Others | ナノ

 人気商売なこともあり、義理は欠かさない方だと自負している。年賀状だって気を遣うし、季節の便りが届けばその日の内に返事を書く……という心意気で努力してはいる。
 そんなわけで、割と気合いを込めて、何度も書き直しているところだった。紙というやつはキロ単位で固まれば凶器になるが、一枚だとどうしようもなく柔だ。一度掛けられた圧力にあっさり凹み、二度と戻らない。どんなに慎重に走らせても一度刻まれた轍の跡を辿りたがる。消すのにもうっかり力を入れ過ぎて、みっともなく表面が毛羽立ってしまった。もうこれはダメだなって、代わりの一葉を手に取った時だった。

「ロナルド君は、ちゃんとお部屋を意識してる?」

 いつからいたのか、斜め後ろから唐突に声をかけられてびくってなった。退治依頼を受けたはずが、何の因果か居候を許す羽目になった激弱吸血鬼だ。もう何か反射的に飛び出した裏拳のせいで声もなく砂と化し、俺が自分の拳を引く間にも映像の逆再生みたいにじりじりと形を取り戻していく。向こうもびっくりしたんだろう。酷い酷いとがなり立てている。

「声かけただけでこの仕打ち! 暴悪! キレやすい現代の若者!」
「いきなり何だよ! 集中してる時はマジでやめろ!」
「分かった。じゃあマイムで正面から近付くね」

 不穏な宣言をしたと思ったら口をぴたりと閉じて、机の正面に回り込み不気味なひとりぐるぐるダンスを始める。俗に千手観音ダンスとも言う、アレだ。そのままじりじり近寄って来る動きが最高にキモい。頼むからやめろ。俺が悪かったよ……ちょっとはな。


「何だよ。何を意識するって?」

 週末、友人の結婚式に呼ばれていたのを仕事中に思い出し、帰りに慌ててコンビニで購入した御祝儀袋。値段が中身と釣り合わないと無礼に当たると聞いたことはあるが、こういうので一番大事なのは気持ちだ。十二分に気合いを込めて名前を書こうと一緒に買った筆ペンを構えたが、上品で柔らかな風合いをいざ眼前に据えると手はピタリと静止した。あの、名前を書いて水引きの真ん中に挿し入れる、細長い和紙。親切なことに予備も入っていた。それでもいきなり書くのは躊躇われて、いい大人がどうかとは思いながらも鉛筆で薄らと下書きしているところなのだ。
 ぐっと背もたれに身体を投げ出して伸びをすると、さっきまでのやり取りなんざなかったかのように砂おじさんはけろりと繰り返した。

「だから、お部屋。日本語書く時は、みんなそうするんじゃないの?」

 おへや。
 お部屋?
 何かの隠語だろうか。顔つきからふざけているわけではないと分かったから、スマホで検索してみるも、出てくるのは日本語の分類とか英数字でデコられたインテリア写真とか、今の状況からは程遠い。何の話だ。

 俺の態度から知らないと察したらしい。吸血鬼は一旦生活スペースに引っ込んだかと思うと、反古紙を手に戻ってきた。机に転がしていた鉛筆を手に取って、敷いた紙の上に正方形の、魔法陣にしか見えない図を描く。「これがお部屋」って言う口ぶりから、本当に知らないの? っていう純粋な驚きが見え隠れしている。

「……何の召喚呪文だよ」
「えー。じゃあ吸血鬼だけの文化かなぁ」

 はい、と尻を摘むようにして鉛筆を差し出され、思わず構えてしまう。そうしたら「殺すなよ」って口を尖らせたから何だよって思ったら、さっきの比じゃなく近いところに気配がぴったり張り付いてきて、言われたばかりの言葉なんて吹っ飛んだ。びゃあああって叫びながら仰け反って、結果俺の後頭部は奴を盛大に爆ぜさせた。


「殺すなって言っただろうが!」
「無理だろ! 何しやがんだセクハラ野郎!」
「侮辱罪で訴えるぞ」

 人の親切心を踏みにじりおってとかブツブツ言ってるが、こっちだって予期せぬ恐怖体験に未だに心臓バクバクだ。何だってんだよ。二人羽織をするかのごとく密着された。感覚がまだ残ってる気がして、立ち上がったままその場で無意味にぐるぐる回る。

