Others | ナノ




 マスクしたらしたで、違和感がすごかった。ジョンもデメキンも死のゲームも初めは心配して、でも日常生活を送る上ではどうしたって傷痕が見えるもんだからあっという間に困惑した目になった。
 事情くらいご存知ですよね?
 あれは一体何事ですか?
 え、まさか。
 まさかですよね?
 うわっ。怖っ。聞くとこだったよあっぶない。とんだ藪蛇。触らぬ神に祟りなし。くわばらくわばら……

 以上、この数日間、私に突き刺さってきた我が家の面々の視線が不自然に逸らされていったまでの一連の空気を言語化したものである。予想だけど。多分合ってる。

 私だったらズバッと聞いちゃうけどな。みんなスルー……じゃないな。察するスキルすご過ぎ。正直めっちゃ助かってる。真っ向から尋ねられないのをいいことに無視を決め込んでいたら、空気はその内「あ、そんな感じで行くんですね、了解」っていう生あったかいものに変質した。メビヤツはシンプルに殺気が増した。あああ。
 直接見られるより断然マシだから小さな絆創膏をちゃんと用意したのに、やれ身支度に邪魔だの蒸れるのマスクの中で剥がれるのって、文句たらたらルド君はすぐに外すし貼らないしでほとんど意味を成さず、外出の度私の方がずっとヤキモキしていた。



「さすが。若いから治りが早いね」
「そうかよ」

 洗面台に腰を預けた風呂上がりのゴリラは、随分と横柄な返事を寄越す。世話してもらっておいて何だその態度は。もう少し愛想よくせんか。ちょっとカチンときて、でも直後に「傷が治るまでだ」と己に言い聞かせる。
 瘡蓋が取れて、もう遠目からじゃ分からない程度には落ち着いた。ようやく息がつける気がして、ホッと胸を撫で下ろす。就寝前やら食後やら、面倒がるアホにまめに薬を塗り込んでやったのは私だが、傷を見ることはできても目を合わせるのは未だに困難だった。何というか。居た堪れない、身の置き所がない、バツが悪い……しっくりくる言葉が見つからないが、とにかくそんな調子で、直視できずにいる。

 ちなみにマスクルド君が出動したこの数日間は同行するのも避けていたから、彼がギルドでどのような奇異な視線に晒されたか想像するより他はない。何も愚痴らない点がかえって恐ろしかった。ヒナイチ君も半田君もいつも通りだし、ギルドメンバーからも町の変態共からも私には何の連絡も来ないから、おそらく見られてはいないと思うが……


 薄ら湯気が見えそうなくらいホカホカしてる肌に綿棒でちょいちょいっと薬を塗った。新しい皮膚って頼りない。ピンクでツルツルで柔らかそうで、いかにも無防備だ。けどマスクのおかげで日にも当たっていないだろうし、この調子なら痕は残らず済むだろうと安堵した。
 そこまで思って、何だって私が子どもの怪我にやいやい騒ぐ親みたいな真似をしなきゃならんのだとだんだんムカムカしてくる。

「ハイおしまい」
「ん」

 寝よ寝よ。寝て忘れよう。
 訳の分からない不安や苛立ちは寝て流すに限る。救急箱を片付けつつ「ああ消毒液ほとんど空じゃないか」とか全然関係ないことを考えていた。そこを。何の前振りもなく「何で目合わせないんだ」って直球で来おった。全くノーガード状態で、ここ最近一番触れてほしくなかったところに拳がクリティカルヒットして、当たり前だが私は死んだ。ああああ。お風呂入ったばっかなのに床に密着しちゃったじゃん!

「何で今死んだ?」
「うっさいボケ。貴様のせいじゃ」
「まあお口の悪いこと。お育ちが悪くていらっしゃるのね」
「育ちは滅茶苦茶よろしくてよ」

 悪いのは環境だ。
 噛み痕を作ってしまって以来、何かとやり辛い。上手く噛み合わないというか何というか。多分、こっちに引け目みたいなものがあるからだ。冷たい床にいつまでもいたくないけど戻りたくもなくて、葛藤ののちおもむろに塵のまま棺桶に向かった……ところを阻まれてうってなる。おいコラ踏むな!

