Others | ナノ

 騒がしい街ではあるが、昼と比べれば夜はそれなりに静かだ。だから、何の前触れもなく空気を震わせた言葉に表せない悲鳴、初めて聞くようなでかさで事務所まで突き抜けてきたその悲鳴は、実によく響いた。建物中に聞こえたんじゃなかろうか。反射で身体が動いて、だから悲鳴の尻尾が途切れる前にはドアを開けていたと思う。

「何だ!」
「ロナルド君! 手を出したまえ!」

 血相を変えて、なのに悠然とソファに座りながら、きびきびと指示を飛ばす吸血鬼。何でそんな偉そうなんだ、てめえが来いやと瞬間こめかみにビキッときたが、よくよく見ればその薄い膝にはジョンがいる。主人の悲鳴に何かオロオロしてる。可哀想だろ何やってんだ。しかしこの状態ならしょうがねえから、譲歩して近寄ってやる。

「……何だよ。ゲームのデータ全部飛んだかよ」
「そんなの即死で声も出ないわ。いいから、手。手のひらだよ」
「はあ?」

 よく分からないまま目の前まで近付いたら、手袋を外したぺらい手から溢れんばかりの。

「……生クリーム?」
「そんなの直に乗せるわけないだろう。バカか君は。いいから早く、手!」
「呼んどいて何だ。殺すぞ」
「今はやめてね」

 隣に腰掛けて、言われたように両手を出すと「お椀の形にして」とかさらに細かく注文をつけられる。予想はしていたが、くぼませたそこに生クリームを落とされてうええってなった。いや違うってもう分かってるけど。

「あー助かった。ちょっとそのまま待っててね」

 人を体よくお椀扱いしておきながら、ゆうゆうと愛マジロを撫で始める砂おじさん。マジで殺すぞ。俺は勤務中なんだよ。

「普段もちょくちょく自分の都合で休憩とってるだろうが。1分くらい黙って待て」

 ジョンはお利口に待てて偉いね、とか、露骨に引き比べるような真似をしやがる。それ、兄弟とかでやったら戦争だかんな。いや、別に俺はクソ砂おじさんのガキでもジョンの弟でもないんだが……

 うっかり両手を拘束されて、どうにも手持ち無沙汰だ。やることがないので、膝に腹這いになって主人に身を任せるジョンを眺める。もうエターナル可愛い。信頼しきった、だらんと脱力した寝姿。その甲羅を、マッサージするように撫でていく繊細な指の動き。時折、こっちのお椀からクリームを掬っては、程よく伸ばして擦り込んでいく。丁寧に広く伸ばしては、凹凸に指を沿わせて塗り込む細やかな動きに意図せず目を奪われて、正味待ったのは1分どころじゃなかったけれど、意外にも全く苦痛ではなかった。

「ハイおしまい。あー……寝ちゃったか」
「……」
「しょうがないなあ。半端な時間だけど、ちょっとだけなら」
「……おい」
「あ、ありがとうねー。助かったよ」
「いや、どうすんだよコレ」

 ジョンに塗ってなお有り余るクリーム。出し過ぎだろ。何やってんだバカ。幸い何かこってりしてるから、指の隙間から零れ落ちるなんてことはない。

「捨てるのはもったいないから、使ってよ。君もそろそろ保湿ケア始めたら?」
「使えるか! 両手に出されて! どうやって塗んだよ!」

 顔突っ込めってか。ほんとに何でこんなに出した。マジでバカ。食器でいいだろ、一時避難させようぜ……とか提案しようとしたのに、ジョンをベッドに寝かしつけてソファに戻ってきた奴が、お椀からちょいちょいクリームを掬い出したから、ついその行き先を見守った。
 手袋外したまんまの自分の手に満遍なく擦り込んで、手首にまで回して、それでも全然減った気がしない。さあどうする気だよ、うっかりおじさん。高みの見物のつもりで黙っていると「ちょっとごめんねー」とか言って腕を捲り出した。俺のインナーの。

「おい」
「おや。いい乾燥具合」
「おいって、コラ」
「一回出したらどんどん劣化するんだよ、こういうのは。何が何でも使ってしまうぞ」

 俺を巻き込むな。
 なにムキになってんだ。
 何かお前、貧乏性になった?
 ラップしときゃいいんじゃねえの?

