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 最近いい感じだ。
 退治人兼作家であるロナルドは、ご機嫌だった。仕事は万事順調で、内容はまあ退治人ならお察し案件もありながら、依頼自体が引きも切らない有難さ、筆も進むしメシは美味い。美味いって、身体が健康だからというだけではなく、リアルに美味いのだ。毎日食いてぇなどとよぎるくらいに。定期的に食べたくなってた贔屓のカップ麺が、今はちょっと味気なく感じてしまう。
 腹減った。
 これまで味わったあれやそれを思い出し、いやもう仕事にならねぇ、ここらで区切りをつけようと潔く中断する。さっきから辺り一帯やたらといい匂いが漂っていて、耐え難いものがあった。自分のリクエストだった。油が飛ぶとかブツブツ文句を言われるが、ロナルドが食材を持ち込んでから頼むものだから断り辛いのだろう。これまでも、結局却下されたことはない。無駄を出すことを嫌う相手の足許を見るようで、躊躇いがないわけではなかったが、生き物としての根源的な欲求にはどうしても抗えない。だって本当に美味いのだ。

 名前を付けて保存を選択し、ファイル名の日付と時刻を更新させる。フォルダ内に並ぶのは全て新刊の原稿だった。書き込むだけでなく、かなり頻繁に表現を入れ替えるため、ロナルドは上書きではなくその都度保存するスタイルを貫いている。ファイルがずらりと並ぶ様に達成感を覚えていると、タイムリーに名を呼ばれ、最近持ち歩くことが増えたPCをたたんだ。





 この城で自分が初めて口にしたのはただの水で、でも激しい運動をした後で喉がひりつくくらい渇いていたから、やけに美味く感じたものだ。ただし腹は余計に減った。別に何が浮いてるわけでもないのにほんのりと香る何かがあって、ああ、あれはおそらくレモンだったと、家に帰ってしばらく記憶を反芻する内に気付いた。

 3度目の訪問。
 実は直前に、担当編集者との打ち合わせがあったのだ。心情的には処刑台に立つような思いで臨んだその会で、託宣は下された。結論として、新刊はやはりこのパチもん吸血鬼をネタにするしか道はないと。ロナルドは色々と、本当に色々と思うところはあったが、腹を括って、協力を要請するため訪ねたのだ。
 ぽかんとしていた間抜け面をゴリ押しで頷かせ、取材を敢行し、すぐには使えなくともそれなりに下地になるような話も聞けて、収穫にちょっとホッとしたものだった。〆切を延ばせたとはいえ、最終的なデッドラインが大きく変わったわけではない。それなりに切羽詰まっているプレッシャーと、本当にこの方向で大丈夫だろうかと悩む不安な心。身体がずっと緊張を続けていて、一区切りついたところでどうしても水分が欲しくなって、ああ何か買ってくるんだったって思ってから、あの水を思い出した。ひんやりと身体の中を落ちていく、レモンの香気。
 思い浮かべながら、水を貰えないかと尋ねてみたら、相手は「図々しいな」って感じにちょっと片眉を上げて、そして、そこからちょっとした異次元に足を踏み入れることになった。



「何だよここ」
「誰がどう見てもキッチンじゃないか」
「キッチンが何で3つも4つもあんの?」
「用途別に使い分けるからだよ。中の道具類見たら分かるよ」
「いやぜってぇ分かんねぇわ」

 初めての時は部屋にまで入っていないし、2度目の時は体力的に周囲に注意を払う余裕がなかった。今更ながら、ここはどういう建物だったかを実感している。

「さすが城」

 玄関開けたら舞踏会開けそうなバカでかいホールってのもいかにもだが、アホみたいに広いな。そういやこないだ俺が寝た部屋も、外出たら似たような扉がいっぱいあった。あそこ全部にベッド入ってんの? ここホテルなの? 又貸ししたら儲かりそうだな……違法だけど。
 すげーすげーってバカみたいに繰り返して、通り過ぎてきたキッチンTとキッチンUを行きつ戻りつしてあちこち覗き込んだりしていると「水はいらんのか」と呆れたような声に呼ばれた。

「あ、」

 おそらく普段使いにしているのだろう、一番広くて他より若干ものが多い気がするキッチンV、白くてピカピカのでかいテーブルに、レモンが盛られた籠があった。それを見て思い出す。棚の前でグラスを取り出そうとしていた城主が振り返った。先日自分がガバガバ呷った時のあれは、きっとレモンが入ってたよな。尋ねようとして、それからその時の状況を思い出して、咄嗟の言葉に詰まる。察したのか、気にもとめなかったのか、向こうは何も言わなかった。ただ、入れろという要求だとは思われたようだ。

 いつの間にかマントを取り去ったシャツ姿が、手を清めた後、ちょっとハッとするくらい無駄のない手付きでレモンを4分の1程度切り取った。薄皮を断たれ、剥き出しにされた雫型の果肉が断面に整列している。そのまま水差しの広い口にかざされた。ぼんやり眺める中でも、上弦の月を思わせるその向きに「えっ」と思う。迷いなく力が加えられ、たわんだ果皮を伝う果汁と弾けるように散った鮮やかな香り。黒尽くめで骨張った、顔色の悪い男との取り合わせがあまりにも似合わず、何だかちょっと可笑しかった。

「この向きの方が香り成分がいっぱい落ちるんだってさ」
「へぇ」

 上着を脱いだ下、仕立て屋さんみたいなバンドで袖を留めている。手首まで晒された血の気のない手が、まだ果汁滴る切れ端を再度取り上げる。念願のいい香りがする水をごくごく飲みながら、後始末でもするのかって、その光景を眺めていた。やや萎んだその果実に舌を這わせて、ぎゅっと顔を顰めている。何やってんだ、と思いながらも見守っていると、そのまま果肉に牙を立てた。
 え、ビタミン補給? お前そういう意識高い系? それとも風邪ひきやすいの? 案の定目をぎゅーっとさせて、それでも口から離さない。搾られてもなお瑞々しいそれ。喉が動き、それからしばらくして、寄せられていた眉が少しずつ緩んでいく。その満ち足りたような顔を見て、ああって思う。植物の精気って、もいだやつとかでいいんだ?

