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 煉瓦と漆喰にセメント、それから目に映る大半が金属でできた寒々しい建物の中で日々擦り減っていく何か。消費されているとぼんやり自覚はできたって、具体的に何をどうしたら減らずに済むのかまでは分からない。
 まあそれなりに楽しく暮らしている。気鬱を晴らすアルコール、素朴でも温かな食事で飢えを満たす悦び、たまの博打は儲けよりも程よいスリルを味わうために。仕事というのはそれらを叶えるために日々固める生活の土台で、よっぽどのヘマをしなけりゃ対価として安定的に金を得ることができる──そうでなければ、誰がこんな糞の掃き溜めみたいな場所で糞の見張り役を務めるというのか。



 巡視には特に注意を要する区域がある。日々の引き継ぎにも神経を使う、マンパワーのほぼ全てを注ぎ込まざるを得ない一画だ。職員全てが「有史以来最凶最悪の囚人」と吐き捨てて憚らない男がそこにいる。
 大抵は囚人番号04番と呼ばれている。
 自分とて職務に徹している間はお行儀よくそんな呼び方もするが、癇に障った場合はその限りでなく、うっかり「クソ野郎」とか「この××××」とか心のままに罵っては手酷いしっぺ返しをくっている。ちなみに04番の刑期は寿命をゆうに超える長さだ。限りある資源と労力を割いて国が未来永劫モンスターを飼うってどういうことだ? とは、時折仲間内で転がされる虚無そのものの問いである。あれを死に至らしめる処刑道具が発明されない限り解はない。

 初めは、他と同じく独房に転がしておけばそれで済んだ。死体同然で運ばれてきたので、その辺りまでは実にちょろいもんだった。蓋を開けてみれば殺しても死にそうにないバケモノだったわけだが……奴が引き金となって一棟丸ごと建て替えを余儀なくされるに及び、新たな図面を引くにあたっては関係者一同知恵を絞りに絞った。収監以降、職員のほぼ全員が身体的かつ精神的に大いなる損傷を与えられている。今後の被害を最小限に抑える工夫をこらさんと、あれこれ対策が練られたのだ。キレてしまえば物理的には止めようがないというのが結論で、なら僅かでもいい、とにかく意識を分散させようと、人身御供として同室者をあてがうことにした。

 功を奏したのかもしれないと頷き合うまでにはそれなりの期間が必要だった。とはいえ試みは半ば成功したと言える。予想とは随分異なる形ではあったが。



 扉越しにも伝わる異様な気配に「ああ、そろそろだったか」とそれだけを思う。嫌悪、不安、苦々しさ、胸糞悪い。初めは沸き立った悪感情も今は随分平らかで、どんな事態も繰り返せば慣れてしまうものだとひとつ人生の教訓を得る。広がる光景がいかなるものかは、開ける前から分かっている。
 条件反射で、視察孔に指をかける瞬間は勝手に身体が緊張してしまう。何度も死にかけたからだ。回避する術を多少なりとも身につけたとはいえ、報われるのは五分五分といったところか。全くもってやってられねぇ、ありがたくって涙が滲む。
 蓋をスライドさせれば、視界はいつも通りの地獄絵図だった。



 541番と整理される囚人は、実に監獄など似合わない男だった。ドジで粗忽でお人好し。一体どこで育ったのだか尋ねたくなる能天気さ、物事を深く考えず、主義主張があるわけでもなく、単純に押しに弱い。(この国では何とも致命的なことに酒にも弱く、それで下手を打ったわけである)襲い来る理不尽に対して、反骨心などというものは微塵も感じられない。嵐が来れば小さく身を縮めて、ひたすら過ぎ去るのを待つだけのひ弱な存在は、監獄を守る番人から見ても格好の餌食だった。この実りの少ない鬱々とした凍える土地、毎日目に入るものといえば身体のあちこちが墨で彩られた強面の破落戸共──そんな殺伐とした環境で溜まりゆく澱を晴らすのに、元より大半の看守からいい玩具と思われていた。生け贄として白羽の矢が立ったのもごく自然な流れである。多少見られる容姿だった点が災いしたのか、最終的に襲いかかるものは嵐どころでは済まなかった。



 白い脚、白い腹、白い頭が揺れている。忙しない息遣いと晒された肌のぶつかる音は、いくら室内が薄暗くたって否応なく細部までを想像させる。抑えようと努力してはいるらしい、けれど漏れる悲鳴と鼻をすする音は奇妙に大きく響いて、惨めったらしさをこれでもかと盛り上げる。商売女のように演技が出来る図太さなんて、到底持ち合わせていないだろう。だから、働きかけに逐一返す反応は愚直なまでに素直なものだ。痛みと紙一重だろう快感にあえかな悲鳴を零し、幾度となく膝の上で痙攣したように跳ねる。そのまま死ぬのではないかとそんな切迫感さえ混じる声は、けれど概ね嬌声に分類される。酷く弱々しく、涙混じりではあるけれど。