 喉元まで色々上ってきたものを、静かに飲み下す。別に俺が損する話でもない。物を大切に使うのはいいことだ。ソファに放り出された保湿クリームのチューブを見つけて、俺だったら力技で元に戻すけどなとか思う。この分だと、提案したら多分神経質に怒り出すだろうな。

 そんなことを思ってる間にも、家事全般は手際のいいクソ砂おじさんはてきぱき動く。
 目に見えてカサカサだったのか、真っ先に肘をやられた。触れてくる指先の感触がこそばゆい。身体を支えるには重宝するが、自分でも意識して触れることなど滅多にない部位。人に触れられるなんて尚更だ。すっ転んで擦りむいた時くらいか。それも多分滅茶苦茶ちっちゃい頃の話だ。
 体温で馴染むとろんとしたものが密着して、集中すると、なぞられた部分に微かに凹凸があるのが分かる。そりゃそうか。筋肉とセットで伸びたり縮んだりするもんな。甲羅にしていたように、その凹凸に沿って指は動いていく。ついでとばかりに腕にまで伸ばされて、ひやっとした。

「つめてえよ」
「すぐあったまるよ。君代謝良さそうだし」

 あっという間にもう片方も捲られる。一定のペースでクリームを掬い、伸ばし、擦り込んでいく指先は意外なくらい丁寧で、認めるのは何か癪だけど心地良かった。微妙にマッサージっぽくて、ぼうっと意識を飛ばしていたら、不意にゲラゲラ笑う声で我に返った。

「めっちゃ伸びてる! 渦巻いてる! ふ、ふ、冬毛だ、ファーだ、天然の……」
「蹴り殺すぞ」

 いつの間にか勝手に下の方まで捲られてた。ひとりツボにハマったクソ野郎が床に蹲ってひいひい震えている。腹に一発入れるのに丁度いい体勢だ。まあ足置きにもいい感じの高さだったので、薄っぺらなその背中に無断で露にされた足をどっかり乗せてやる。お、結構いい感じ。

 ぴたりと震えが止んで「かつてない屈辱」とか真顔で呟いた砂が崩れ落ちたので、すうすうする足はしばらくサラサラに包まれた。ぞろりぞろりとソファまで戻った砂は無言でのろのろ再生して、何かを立て直すみたいに静かにじっと座っている。おい早くしろや。膝にも足乗せるぞ。手が何か痒くなってきたし、いい加減限界なんだよ。
 囂々と催促したら、じとっとこっちを睨んで、無表情にお椀に指を突っ込んで、それから再度吹き出した。しつけえ。腹が立ったから、やっぱり膝にも乗せてやった。



「膝、かった。甲羅?」
「鍛えてんだよ。てめえと違ってな」
「膝小僧って鍛えられるの?」

 何かを振り切ったらしく、どっかり乗せてやった俺の脚では死ななかった。それよりもGパンの固い生地を膝まで捲ることに滅茶苦茶苦労していた。非力なおじさんってのは哀れだな。憐憫の情を込めて見つめる。あっさり途中で諦めやがったので、ズボンは半端なところで蟠った。その上から膝をちょいちょいと突つかれ、何を要求されたのか分かったから軽く曲げてやる。ちょっと勢いよく乗せたら砕けそうなガリガリおじさんのおひざは、多分5分乗せていたって砂塵に帰す。代わりに跨ぐようにして、だから砂の目の前に突き出す形になった膝小僧に、少しずつクリームが擦り込まれていく。捲り方が半端なせいで裾に隠れた部分には、細い指を駆使して潜り込ませてきた。やれやれ。

 片方が終わったので、もう片足も座面に上げる。久しぶりの体育座り。俺の関節は大活躍してるせいか、一番外側も酷使されてるらしい、結構乾燥していたっぽくて、膝だけでお椀の中身は順調に減っていった。

「わー。スネ毛で絡まって、お肌に入っていけないよう」
「俺のスネ毛から離れろ変態」

 こいつはやけにスネ毛に食いつく。自分にないから憧れがあるのか? これくらい普通だろ。ショットとかサテツだってこんなもんだ。お前の方がおかしいんだよ。ていうかマジでスネ毛に吸われてねえ? もうないじゃん。ああ。ついでって感じで結構あちこち塗り広げられたから、何か身体中がべたべたする感じ。これどんくらいで乾くんだ。