「もう知らん。文字などサルには過ぎた文化だ。ジャングル帰って食料集めに奔走してろ」
「お前をジャングルに撒いてやろうか!?」

 ぐるぐる回っていた勢いを殺さず、足元でぐずぐずしてた砂場に捻りを加えて飛び込んだ。あークソ。イライラが増しただけで終わった。ちょっと休憩でもして気持ちを落ち着けないと。もう明日に回そうか。でもなあ。椅子にどっかり座り直して迷っていると、やっと人の形を取り戻した砂の塊が捨て台詞を吐いて立ち去ろうとする。

「やれやれ。せっかく美子ちゃん並みに綺麗な文字が書けるチャンスだったのにな」
「……あ?」

 恩着せがましい言い方に腹は立ったが、内容には興味を引かれた。駆け出しでも世間的には社会人、見習い時代も案外と手書きの字を晒す機会は多くって、作家デビューを機に悪筆を何とかしようと自分なりに色々やったのだった。それなりに費用をかけて、硬筆初段だってとったのに。何故か時が経つにつれ、伸び伸びとバランスを欠いた元の字に戻りつつあるのを認めたくない昨今である。

「待て。方法だけ教えていけ」


 藁にも縋るってやつである。
 下手に出たら、案の定調子こいたクソ砂おじさんが高圧的に「お願いの仕方ってものがあるだろう」って敬語を強いてきたので、アルゼンチンバックブリーカーをかけつつ最上級の敬語を使ってへりくだってやった。ちなみに全くのクソ雑魚らしく持ち上げた瞬間に死んだから、俺は予期せぬところで全身に砂を浴び、結局イライラは増した。


 よくよく見たらさっきの魔法陣は日本人でも馴染み深いあれだった。漢字練習帳のマス。無駄にでかくて数字も書き込まれていたから、気付くのが遅れた。

「それぞれに名前を付けて呼ぶんだ。1のお部屋、2のお部屋って感じでね」
「へえ」
「それから正しい持ち方も大事だ。君ちょっと下で持ち過ぎだぞ」
「ああ?」

 だから直してやろうとしたのに。
 不満げに口を歪めてぶうたれる吸血鬼は「ちょっと構えてみろ」って指示を出す。構えて、普通の位置だろって思ったけど、そのまま名前を書いてみれば、確かに自分が書きやすいと感じる位置は、塗装を削り去り木目が露にされた場所まで指を下げたところだった。
 ええ……ここから?
 構えから戻すの?
 だりい……ていうか今からできる気がしねえ。
 露骨に顔に出たのか、砂先生は「ダメだこいつ」みたいな表情をする。匙投げんの早えなオイ。

「まあいい。部屋の意識だけでも十分変わる。とにかく実践してみよう」
「てめえが書いてどうすんだよ」

 こちらのツッコミも受け流し、言うなりすらすらと、外国産とは思えぬ滑らかさで筆を走らせる。おろしたての筆ペンは時折ためを作りながらくねくねと器用に動き、最後に鮮やかに払われた。筆を操る動きそのものが綺麗で、何とも悔しいことにぼけっと見守ってしまう。

「これがお手本。じゃあやってみよう。君、右利きなんだよね?」
「またかよ! それやんなきゃダメ?」
「あのね。君自分のガタイ分かってないでしょ。君が本物の5歳児並みにちっちゃけりゃ、私だってわざわざ成人男性の肩に張り付かなくて済んだんだ!」

 怒鳴り合って沈黙。仕方がねえ。美子ちゃんのためだ。不承不承「おらよ」と背中を向け直したら、ため息をついた砂おじさんが無言でおんぶでも請うように重なってくる。ちょっと視界が暗くなって、背中が奴越しにマントで覆われるような感じがした。手袋をしたままの左手が視界の端で机に置かれ、右手は鉛筆を構えた俺の右手を上からカバーする。うおお。やっぱり何かソワっとするぜ。

 線は細いが形そのものは活字のように綺麗なお手本とやら。隣に同じ大きさでもう1枚用意されたプレーンな魔法陣をセットしている。左手で押さえるように言われてその通りにしたら、砂先生が右手に力を込めたのが伝わった。

