Others | ナノ






 我に返ったら負けだ。一度しっかり目を閉じて、自分で自分に言い聞かせる。暗示というのは、上手くハマれば能力なしでも案外手軽にできるものだ。時間か集中力か、あるいは両方があれば誰にでもできる。数年間ゴリラゴリラ唱え続けて刷り込めば、華奢な青年だってマウンテンゴリラへと進化するものだ……なんてね。
 ところで私は今からその霊長類最強の生物を口説くのだけど。何のジョークだ。





「俺とお前、足して割ったくらいが丁度いいと思うんだよ」
「筋肉と頭脳の割合が?」

 とち狂った発言について意図するところをよくよく聞くと、女性をエスコートする場合ということらしい。何でそれでこのスマートダンディな吸血鬼にハムカツ男を足さなきゃならんのだ。何も丁度よくない。マイナスを足すな。

「19世紀仕込みのキザったらしいガリヒョロ砂おじさんは、日本じゃ浮きまくって仕方ねえだろうがよ」
「紳士的と言え。求愛といったらウホウホダンスの君にどうこう言われたくない」

 あと、ちょっとしたツッコミくらいの気軽さで私を殺す短気をまずどうにかしろ。さっきから何度拳を叩き込まれたか分からん。戻る隙すら与えられず塵のまま糾弾したら「お前が相手じゃなきゃ大丈夫なんだ」と言い訳をしよる。嘘つけ。最近は特に、何でも拳でゴリゴリ押しまくって解決してるだろうが。短気は君の性質だ。自覚しろ腕力ロナゴリラ。



 そんな話をしたのが数日前だったと思う。何で急にそんな話題を持ち出したのか、今夜になって分かった。

 うちのチャーミングな帽子掛けが隣でやけに騒がしい。出て行けば、事務所の床にゴリラのラグマットが出現していて死ぬほどビビった。皮だけじゃなくちゃんと肉がついてるから、分厚くてめっちゃ邪魔なんだけど。

「俺は冷蔵庫で忘れ去られたニンジンのしっぽ」
「入れ忘れて3分経ったカップ麺のかやく」
「片っぽなくなった靴下」
「ぬるぬるの浴槽」
「ゲボ……」


 おそるおそる近寄れば、鼻をつく臭い。ジョンが新横浜ご町内防災クッキング教室に出掛けていてよかった。マジロの繊細な嗅覚受容体がやられてしまう。
 酒とタバコの匂いを纏い、絵に描いたようなダメな大人が自己嫌悪で忙しくしている。読経のような自己否定は延々と続きそうなので、面倒くさくなってくるりと反転し出てきたドアに戻った。
 ……戻ろうとしたところで、勝負にならないレベルで膂力に差があるもんだから、暴力が具象化したようなゴリラに敵うわけがないのだった。構ってほしいなら素直にそう言え。マントを引っ張るんじゃない縊り殺す気か!

「話は聞いてやるから離せ!」
「ちっとは心配しろよおおぉ……」





「合コンねえ」
「食事会! どうしても紹介したいって、断れなかったんだよ」
「そして儚い夢を見た新品ルド君はいそいそ臨み、露と散ったのだった……ヴェ!」
「散ってねえ」
「あのさ、メンバー見てよく考えなさいよ。何で懲りないの? 君」

 いつもの同級生メンバーが絡んだ時点で疑うということを、いい加減覚えればいいのに。
 何か珍しくジャケットを着ていると思ったら、そういうことだったのか。どれだけ床に貼り付いていたのか知らないが、すっかり皺になってしまっている。そういうのを見ているとどうにも我慢ができなくて、剥がすようにして脱がせた。