 グラスを置いて、一歩、二歩。気配を察したのか、しっかり閉じられていた瞼が半端に持ち上がる。眠たげにも見えるその眼差しをつかまえて、覗き込むように顔を寄せた。俺が何をしたいのか、絶対分かったはずなのに、奴は酸の爆弾みたいな果肉の残骸をひょいとこちらの口に押し付けて、ニヤニヤと唇の端を持ち上げた。搾られ、吸われ、それでもなお刺すような強さがある。口内にまで突っ込まれ、弾かれるように離れた。
 人語を忘れて悶える俺に、ケラケラと笑い声が被さってくる。本当に愉快そうな悪魔の笑声を聞きながら、苦味すれすれの強烈な酸味を味わわされた苦しみにすり替えて、痛みを我慢した。「躱された」って、みぞおちに重たく決まってずんと沁みてくるその痛みを。



 問題と言えば、それくらいなんだよな。

 今は幸せホルモンがびしゃびしゃ出ている気がするもので、ロナルドは胸の痛みも何のその、嫌な記憶はとりあえず脇に避けておき、全身で鶏の唐揚げに向き合った。
 歯を立てるごとに滲む熱々の油、サクッと軽やかな衣の食感とパリッと歯を押し返すような皮の弾力。一息に噛み切って柔らかな肉の繊維を裂くと、閉じ込められていた肉汁と香りが口の中で弾けて広がり沁みていく。渾然一体のショウガと醤油と、それから何かスパイス色々。こちらもスパイシーなキャベツの付け合わせと唐揚げ、ご飯、汁物飲んで、唐揚げ、キャベツ、ご飯、唐揚げキャベツご飯唐揚げ……最後の一欠片を食べ尽くすまで、いつも止まらない。

 箸休めの添え物を口にする頃にようやく落ち着き、そうして食べ終わったら、しばらくして芳しいコーヒーのアロマが漂ってくる。
 桃源郷かな。食事時はいつも、そんなことを思う。竜宮城とか迷家とかシャングリラとかそういうの。俺は今、一歩踏み間違えたらバチが当たりかねないような、人の理の外で歓待されているのではなかろうか。幸福過ぎて怖くなるほどのおもてなし。
 あの日、レモン爆弾をかました詫びか、それにしては笑いを堪えない声に、甘いものは好きかと問われた。普段だったら正直に告げるのは少々気恥ずかしくて、誤魔化したかもしれない。けれど、ちょっぴり打ちのめされて弱ったメンタルでは虚勢を張る余力はなく、ただこっくりと頷いた。口に残る酸を打ち消す何かが欲しかったのだ。水を飲みながら待っていたら、その時もやっぱり滅茶苦茶にいい匂いが漂ってきて、やけに馴染んだエプロン姿の人外に張り付くようにして焼き上がる菓子を待った。
 振る舞われた焼き菓子とコーヒーに、先刻の仕打ちも忘れてあっさりご機嫌になった自分を、向こうはやけに満足そうな顔で眺めていた。サクサクの歯応え、噛めばほろほろとほどけていく、バターが薫る甘いクッキー。市松模様がここの床とおんなじで、その気付きを口に出したら、本当だねって小さな微笑が返ってきた。


 それから、3日と空けず訪ねている。
 呼び出して仕事を手伝わせたこともあった。たまにはゲームに付き合ったり、やっぱり鶏モモ肉を持ち込んでは調理させたり、そうして手料理に舌鼓を打ったり、吸血鬼に関する取材をしたり、それから、訪ねれば必ず、肌を合わせる。

 接する時間が増えるにつれて、ロナルドはドラルクという生き物について、それなりに情報を得ていった。
 あの広い城内を本当にひとりで管理していること。元来の気質でやたらと家事が得意なこと。それには料理も含まれていて、あれこれ拵えるのを結構楽しんでいること。少なくとも自分が生まれる遥か前からこの国にいること。衣類は全てオーダーメイドしたもので、威厳を持たせてくれるイギリス風の仕立てを好むこと、靴はイタリア製を贔屓にしていること。バックギャモンとかオセロとか、ボードゲームの類も得意なこと。あと、やっぱり、唇は特別な場所らしいこと。

 同じベッドに収まっていても、熱に浮かされたような行為の間でも、ドラルクが唇に触れてくることはない。それどころか、そういう雰囲気になるとすいっと顔を逸らされる。躱される。流される。初めの頃のような明確な拒絶ではないが、重ねる意思がないのは嫌でも伝わった。感じ取るその度にロナルドはちょっとだけ、心が折れそうになる。
 口と口だぞ。そんなアブノーマルなことじゃないよな? ここまでするなら普通やるだろ? え、やるよね? もっとすごいとこには散々ちゅっちゅちゅっちゅしやがるくせに、何で本体にはしねぇんだ。
 いいよなお前は……などと、もう多分唇で触れてもらってない箇所などない分身に嫉妬を覚えるくらいには、密かに傷付いていた。ただ、そんな不満とも困惑ともつかめぬものが吹き飛ぶくらいには奉仕されていることも事実だった。いくら食事代わりに与えているものがあるとはいえ、それは初めから外に吐き出されるものなのだから、ロナルドとしては等価には感じられない。与えられている、もしくは奪っているとよく思う。


 初めて訪れてから、今やもう、ひと月近く経とうとしている。この頃、やっと落ち着いてきた。うなされて飛び起きるなんてこともないし、朝方虚無に包まれながら洗濯機を回すこともない。ただし、相手が意識から完全に出て行ったかといえば全くそういうことではなく。目と心と股間に刺さるショッキングピンクな回想が、ふんわりとした桜色になったという、そんな変化なのだった。
 中心に伏せて懸命に奉仕する光景だったり、真っ赤な顔を歪めて啜り泣きを漏らす様だったり、貫かれて一方的に揺さぶられる姿だったり、一時期はもう何かそんなんばっかりで、いっそ殺してくれと願った朝もあった。最近は、ごく穏やかなことを、それも意識してなぞり返す機会が増えた。背筋のピンとした後ろ姿や、唇の端を持ち上げるだけの微かな笑み。食べ物の好みについてあれこれ喋った内容と、それに対する相手の質問。交わした他愛もない会話。
 接する機会が増えたからだろうとロナルドは解釈していた。ようやく、人間らしい、節度ある付き合いができそうだと。
 重症度がより増していることに、当の本人は気付いていない。





 一度は放った精を確かに向こうはすっかり受け入れて、互いに落ち着き、それで、ゆるりとした交接を数回終えた後だった。ロナルドはカウント方法に自信がなく、何度と数えるべきか正直なところ分からない。ただ、かなり無理をさせているとは思っていた。だから、呼吸を整えながら、少しずつ汗が冷えていくのを感じながら、優しくしなくてはと、そんな考えでいた。優しくするって何だっけと、どうすればいいんだよと、ものすごく構えながら考えていた。

