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 血の味がする。
 目が覚めた時最初に思ったのはそれだった。確かめようと舌で口内を探ったけれど分からなくて、気のせいかと意識はすぐにそこから離れた。つい唇を舐めてしまう。乾いてるなぁと次にそんなことを思った。十分に湿らせた唇で欠伸をして、それから布団の中でもぞもぞ身動いで、あったかくて快適だなぁって心底思って、ぬくぬく包まり直そうと布団を引き寄せようとしたのに叶わなかったところで、漬物石と布団を分け合っていることを思い出した。分け合っているというか、二重に包まっているというか。規則的で間抜けな寝息が耳に入って、珍しく自分が先に目覚めたのだと気付く。
 どれ、何かしてやろうとちょっとワクワクしながら振り向いて、そうして、死んだ。





「あの」
「そのですね」
「正直、記憶にございませんで……」

 無言が怖い。
 私は映っていないけど、鏡越しに完璧な無表情のロナルド君が傷を検分しているのはくっきりはっきり明瞭に映ってて、私にも視認できる。とりあえず後退りして距離をとった。

 無言が怖い。

 ロナルド君の綺麗なお顔には、今それはもうくっきりと、牙の痕が刻まれている。
 ねー、何でしょうね、アレ。やだやだ。この近辺も物騒になりましたこと。奥様もお気を付けあそばせ……
 死にたい。
 誰がどう見ても吸血鬼の仕業である。それだけだって大問題だ。体面を気にするええかっこしいの、でも全然カッコつかない若造ゆえに、退治人なのによりにもよって何しても死ぬクソ雑魚吸血鬼に噛み付かれたなど人生最低最悪の汚点とか絶対そんな考えでいるに違いない。あ、あ、今のは自分で言ってて心が死んだ……
 それより何より場所が超絶問題だ。死にたい。マジで。唇にすっぽり覆い被さるような牙の痕。どんなに良心的に考えても、退治人としての誇りにヒビを入れない想定は到底できそうにない。まあ一般的に人があれを見てどう思うかって言ったら「吸血鬼に真正面から堂々噛まれた間抜け極まる退治人」って……いや違うだろ。どんだけ優しい世界だ。どう見たってアレだよ。「美人局な吸血鬼にまんまと引っ掛かってよろしくヤろうとしたところを堂々襲われたスケベでアホな退治人」だよ。
 死にたい。
 死んだけど。


 声もなく砂山を築いた私に、腕も脚も沈んだことで目を覚ましたゴリラ。だりー……って感じで起き上がった後口元の違和感に眉を顰め、触り、飛び上がり、痛え! って叫んだら更に痛んだらしくて無言で転げ回っていた。おっかしいな、そんな痛いもんだっけ。やっば、どんどん状況不味くなる……とか何とか考えてる間にも鏡を求めて浴室まで足音うるさく飛んでいって、直後から静寂。気絶しちゃった? とか心配になったから恐る恐る見に行ったら、めちゃ真顔で鏡を凝視する全裸の男がひとり。
 あまりの光景にまた死んだ。音を立てないようにベッドまで後退りして、小さくなって気配を消して、極力丸まってみた。めためたにぶち殺される予感しかないので、しばらく塵のままでいようとシーツを被ってベッドの端っこに寄って、あとはひたすら怯えてる。恐ろしいくらいに静かなのが、もう何か最高に正気度削ってくる。いつもみたいに怒鳴り散らしてほしいなどと心から願った。

「おい」
「ヒイィ!」

 上から手を当てられて、シーツの中で塵がぶわっと浮き上がる。ウェエン気配感じなかったよう……怖いよう……
 手のひらは塵を握り潰して圧縮しようなんて動きを見せるわけでもなく、ただ当てられているだけだ。

「あの……………………ごめんなさい」

 私以外あり得ない。ていうか私以外だったら別の意味で大問題だろ。いやそうじゃなくて。

「お前、悪いと思ってんの」
「…………ハイ」
「ふーん」

 あー。
 あー。
 やだよー。
 怖いよー。

 ……でも何だな、思ったより落ち着いてるな。意外なくらい平坦な声で、何かを抑えてる感じはするけど、不穏な感じじゃない。多分ここではぶっ殺されないだろうと、ほんのちょっとだけ気が緩んだ。
 今何時だろう。
 そろそろ戻ってちゃんと眠らないと。今日は普通に仕事のはずだから。とりあえずマスクでも買ってきてあげよう、そんなことを考えながらもぞもぞ身動いでいたら「早く戻れよ」って手が離れた。
 ああ、塵を殴っても手応えありませんものね。しかし本当に私だけが悪いのか? 私ちゃんと止めたよ? ダメだよって言ったじゃないか。
 ちょっと安心したら、緩んだ気は大きくなって、むくむく反骨心が湧き上がった。そうだそうだ、私そんなに悪くない、堂々としてりゃいいんだってシーツの中で拳を振り上げる。
 そうして気炎を上げていたところ、ぺろっとシーツを捲られて、逆光をものともせず目に飛び込んできた暗赤色の傷痕に光の速さで視線を逸らした。
 うわやだ。
 何あれ。
 めっちゃヤバい。
 居た堪れないにも程がある。
 反骨心は一気に萎み、代わりに頬がぐわっと熱くなって、かと思ったら冷めていく。息が浅くなった。あれ。これは。

「いっ」

 必死で視界の外に追い出そうと顔を背けていたから、伸びてきた手にいきなり口の端をむにっとされてびっくりする。じっと牙を見つめているらしい。何だ。実況見分か? ハイハイ私ですよ、私がやりました! 悪うございましたね!