 要はアレだ。女性と飲む機会を得て、そして結果はお察しというわけだ。例によって半田君のネガキャンが炸裂でもしたんだろう。そうでなくともこの5歳児に上手くやれるとは思えんが。5歳なのにプライドだけ成人男性だから厄介なのだよな。無邪気に振る舞っていれば相応にモテるものを、とんだ宝の持ち腐れ。
 しかし惜しいことをした。時間があればこっそり尾行して全てをデータに残しておけたのに。絶対最高の画が撮れたよ。待っていれば多分週バンで読めるだろうけど、舞台裏まで詳しく知りたい。後でカメ谷君に聞いてみよ。


「スマートになりたい……」
「大丈夫。あと3回くらい生まれ直したらきっと叶うよ」
「せめて挙動不審が直せたらオラァ!」
「ェベッ…………その前に暴力を直せ」

 今日は朝更ししてたからちょっと疲れてるのに。再生のキレも悪い。ロナルド君は相変わらず床に密着してて、私は塵と崩れてぐずぐず広がっている。なんて見苦しい光景。この事務所じゃお馴染みではあるが、今夜は辺り一帯めっちゃ酒臭い点でさらに駄目だ。タバコと相俟って酷いものである。

「おいドラ公」
「こわ。君が首関節も柔らかいの分かったから『エクソシスト』みたいなこと止めてよ」
「ちょっと自主トレに付き合え」
「絶対嫌です」

 文字通り砂袋に混ぜて蹴りまくるとかだろ。追いつめられた童貞はろくなことを考えない。水飲んで寝ろ。武士の情けでベッドメイクくらいしてやるから。
 のろのろと再生していると、意外にも俊敏な動きでダメな大人が起き上がった。

「起きられるならシャワーくらい浴びろ。おっさんの裏側の匂いが体現されてるから」
「あっちに戻るぞ」
「わあすごい。ノイズキャンセリング機能でもついてるのかな?」

 ロナルド君は決して酒に強いわけではないと思うんだが。何でこんなになるまで飲むんだろう。だから失敗するのでは?
 半ば放り投げる勢いで脱ぎ去られた靴を辛くも避けて、後を追うように居住スペースに移動する。リードよろしくマントを引っ張られているものだから、抵抗すらままならない。酔漢に逆らってもこっちが疲れるだけなので、とりあえず黙って言うことを聞いてやる。しかし風呂方面に進路をとったことを認めては黙っていられない。泡を食って叫ぶ。

「待て! 待て待てロナルド君! 君は今冷静じゃないんだ!」

 え。うそ。本気で殺される?
 まずい。ついに下水に流されちゃう悲壮な末路を想起して必死に抗うが、ミュートされたらしい私の声は酔っ払いには届かない。マジでヤバいぞ、ああ、ジョン! ジョオォオーン! いつも以上に容赦ない力で浴室に押し込まれ、助けを求める声は無情にも遮断された。嘘だと言って!
 風呂敷状態で包まれたマントごと空の浴槽にぎゅっと詰められ最高潮に達した恐怖は、直後に迷いない動作で栓をきゅっと排水口に詰めたロナルド君を見て少しずつしぼんでいく。どうやら、八つ当たりで退治されてしまうわけではないらしい。

「俺のどこが問題か」

 問題しかないだろ。何語り出してんだ。

 浴槽の滑らかな壁に限界まで背中を寄せて距離をとった。なるべく小さくなろうと体育座りをする私の向かいに、どっかりと詰まってくる肉体派退治人。殴る蹴るじゃ飽き足らず、圧死コマンドを追加する気か。

「顔に経験が追いついてない点だ」

 お。分析は意外と良い線いってる。
 確かにものは最上級なのだ。これでモテないってところに、外見の良さを中身が完膚なきまでに殺している現実が見えてきて切ないよね。顔面だけなら、物心ついた頃から彼女の切れ目はありませんって感じだものね。交際5年目の恋人がそろそろ結婚意識してるのは分かってるんだけどまだ自分は仕事に打ち込みたいとか何とか、そんな人生設計とキャリアプランに悩んでそうな若者に見えるもの。顔面だけなら。

「なら経験を積めばいい。そうだろ?」

 そうだね。
 頑張って積んでおいで。
 200回くらいフラれたら君の何が悪いのか、十分なデータがとれると思うよ。検証は半田君に頼むといい。きっと嬉々として詳細な分析をしてくれる。エクセルとか使って、几帳面な表を作って、プロジェクター持参してパワポでプレゼンしてくれる。あ、モバイル会員だし、今度はメビヤツ貸してあげよう。

「というわけで自主トレだ。付き合え」

 ……。
 …………は?