「良かったねえ。全身うるうるだ。イヨッ。お肌にも気を遣えるおイケ。この冬のモテは君のものだ」
「心がなさ過ぎて何ひとつ入ってこねえ」

 綺麗に使ってしまえたからか、最近妙に所帯染みてきた砂おじさんは何かめっちゃご機嫌になってる。鼻歌でも歌い出しそうだ。絶対やめろよ。こいつの念仏系鼻歌は精神攻撃の一種だ。警戒していたところ、まだお椀として掲げていた手を解かれて、残った分を手全体に広げられていく。

 何度も何度も繰り返し擦り込まれて、体の表面を往復していくその感覚。どんな曲面にもしなやかにフィットして、器用に使われてる、その指の、正確には指の腹の感触。これを知っている。どこかで触れたことがある。ぬりぬりと撫でられてる間、それを散々考えて、身体の中ではトップクラスで敏感な部分だからだ、手に施されてやっと分かった。

 こいつの指はアレに似ている。
 子猫の肉球。

 そんな可愛いものには心底例えたくなかったけれど、他にぴたっとハマる例えがなかったので仕方ない。ふにふに柔らかくて、何だかちょっとしっとりしている。

 自分の手とあまりに違うから、最初はちょっとびっくりした。慣れてきたら、マッサージみたいで気持ちいいなと素直に思った。手に塗ってしまったら、多分終わる。黙ってその感触を追いかけた。

 銃器を、自分の指先と同じになるまで触り続けた。構え続けた。自分の命を預けるために、市民の命を守るために。弾代は家賃と並んで優先順位1位タイ。次に衣装。次にメシ。風呂に入れなくても銃器のメンテは欠かさなかった。違和感がなくなるまで常に身体に沿わせて、感覚と体温を移して、だから今や、雪山とかそんな凍える場所でも手足と同じく操れる自信がある。消えない胼胝とか、固くなった皮膚は、目に見える俺の誇りだ。

 そういうものが、何もない手だった。

 さっきはGパンに爪がひっかかって死んでいた。いつだったか、コントローラーの連打が死因になったこともある。ビビるだけで死ぬから、傷を負う前に死んでしまうこともざらだ。負荷と感じれば耐えられない。切れても、裂けても、焼けても、潰れても、即座にリセットされる手だ。赤ん坊が、そのまま時だけ重ねたような。
 こいつが、やけに老けた印象の割に、どこか年齢不詳の怪しさがあるのは、種別や格好のせいだけじゃない。それなりに積み重ねられた内面と、傷ひとつない外面と。不可思議な齟齬が見る者を何だか混乱させるのだ。そうして、興味が湧いてくる。



 目線を上げたら、作業に集中してる面があった。隣に座ってはいるけども、ツラ突き合わせる形で向き合っているからその造りがよく見える。上から見下ろすような珍しい角度のせいだ、何だかちょっと見入ってしまう。ぎょろぎょろと大きさばかりが目立つ目玉が伏せられて、憎たらしく吊り上がる口元が大人しくつぼんでいると、印象はがらりと変わる。尖った鼻の影が顎にまで落ち、細く通った鼻梁が際立って見えた。普通あるはずの、横の膨らみが全然ない。鼻呼吸できんのか謎な仕様に、膨らむべきところがどこも膨らまず生まれてきたのかこいつはって思う。

 柔らかな指の腹が、表面を滑っていく。残っていたクリームを全体に伸ばされて、手の甲は比較的乾いていたらしく、さっと撫でられただけで、すうっと吸収された感がある。指とか手のひらは逆にいつまでも残っていた。向こうはそれを承知しているらしくて、肉球は繰り返し指の間を滑っていく。片手で支えて、もう片手の指全部を使って、親指から順番に、軽く捻るような動きを繰り返しては染み込ませようと滑らかに動く。指の関節がぱきんと軽く鳴った。

「痛い?」
「別に」

 いつからだろう。沈黙が気詰まりじゃなくなったのは。期待して赴いた城なのに、クソ雑魚過ぎたショックに疲れきっていた自分。事務所のドアを開けたら当の本人がいた衝撃と脱力感。その辺を乗り越えたら、後はどこまでも図々しいこいつに苛立ちとか怒りとかしか湧かなかったから、気詰まりだなんて真っ当な感情が湧いたのはどっちにしろほんの一時期の話だ。