 抱え上げていた脚を解放して、そうしたら、相手は横臥の体勢からぱたりとマントに身体を伏せて、深く長い呼吸を繰り返している。それはだんだんと穏やかになっていき、何ならそのまま寝入りそうになっている。跳ねていた呼吸が徐々に落ち着いていくのを感じながら、ふと、名前を呼びたくなった。確かめたくなったのかもしれない。確かにここに在ること。繋がったこと。何かが芽生えそうになっていること。
 手を顔の傍について上から覗き込み、そっと呼んだら、震えるように瞼が開いた。薄らと、濡れた瞳が見える。何度もゆっくりと瞬きを繰り返し、それから、身体を揺らして小さく咳き込んだ。ため息のように「なに」と返事を寄越す。声はひどく掠れていて、囁き声しか返らない。
 労りたくなって、すっかり落ちてしまっている髪を頬からどけるようにかき上げてやった。戸惑ったように顔がこちらに傾けられる。
 柄にもなく、甘やかな気分になっていた。寄り掛かって、向こうにも凭れ掛かってほしかった。本当は、自分を呼んでほしいと、甘っちょろい頼みが口からまろび出そうになっていて、慌てて、名前を覚えているかと控えめな問いかけにとどめた。訊くと、ぼんやりと霧がかったような表情となり、名乗りを忘れてしまったかとちょっと寂しい気持ちになる。少しだけ間を置いて「……ロナルドさま」と、記録したデータを読み上げるような調子ではあったが、過たず、薄い唇が確かに己の名を告げる。
 何故だかそれが妙な破壊力を持ってロナルドの精神にハンマーを振り下ろし、何かがパーンと音を立てて砕け散った気がした。何かなんて分からない。とにかく、身体中が熱くなって、とりわけ一層熱くなった顔をどうにかしたくて、ペタペタと頬を押さえた。

「様なんざ、いらねぇよ……」
「ああ……付ける気なんて、なかったけど」

 君が、自分のこと「ロナルド様」なんて言うから。何だか印象深くって。もそもそ言って、再び目を閉じて眠ろうとしている。もっと呼んでほしくて、でも素直に強請るには何だかもう無理だった。
 ドラルク。
 呼ぶと、煩そうに瞳の動きだけで睨まれる。いやこっちを見ただけかもしれないが。どう贔屓目に見ても、そこに好意的な感情はない。まあ当たり前だけど。
 怯みそうになりながら、やっぱり額に落ち掛かる髪を、手のひら全部でゆっくり持ち上げた。そうすると、最初に見た時の感じになる。腕を持ち上げて払う余力もないのか、黙ってこちらの好きにさせている。不安そうな、困ったような顔が晒されて、微妙に怯えの滲む瞳で見られるのが何だか嫌で、瞼を閉じてやるかのように手のひらをそうっと下げていく。ちょっとびくっとして、それから身体を固くして、でもそのままひたすら黙ってじっと待っていたら、何をされるわけでもないと判断したようだ。力が抜けた。また深い呼吸に戻っている。

「君、手……」
「手?」
「あったかいねぇ」
「ああ、まあ、吸血鬼と比べりゃ、そうだろうな」
「吸血鬼じゃないけど……うん。冬なんか、とってもいいね」
「夏は嫌かよ」

 ふっと笑むような吐息が落ちた。それに、何だかものすごく嬉しくなる。決して近寄らせなかった野良猫が、ある日不意に触れることを黙認してくれた瞬間に似ていた。
 脱力しきった身体は、しかし床の固さに閉口するかのように時折身動ぎをしている。腕を折り曲げ枕にしようともぞもぞするので、カイロの気持ちになって当てていた手は離した。巣穴で何度も具合を確かめた動物のように、何とか体勢を整えた夜の生き物が眠りに就こうとしている。傍でそれを見守って、でもやっぱり居心地はあまり良くないらしい。頭が、肩が、しきりに捩られるのを見て、我慢できなくなって手を出した。

「わっ…………なに?」
「いや、床、キツそうだから」
「……あのね」

 首の座らない赤ん坊ってこんな感じか? 腕を引いて、胸を開かせるようにして、それから脇下に手を入れて抱き上げた。頭がかくんと揺れて、焦る。引きずるようにして膝に迎えたけれど、不満そうだった。じっとりと重たく落ちた瞼の下、険悪な目をしている。

「あー、送って行こうか?」
「……ここ私の城なんだけど」
「バカ、分かってるよ。じゃなくて。お前、今歩けねぇだろ」
「…………」

 ピクッと痙攣した瞼が持ち上がって、眉が吊り上がる。口元が歪んで牙が出た。眉間がピリッとしている。こいつ、顔のパーツ滅茶苦茶動くな。デフォルメが過ぎた海外アニメみてぇ。いや、何を言いたいかは分かるよ、分かる。だからそのまま言わないでいい。悪かったよ。ごめん。マジで。すみません。

 ムカっ腹が立って体力を使ったらしい。当てつけがましいため息を吐いて、ぶつかるように肩口に頭が落ちてきた。多分俺は今ちょっとテンションがおかしくなっていて、だから腕の中の吸血鬼もどきが「誰のせいだと思ってるんだ」ってプリプリ腹を立てていても、ネズミか小鳥か、何かそんな小さきものが地団駄踏んでるくらいの感覚でしかない。いい夜だな、そんなに怒るなよ、俺だってあんま気にしてないぜ。
 歌うみたいに言い聞かせると、肩を持ち上げるようにして丸くなる。膝を引き寄せ、卵みたいになって、ものも言わずに顔を伏せたかと思えば「抱くならもっとしっかり支えろ」と横柄な指示が飛んできた。言い方が尊大でも声はへろへろの囁き声なもんだから、煽られるのは罪悪感ばかりだ。ちょっと、状態もアレだし。まんま強姦現場。初めの頃のあれやそれが、青白い肌に貼り付いたまま乾いている。目のやり場に困って、せめて見えないようにとマントを拾い上げて掛けてやると、自分で器用に巻き込んでいた。それなりに嵩はあるはずだが、いかんせん骨が目立つし丸まっていられれば腕にすっぽりと収まってしまう。何故だろうか、ぬいぐるみにぎゅっと抱きつく子どもの気持ちが分かった気がする。ふかふかとかふわふわとかじゃ、全然ないのに。うっかりすると力加減を誤りそうで、慎重に、回した腕に少しずつ力を込めて、支えた。

 優しくしないとって思っていたはずなのに、触れたいと思っていたあちこちが近いところにあるものだからついつい触れてしまって、そうしたら初めの決意はどうにも揺らいで、結局また泣かせてしまった。最終的に意識を手放すまで離してやれなかった、最初の夜のこと。





 今は、割と上手に力加減を調整できるようになったと思う。自分で主張してみたら「私の方も頑丈になった気がするよ」と返ってきた。そうかな。そうかも。栄養とってるもんな。
 膝に抱き抱えるようにして、丸まる相手に腕を巻きつけている。一度吐き出して落ち着けば、突き上げるような衝動は多少は落ち着く。穏やかな気持ちで触れていられる。肩口に顔が伏せられて、リラックスしているのが全身に伝わってくる。身体だけじゃなくて、心の距離が確かに近付いている手応えがあった。渋々収まっていた初めての夜とは違う。
 でも、それでも、こんなに近くにいることを許されているのに、まだキスはしてもらえない。めげそうになりながら、それでも、多分、今一番近くに寄ることを許してもらっているという自覚が自分を支えていた。