「短い間でしたが、お世話になりました」
「待てコラ忘恩の輩。家賃代くらい働いていけ」

 働いただろ! 家政夫の日給いくらと思ってんだ! 家賃払ってなお余りあるくらい働いたわ!

「浴槽で何の自主トレだ。事件が起こっても洗い流せる場所で何をしようというんだ。不穏な発想しかないだろ」
「いや、だって家中どこも人目があるじゃん。ここしかねえだろ」

 あ、思ってたよりまともな理由だった。
 どうも冷静さを欠いていたのはこっちだったらしい。不都合が起これば即流水で下水道に撒かれてしまうという予感が頭から離れなくて、つい。
 って、いや、いやいや。やっぱヤバいやつじゃないか。人目があったらまずいことする気か?

「何考えてんだ変態クソ砂おじさん」
「心外!」

 遺憾のあまり死んだ。
 溶けきれなかった入浴剤みたいに浴槽の底に溜まる私。足でお砂遊びをしながら若造は何やら囀っている。ああ、ぶっ殺したい……

「お前歯が浮きまくる口説き文句得意だろ。ちょっとやってみせろよ。アレ浴びてれば、色々耐性つく気がするんだよな」

 断固断る。何が悲しくて酔っ払ったオスゴリラを口説かなきゃならんのだ。

「ていうかああいう空気に耐えられず挙動不審になるチキンを矯正したいので御慈悲を恵みくださりやがれチクショー俺はイモ虫です……」

 うむ、素直でよろしい。
 城を破壊され単身果敢に事務所へ乗り込んだ当初は、テンションの落差についていけずに慄いたものだった。最近は慣れっこである。どうにもロナルド君という生き物は、1番になれなかったトラウマでもあるのか、能力の割に自己肯定感が底辺を這ってるちょっと気の毒な青年なのだ。
 風向きは変わり、恐るべきキングコングは今や無力なイモ虫と化した。恐るるに足らず。しかしこの状況、使えるかもしれない。かつてないネタが入手できる予感に、口の端が勝手に吊り上がった。

「分かったよロナルド君。気の毒な君に協力してあげよう」





「言葉に慣れれば何とかなるわけではないだろう。正に君が言った空気ってのが、一番大事なのだよ」
「くうき」
「雰囲気ね。それさえ作れたら後は勝手に何とかなるものだ」
「ふんいき」

 浴槽に男2人。向かい合って一体何を。虚無が過ぎってハッとなる。いかん。我に返りかけた。頑張れ私。このまま突っ走るんだ。私の鮮やかな手並みで不慣れな5歳児をころころと手のひらの上で転がし、高笑いを決めてやるのだ。

 殺すなよ、と前置きしてから距離を詰めた。膝を寄せるようにして目の前に来ると、その時点であからさまに緊張している青二才。えっもう始まってんの、掛け声かけろよとか何とかうるさい。ほんっとに耐性がないな。そっちから圧をかけてくる時は滅茶苦茶顔面寄せてくるくせに。ちょっと黙っとけ。
 しかしこうしてまじまじと眺めてみれば、全く腹が立つくらい端正な造作をしている。いつも白目をむいてるか瞳孔が開いてるかのどっちかなもんだから、日頃あんまり意識しないんだよね。