「サルルド君。力を抜いてくれ。重くて動かん」

 うっかり「あとで百遍死なす」とか呟きそうになったのを意志の力で飲み込んだ。誰か褒めてほしい。動きに逆らわず、極力向こうが重みを感じないで済むよう努めたら、予想以上に丁寧な指導が始まった。

「平仮名も漢字も、大抵の字は1の部屋から始まるんだ」

 この部屋のどの場所に始点があるか、お手本をよく見ること。この場合はほぼ中央だね。だから中央に筆先を下ろす。あとはどう道を辿るか、道筋を意識して線を引くだけだ。筆の場合は向きも考慮するが、まあまずは鉛筆で書ければ上々だろう。

「おお……」

 斜め10°かな? 持ち上げてとか、ふんわり膨らませてとか、指示を聞きながら砂先生の動きに逆らわず鉛筆を滑らせていった結果、若干線がぷるぷるしているが、遠目に見れば十分お手本と言い張れそうな字が出来上がる。

「分かったろ? 手本を見て、部屋を区切って分析するんだよ。後は分析通りに自分も線を引くだけだ」

 ひらがななんかは一通り練習しとくといい。漢字は直線が多いから仮名より易しいはずだよ。一定の幅からはみ出さない限り、見れない字にはならんだろう。
 机の脇に立って滔々と喋りたくる吸血鬼。絵を描かせれば歪んだ線で、マジロもシマウマも欧米人から見たアジア人テンプレみたいな地蔵面にしちまうくせに。字だけ何でこんなに上手くバランスをとれるんだ。こいつの振り幅マジで謎。あんまり不思議になって、気が付いたら口から出てた。

「お前、何でこんな日本語上手くなったんだ? 字を書く仕事とかしてたわけ?」
「そういうわけではないが。話せるようになったら、ある程度読めるようにもなったし。そしたらやっぱり書ける方がいいだろうってね」

 本当に初めの頃だけ、お母様にこうして教えてもらったんだよ。そう言われて納得した。親子の距離感ならさもありなん。これは一般的な教室の教え方じゃあないだろう。聞けば、こいつの母親は日本出身の吸血鬼だという。へえ。その縁で日本にいたのかと納得した。じゃあお前、いわゆるダブルってやつなんだなと頷いてたら「君はこうして教わらなかったの?」ってやっぱり腑に落ちないって顔で聞かれた。日本人はみんなこう学ぶって、余程信じ込んでいたらしい。気取った仕草が多い200年ものの吸血鬼の素の顔が見えた気がして、少しだけ可笑しかった。
 冷たい手のはずなのに。それなりの大きさだけど、手袋をしてさえペラペラの、俺の右手を覆った手のひら。絡み付くように上から重なった細い指。触れられた時より、離れていった時の方が、冷えたように感じた。

 その後、結局俺はフルネームのお手本を作ってもらったし、その一文字ずつについても二人羽織再びで、動かし方までしっかり手解きを受けた。こいつは気まぐれで飽きっぽいテキトー野郎だが、興さえ乗れば付き合いはいいようだ。
 最終的には、こいつの声が背後霊並みの近さで聞こえてきても何も感じないまでになっていた。俺は結構適応能力があるのかもしれない。
 そんなことがあったのだ。





「ロナルド君。ちょっとこっち来て」
「偉そうに人を呼びつけんな」

 ある夜、いやもう夜明けに近い。事務所の鍵を閉めて引き上げて、喉乾いたって茶を強請ったところだった。既にキッチンはほぼ奴の城と成り果て、だから茶を淹れるとか湯を沸かすとか、そんな些細な行為さえ吸血鬼へと全面的に委ねている。今から寝るんだろ、お茶じゃなくてホットミルクとかにしとけって、あんまり喉の渇きが癒されなさそうな提案をしながら、その前にこっちに来いと、偉そうにソファに呼びつけやがる。

「何だよ」

 疲労、という程ではないがそれなりに一日の疲れはある。どっかりと座り「早く済ませろよ」と砂おじさんを見た。奴は気怠げな目付きでこっちを見返してくる。人の顔を見てため息をつきやがるので、マジで何だよと鼻白んだ。と、予想外の言葉を投げ付けられた。