「君に触れてもらうの、好きだ」

 だって、今にも眠り込みそうにゆらゆらした声が、そんなことを言う。
 手汗ひどくなりそうだから、あんまりそういうことを不意打ちで言わないでほしいと思う。でもせっかくなら一番喜ばれるところを触ってやろうと、決してそんな、イヤらしい気持ちからじゃなく訊いたのだ。じゃあどこ触ってほしい? って。そうしたら「……足先」と返ってきたからちょっと固まった。跪いて足をお舐めって、そんな高慢ちきな感じで傲然と言われればちょっとした戦争が勃発したかもしれないが、微睡みそうになりながら、はにかむように告げてきたそれはどう聞いても本気で、少し申し訳なさそうな感じですらあった。
 まあ、お前がそう言うなら。訊いたの俺だし。
 微妙に召使いになったような気分で毛布からちょこんと突き出されたつま先に触れて、それで納得する。びっくりするくらい冷たかったのだ。

「氷かよ! 冷え性かお前」
「血行、あんまり良くないからねぇ」

 いくら人と造りが違うからとはいえ、あんまり冷たいもんだから不安になって、布団を引き寄せ、くるまっている毛布の上から押し付けた。向かい合うように移動してから布団の下を探り、足先を手のひらで包み込む。ほっそりとした足首から筋張った薄い甲が伸び、端正な指先に繋がっている。右と左と、交互に手のひらでサンドしていたら、蹲るように布団に埋もれる氷の塊はうとうとといよいよ舟を漕ぎ出した。それに何だか悪戯心を煽られる。

「……うぁっ、なにっ?」

 足首を持ち上げられて、開いた隙間に寒いと唸った奴が、足指をしゃぶられて飛び起きる。直後に布団に沈み込んだ。甲高い笑い声が弾ける。やめろ、擽ったい、ぞわぞわするって、言いたいことの半分もちゃんと言葉にならずに笑い転げている。
 あんまりやり過ぎると多分死んじまう。ほどほどのところで解放したが、ぜえはあ言いながらぐったりと崩れ落ちてしまった。きっとしばらくは息をするだけで精一杯だ、けど多少は温まったろう。

 きゅうと丸まったつま先を観察する。薄暗がりの中でも、小さな二枚貝の片割れのような、形の揃った爪が並んで光っている。引きこもりだからか、すぐ死ぬからか、圧迫されたような、変な力がかかったような、そんな痕跡が全くない。全体重を一手に引き受け続ける部分とは思えぬプレーンな形。足先に限らず、こいつはパーツの造りがとても繊細で、手タレのように部分的な広告に出られそうだと時々思う。何だか急にしたくなって、親指の爪にキスをする。
 キスには意味があったはずだ。物書きの端くれとして調べたことがあった。全くもって、著作に活かす機会はないが。足のつま先は何だったっけ。ぴくんと震えた指の間、皮膚の薄い股の部分を舌先でつつく。そろりと舐め上げると、脚が跳ねた。吐息が乱れて、どうやらここは擽ったいというよりか、感じる一部分らしい。小さく縮こまる全ての指の間を暴き、丁寧に執拗に舐る。片足分を終える頃には、剥き出しの太腿の内側が引き攣るように震えていた。足の甲、くるぶし、脛と、膝。時折歯を立てながら、キスをして、唇でなぞって、舌で触れて、指先で探る。感じる場所を探したかった。

 太腿まで来る頃には、もう呼吸は随分荒れていて、半ば喘ぎに近かった。内側の薄くて柔らかな肌に口付けて、舌を当てて、それから噛み付く。小さな悲鳴が上がって、それを恥じるように殊更に低い声で「コラッ」と犬を叱るような言い方をされて、それで反発したくなる。まだしっとりと湿って震える中心を素通りして、形のはっきり伝わる腰骨に吸い付いて、そうして歯を立てた。髪に肩に、宥めるように掛けられる手を無視して、腰やら尻やらあちこちまさぐる。脇腹に歯形を残しながら布団も毛布も剥ぎ取って、代わりにとすっかり覆い被さってしまう。見下ろした生き物は頬に血の気が差して、目元まで刷毛で刷いたように赤い。恥じ入るように伏せられた瞼の下、瞳が熱っぽく潤んでいた。脚を絡めると、足先はやっぱり少しは温かくなったようで、安心する。

「君は……躾がなってない」
「何だよ。触られるの、好きなんだろ」
「ニュアンスが違う! 痴漢願望あるみたいな言い方するな」

 そっちこそ。この駄犬、みたいな言い方するなよ。割といい子にしてるだろう。
 薄い胸までずり下がり、ぷっくり膨れたままの突起を口に含む。びくんと仰け反った身体を押さえ付けて、しつこく舌先で擽った。左右どっちが感じやすいのか、そんな疑問を感じるままにどちらにも吸い付いて愛撫した。もう何も言われない。言葉を失って、息がどんどん濡れていく。下敷きにされた身体が落ち着きなくもぞもぞ身動いで、脚で腰を挟まれた。それをされるとずんと下腹が重くなる。腹の底が疼いて、渦を巻いて、噴き出しそうになって困る。出口を求めて暴れてる。こりこりした小さなしこりを唇で挟み、じゅっと音を立てて吸い付いて、離れた。

 顔の前で腕を組んで、それは隠れようとしているのか何なのか、分からないけど気に食わないから外させる。真正面から目が合って、そうしたら思いきり顔を背けられた。反抗期か。
 それならそれで、別にいい。こっちも好きにさせてもらおうって、手を添えて、完全に勃ち上がったものを狭間の薄くて敏感な皮膚に押し付ける。滲んだものを擦り込むようにぬるぬると行き来させて、それから窄まる襞に押し当てた。さっきまでの余韻にひくつくそこを、一気に貫く。長く尾を引く悲鳴が零れて、腹が跳ね上がる。全身が強張って、侵入を拒むように内側も入口もきつく締まった。顎を反らして、強過ぎた刺激を逃そうとしている。あぁ、あぁ、ため息混じりの喘ぎ声を聞きながら、絡みついてくる肉襞が落ち着くのを待った。

 優しい抱き方だってちゃんとできる。できてると思う。もっと落ち着けば。でもどうにもやっぱり、触れてしまうと、始まってしまうと、駄目だった。とにかく受け入れてほしくて、いざ包まれたら動きたくて、動き出したらもう止まれない。可哀想だって思う気持ちもちゃんとある。でもそれ以上に、その涙声こそ引きずり出してやるって、そんな凶暴な気持ちも確かにあった。
 小刻みに、叩き付けるような抽送を繰り返す。一度達してもお構いなしに腰を振って、全身を捩らせて叫ぶ身体を責め立てた。死んじゃう、死んじゃうよ。涙声がさっきから繰り返すけど、うねるように肉棒を刺激してくるのもこっちに合わせるように尻を振っているのも自分だって、ちゃんと自覚はあるのかよ。