「髪に触れたいんだけど、いいかな?」
「へっ……いいいいいけど」

 泳ぎまくっていた目が合い、裏返った声が返事を寄越した。許可を得られたので腕を伸ばし、天然らしい癖っ毛をモフッとする。このふわふわ感はちょっとうらやましい。私のはどうもコシが強くて、こんな風に猫の毛みたいな柔らかさはないもの。抗いようのない偉大な血のおかげで、何をどうしたって一部分はびょんってなるし。
 んー。
 ベルベット……プラチナ……駄目だ、違和感しかなくて鳥肌ひどい。罵倒なら泉のように止めどなく湧き出すのだが。おつむと同様外側も綿菓子みたいにふわっふわだな、蜘蛛の巣でも頭に乗せてんのか櫛くらい入れろ、とかね。
 今は我慢。
 まあ、分かってたけど目を閉じようが暗示を頑張ろうが近寄るだけで熱気が伝わる筋肉だるまを女性扱いはできそうにない。言葉が出てこない。というわけで言葉に頼らず指先でどうにかしのぐことにする。さあ色事に耐性のない童貞ルド君が一体どこまでポンコツになるか、実証できるかな実験スタートだ!

「……」
「……」

 ハッ!
 いかんいかん。身体が勝手に面白いことを求めてしまうもので、無意識に目と手は枝毛を探していた。この短さでそんなものあったら余程洗髪の仕方が悪いのだろうな。栄養状態は満点のはずだ。なんたってこの私が管理しているのだから。
 気を取り直し、意識して撫でるように柔らかく手のひらを動かすと、さっきからやけに大人しい生き物に気付く。撫でられて静かになるなんて、さすがは年上のお姉さん好き。甘やかされたい願望がモロ出しだ。跪座の姿勢で触れていたが疲れてきたのでぺたりと腰を下ろす。落ち着きませんと書かれた顔を見て笑い出しそうになるが気合いで堪えた。辛うじて優しい微笑みに留まったと思う。

「……ンがッ」
 スナァ

 というのに。不意にこちらに手が伸びてきて、顔にゴリラの指先がかかる。何が起こったのか把握する前に、走った鋭い痛みのせいで塵と崩れた。





「何で? 何でそこで私の口裂くの?」
「怖い表現すんなよ……牙どうなってんだろって、見たかったんだよ」

 いわゆる「イーッだ!」状態。口の両端に指をかけられ引き伸ばされた瞬間はアメリカ産のB級ホラー映画みたいに口から真っ二つに裂かれて死ぬのかと恐怖に震えた。そして死んだ。唇ピッてなったし。この時期乾燥が一気に進むからな……保湿もっと気を付けよう。ジョンの甲羅にもクリームマシマシだな。


「いや、他者の痛みが想像できないサイコパスか? 今誰のために何をやってるか分かってるの?」
「だから悪かったって言ってんだろ。しつけえな……」

 駄目だこの酔っ払い。
 どうしよう。こやつが醜態を晒すより早く私の限界が来そうな予感がする。
 ネタか保身か、天秤にかけて悩んでいると、じりじりと距離を詰めてくる熱源。本当に体温が高いな。幼児か。

「いいからさっさと喋れよ。トレーニングになんねえだろ」
「どの口で……言葉だけでどうにかなるわけじゃないって言ったろうが。まず君はムードに慣れろ」

 せっかく醸造されかけていたのに。貴様の奇襲のせいで完全に霧散したわ。えー、またやり直すの、やだなあ。もう何か面倒くさくなってきた。
 でも今度はゴリラの方がやる気になってるらしい。そわそわもじもじ気持ち悪い。あと酒臭いなもう! 24時間換気されてる場所でよかったかも。酔っ払いの割に場所のチョイスは正しかったな。

「はぁ……もう君何もするなよ」
「分かったから早くしろよ。お湯張ってねえからケツがいてぇわ」

 知るか!
 目を閉じて気持ちを切り替える。あと1回チャレンジして、駄目そうだったら諦めよう。私の可愛さとジェントルっぷりにせいぜいへどもど醜態を晒すがいい。上手くいったら半田君に売りつけようっと。