「すげえな、これ。結構痛いし」
「…………申し訳ありません」
「喋れないほどじゃないけど。メシ食うのも地味にしんどそう」
「…………スミマセン」
「ギルドじゃ絶対食えねえな」
「…………マスク買って来マスネ」

 とりあえずお風呂に入りたい。ていうか時間あるかな。ねえ今何時?

「ん」
「なに……え、なにっなになに」

 怖い!
 怖ルド君!
 何考えてるの!?
 ついさっき痛い目に遭ったばかりでしょうが!

 手のひらでガードしたら、目をぎゅっとさせている。あ、痛かった? でも君が悪い。ぱっと手を離したら固まった血の欠片がパラっと落ちた。ひえええ。
 己の犯行とはいえそれがもたらした結果に竦み上がっていると、包まっていたシーツを引っ張られた。何で。させじと引っ張り返すけど、ロナゴリラが本気を出せば到底太刀打ちできない。乗っかって巻き込んでるから、勢いよく引かれたら多分独楽よろしく回転してから落ちて死ぬ。仕方がないので交渉を試みる。

「痛いんでしょ。もう喋らないの。ちゅーもしない。大人しく治せ」
「加害者がえらっそうに」
「いつまでネチネチ言ってんだ! 私はちゃんと止めただろうが!」
「ああ。でも、声。気にならなかったろ」
「…………えっ。まさかこれ? これが君の代案?」
「そうだったけど」
「バッ……」
「もうしない」
「えっ」

 何だと。
 そっちから言われると何か腹立つ。
 そういえば元々そんな話だった。噛み痕の衝撃が酷くて吹っ飛んでた。勢いのまま押し通したのは自分だが、2日と空けずなんて初めてだったから、何だか変な感じがする。ていうか我慢できるんじゃないか。最初からそうしろや。

「別に我慢してないけど」
「えっ」
「気にならなかったろ」
「……ええ?」
「いい方法見つかったな。解決じゃんか」
「……ん? え?」
「ていうか、何でこっち見ないんだよ」

 寝起きにぽんぽん話題を投げるな。ついていけんわ。とりあえず何でもいいからとにかく口元を隠させよう。会話もままならん。ハンカチで凌ごうって、黙ってベッドから下りたらあっさり捕まって連れ戻された。もう!

「見た目ほど深くねえよ」
「あ、あー。そう」
「最初貫通してるかと思ってビビったわ」
「あああ。それは、大変だ」

 何だこの上滑りした会話。勘弁しろ。不自然に目を逸らしたまま、汎用性高めの相槌を適当に打ってやり過ごそうと試みたら、せっかく阻止したはずなのに唇の端っこにむにっとやられて戦慄した。やめろ!

「やめてよ。トラウマだよ」
「俺が言うならまだしも。何でてめーのトラウマだよ」
「こっちだってびっくりなんだよ! そんな、牙立てたなんてほんとに全然覚えてないもん! またやっちゃったらどうしようって思うだろうが!」
「あー。口じゃないなら、別にいいけど」
「よくねえー!」
「なんで」

 何で? 何で!?
 何でって言ったよこの退治人!

 え、だってだって。怒るでしょ。今まだ何かこの場所と雰囲気に流されて誤魔化されてるから何も言わないけど、絶対事務所帰ったら傷が痛む度に私百叩きの刑だよ。外で同業者に見られでもした日には多分島流しにされる。そうでなくてもセキュリティガバガバだからヒナイチ君とか半田君とか、下手したらカメ谷君に見つかって格好の餌食だ。メディアに流出して世間に出回ったら訴えられるのは出版社じゃなく私だもの。

「……誰が訴えるんだよ」
「君以外の誰がするんだ!」
「だから。しねえよ」
「嘘だー!」

 見ざるポーズで喚いていたら口に指を突っ込まれそうになってぎょっとする。反射で固まった口元を両手の親指でむいっと開かされた。無遠慮に入ってきた指の先は牙の表面を用心深く撫でた後、唇をなぞってくる。そこ、今は止めてほしいな。すごく。

「ふぁあえっ、あお」
「何ひとつ伝わらねえ」
「むうあー!」
「うっせ」

 まあ、治るまでは、カンベンな。次は目立たねえとこにしろ。
 息のかかりそうな場所でぼそぼそ言われて鳥肌が立つ。治るまでっていうか。目立たないとこっていうか。二度としないんだよ。もうまともに顔すら見られそうにないんだけど。いいから風呂に入らせろ!










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