「あぅ、ぁッ、アッ、んう、」

 きゅうっと引き絞られる。またイくのか。引きずられるように中で半端に射精して、少し動かし辛くなる。それでもぬるついた内壁を多少は刺激してやれるみたいで、円を描くように押し付けて揺らめかせると、気持ちよさそうに甘く啼く。痙攣するような締め付け。また、底なしに湧き上がる。腹の底が沸く。本当に、一度始まるとキリがなくて、最後の最後まで、優しくしてやれない。押し潰すように体重をかけて腰を合わせると、喉の奥から、細くて甲高い声が漏れる。小動物が、餌を強請って哀れっぽく鳴く音に似ていた。











 最近城に蔵書が増えた。
 コンピュータ処理を伴うゲームが人間社会を席巻するにつれ、ドラルクはそれまで書籍と芸術とボードゲームに傾けていた気持ちを、その新たなる文化へと全振りしてしまった。電子書籍の台頭が追い打ちをかけ、紙の本を手に取る機会はめっきり減ったし、購入することは稀となっていたのだが。最近よく遊びに来る退治人に、ハードカバーの自伝小説を押し付けられたのだった。遊びに来るとはあくまでもドラルクの感覚であり、退治人本人は心意気だけは仕事優先と己に言い聞かせている。それから、より正確に言うならば、本は仕事のためにと支給したつもりであった。

 ある夜神妙な顔をして現れたと思ったら「取材協力してもらう」と唐突過ぎる申し入れを決然と言い渡され、ドラルクはぽかんとした。

「千体目の相手がてめえだってことは、嫌過ぎるが事実だ。ねじ曲げるわけにゃいかねぇ」
「え、自伝、成人指定にしちゃうのかい」
「何言ってんだバカ!!! んなわきゃねえだろーが!!!」


 自伝だからって何でもかんでも馬鹿正直に書いてるわけじゃねぇんだよ、あくまでも事実に取材するが、表現は自由だからな。
 何やらギリギリな気がする発言をしつつ、まずは読めとばかりに押し付けられて、大して分厚いわけでもなかったが、その圧と重みにドラルクは「面倒臭い」と思った。顔にもはっきりと滲んでいたのか「ちゃんと読めよ……」と青筋立てて凄まれたので、とりあえずポーズだけは見せておくかとその場で開いた。それが、案外面白かったのだ。

 ドラルクの本を読むスピードはかなりのものだが、情報を拾うだけでなく文章の味を感じながら読む際はその限りではない。開いて数行で魅せられて、ちょっとこれ面白いじゃないかと部屋に引っ込んで読もうとしたら、退治人はついて行くと言って聞かなかった。暇なのかと、今のロナルドに向かって吐いたらぶち殺されかねないセリフを、それとは知らずにドラルクは飲み込んだ。マナーとか思いやりとかそんな真っ当な理由からではなく、単純に、このまま帰してしまうのはつまらないと感じたからだ。

 たまに内容に突っ込みを入れたが、概ね黙々とページを繰るその隣で黙って待ち続けるのは退屈だろうに、不思議と飽きる様子もなく、ドラルクが1冊読み終わるのを作者本人はひたすらに待っていた。ただその様相はそわそわと落ち着きなく、著作を目の前で読まれることへの照れや緊張を感じさせる。ベストセラーじゃないのか? いやに不慣れだな。さては大した苦労もなく突然売れっ子になったなこいつ。チラチラと自分を見ては、そわそわと貧乏ゆすりだの何だのと落ち着かない挙動を視界の端で繰り広げる若き退治人に、ドラルクは意識の隙間でやや呆れた。



「君は意外なくらい、読ませる文章を書くんだねぇ」
「そりゃどーも。面白いか?」
「うん。面白いよ」
「そうか」

 ありがとうね。これ貰っていいの?
 シリーズは3作目まで出ているらしい。決して薄くはないハードカバーを揃えて持ち、そう尋ねようとしたドラルクは、やけに熱い手のひらに肩を力強くつかまれて「ん?」ってなった。

「じゃ、お前、興味湧いたよな」
「えっ?」
「退治に興味、湧いたよな?」
「え?」
「……面白いよな?」
「え、本は、うん。面白いよ……」
「よし! お前は興味を持った。それでいいんだ」

 頷いたロナルドに何だか嫌な予感がしたものの、それだけのやり取りのどこに警戒すればいいのかよく分からず、この段階では、ドラルクはただ不審に思うだけにとどまった。結果として強制的に引きこもりを返上させられるとは、この時点では想像すらできなかったのだ。
 ちなみに以上のやり取りはロナルドによってサーガの一節のごとく重厚な文章へと織り上げられ、数日後ドラルクは出力されたその一節を資料として退治業に関するプレゼンテーションを目の前で熱く繰り広げられたのち、アドバイザーとして同行を迫られることとなる。



 本を脇に置いたまま、その後もしばらく言葉を交わして、ドラルクとしては単なるお喋りの域を越えるとは感じなかったものの、ロナルドにしてみればそれは立派な取材、仕事の一環であったらしい。「なかなかに役に立つじゃねえか」との上から目線に少しばかりカチンとなりながらも、ドラルクは今度こそ内から興味が湧くのを感じていた。案外まだ、吸血鬼の文化は知られていないのかもしれない。それなりに人間社会に潜んで細々と生きる吸血鬼は多くとも、能力を悪用して人に害なす輩も一定数存在するのだ。互いを繋ごうと安定的に貢献し続ける者は珍しい。少なくともドラルクは、ひとりしか知らない。
 最新の情報を追いかけているわけではないが、それなりに書物を漁っていた時代は無節操に何でも読んだ。歴史も民俗学も、有力な説をぶち上げた著名な専門家の著作に目を通してはいる。人間の描き出す歴史の中では、自分たちは大抵が悪し様に、攻撃的に、凶悪に描かれる。どこまで本当かなと、あまりに偏ったその表現には疑念が湧いたものだった。まあ、そうしたイメージを利用して、忌避剤代わりに誇大広告を打っていた自分が言えた話ではないのだが……

 考えに沈み込んでいたドラルクを「わり、水貰えるか」と訴える声が引き戻す。厚かましいなと思いながらも、請われればもてなしてしまう。何だかんだ言いつつも、吸血鬼一族の性はきっちりドラルクの中にあった。