「なあ。おい」

 何で目を合わせないんだよって。

 ちょっとむすっとした感じで訊いてくる。 
 答えたくないって全身で主張してるのに。さすがだロナゴリラ。察するという文化がない。でも最終手段暴力に訴えられるのも嫌だ。仕方ない。

「嫌だから」
「何で」
「嫌なもんは嫌なんだよ。それ以上理由があるか」
「だから。何で。嫌なのか。考えろっつってんだよ」

 げえっ。
 マジだ。
 声が。

 ちょっと血の気が引いた。
 この声のロナルド君はヤバい。内心冷や汗を垂らしながら、表面を取り繕ってとりあえず声を出す。舐められたらおしまいだ。とって喰われる。精神的に。

「うん……あのね。目というか、傷を見たくないんだよ」
「数時間おきに薬塗っといて? もう俺よりお前のが見てんぞ」
「そういう時は……しょうがないだろ」
「傷じゃねえよ。お前、俺の顔を見てないんだよ」

 なあ。何で?

 何でって。
 何でだろう。
 心にずっと重たく垂れ込めるこれは、罪悪感に少し似ている。精神的には割と日々遠慮なくフルボッコにしてやるけれど、流血沙汰なんて滅多にない。でもなあ。私なんて比較にならないくらい殺されてる。まあ自爆もめっちゃするけど。傷を負わせたことだけだろうか、こうまで引け目になってるのは。だって血を吸ったわけでもないよ。単純に刺しただけ。うっかり歯を立てたようなものだ。そりゃほんのちょっぴり口に入っちゃったっぽいけど。吸血しようとしたわけじゃないってことは、自分が一番よく分かってる。だから、感じてる何かは、それ由来でもない。ロナルド君がバリクソ怒ってるなら怖い! 殺される! って恐怖にうち震えるけど、そんなわけでもないし。
 え、ほんとに何。
 これは何?

 当初はブッ殺案件だと真っ先に危機感を持ったから、どんな暴力に晒されるかと恐怖が先立った。その次にやって来たのは何だった? ああ大丈夫そうだとちょっと気が緩んで、気が大きくなって、その隙間に差し込んできたのは。こんなに、無意識の状態を晒してしまうくらい、うっかり我を忘れるくらい、行為に夢中になったことへの恥ずかしさと、あれは。
 これ以上考えたくない。半ば反射で思考回路を遮断する。


「……わからないよ」
「何だそれ。じゃあ見ろよ」
「君は、何でそんなに目を合わせたいの」

 苦し紛れに返すと、それは意外と功を奏して、しばらくの間があった。

「喋ってる相手が目を見ないのは、何か……どうでもいい、みたいな。軽く扱われてるみたいで、腹が立つ」

「そんなこと思ってないよ」
「ほーお」
「せっせとお薬塗ってあげてんの、誰だと思ってんだ」
「へいへい」

 終わったかなーと思ったら塵を掬い上げられて、ああ終わってないんですねって軽く絶望する。もう諦めて沈黙していたら「お前が」って何かお経でも唱えるみたいにじっとり呼び掛けられてひえってなる。

「ずっと怖がってるから」
「もう二度としてくんない気がして」
「クソ痛えのも我慢して」
「大丈夫って伝えてきたつもりなんだけど」
「それは、全然、伝わってねえのかよ」

 怖がってなんか。
 怖がってるとしたら君が原始的に振るう暴力に対してだな。
 二度と、とか、大袈裟な。そんな心配しなくていい。
 君、あれで我慢してたの? したって割にはクソ痛えとかここで言っちゃって、それじゃ意味ないだろ。

 何を言っても正しくない気がして、だから沈黙するしかなかった。若さのせいか生来の気性か、彼は何事においても短気である。即席カップ麺すら3分待てなかったりする。だから、死んだフリしてダンマリを貫けば凌げるかもしれないって、そんな狡い計算が多少はあった。

 全くもって計算外だったのは、本当の本気で逃す気はないとロナルド君が決意を固めていることだった。しゃがみ込んだ脚は痺れたらしくて、どっかり胡座をかきやがる。その下に敷き込まれてうわあってなった。
 あー。湯冷めしちゃう。床が冷たい。ジョンは保湿ケアの段階でうとうとしていたから、先に寝かしつけてしまった。目を覚まして、私がいないことを心配して、探しに来てくれたりしないかな。一縷の望みをかけて、リビングを窺ったのに、向こうは向こうで静まりかえっていてがっくりくる。

 返しようはないけれど、疑問はあったから、沈黙を何とかしたくて投げてみる。

「私、怖がってた?」
「おう」
「……君のDVが激しいから」
「DVじゃねえ。ほぼ自業自得だろ」
「はあ……傷が完璧に治ったら、多分大丈夫になるから」
「じゃあリハビリしとこうぜ」
「は?」

