ。項垂れて、ぺらい肩口に頭を押し付けていたら、細い指先が髪に触れてくる。梳くように、撫でつけるように、柔らかな動き方をする。こいつは異変に気付いてる。何かあったんだろうなって、察してる。今日はもう、最初からずっと、多分酷い顔をしていた俺のことを心配していた。声から表情から指先から、それが伝わる。そんな風に心を割いて、近くに寄り添ってくれるのに、なのに、こいつが今まで言葉にしたことときたら絶妙だ。触れてもらうのが好き。手が好き。顔が好き……

 こいつは一度だって、俺を、俺のことを好きだと言ったことはない。

 腕を巻き付けて、力を込めた。頑丈になったと言うだけのことはある、苦しそうに息を詰めて、それでも死んだりしない。くぅ、って、細い喉から苦しそうな息が零れる。もう気にしてやれなかった。手加減しなきゃいけないのに、ああそれもだけど、もっと、言うべき時は別にあったのに。余裕なんて全然なかった。せめて、このまま締め殺してしまう前に。

「なあ」

 好きなんだけど。
 告げたら、抱き締めていた身体はあからさまに強張った。











 以前、この国でアメリカ製のピンボールマシンを手に入れたことがある。戦後そう間もない頃の話だ。当然ながらコンピュータどころかトランジスタのひとつも使われていない、ごくごく原始的な造りの巨大なアーケードゲーム機。フリッパーを操作してボールを受け止めては打ち返し、落球に気を付けながら様々に施されたターゲットを狙う。とてもシンプルで、神経の摩耗しない、朴訥で、でもどこか猥雑な親しみやすさがある不思議な機体だった。一目で気に入って、それから随分長いこと一緒に遊んだ。穏やかで継続的な、熾火のような愛情を感じていた。
 スペースインベーダーが世界を席巻しても、ゲーム用のハードウェアが次々に生み出されても、時々はここに戻ってきた。素朴な筐体の前に座って、シンプルなゲームに興じている時、コンピュータゲームに感じる興奮とは真逆の安らぎに浸かることができた。気心の知れた間柄。打ち解けた親密な空気。
 ずっと大事にしてきたつもりだけれど、少しずつ不具合が目立つようになって、ある時いよいよ完全に動かなくなってしまった。どうにかならないかと手を尽くしたものの、寿命だと悟って、けれどどうしても手放せなくて、ずっと地下室に置いたままだった。専門の業者がいると知ったのはそんなに前のことでもない。スクラップにされるのではなく、コレクションの一部として活かしてもらえるようだった。やり取りをする内、相手はショップというよりも道楽で運営する私的な博物館に近いと分かって、それで、ようやく手放すことを決めた。ひとも、物も、最もその存在を求められて、力を発揮できるところに在るのが一番いいのだ。

 引き取られていく前は一晩中一緒に過ごした。悲しかったけど、そろそろかなと、ゆっくりゆっくり、まるでこっちの心の準備ができるまで待ってから駄目になってしまったかのような、その過程に救われた。
 もう結構前の話。痛みは少しずつ癒やされて、今はもう、懐かしく思い出せるまでになっている。今度は100年くらいかかるかもしれない。それでも、自分の判断は間違っていないという自信があった。それだけが支えだった。











「好きなんだけど」

 言葉の意味を理解して、全く異なる2つの感情が飽和した。君は、それを言ってはいけなかったのに。
 告げられて、顔を見なくても本気なのはよく分かった。こんな冗談を言う男ではなかった。今までにも、不味いなってぼんやり思う時はあったけど、でもまさかもうここまで来るなんて思っていなかった。この男なら、もっと迷うと思ってた。だから自然に心を剥がせるよう、作戦だって考えて、これから少しずつ発動させるつもりだったのに。ドラルク城居留守大作戦とか恋心誘発ファンレター作戦とか、あれこれ計画まで練ったのに! こんな、一足飛びに来るなんて、そんな心の準備はできていなかったから、とても驚いた。驚いて、心が引き裂かれそうになる。そうなんだねっていう喜びと、言ってしまったねっていう悲しみと。それで、何も言えなくなった。固まって、強張って、そのまましばらく黙り込んでしまう。全く、何のためにわざわざルールを決めたのだか。
 好意を告げられた時。関係に名前を求められた時。未来を縛られた時。その時は、迷わず相手を切り捨てるって、決めただろう。
 固まってる暇はない。
 どんなに惜しくても、残念でも、悲しくても、タイミングを間違えれば、完全に断ち切るのはどんどん難しくなると知っていたから。