 想像以上にチョロかったな。
 ドラルクの感想である。結果として、キッチンで焼き菓子を与えられた若者は、正直ドラルクが最も自信のあった閨の技術よりも余程あっさりと陥落した。完全に警戒心の消え去った笑顔を向けられて、それでいいのか君と、思わず突っ込みたくなったドラルクである。とはいえ、一口齧るなり見開かれた瞳が感嘆の色を湛える様は、想像以上に胸が満たされるものだった。それなりの量を仕込んでいたはずが、生地は全てがこんがりと焼かれて無事本懐を遂げた。吸い込まれるように消えていく寸前、「これは明日のおやつに」って最後の数枚を大切そうに下に敷いていたレースペーパーで包み始めた男に、ドラルクはちょっと死ぬかと思った。突然、不整脈を疑うくらいに胸が痛んだものだから。一般的にはトキメキとかキュンとか呼ばれる類の感情である。


 以来、割と乗り気で、遊びに来る退治人に手料理を振る舞っている。餌付けにも近いが、ドラルクとしては腕試しの意味合いが強かった。
 菓子の類は過程が楽しいこともありしょっちゅう試すが、料理となると話は変わってくる。若かりし頃は厳しく仕込まれもした。自分でも理想の味を追求し、それなりに饗応に活かした日々もあったのだ。既に世紀単位で過去のことであり、今や披露される機会はほぼ皆無である。身内も主食は血液なのだ。たまに求められる手料理は、血族の末子がかける手数を味わいに来るのであって、出来上がる料理そのものはあくまで副産物。フルコースの必要はない。長らくなぞられることのなかったレシピの数々は、ドラルクの中で静かに朽ちかけていた。錆び付いていた調理の勘を取り戻すには、それなりの努力が必要だった。

 振る舞いたい当の本人をキッチンに呼びつけ、しょっちゅう味見をさせながら好みを探る日々は、しかしドラルクにとって実に楽しいものだった。元来料理好きである。火の通ってしまった諸々は摂取しても栄養にはならないが、調理の過程で立ち昇る芳香を感じているだけでも得られるものがある。満ち足りた思いで皮を剥き、筋を取り除き、下味を付けては焼いたり煮たり蒸したりすり混ぜたり、レパートリーを更新し、常備菜を増やしていった。何日もかけて仕込んだ鴨のコンフィよりも一晩漬け込んだ鶏の唐揚げ。ヴィシソワーズより熱々の味噌汁。ブイヨンではなく鰹出汁。今やドラルク自身、和風の出汁が醸し出す香気に癒しを感じるほど馴染んでいた。じっくりと水で抽出した出汁に追い鰹、花が咲くようにパッと広がる香りに笑み崩れている。その姿は傍から見ていても幸福感の滲むもので、よくその光景を側で眺めるロナルドは「ほんとに料理が好きなんだなぁ」と思っているが、もちろん、笑顔の要因はそれだけではなかった。




 食事を振る舞った後はそう間を置かずにそういうことになる。

 コーヒーの香りが満ちるキッチンで事に及んだこともある。温かなものを取り込んで、内側からポカポカしている身体は、ドラルクにとって堪らなく魅惑的だった。指先で触れて、そうしたら手のひらに触れられて、熱いとさえ感じた温度にどうにも我慢ができなかった。
 剥ぐように衣類を脱がせ、薄らと汗ばむくらいに温かな肌を唇で慰撫する。うなじに辿り着いた時には、太い血管が脈打つ気配に我慢できず、思わず吸い上げてしまった。こんな時は、確かに自分にも吸血鬼の血が流れているように思う。未知の感覚に驚いたのか、向こうは戸惑って「何か痛痒い」としきりに気にしていた。同じような場所に集中する細い花弁のような痣。ああ、良くない傾向だ。頭では分かっていた。それなのに身体はその光景にひどく興奮して、膝に乗り上げたまま前戯もそこそこに牡を強請った。

「落ち着けよ」

 早くって急き立てる様は酔っ払いに近かっただろうと思う。実際、酔っていたかもしれない。元からコーヒーの重厚で華やかな香りを好んではいたが、頻繁に淹れるようになったのはこの退治人が城でものを摂取するようになってからだ。暑い国の、重たい湿度を感じさせるその香りに、ドラルクは魔術的なものを感じていた。今夜のデザートは甘く濃厚なガトーショコラで、お供にロナルドは何杯もお代わりを求めた。いつもの量ではとても足りずに、倍は豆を挽いたろう。濃度の高いその残り香に、中てられていたかもしれない。

「だって、もう、アッ」

 背後に指を差し入れられて、顎が上がる。
 本人に泣きそうな顔をしていた自覚はなかった。それでも、上向いたらまなじりから涙が零れて、泣くほど興奮しきっている現実に驚いて少しだけ冷静な気持ちが戻ってくる。シャツの下、形を表に伝えるなだらかな背骨、腰椎の辺りを伝った指先がそのまま奥に進んでいく。かくんと膝から力が抜けた。床に座り込んだ相手に全体重をかけて縋りつく。頭を擦り付けるようにして肩に懐く黒髪を、ロナルドは「猫みてぇだ」とぼんやり考えて意識を飛ばしていた。そうしないと、相手の熱量に引きずられるまま、酷いことをしてしまいそうだった。

 時々、こんな風に、もう滅茶苦茶にしてほしいって強請られることがある。乞う必要なんてない。どうせすぐ押し込まれる不躾な雄に毎回散々傍若無人に振る舞われるものを、そんな、そそのかすようなことをどうしてするんだと、少しだけ恨みがましい気持ちで、残りの大半は望まれるままガンガンにぶち犯したいって気持ちでぐらぐらしている。殺してしまいかねないし、それに、終わった後に自己嫌悪で死にそうになるのは自分なのだ。できるだけ優しくしたいのに。ロナルドは努力をしたかった。せめて理性がある内は。初めての夜からこっち、あまり成功していないからこそ。

「ん……ぅうッ、ん、んっ」

 凭れかかった身体は、押し付けられる中心ばかり熱くて、背中にしがみついてくる指先はまだ冷たい。くちくちと、みだりがましい音が漏れるくらいにしつこくかき回している。もう指だけで達しているんじゃないかと危ぶむくらいにまで、執拗に。
 びくびく跳ねる身体は、時折思い出したかのように首元や肩口に唇を押し当てて、愛撫ともじゃれ合いともつかない接触を試みてくる。肌をなぞってくる唇は柔らかく、舌は熱く濡れていた。互いにふうふうと荒い息を我慢しながら、何の意地の張り合いか、延々と気持ちいい場所を探り合っている。耳に熱い息がかかって、そのまま甘噛みをされた瞬間、ロナルドは指を抜き出した。太腿から尻にかけてわしづかみ、腰を上げさせる。期待するように縁がはくはくと開くそこに切っ先を当てれば、心得たように相手は片手を添えてくる。右肩には細い指が痛いくらいに食い込んで、自重を支える脚は小刻みに震えていた。何度か揺らめくように身動いで、そうして腰が落とされる。