 ほら、と目を閉じたゴリラに「は?」ってなる。
 ああ、二度としてくれないってこれのこと? てっきり性行為のことかと。彼が言ってるのはもっとカワイイ話だったらしい。
 目を閉じた切れルド君を眺めていると「これこのままここに放置したらどうなるかな」とかついついよぎる。それはそれで面白そうだったけど、実行したらすんごく面倒なことになるのは予想に難くなかった。黙って身体を戻していく。ていうか一部は君の尻の下だ。解放しろって唸ったら黙って胡座を解いた。少しだけ苦笑したような息が漏れる。
 洗面所の冷たい床に片膝立てて座ってるロナルド君。さっきまで全開のガチギレ面だったのが、今ので程よく緩んでいる。手と膝をついて、覗き込むように、その精悍に整った相貌を真正面から眺めた。
 目が閉じていると大丈夫だ。
 じゃあ、何が駄目なのか。認識されていると思ったら駄目なのか。ロナルド君の、意思が見えたら駄目なのか。薬の跡。まだ肌に吸収されていない分がてらてらと光を反射している。傷の周りをそうっと指先で撫でると、冷たい指先が嫌だったのか、きゅっと眉が寄った。その表出した不快感に、びっくりするくらい反応してしまう。ぎくりと身体が強張って、胸が波打つ。ぞっとする。
 嫌だ。
 拒絶されたくない。

 これかと思う。
 怖い。確かに。

 ……え、そうなの?
 怖がってるってこれのことなの?
 本当に、抗いようがない恐怖。鋼の自己肯定感と定評がある私でも、今はどうしたって、拒否されても仕方ないって思える要因が目に見える形でそこにあるから。だから。

「……私、怖がってたの?」
「? 何回聞くんだよ200歳。脳みそガタきてんのか」
「君ね。ほんともう……まあ、うん」

 そっか。怖がってたのかあ。
 言いながら、膝立ちになって、もふもふ頭に擦り寄った。乾いているとふわふわだけど、今はちょっとひんやりしてる。ブルっときて、髪をかき分けて地肌で指先をあっためようとしたらさすがに「オイ」って怒られた。誤魔化すように髪を撫でつける。

 すごいねロナルド君。君は人生の色んな局面を野性の勘で乗り切れるよ。当事者より先に、相手の恐怖を捕まえちゃうんだから。
 あーもう。私は逃げられない。
 そんな風に思った。

 まあ、そうだろうなと、頭のどこかで冷静な自分が頷いた。入れ込み過ぎないよう調整するとか。相手ありきの話を自分の都合だけで動かすなんて、私は私にそんな不誠実さを認められない。身体を明け渡す相手には、先に心を渡しているに決まってる。
 既に渡したものをこっちの都合で引き上げるなんて不可能で、だから、とっくのとうに火傷どころの話じゃない。いきなり1000℃とか突きつけられたら仰け反って逃げるけど、じりじり遠火で炙られ続けると、気付かない間にこんなことになっちゃうんだな。
 逃げようがなかった。そもそも逃げようなんて思わなかった。この熱は私にとって、大層心地が良いもので。

「これは、私の負けなのかな」
「はあ? 何だよ……嫌なのかよ」
「いや全然嫌じゃない」
「あっ? ああ、そ、へえ」

 ええ……負けかなあ……何か癪だけど。嫌じゃないけど、どうにも滅茶苦茶悔しいから、多分負けってことなんだろうな。
 何が嫌なのかをこれ以上ないくらいあからさまに自分の身体に突きつけられて、何かもう色々なものを諦めた。

 ああ、それじゃあって、今更ながらの記憶が繋がって、ちょっと暗くなる。
 あの落ち込みっぷりを思い出す。
 求められているって分かっていてさえ、不愉快そうに眉が寄った、たったそれだけに身体を刺し貫かれた。私が気軽に「やだ」とか言う度、もしかしたら向こうは毎回、こんな痛みを覚えていたのかもしれない。そうだとしたら、私は、とても残酷なことをしていたんだな。

「ロナルド君」

 半ば抱えてた頭を解放して、見下ろすまま呼んだら、なにって訊くみたいにこっちを見てくる。額にかかる銀髪が邪魔だったから両手でかき上げて、久しぶりに覗き込む青色をつくづく眺めて、そうして、とても驚いた。
 この感情を知っている。
 こんなに分かりやすくここにあったのに、私はずっと見ていなかったのか。居心地の悪い場所にいるような、寄る辺ない子どものような、落ち着きなく揺れる瞳。