「ロナルド君、君気付いてないね」
「あ?」

 何に。まあた俺の顔とか上着に何かしたのかお前って、反射でスリーパーホールドを繰り出すと、別にチョークでもないのに腕を回しただけで死んだ。安定の弱さ。

「暴力なしに話ができんのか貴様!」
「常時いらんこと仕掛けてくるお前の日頃の行いが改まれば、できると思うぜ」

 マントの内側で再生を果たした奴がやっぱりため息をついて脚を組む。君ね、と呼び掛けられた。

「近い」
「ああ?」
「だから。近いんだよ。距離が。おかしいだろ、このソファちょっと引きで見て?」

 再生した砂おじさん。今は随分端っこに座っている。俺が今ど真ん中。よりやや砂寄り。んん? 最初に座った時からここだった?

「……お前何かした?」
「何かってなに」

 この状況で私に何ができるんだ。現実を受け入れろ。言われて、ちょっと不満を感じながらも頷いた。これは確かに問題だ。即座にホールドできる時点でおかしいと気付くべきだった。ソファから砂を追い落とさんばかりの距離で着座していることを自覚して、素直に恥じる。これはアレじゃねえかな。居候がいることに慣れ過ぎて、俺の中でこのペラペラ砂おじさんが限りなく透明に近い存在と化しているのじゃなかろうか。視界にいてももはや何ひとつ気にならねえ。こんなに真っ黒なのに。

「お前、赤マントとかにしてみねえ?」
「何で私のような高貴な高等吸血鬼が暴力ゴリラとおそろコーデしなきゃならんのだ。嫌がらせも大概にしろ」

 深く考えず「こいつが目立てばいんじゃね?」って適当な案を投げたら即座に打ち返されて、言い草に腹が立ったので今度こそチョークスリーパーを決めてやった。



 翌日からちゃんと意識した。
 奴が流しに向かっていたら、何か食べ物ないかなってキッチン覗きに行くのを中止したし、洗面所にいたら紳士的に遠慮した。ソファにいたら俺はダイニングでテレビを見たし、戸口でかち合ってしまったら余程急いでない限り道を譲った。
 意識したら、今まで無意識に割とぐいぐい距離を詰めていたことに思い至って、今更ながらに「やべえ」と自覚したのだった。いくらこいつが薄っぺらいとはいえ、潰すくらいの勢いで距離を詰めていたかもしれない。いや実際何度か潰したことがあったわって、やや反省した。

 口寂しさでイライラした時は流しで洗い物してようが下拵えしていようが遠慮なく足元の扉を開け閉めし、うっかり挟み殺したことがある。洗面所に先に立っていたら、腰で体当たりして無理矢理どかしたりしてた。ソファの前に座り込んでゲームしやがる奴を足蹴にしてしまったのも一度や二度では多分ない。うっかり戸口で行き合った時は大抵向こうが壁に張り付くようにしてやり過ごしてたのを思い出す。
 マジでやべえ。こうやって並べてみると単純に俺がチンピラ系ダメ男みたいじゃん。相手は空き巣同然に転がり込んできた砂おじさんだが、仮にもジョンのご主人である。あと家事の面でも色々任せていて、臍を曲げられると面倒だ。セが付くアレ尽くしのフルコースとか出された日には、生涯消えない心の傷を負ってしまう。

 おぞましい想像に戦慄した俺は頑張った。真剣そのものだった。何せ生命の危機である。だからそれからというもの、極力距離を空けて接することができたはずなのだ。実質かなり成功していた。
 というのに、それからさほど経たない内に「ロナルド君、ちょっとこっち来て」って、気怠げな吸血鬼に先日と全く同じテンションで呼ばれて「え」ってなった。



 おそるおそる座ったら、眉宇を曇らせた吸血鬼が「変だよ君」って端的に言う。何がだよ。指摘を受けて以来俺は実に真っ当な、マナーを弁えた大人っぷりだっただろうが。言い返したら、向こうの眉間の皺は不愉快と言わんばかりにぎゅっと深まった。

「確かに近いとは言ったけどね。これはこれで異様だろ」

 我が家のソファは3人掛けである。あの日のように端に腰掛けた吸血鬼。間にきちんと1人分空けて、俺。何もおかしくないだろう。口元を曲げて見返したら、無言で腰を上げた奴はその1人分を詰めてきた。反射的に俺は肘掛けまでズレてしまい、ようやく相手の言わんとするところが飲み込めた気がした。思わず砂おじさんを見つめたら、向こうは「ほら」って顔をする。

「君って奴は。極端なんだよやることが。0と1しか目盛りがないの? もうちょっと間刻もうよ」
「え、いやだってお前が近いって言ったんじゃんか。今のが全然マシだろ?」

 ちょっと前までの自分と比べたら、今の俺は割と真人間だと自負している。距離が空いた分、暴力を振るう機会も減ったような気もするし。即座に手の届く範囲にいないだけで、クールダウンできる時間が稼げるのだ。いいこと尽くしと思うんだけど?