 落ち着けるようにもう一度、今度は猫の背中でも撫でるように長いストロークで頭を撫でてやる。よしよし。いい子だね。頼むから何もするなよ。
 そのままの流れで頬を包むように顔に触れる。緊張が強くなったらしく、目元がぴくってした。おー、男にはもったいないくらいの睫毛群生地。長いというか、密度がびっしりしててキモいくらいだ。ブルネットだったなら、多分化粧いらずの眼力を発揮するはず。
 手袋越しだが頬がぽっぽと熱くなってきているのが分かる。本当に慣れてないんだな。だんだん可哀想になってきた。指の背で頬から耳元にかけて撫でて、耳回りを触れるか触れないか、髪を撫で付けて後ろまで辿り着く。肩まで手を下ろしたら大袈裟に跳ねやがるのでこっちまでちょっとびくってした。もう。

 意識して目を覗き込むのは初めてかもしれない。青いことくらいは知っていたが、浴室のライトのせいで広がった虹彩の、瞳孔に近い部分から外側へ広がる花びらみたいな模様が見えた。自分の目では見た覚えのないそれが興味深くて、片方の瞳に焦点を絞って覗き込む。薄らと濡れた表面に周りの光景が反射しているのが分かった。

「……ンヒィッ」
 スナァ

 あー、まだ緊張してるのか若造めが、瞬きがやけに増えたせいで見辛いぞ。そこまで思ったところで、唐突に伸びてきた指先に瞼をぎゅわっと押し広げられて死んだ。





「寝ろ」
「なんだよ、途中で放り出すなよ、お前の本気はその程度なのかよ!」

 本気も何も。もう帰る。棺桶に帰る。君は浴槽で寝て翌朝冷え冷えのバキバキになって目覚めろ。目玉抉られるかと思ってマジで怖かった。もう駄目。もう無理。ほんとヤダ。何なのこいつ?

「いや……こんな感じかなって、お前の真似してみたんだけど」

 私がいつ貴様の目玉を抉ろうとした。こんな感じかなって、君、億が一機会があったとしてお相手のレディにこの無体を働く気か。正気か?

「目ん玉でっけえなと思ったらつい……」

 ついで軽々しく人の急所に指を突っ込むな! 相手がコンタクトとかしてたらアウトだからな。事故の可能性すらある。

「え、お前コンタクトとかすんの」
「そんなもんするか。ていうかそもそも対象は私じゃないだろ」

 矯正とかじゃなくてもしてる人多いだろうが最近は。酔っ払うとメモリが激減りするのか? どうも記憶が片っ端から上書きされていってるらしい。目的を忘れているぞこの男。女性といい雰囲気作りたいんだろうが。もう絶対無理。無駄。手遅れ。今すぐ生まれ変わってこい。

「待て。あとちょっとで、何か掴める気がするんだよ」
「気のせいだ! 掴むって急所だろ! 」





 よく我に返らないな。変なところで集中力がある。なんだかんだ言いつつオータム書店と付き合いが続いているのも、最終的にはきっちりものを仕上げる力量所以だろう。私もう寝たいんだけど。やりたいこといっぱいあったけど、疲れたからもうとりあえず寝る。今夜まだログインしてないソシャゲとか鮮度が刻々と落ちてるだろう葉物野菜とかに思いを馳せていると、復習のつもりらしい。イカレポンチは私の肩に手を乗せてきた。砕くなよ。

「アレだろ。許可とって、さりげなくタッチして、距離を詰めるわけだろ」

 余裕余裕って笑う顔が強張っててめちゃ怖い。まとめるとそうなるけど、何だかな。何も伝わっていない気がする。私と君の距離感だからできたんだよ。今夜出会った人にいきなり「髪触っていい?」とか駄目だからね?