 腹が立つだなんて嘘だ。怒ってなんかない。その感情の動きは私にとっては不可解で謎そのものだったけど、確かだった。
 ロナルド君は、怒ってなんかいない。
 それが理屈抜きで分かったから、私も、とても素直に、謝る気になった。
 ごめんね。
 私は単純に逃げを打っていて、君はその卑怯さを見咎めたんだよ。全部分かってるのか、無意識なのかはちょっと微妙だ。本人は「何となく嫌だったから」としか捉えてない気がする。恐るべきは野生の勘。

「ごめんね」

 せめて気持ちを込めて口付ける。滑らかな額は少しだけ汗ばんでいた。代謝の良さにほとほと感心して、その後に、もしかしたら緊張していたのかもしれないと思い至った。
 身体がすっかり冷えてしまった。温かな肩に手を置いて、暖を求めて懐に潜り込むように身を寄せる。そうしたら腕が私の背中に回ってきて、それが何だかおずおずしていて、参ったなあと思う。こんなところ、とても可愛いと思ってしまうので。
 私は知っていたはずなのに。この生き物が、自分に全然自信がないって。
 伝わってると思ってた。私が、行こうと思えばどこへだって行ける私が、あえてこんな不便極まりない狭小空間に留まってるのだから。だから、目を合わせたがらないなんて、そんな些細な一点を気にして、頼りない子どもみたいな目でいるなんて、私の気持ちを確かめたがるなんて、想像もしなかった。できなかった。

 正直言って、私は、結構腰が引けている。
 だって、もう何か果てしなく気力体力持ってかれそうで怖いもの。ド貧弱には荷が重い。でも、いくら足踏みしていても現実の方が目前に迫っている以上、もう腹を括らないとダメなんだろう。上手に切り離せるような関係だったなら、我慢ならないって思った時点で、一度すっぽかされた段階で、とうの昔に捨てている。

 頭では理解できた。
 心も納得している。
 シャワーみたいに頭から浴びせてあげたい。もういいって言われるまで、言葉で伝えてあげたいけれど、それは何かが邪魔をする。恥ずかしいし。単純に悔しいし。
 代わりに行為で示すことにする。これなら平気。じっと待ってくれているから、時間をかけて、ゆっくりと口付けた。まだ少しだけ湿り気の残る髪の上から、近付いたらもう一度閉じた瞼の上から。眉間、鼻先、頬のあちこち。きゅっと閉じた唇にはとびきり優しく繰り返した。尖らせた唇をそうっと押し当てるだけの、慈しむための口付け。伝われ伝われと念を込めて施す。これは半分呪いだな。
 特別ですよー。
 大事ですよー。
 すごく可愛いと思ってまーす。
 絶対代わりがきかないので、そこんとこ、ちゃんと分かっててくださーい。


 顔中、唇で触れていないところがもうなくなるくらいに施して、前髪をかき分けて、髪の生え際を辿って、こめかみを伝い、耳元まで来たら、何だか私の方が我慢できなくなってきた。唇で優しく耳朶を食むと、少しだけびくって身体が揺れた。背中に当てられていた温かい手のひらに力が籠る。
 ああダメだ、今はきちんと謝らないとって思って、それなら目を見ないといけない気がして、傾けていた身体を戻そうとしたら、ぎゅうと腕が閉じた。んん。じゃあ、仕方ない。

「ねえ。ロナルド君」

 部屋はとっても静かだった。外の方が騒がしい。新聞配達のバイク。通りを行き来する車。アスリートか退治人か、走ってる人の規則的な足音。近くのマンションのドアの開閉音。カラスとか鳩とか、あと何かよく分からない新横の生き物たちの気配も濃厚だ。夜から朝へと、活動するメンバーがごっそり入れ替わっていく、独特の騒々しさが私にはちゃんと聞こえる。
 うちは、これから眠るのだ。だから、できる限り静かに、聞こえるか聞こえないかくらいの低めた声でそっと告げる。

「不安にさせて、ごめんね」

 吐息で「うん」だか「んーん」だか、応えてはくれたから、ちゃんと届いたと思う。もう寝ようよって言ったら、もう一度うんってきて、でもそれから結構な間、腕はしっかり閉じたままだった。










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