「君もされてみたら分かるよ。自分がバイオハザードでも起こしたかと思うわ」

 不自然なんだよ。率直に言って不愉快だ。もうちょっと考えてくれ。

 反論は許さないとばかりにぴしゃりと言われた。居座られてそれなりの年月を数えるが、こんなに冷静に強くものを言われたのは初めてかもしれない。怒鳴り合うことはあっても、内容は大抵その場で終わってしまう、些細なことばかりである。こいつは落ち着いていれば勿体ぶった丁寧な言葉遣いをするし、基本的には押しの強い言い方を好まない。だから、突き放したような冷たい口調で言われたそれに、余計深い苛立ちを感じ取って血の気が引いた。他人に真剣に怒られるっていうのは結構精神に来る。この歳になれば尚更だ。

「……分かった。気を付ける……」

 我ながら力ない返事に、ドラルクは「頼んだよ」って微かに眉を上げて応えた。

 そんなことも、あったのだ。
 日付なんざ覚えてもいないが、多分、半年前かそこらの話。





 事務所のドアを開けたら、もうひとつのドアの向こうから楽しそうな笑い声が響いてきた。時刻は3時。もちろん午前。我が家に住み着いた吸血鬼その1はかなりの気分屋で、毎晩のようについて来るかと思えば、特に予定もないくせに来なかったりもする。ごくごく稀に役に立つこともあるが、大抵は横で茶化すだけだし、まあ来なくったって全然いいのだが。もう天気みたいなものだと割り切ることにしている。

 ああいや、最近は本当に、来ないでくれて全然いいのだった。来られると俺が困る。端的に言って気まずい。沈黙が落ちたりなんかしたらどうしていいか分からずに、めっちゃストレスかかると思う。向こうは都合よく流してしまったらしいが、こっちは実害を被っているのだ。忘れようがない。ハンドクリームを暴発させた砂おじさんが間接的に俺まで暴発させようとした悪夢。



 戸締りをして電気を消して、生活スペースのドアを向かうと「あっ」と察知したらしき声がする。ドアを開けたら吸血鬼その1が誤魔化すように明るい声で出迎えた。

「殿、お戻りなさいませ!」
「何だ。何した」

 何したかなんて大体分かる。訊いたのは様式美ってやつだ。
 断りもなく用意されたソファベッド。マットレスの上には、どう見ても今の今まで人が寛ぎまくっていただろう皺の寄ったシーツ。さっきまでそこに広げられていたと思しきお菓子と飲み物の類を、背後でジョンがお盆に乗せて運んでいく。僅かに動揺の見える胡散臭い笑顔が、俺の前に寝巻きで立っていた。ジョンとパジャマパーティーかよ。俺がいる時にやれよ!

「寝床は温めておきましたゆえ!」
「クソつまんねえ寸劇やめろ。お菓子のカスとか落ちてたらぶっ殺すからな」

 承知! とかってあくまで悪ノリしながらも、本気を感じ取ったらしい。砂おじさんはぴゃっとベッドまで戻ったかと思えば、きびきびとマットレスからシーツの端を引き出して、ぴっしりと伸ばし始めた。上着を脱ぎつつ見守って、替えねえのかよ、とげんなりする。よっぽど主張しようかと思ったが、天候のせいで大物の洗濯を見合わせていることを思い出した。よりにもよってこんな時に。項垂れながら風呂に向かった。