「あっ、あ、あ、あああぁ……っ」

 息と一緒に押し出される声に、多少なりとも痛みを逃がせているのだろうか。気遣いたいのに、神経の塊をぬめる熱い肉筒に扱かれて、かあっと全身が燃えるように熱くなる。頭が茹だる。理性とか判断力とか客観性とか、色んなものがばつんばつんと焼き切れる。こうなるともう駄目で、まだ全てを収めきらない内に、下から突き上げるように動いてしまう。
 ひくんと息を呑むような音がすぐそばで響いて、遅れて細い悲鳴が落ちる。強張った身体がこれ以上の侵入を拒み、進むことも戻ることもできずにただ震えていた。
 胸郭が壊れそうなくらい何度も大きく上下して、必死で息を整えようとしている。目の前にあるから。そんな理由で、特に考えもなく胸の尖りに触れる。

「ぃ、ひッ」

 含ませた部分がきゅうと締め付けられて、思わずため息が漏れた。胸元が濡れそうなくらい熱い息をひっきりなしにかけて、舌の全部を使って舐め上げる。泣き声が何かを訴える。入らないって、感じ過ぎるからやめろって、そんな訴え。それは困る。けどやめたくない。舌先で弾くように愛撫するとますます泣き声はひどくなって、呑み込まれた先端にぴっちりと張り付いた肉の輪がひくひくと戦慄いた。熱い腕と杭に固定された身体をしきりに捩って、悶えている。
 一頻り舐め回して、吸って、泣き声が啜り泣きに変わる頃、解放した。艶々と色を濃くして勃ち上がる様は性器じみていて、見ているとどうにも悪い衝動ばかりが煽られる。視線を剥がして、息も絶え絶えの生き物を見上げた。睨んでくる涙目にしまったなと少し焦る。宥めるようにあちこちに手のひらを当てて、温めるように何度もさすって、そうして小刻みに波を送ってみる。小さく突き上げるように繰り返す内、あえかな声を零しながら、少しずつ身体から余計な力が抜けていった。代わりに、掛かる重みが増していく。じわりじわりと呑み込むその度に、怖がるように身体を突っ張って、そうして再び凭れてくる。
 苦しそうに不規則に跳ねていた呼吸が少しばかり落ち着いて、ほっと胸を撫で下ろす。見守りに徹していると、やがて薄い尻がぴったりと下腹部に押し当てられた。随分と体力を使わせたらしい。ぐったりと脱力して、仰け反るようにして喘ぐ身体をどうにか慰めたくて、詫びるように背中を撫でた。その間も穏やかな波を送る。ゆるゆると揺らして得られる、沁み入るようなじわじわとした悦楽。息はどうしても整わない。

 互いに黙ったまま、ひたすらに呼吸の音だけを聞いていた。どれくらい経ったのか、肩を握り込む手に再び力が込められて、薄い身体が持ち上がる。全身を擦り付けるようにして、自分が一番心地良い間隔で身体を揺らし出す。
 初めは控えめだった声、剥ぎ取られるように余裕が抜け落ちて、だんだんと抑えられなくなっていく。緩やかだった抜き差しが速まって、乱暴なくらい身体をぶつけてくる。その頃にはもう枷が外れたように声を上げている。受け止めるだけでも罪悪感が湧くような、無体を強いられているような、悲鳴に近い啼き声。震える指で肩に背に爪を立てて、自分の悦いところに膨らみきった先端を当てている。死んでしまうのではないかって心配になるほどの激しい腰使いに、扱かれながら絞り上げられる痛みと紙一重の快楽に、意識が飛びそうになる。

「ああぁ……、あッ! っ、」

 折れそうなくらい撓った背がびくんと硬直して、虚ろな目が見開かれる。限界まで反った背を支え、片手を頭に伸ばした。汗に湿った髪が絡みつく。薄い胸から下腹部にかけて、何度も大きく跳ねて、張り詰めていた性器からとろとろと蜜が溢れ出た。含ませたものごと身体が不規則に揺すられる。背後にぐっと力を込めて、じっと堪えた。揉みくちゃにされる圧倒的な波が押し寄せて来て、攫われまいと踏ん張るだけで精一杯だった。まだ駄目だ。ここでは駄目だ。
 完全に力の抜けた身体が再び落ち掛かってくるまで、相当に長く感じたが、実際はそうでもないのだろう。肩に頭を乗せてきて、長い余韻にまだ時折ぴくんと震えている。

 だんだんと、2人分の呼吸が落ち着いて、キッチンの他の音が耳に届くようになってから、そっとベッドに移ることを提案した。床のままだと多分死なせてしまう。最後まで気遣える自信がさっぱりなかった。
 細い顎がゆっくりと引かれ、ちゃんと頷くのを確認してから、ゆるゆると離れようとする身体に手を掛けて引き止めた。不思議そうに見つめられて「このまま」と言うと、ぽかんとしたのち、珍しく狼狽した。

「え、はっ、なんで?」
「嫌かよ」
「いや、いやっていうか、ええっ? ああぅ、」

 何やらへどもどしている隙に、床で蟠っていたあれこれを手繰り寄せて、つかみ上げたマントで肩を覆った。そのまま、身長からすれば面妖なほど軽い身体を引き寄せると、観念したようにため息をひとつ零す。「本気?」と顔を覗き込まれた。眉が不安そうに下がっていて、ちょっと笑ってしまう。

「本気だけど」
「あの……大丈夫?」
「退治人様舐めんな」
「いや、でも、」

 力尽きたらどうするんだと心配している。そしたら廊下でやるだけだ。迷いなく答えたら向こうはやっと笑った。苦笑だったが。
 さすがに協力なしには無理そうで「もっとくっついてくれ」と要請したら、大人しく腕を回してぴたりと密着してくる。思わず「あ、コレいいな」って何か色々と極まってしまって、動きが止まる。

「…………ねえ」
「言うな」

 反応が丸分かりなのも時にはどうかと思う。

 隙間なく張り付いた身体はもうこちらの一部みたいなもので、意外なくらい難なく動ける。慣れた道筋だがそれなりに距離があり、振動はどうしたって伝わるものだからそこだけが少し心配で、大丈夫かって何度も尋ねた。首に齧り付くようにして必死に回されてはいるけれど、いくら栄養をとったって筋肉を鍛えようとしないもんだから、相も変わらずへなちょこなのだ。細い腕には何度も力が込め直されて、重なった身体がだんだんと落ち着きなく身動ぎを繰り返すようになり、初めの内は「大丈夫」と言葉になっていたものが、今や吐息だけで返事をする。まさか走るわけにもいかないし、まぁ頑張ってもらうしかない。アホみたいに広い城に住んでるのが悪い。こいつ、引っ越さねぇかなと、最近よく内側で考えることをそろそろ外に出すべきか、ロナルドは少し悩んだ。