「それ、勘違いだよ」

 だから躊躇してはいけない。振り絞るように告げてきた声に惑わされてはいけない。そう自分を鼓舞して放った言葉は真っ直ぐ相手に刺さったようだった。まだこれからなのに、怯みそうになる。躊躇ってはいけない。迷ってはいけない。信じられないって覗き込んでくるその表情に、傷付いたって色を隠さない目に、まだ触れている温かな身体に、引きずられてはいけなかった。だから、言葉を返すなり下から這い出して、毛布を引き寄せくるまった。随分と簡素でも、これは立派なバリケード。だってこれから自分は、たったひとりで戦わなくちゃいけないのだ。


「……勘違いって、何が」
「よくある話だよ。身体が気持ち良いことに、心が引きずられてるってこと」
「違う」
「違ってもね。私は好きじゃない」

 それは本当。
 私は、私の方は、好きなんてもんじゃない。撥ね付けて、そうして感じた想像を遥かに上回る痛みに、呼吸を落ち着けているのが精一杯だった。本当に、未だかつてないくらいに、入れ込んでいたのだと実感する。これは執着だ。無理に引き剥がせば血が噴き出すような。妄執と紙一重の、ひどく身勝手な欲望だった。
 きっぱり告げると、紅潮していた顔から一気に血の気が引いたのが分かった。見れば揺らぐ。目を閉じて、それから次に開けた時には全く別の場所に視線を当てる。チャームを得意とする吸血鬼に仕掛けられた時は、よくそうやって逃げたものだ。

「私たちは同じ場所じゃやっていけないだろ。君は昼。私は夜」

 あくまで別々の場所で生きて、それ以外では本当の意味で生きられない。ほんのちょっとの間、たまたまその場所が重なっただけで、それも無理を押してのことなんだ。ずっと続くことじゃない。

「生き方も全然違うだろう? 君たちの世界に当てはめるなら、セックスワーカーみたいなもんだよ、私は。君とは違う」

 君からは見返りを頂いているからね。おかげさまで最近全然死んでない。でも、ちょっとサービスし過ぎたかもね。勘違いさせる前に、やめなくちゃいけなかったんだけど。ごめんね。そろそろ卒業しよっか。

「ちゃんと人間の女の子と恋をしなさい、素人童貞くん」

 やんわりと冗談に任せた言い方で、ぴしゃりと拒絶した。そうしないといけなかった。それくらいの情けをかける価値はあると認めていたし、またそれは自分自身のためでもあった。後顧の憂いを残しては、お互い前に進めない。
 ぶっ殺されるかな。それも覚悟していた。嫌だな、とも思っている。多少頑丈になったせいで、一発で死ねるとは限らないのだ。グロ指定みたいなことになったら、さすがに今の時点で十分可哀想なことになっている若者に更なるトラウマを与えかねないと、心配だった。



「迷惑だったかよ」

 随分な空白の後に、意外にも落ち着いた声で尋ねられたのはそんなことで、想定していたどれとも違うことにドラルクは少し驚いた。
 抑制された声音は、ロナルドの努力の結晶だった。こうまでこっぴどく拒絶されても、到底想いを振り切れない相手に、軽蔑されてなるものかっていう、最後の意地が成功させたほんのささやかな反撃だった。ドラルクは知らない。だから、大丈夫かもしれないと侮った。案外、冗談混じりだったかもしれないなと、ほんの少しだけ安堵した。そうして、首を傾げて考える。
 迷惑なんかじゃ全然ない。仮にそこまで真剣ではなかっとしても、多少なりともこちらへ傾けてもらえた気持ちはとても嬉しかった。縁遠いはずの存在なのに、天にも昇る心地になれた。今まで楽しかった。久しぶりに、他者と触れ合う歓びに満ちていた。身体だけじゃなくて、心を寄せ合う喜びを思い出せた。家族以外に、そんな喜びを感じられる相手ができるなんて、思いもしなかった。自分なりに大切にしていたつもりだ。うっかりと独占欲を抱いてしまうくらいには。迷惑なんかじゃ、全然ない。

 けれどもそれは、今ここにおける正しい答えではないのだ。好意を告げるということは、心の一番柔らかな箇所を相手に曝け出すことだ。尊ばれるべき行為で、誰にも貶める権利はない。それを無惨にぶった斬った自覚は十分にあった。不必要な優しさは、己の罪悪感を薄めるエゴでしかない。相手を本当に思うなら、正しい答えはそれではなかった。