 のろのろと寝支度を終えてリビングに戻ると、さっきまでの明るい空間が嘘だったかのように静まり返っている。部屋は暗く、棺桶からは微かな電子音。やれやれだ。
 そこだけ見ればホテルのベッドみたいに、マットレスにぴちっと折り込まれたシーツ。さっきは見当たらなかった枕もちゃんと定位置に準備されていた。上に被さっていた布団を剥いで、どっさりと身体を投げ出す。思ったよりも睡魔が早く寄ってきて、ああ、これなら大丈夫かもって安堵した。布団を被る。自分の体温で、中が温まっていく。構えていた身体が弛緩して、深く呼吸した。それがいけなかった。
 腕や脚を動かしても触れる表面は滑らかで、確かにカスなんてないけれど、痕跡がしっかり残ってる。俺が好きなキャラメル味じゃなくて、吸血鬼も食べられる輸入物のポップコーンのしょっぱいような焦げたような残り香。風呂上がりにいつもジョンに塗り込まれる保湿クリームの香り。それから、どこか懐かしいような、生のクスノキみたいな薬っぽい匂い。

 Noooo……
 だから嫌だったんだ……

 こうなったらもうダメだ。経験上分かってる。
 何が何でもシーツを剥いでしまえばよかったのだ。下に敷くものなんてバスタオルだって何だっていいじゃないか。何ならなくてもいいじゃないか。チクショー……


 生まれてこの方いつも一緒。憎っくきセの字にもがれかねない危機だって共に乗り越えた。そんな相棒に、ずっと信じてきた息子に裏切られたのは、まだ先週のことである。アレ以来ずっと、誤作動に戦々恐々とする日々だ。挙動不審一歩手前。安全のためには距離をおくのが最善策とは知りつつも、俺には前科があるもので、どうしても二の足を踏んでしまう。
 またあの冷たい、叱責すれすれの訴えを聞くのだけは絶対御免だ。かといって、このままの距離感で毎日過ごすのもキツかった。向こうは一切の悪気なく、二人羽織とかしちゃう奴なのだ。いや俺だって感化されちまったところあるけどさ。
 今ああいうことをやられたら絶対ダメだ。おそらく、俺が自分の尊厳を取り戻せなくなる事態に直面しちまう。

 もうちょっと考えろって冷たく言われたあの直後はさすがにぎくしゃくしたものの、それなりの時間をかけて、お互いに快適な、適切な距離で過ごせるようになっていたと思うのに。最近また近付き過ぎたのかも。問題はその近さに、今度は向こうも慣れてることだ。
 このまま我慢を続けても、いつかは飽和するような、嫌な予感がバリバリする。かといって上手に適切な距離を空ける自信もさっぱりない。その手の器用さは俺にはない。いっそ寝に帰る部屋を別に借りようか……いやいやここの世帯主俺だぞ。何で俺がおん出なきゃいけねえんだ!
 ここぞとばかりに奴が事務所を乗っ取りやがる未来が見えて憤然とした。眠気はますます遠ざかる。

 このまま諸々を無視したまんま、日常生活を頑張って送る。誤作動? 起きたらその時だ! 幸いなことに通常事務所にゃオスしかいねえ。ヒナイチさえ飛び出さなきゃ、理解を得られる確率が高い……そして録画されたり半田に共有されたり世間に流布したりして俺が社会的に死ぬエンド、なるほど地獄だ。

 じゃあやっぱり危険物を遠ざける。叩き出すのはフクマさんの手前難しい。建前でもコンビが浸透してしまった今や、世間的にもアウトだろう。我が家で距離を模索するしかねえ。とはいっても俺は相変わらず0か1の二極化行動系男子なもので、まず間違いなく異様に距離をとり過ぎて、早晩再びあの冷たい物言いに鞭打たれる羽目になる。そして振り出しに戻るエンド。何これ永久機関じゃん。

 行くも地獄。戻るも地獄。あれこれ俺詰んでねえ?

 外は白々と明けている。あ、今日なら洗濯できそうだ。もう今やっちまっとくか? どうせ眠れねえよこれ。
 ソファベッドから下りて、やたら綺麗に差し込まれたシーツを引き抜き適当に丸めた。洗面所まで歩くたった数歩の間にも、一日の疲れを覚えた身体は意識に空白を作ったらしい。完全無意識のまま、抱えたシーツに鼻先を埋めて、探していたのはあの匂いだ。洗濯機の真ん前に来て意識と理性と我を取り戻した俺は、そのまま床にヘッドバットを決め沈黙した。





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