 微かに赤みがかったプラチナブロンドが汗を含んで肌に貼り付いている。子どもの時分になら、この辺りではよく見られる色だ。成長してなお白金に透ける色合いは希少で、薄闇の中でも僅かな光を集めて揺れる。どこにいるのか、何をしているか、すぐに分かってしまう。看守からすれば管理に向いた便利な色だ。
 色素の薄さは全身に及び、局部にさえ色みがいまいち感じられない。薄暗いせいでもあるけれど、どうしても比較してしまうからだ。持ち主さえ自分では見たことがないだろう箇所を大股開きで晒しているから、最奥で抜き差しされる赤黒いものがどうしたってちらちら覗く。すぐ上で揺れる、反応して汁を散らす性器を恥じて隠そうと試みてはいるが、揺さぶられながらでは叶うものでもない。膝を掬われて、拓かれた身体の全てを扉に向けて晒している。薄らと肉の桃色を透かしたような白い腹、嬲られた胸の尖りだけが赤い。項垂れていた面が、身体の奥を抉られるまま跳ね上がり、喉を晒け出す。肩で息をして、狼藉を働く同室者にささやかな泣き言を漏らし、そうしてふと顔を扉に向けて、気付けば盛大に青ざめる。「見るな」とでも「助けろ」とでも、そこでひとしきり喚くなどすれば、あるいは傍観者の良心だとか理性だとかを刺激できたかもしれない。だのに、悲愴そのものといった表情でさっと目を逸らし、することと言えば瞑目だ。
 眉を寄せてぎゅっと目を閉じ、顔を背け、唇を噛み締めて耐えるその選択があまりに不可解で、結果として観客を最後まで留めおくことになる。

 終盤は意識さえ朧げだ。突かれるままに脱力した身体を揺らし、足先を丸めて法悦に耐え、耐えきれずに何度も気を遣っている。そんなにいいものかと疑念を感じる者、いや才能だろうとしたり顔で馬鹿にする者、憐れだと首を振る者、表では様々に言葉を違えるものの、いざ現場に遭遇すれば全員が同じ対応をとる。



 不定期だが、読めないわけではない。連日ということはなく、長く間が空くこともない。
 声を、あるいは姿を認めて、そうすれば胸中は一気に複雑な感情で満たされる。嫌悪と興味、目を逸らしたいのに見届けたい思いも確かに同居する二律背反。おかげで頭がくたびれて、最終的には思考停止の状態でただそこに突っ立ってしばらく過ごしてしまう。皮肉なことに、結果的にはそれが一番平和で合理的な判断となるのだ。
 記録に残すわけもなく、そもそも機会はそう多くない。それでも、当番は詰所に戻って指でサインを作るくらいする。意味ありげに交わされる視線、歪む口元。互いに、内心どういった思いでいるのか大体のことは分かってしまう。穏やかでいられないのは、不快なだけではないからだ。胸を引っ掻く涙声は、同時に酷く根源的な欲求を刺激する。

 史上最高にろくでもない件の囚人は、暴虐の限りを尽くすようでいて、実のところ対応を誤らない限り静かに寝台で過ごしているのが常だった。相当数の看守が犠牲になることで判明したこだわりについては全職員に共有され、おかげで今や目線ひとつで大抵の要望を察することができる。命は惜しい、しかしながら矜持も捨てられず、狭間で揺れるあまり時折意趣返しを目論んではあえなく砕け散る経緯を重ねている。忸怩たるものを抱えながら、従うのが常態となりつつある。
 541番も、きっとそうなんだろうと、その当時は疑わなかった。同情と、それから罪悪感さえ感じていた。

 消灯後ではあるが、郊外の、見渡す限り緑と土の広がる土地では夜の空も存外明るい。どちらも寝台にいることを疑わず、気負いなく開けた監視孔。扉を背にしてうずくまるプラチナブロンドを認めて、何をしているのか把握せんと目を眇めて息を殺した、そうして初めて目視した夜のことを思い出す。あの時も今と同様に、目を凝らせばブロンドのさらに奥にじっとりと蟠る存在があった。
 いつもの肉体言語で強いたか、あるいはやはり目線だけで通じる関係性ができているのか。件の男は自身の股座に寄せられた淡い白金の頭を無感動な瞳で見下ろしている。そう時をおかずブロンドは床に引き倒され、転がされ、抵抗の間もなく背後からものを埋められる。押し出されるように悲鳴が零れて、そうして自分を深く刺した肉塊が馴染むまで、震える身体は床に這いつくばったまま必死に息を継ぐ。
 与えられた衝撃がようやく落ち着く頃、今度は持ち上げられて膝の上に乗せられる。文字通り串刺しとなった身体は、己の重みで更に奥へと進む楔に恥も外聞もなく泣きじゃくる。毎度子どものようにしゃくり上げて、それでも回をこなすごとに、身体だけは変質していったようだ。初めの頃は痛ましさしか感じられなかった声音に悦びの気配が混じり、哀れにも縮み上がっていた性器が今は腹に付かんばかりに膨らんで涎を垂らす。圧倒的な力で固定されながら、許される範囲でしきりに身体をよじり、込み上げる何かを逃がそうと喘いで、時折びくりと大きく身を震わせる。