 同居……じゃねえ、居座りに至った経緯が経緯なので、遠慮などするべくもなし、腹が立ったら気軽に殴る。こいつはこいつで毎日大小のイタズラを仕掛け、飽きもせず俺をおちょくり倒し、家のことをやって、美味いメシを作る。最近は、家にいつもおやつがある。乾燥した、長期保存ができる、店で買う奴じゃなくて、いい香りがして、味が濃くて、歯触りとか舌触り最高な、出来立てだってもらえるそれ。
 気が向いたら一緒に遊ぶ。こいつは退屈が何より嫌いだから、色んな遊びを知っている。遊びじゃないことも遊びにする。
 これも、こいつにしてみたら、遊びの一種かもしれない。

 指先は一貫して、やけに丁寧だった。最初に塗られた肘の部分がようやく乾いてきた気がして、袖を下ろしたいけどまだできない。拘束されている。柔っこい指先。右手をようやく終えて、左手に移った。本当にマッサージを兼ねている。親指の腹で手のひらの窪みを押されて、単に塗るんじゃなくて軽く力を込めて押してくる。何だろう。向こうは向こうで、自分と全然違うこの固さに思うところがあったのかもしれない。別に凝ってるわけじゃねえからな。
 右手と同じように、指の1本1本まで丁寧にされた。すっかりうるうる。室内灯を反射してツヤツヤしてる。

「おしまーい」

 満足げに言われて、離された手を、ほとんど脊髄反射でつかむ。どっちもべたべたうるうるだ。指の腹を押して確かめると、そこはやっぱりふにふにしていた。そういえば水仕事の時はマメにゴム手袋をして守っている。軟弱者め。
 言ってやろうと思ったのだ。猫は猫でも、逞しく外で生きてる野良猫じゃない。大人の手じゃない。生きるための厳しさも他人の悪意も何も知らずに、ただ甘やかされるのが仕事の、親から離れられない子猫の手だ。何ともてめえに似合いの話ってバカにしてやるつもりだった。

 いや。
 子猫て。
 肉球て。
 俺らの間で言葉にするには甘過ぎる単語に、直前にハッとなる。あっぶね。何を言うとこだよ。やらかさずに済んだ安堵に顔を上げ、固まった。
 何だこの状況。
 向こうの顔にでかでかとそう書いてあって、それでやっと我に返った。でもちょっと待て。そもそもてめえがおかしい。普通思ったよりめっちゃ出たからって、同居人に保湿クリーム塗りたくるか? そんな距離感で許されんのはもっと、ほら、違う関係性の奴じゃねえの? だよな? ん、あれ? やべ、どこまでOKでどっからNGなのか分かんなくなってきた。そういや「歯磨き粉出過ぎたからお前半分使いやがれ」みたいなこと、やっべ、俺もやってたわ。他にも「おおっと齧っちゃったけどそろそろお腹いっぱいだったからたい焼き半分あげるよジョォン!」とか。これは違う? そうか。
 何か喋れよオイ。



 静まりかえった部屋の中、かつてない低音で「いつまでそうしてるつもりだ」ってキンデメが言ってくれなかったら、何か取り返しのつかない事態が起こっていたかもしれなかった。人語からかけ離れた叫び声を漏らして、飛び上がるように手を離して、多分離す前に砂は砂になった。こいつずりいよな。騒動に目を覚ましたジョンが悲しげに鳴いて転がり寄って、そうしたら再生もそこそこに「起きたかいお寝坊さん、よぉし! お散歩行こっか」とかって無駄に明るく部屋を出て行った。

 後に残されたのは蓋が開いたままの保湿クリームのチューブ。全身べたべたうるうるの俺。死んだ目をしたキンデメ。死にてえ。いつもだったら部屋の窓を突き破る勢いで逃げ出してた。立ち上がろうとして初めて気付いて、死にたくなってる今。キンデメは気付いてるのか、水中ですーっと向きを変え、静かに後ろを向いた。それは同情か? 軽蔑か? 死にてえ。前屈みを誤魔化すようにロダン作考える人のポーズを決める。
 必死で考えたのは「今お客さんが来ませんように」ってそれだけだった。





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