「そうだねぇ。困りはしたね」

 虚空を見上げて零した言葉に、抑えきれなかったのだろう。肩が震えた。視界にあるだけでも伝わってくる。傷付いている。悲しんでいる。それが分かって、ああ、やっぱり駄目かって、辛くなった。
 まあそうかとも思う。軽い気持ちで想いを吐露できるほど、軟派な男ではない。見た目を裏切り、その中身はウブで、硬派で、真っ直ぐだ。想いを自覚して、そうしたら、もう真っ直ぐ来るしか方法を知らなかったんだろう。短い付き合いでも、その誠実さはよく知っていた。だからこそ手放すのだ。あるべき場所に返してあげないといけなかった。
 動揺を隠しきれない若者を見ないように目を閉じて、材料を並べていく。
 さあ。後は君が立ち上がるだけなんだ。君が自分で立たないと、ダメなんだよ。

「時間もね。私意外とやることあるから、足りなくなって大変だったよ」

 何が困るって、色々なものが連鎖反応的に狂うんだよね。城の掃除が行き届かない。油断すると庭が荒れる。積みゲーも積ん読もさっぱり崩せない。ソシャゲで登録しているチームじゃあ、ノルマがこなせずうっかり放り出されるところだった。周回をサボって取りこぼしたアイテムはもう数え切れない。あれもしたいこれもしたい、でも出来なくてムキーッ! ってなるんだ。

 事実だった。けれどそんなもの、いくらでも調整できる。真実困ったのは別の問題だ。私たちは成り立ちが違うのだから。説明したって、きっと理解されないだろう。周到に覆い隠して、決して見せないようにする。
 ドリップケトルの焦げ付きも取ってしまいたいのにとか何とか、キッチン周辺の悩みにシフトしていくところを「もういい」って止められる。声は十分に冷えていた。そこで、ドラルクにとってあまり縁のない、それでも生まれのせいか馴染み深い匂いがふと漂ってきて、ぎょっとした。血の匂いだった。
 驚いて目を戻す。唇かと思ったが、違った。腕にくっきりと筋が浮くほど握り締められた拳が、シーツの上で震えていた。爪が手のひらを傷付けている。表皮の痛みなんてどうでもよくなるくらいに、いや、分かりやすい痛みで紛らわせでもしないと耐えられないくらいに、きっと今、内側がズタズタに引き裂かれている。
 眉が寄るのを止められず、けれど伸びそうになった手は引き寄せ、腕を組んで封じた。努めて無表情で、目の前の男を正面から見つめる。怒りにか衝撃にか、血の気が引ききった蒼白な顔。そんな痛ましい状態でも、美しさは変わらない。こんな時でも、やっぱりつくづくと見入ってしまう。殴られるかな。そうされてもっともな行為を働いたのに、やっぱりどうにも覚悟がなくて、少し怯えてしまう。けどまあ仕方ない。十分な先達のくせに後先考えず手を伸ばして、散々楽しんで、歩き立ての純な仔羊を、いつかは手放さないといけないと知りながらここまで懐かせたのは自分だから。

 見つめ合ったのは実質ほんの数秒で、震える息を吐いたロナルドが身を翻して立ち上がる。それを見て、ドラルクは布団に沈んだ。もう大丈夫。ここまで来たら、大丈夫。張り詰めた空気に肌がピリピリしていた。潜り込んで、目を閉じる。しんとした部屋で衣ずれの音だけがして、それが止んでからもしばらくの間、立ち尽くすような間があった。まだダメかとうんざりして、そこは演技でも何でもなく、本当に面倒臭そうな声が出た。

「さよなら」

 腕だけを出して、手を振る。応えはなかった。
 下の扉が閉まる音はかなり響く。静まりかえった城内は、今の騒動に、目に見えない何かまでが一斉に気配を殺してこちらを窺っているかのようだった。どれくらいの時間が経ったのか。すっかり冷たくなってしまった身体を温めたくて、浴室に行こうとベッドを抜け出す。それなのに、足を下ろしても支えられず、床にぺたんと伏せてしまった。
 もう、大丈夫。もう、頑張らなくていい。そう思ったら、堰を切ったように溢れ出たものがある。流れていくのをそのままに任せた。自然なことだ。逆らわずに身体を委ねていれば、きっと内側に残っていた未練を全部を洗い流してくれる。冷たい床は、熱を持った目元に丁度いい。
 すっかり冷え冷えとした広い部屋、薄闇の中で、涙が枯れるのを、ただじっと丸くなって待っていた。










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