 意識が外界に向く余裕が生まれる頃、正面の扉、小さく切り取られた窓から覗く存在に気付けば顔面蒼白となり、それから薄闇でもはっきり分かるほど頬を上気させたのち、目を固く瞑って、もう決して前を見ようとしない。いつもきつく首をねじって顔を逸らすから、噛み跡も生々しい首筋だけならよく見える。

 当人が気付いているのか定かでないが、そんな抵抗と呼んでいいのかもささやかな試みを講じるようになってからだ。要するに覗かれていると自覚してから。以降、それまでと比較して段違いに過敏に反応を返すようになったのは明らかで、外野は全員、あの災厄の権化のような男はそうした恥じらいの効果を狙って毎回わざわざ見せつけるような振る舞いをするのだと察している。悪趣味だと蔑む傍ら、見てしまえば、災害じみた一方的な行為が終わるまで結局誰も目を逸らせない。最も、終わってしまえば看守はすぐさま呼び出されるのだ。求めるものがあれば呼びつけるのが常の野放図っぷりであるが、その一つが水を使う機会であるために。


 内側に入ってみればよく分かる。限られた容積とはいえ、特例措置をもぎ取った住人が居心地良く誂えた空間はそれだけで既に完成している。余計なものが入れば途端に狭さを露呈させ、だから部外者(もうそうとしか言いようがない)としては入る必要がある場合、可能な限り存在感を消そうと心掛ける。住人であるモンスターの発する言葉は肉体言語、警告は一切なく、不興を買えばただでは済まない。
 意識を失くしたブロンド頭は寝台に横にされてぴくりとも動かない──はずだ。見ていないから実際のところは分からない。正確に表せば見ていないんじゃなくて、見ることすら許されていない、である。目の前で悠然と湯水を使い身体を清める暴力の申し子に。床の傾斜に沿って排水溝に流れゆく水、汚れを身体から拭い去る気配、ただそれだけに意識をひたすら集中させて、この針の筵から解放される瞬間を心から待つ。余計な感情は排除して、気にはなっても視線すら向けないように尽力する。音だけで、水栓を引くタイミングを見極めて、後はとっととトンズラするに限るのだ。

 あまりにも哀れだと仏心を起こしたひとりが、しばらく再起不能に陥る程のトラウマを植え付けられた記憶は今なお鮮烈である。意外性もあったものだから、余計強烈に焼き付いた。あのバケモノが偏執的な愛を注ぐ色とりどりの例のアレ、奴のシューズとそれに係る一切のものには、絶対に触れるな。関係者間では、敢えて口に出すのも馬鹿馬鹿しいくらい当たり前の不問律だ。そこにもうひとつ暗黙の了解が加わったのは、暴行の被害に遭った囚人を介抱しようと、ごく真っ当な思いから行動を起こしたひとりの勇気ある職員、彼が哀れ病院送りになったとある夜明けのことである。
 性処理に使われた直後の541番に一切関わるな。見るな。気にするな。声をかけるな。触れるな──でないと、生きながら死ぬ羽目になるぞ。
 職務に従事する間に起きた事故にはそれなりの待遇が約束される。それでも、失くしたものは戻ってこない。表面に見える傷はともかく、心の内側でべっこり折れた何かは戻らないのだ。敬虔な信徒とは言い難い己だが、話を聞いて思わず零れたのは祈りの言葉だった。それ以外に何ができるというのだろう。相手は災厄そのものだ。
 いっそ爽快なまでに周囲を一顧だにしない、構わない、気を遣わない、世界に自分ひとりだけで立っているとでも思っているのか──とにかく傍若無人を体現した男が自分以外の何か生き物を気にする素振りを見せるだなんて、あまりに予想外に過ぎたから、当初は(今でも)色々と囁かれている。情が湧いたか、それにしては日頃の扱いが無体だった、使用済みの下着に触られたくないみたいなもんか、いやあれがそんなの気にするタマか、云々。答えはもう永久に得られないだろう。

 ある夏の日、それなりのペナルティと引き換えに、監獄は平穏を手に入れた。災厄は解き放たれ、今も元気に世界のどこかで恐怖を撒き散らしているはずだ。てっきり自分たちと同じように、意地とか尊厳とか沽券とか、そうしたものを切り売りしながら生き延びているのだとばかり思っていた、気のいい平凡な小市民。あいつが自ら災厄の隣にいることを選んだのだとしたら、もうそれが答えなんじゃないのか?

 看守のひとりは毎日の、少しばかり張り合いの減った気がする、糞の掃き溜めからただの掃き溜めくらいにランクアップした職場で囚人いびりなどに精を出しながら、たまにそんなことを思ったりしている。










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