「あ、でも君の顔面なら許されるかも」
「えっ」

 ただしイケメンに限るってやつだ。君といい半田君といい、そのツラでなかったらとっくに社会的に死んでるぞ。世の不条理に少しばかりムカっ腹が立つ。

「お前ってさ、俺のこと、顔がいいって言うよな……」
「どんなにアレでも客観的な事実はクレバーに受け入れるタイプなんだ、私は。中身はともかく、表面は君、誇っていいレベルだよ」
「……ふーん……そっか……」

 今ので褒められたと解釈したのか? 普段ならすり潰されてる。これ記憶残ってたら明日何回殺されるか分からんレベルだな。お酒って怖い。
 アルコールが人に及ぼす悪影響に戦々恐々としていると、にへらと笑み崩れた酔っ払いが胸元に頭突きをかましてきた。

「ごへっ」

 私の胸郭が!
 あっと思った時には再び浴槽に降り積もっていた。砂浴びの要領でそこで寝転ぶ類人猿。ああああ。

「あー。お前ひんやりしてんなぁ」
「魔の永久運動止めてよぉ!」

 やっぱり怒ってるのか? 逞しい背にすり潰され続け、早々と再生を諦める。ハメ技食らったキャラクターはこんな気持ちなんだなあ。なるべく止めてあげよう。死ぬほどムカつく相手だけにしておこう。
 しばらく無の境地を噛み締めていれば、疲れたらしい5歳児が浴槽で大の字に手足を伸ばして動きを止めた。これ幸いと隙間から脱出を試みる。ここの浴槽はウサギ小屋にしては広い造りだから、ゴリルド君が手足を伸ばしてもまあ何とか収まる。その上で、横から私が生えても大丈夫。
 こっそり抜け出そうとしたのに、今夜はどこまでも絡み酒の気分なのか、マントを引っ張られて浴槽に逆戻りさせられた。マント、止めようかな。バッサーッてするのが畏怖い感じして好きなんだけど。

「……なに?」

 いつの間にか身体を起こしていたせいで、引っ張られるまましゃがみ込んだら思いのほか近いところで顔を突き合わせることになった。いよいよ言語機能を落っことしたのか、黙ったままじっと見られてちょっと落ち着かない。無表情だと、凶悪なまでに整った顔貌が際立つ。何か喋れ。君はいつもアホなことを言って、白目むいてるくらいが丁度いい。

「触っていいか?」

 喋ると酒臭くて台無しだな。ちょっと笑ってしまって、それで気が緩んだ。うっかり「いいよ」って言っちゃった。
 首根っこ引っ掴まれて持ち運ばれたり引きずられたり盾にされたり色々されたけど、ていうか改めて言葉にするとほんと酷い扱いだな……こんな風に頭に触れられるのは初めてだ。しかし悲しいかな、おっかなびっくりの腰が引けた触り方に再び笑いが込み上げる。私は我慢が苦手なもので、笑っちゃいけないって時に堪えきれた試しがない。息に紛れて「ウフッ」ってやったら案の定気を悪くしたらしい。手付きが途端に粗雑になった。ああもう。

「止めろ。せっかくまとめてるのに」
「このアトムのパチモンみたいなの、わざわざセットしてんのかよ」
「そこは癖毛だ。ほっとけ」

 ぱらぱら落ちてきた前髪を撫で付けるが、取れてしまったものは直らない。額に落ちかかる感触が煩わしい。整髪料を付けているから半端に固くてチクチクする。

 額を押さえようと腕を持ち上げていたら、その合間を縫うようにして若造の手が伸びてきた。今までが今までだったからちょっとビビって顔を背けたら、頬を固定されて強制的に向き直らされる。ここまで気安くしていいとは言ってない。首がグキってなっちゃうだろ!

「お前、目ぇ赤いんだな。暗い赤」

 知らなかったと呟く言葉には純粋な興味がこもっていて、ああやっぱりそこの造形興味持っちゃうよねって納得する。デリケートな話題だとは思うけど、正直面白いよね。身体の造り。君は目にお花が咲いてるんだよ。知ってた?