 退治人と吸血鬼……のようなものだから、日暮れからが活動時間である。退治人は大抵日没に合わせて城を訪ね、真夜中を過ぎる頃に帰っていく。たまに寝入ってしまって、帰りが遅くなることもある。リズムが狂うのか、そんな時は動きが鈍く、眠そうに目をしぱしぱさせている。見ていて気の毒になるのだけれど、行為を終えて「少しだけ」って微睡む様子を見られる機会はあまりないから、そんな時はどうしても、起こすのがずるずる遅くなってしまうのだった。

 階段から一番近いゲストルームはもうこの退治人専用だった。リネンの類を取り替えたって、馴染んだ匂いを感じ取れる。淡い暖色系の明かりが、眠る男の銀髪を普段とは違う柔らかな色合いに見せていた。
 この部屋を初めて使った夜だったと思う。「蝋燭はやめとけ」と文句を言われた。てっきり時代錯誤と言われているのだと思っていたら、火事になったらどうすんだと、そんな心配からの発言だった。じゃあ無灯でと臨んだら、今度はしきりに明かりが欲しいと訴えられて、面倒がって取り合わないでいたら自分で持ち込んできた。電池式のそれは部屋の調度に全くそぐわない現代風の造りで、ドラルクはそのセンスを散々にけなし、ちょっとした喧嘩にまでなった。今やすっかり馴染んでいる。

 着痩せして見える性質だ。
 伏せて眠る男の背を眺めながらドラルクは思う。自分は正真正銘の痩せ型なので、何とか違和感なく厚みを感じさせようと衣類で工夫を凝らしているが、眼下の男は真逆を行く。脱いだらすごいって奴。分かり易く膨らんでいるわけではないが、固く締まった発条のような、実用一辺倒の筋肉で全身が覆われている。羨ましく、なくもない。
 無いものねだりをしてもしょうがないので、割り切って、芸術品を鑑賞する気持ちで、眠る退治人を飽きもせずによく眺める。古代ギリシャを生きたわけではないけれど、人体の理想を永遠に石に刻もうとしたその情熱は理解できる気がした。裸体は、自然の箍の中で生きる生き物は、押し並べて全て美しい。食うか食われるかの厳しい環境下、はち切れそうな生命力をみなぎらせては燦めくように生きて、あっという間に死んでいく。昼の生き物の、マッチのような儚く激しい生き方を、ドラルクは美しいと感じている。

 それとはまた別に、ぼんやりと浮かぶことがある。規則的に上下する背に、なだらかな筋肉の隆起が微妙な陰影を落としていた。目線だけで辿りつつ、考える。
 随分と不思議に思っていたのだ。何故ここまでの好物件が、手付かずのまま放置されていたのか。それなりの期間、それなりの密度で行動を共にする内に、ドラルクは薄らと、その理由を理解しかけていた。

 彼を認識した人間の反応は、大別して2種類に分けられる。その美しさに気圧されて引くか、あるいは興味を持つか。ちなみに興味にはアンチも含まれる。男性の大半は初め呑まれまいと己を鼓舞し、そうして接する内に案外アレだと安堵して、最終的には割と砕けた物言いで仲良くなっていたりする。女性はといえば、興味を持った大半はミーハーなものだ。画面の向こう、またはアイドルとしては推すけれど、私生活にはちょっと、ねえ。多くは表面的な造りに対する遠慮だ。
 彼だってそれなりに大人だ。これまでの人生の中、十二分にバランスがとれて、なおかつ彼を気に入ってくれる相手も時には現れたろうと思う。ただし、完全にドラルクの憶測だが、おそらく、ひと月と保たなかったはずだ。肉体関係まで及ばなかったなら、見切りをつけられるのはもっと早かったかもしれない。何故つけるのではなく、つけられると断定するか。だって、ねえ。


 この人物は、何だかちょっと、清らか過ぎる。
 別にユニコーンさんが見えるとかそういうアレじゃなくて。結構短気だし口が悪いし俗っぽいものも好むけれど、根っこの部分が度を越したお人好しなのだ。人と競って成り上がろうとか、引きずり下ろして自分が立つとか、そんな野心があまりない。退治人として頑張っていただけなのに、活字となって世界にばら撒かれたバンパイヤハンター・ロナルドは一人歩きを始めていた。実際にはうっかり得てしまった名声に戸惑いながら、押し寄せる期待に応えねばと、自分で自分を追い込むような厄介な精神性を抱えたひとりの若者でしかない。作られたイメージを壊すまいと、外面を固めて日々背伸びを頑張っている。暗い部屋で液晶を覗き込みブツブツと独り言をもらしながらキーボードをひたすら叩く光景に、生き辛い男だとドラルクが呆れた夜は多かった。

 一緒にいればいやでも分かる。どうしようもなく優しい男だ。当たり前に弱いものの盾になり、無条件で守ろうとする。そこに迷いはない。吸血鬼に対しても同様で、依頼があれば退治もするが、害なすわけでもないものをいたずらに傷付けるような真似はしない。それはドラルクと接するようになって助長された面もあったが、元来持っていた性質には違いなかった。裏表がなく、誠実で、強く、優しい。本当に稀有な人間だった。他人に同じものを求めるようなことはしないだろうが、それでも、四六時中そんな相手が傍にいて、人は、弱い自分を省みないわけにはいかないのだ。
 人と交わることで、人の情緒や心の襞を学び取ったドラルクにはそれが何となく分かって、難儀なことと、ため息をつきたくなっている。



 そこへいくと、ドラルクは特殊だ。
 そもそも種別が違う。正体はよく分からないものとはいえ、自分自身の在りようには初めから迷いがない。幼い頃から「あ、もういいです」って手を突っ張るほど溢れんばかりに愛を注がれた。おかげで存在自体に絶対の自信を持ち、その心はちょっとやそっとじゃ揺らがない。メンタルが強いというわけではないが、土台がそもそも違うのだから、ロナルドと引き比べてはひとり勝手に落ち込むような、そんな真似は決してしない。

 ドラルクの推測はほぼ当たっていた。ロナルドにとって、一緒に過ごす時間が増えても、妙に突っかかられたり、「自分がひどい人に思える」って悲しまれたり、黙って離れて行かれたり、そんな目に遭わないで済む相手は、とても貴重な存在だった。実際のところ、家族以外には数人しかいない。
 出会いは酷いものだが、かえってそれが幸いしたのかもしれない。初っ端で落ちるところまで落ちたのならば、もう後は上り詰めるだけだ。知り合って間もないとはいえ、高い頻度で濃い交わりを持ち、そのいずれにも充実した思いが満ちている。ロナルドの中で、ドラルクに対し、身体の関係とはまた別に精神的な思い入れが深くなるのは、ごく自然なことだった。

 あまりに異なる存在だったはずの2人は、徐々に歩み寄りながら同じ方向へ歩を進めていた。間もなく、その交点に差し掛かろうとしている。










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