「ふぅん」

 互いに互いの目を観察するもんだから言葉が途絶えた。でも、あんまり居心地の悪い沈黙ではない。向日葵みたいな綺麗な虹彩を眺めているのは、繊細なガラス細工を鑑賞しているようでちょっと楽しい。両方の目に違いがないのか右と左と見比べていると、何だか焦点が合わなくなった。ふにっと何かが当たる感触。吹き込まれるように、濃い酒気と苦いタバコの残り香が届く。

「……」
「…………」

 多分全く同じ、お互いにポカンとした顔を突き合わせ、おそらくは結構長い時間、呆然としていた。負荷に耐えられずフリーズしていた脳がやっと再起動を果たした時には、奇声を発した原始のゴリラの拳により私は浴室に舞うダイヤモンドダストと化していた。





「訴えたら勝てる」
「ふざけんなバカ日頃の行い省みろバカ」

 かたや棺桶、かたやソファベッドで管を巻いている。いや私は別に酔ってないけど。向こうはお手本みたいな二日酔いらしい。頭痛が酷いとかで、立っても喋っても痛むと呻いている。なのに言われっぱなしは癪なようで、独り言だった私の愚痴に根性で言い返してくる。無理やり捻り出された声は平坦で気持ち悪い。もう黙ってろ。貴様がバカ。

 悪い夢だと昨晩は気絶するように眠りに就いたが、全然夢じゃなかった。せめて向こうの記憶が吹っ飛んでたらやりようもあったものを、私が起き上がるや否や硬直する不自然さ、ジョンも訝しがる挙動不審っぷりは誤魔化しようもなかった。ちっとはスルー技術身につけろやサル。勢いだけで生きてる猿人。合意もなしに一線越えちゃうレイプ犯。

 おのれ。
 こんなみっともない事情に周りを巻き込むわけにもいかず、消化不良で具合が悪くなりそうだ。慰めに抱っこしたアルマジロの温もりが癒しの全て。ああ、ジョンにぶちまけたい。私、ロナルド君に汚されちゃったって。困らせるだけだから絶対言えないけど。
 さらに困ったことに、全然悪い気がしなかったって自覚が私を蝕む。うっそだぁ。私はそんなにチョロくない。必死で抵抗するのに、死体みたいに寝転がって唸ってるアホの世話を焼きたくなる衝動がすごく邪魔。イタズラをしてやりたい気持ちと半々くらいある。吃驚だ。
 棺桶に引きこもって情報をシャットアウト作戦を実行したが、真っ暗闇ではプレイバックが止まらない。そんなわけで、今は蓋を開けている。

 何でこんなことになったんだっけってつらつら思い返してみると、アホのアホみたいな提案に乗ったことがそもそもの間違いだった。面白くなりそうとか思っちゃったから、内ポケットのスマホで記録をとっていたのだけれど、それがまた結果として何ひとつ面白くない。
 衣ずれの音に紛れてはいても会話はちゃんと録れていて、あの場では笑ってしまった問いかけは冷静になって聴いてみると何も面白くなかった。緊張した初々しい声音。応える自分の声は笑い混じりで、なのにどう贔屓目に判定しても嬉しそうにしか聞こえない。何だこの辱め。一夜にして黒歴史を築いてしまった。こんなもの残して死ねるか!
 なのに削除できない。何で。迷いに迷って保留する、そんな動きを昨晩からずっと繰り返して、それでまた消耗する。死にそう……

 あの綺麗な目を一番近くで見られるなら悪くないじゃんって思っちゃう自分とふざけんなって暴れる自分とがずっとうるさくて、疲れる。記憶を分担して分裂できたりしないかな。御祖父様ならできるかも。でも、多分無駄になる。何となく分かってしまう。おそらくどんな私にも、この感情は生まれてしまう。そんな気がする。

 ジョン、私に時間をおくれ。3日くらい引きこもって抵抗するから。とてもじゃないけど処理が追いつかなくて、オーバーヒート気味なんだ。どう足掻いても駄目そうだったら、そうしたら、開き直って楽しむことにするね。





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