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 古い屋敷だった。周辺の住民からは城と呼ばれている。
 どっしりとした石塀が道と敷地を明確に隔て、さらに屋敷の周りにはぐるりと堀が巡らされていた。かつては水が満々と湛えられていただろう底を、今はびっしりと植物が覆っている。堀の向こうにまず見えるのは鬱蒼とした木立だが、尖塔は木々を突き抜けるように聳え、屋敷の威容を示していた。昼でもなお薄暗い木立を抜けて近付けば、下草に侵食された石畳のアプローチが見え隠れする。屋敷を見上げればロマネスク様式を思わせる小さな窓と分厚い壁。半円状のアーチを戴く玄関ポーチは、半ば朽ちかけた今でも十分周囲を圧していた。
 この屋敷では人間と吸血鬼が暮らしていた。その意味を正しく知る人は、もう誰も生きていない。





「ロナルド君」

 旋律に乗せようとすれば途端にガタガタの音程になるくせに。日頃滔々と喋る声こそ歌うように滑らかで、朗々と響く。何かを語らせればなかなかに聞かせる、堂に入った演説となるのだ。心地良い声とよく回る舌。歌なら勝負にもならないが、悔しいことに口で勝てた試しがない。怪談も上手い。無駄な技能である。

「ロナルド君、朝だよ」

 何で分かるんだろう。こいつには時計を持たせていない。壁にもない。ここには絶対に日が差さないし、時を刻めるものは持ち込まない。

「ほら、何か食べておいで」

 何もいらない。寝ていたい。寝ても寝ても寝足りない。ずっと眠れない生活をしていた反動か、今はとにかく眠りたかった。





 誰かが暮らしていたにしては、屋敷は少しばかり奇妙だった。床は土足で入り込まれた跡や土埃、虫の死骸で酷いありさまだが、壁は綺麗なものだった。日焼けや亀裂、落書きといった傷みはあるものの、家具を配した痕跡が全くない。
 ホールからはどの部屋にも行けるようになっていて、玄関をくぐれば向かって正面に上階へと続く階段、その背後に隠れるようにして中庭へと抜ける細い廊下、脇にはそれぞれキッチンやトイレにつながる廊下が見える。キッチンには広い面積が割かれ、コンセントがあらゆる箇所に備えてある。にも関わらず、ここにも什器の類が置かれていた跡はなかった。リビングに充てられていただろう空間には、申し訳程度にソファがひとつ残されていた。侵入者の悪戯かもしれない、無惨に裂けた座面からすっかり黄ばんだスポンジが覗いている。洗面所やランドリールームは水の気配のためだろう、菌類と虫の侵略の跡が激しかった。





「お風呂に入りたいなあ」

 どこも汚れてねえよと教えてやるのに、そういうことではないと口を尖らせる。可哀想になって、外出した折に厚手の汗拭きシートを買い求めた。使用したところ、ドラルクはメントール成分の刺激臭で一拭きもしない内に塵と崩れた。忘れていた、こいつは何をしても死ぬ。セリフを噛んで死ぬ、蒸しタオルで死ぬ、昆虫が顔面に飛んできて死ぬ。
 当然ながら日光、銀、大蒜、流水、全部駄目。吸血鬼の弱点を全て混ぜ合わせ煮詰めたような存在である。ここには致命的なものは、そう、本当に死因となるようなものは何もない。だから油断していた。

 赤ちゃんのお尻拭きでリベンジを果たそうとしたのだが、複雑そうな顔をした吸血鬼が控えめな拒否を示したので、さらに買い直すことにした。今は、低刺激が売りの女性用の品を使っている。使ってしばらくは吸血鬼からほんのりフローラルな香りが漂い、屈辱的だと文句を言われたこともある。ピンクピンクした包装を握りしめてレジに並ぶ俺の方が辱めを受けていると思う。





「だって、あの子が悲しむんだ」
「それでおめおめ引き下がったのか」


 それぞれの方法で、私たちはあの子を愛している。師まで務めた男の怒りは想像以上に激しいもので、友人としては嬉しく、父親としてはやるせない。私は無力だった。

「あの子が望んだことなんだよ」

「愛玩動物に甘んじることをか」
「不出来だが私の弟子でもあるんだぞ」
「権利を無視して拘束することは許されん。一人前の男が、家畜のように人に飼われるのを許すとは」

 そうだ、あの子は一人前の男だ。
 自立した大人なんだよ。愛する人を自分で見つけた。全部を擲っても愛すると決めたのだ。何度も何度も話し合ったよ。でもあの御真祖様が引き下がったんだ。私に何ができる?
 八つ裂きにしてやることは容易い。そして、そうすれば、二度とあの子は戻らない。何とも業の深いことにね、既に分かち難く結び付いている。我々には待つしかできない。


 激動の時代を生き抜いた古い者たちは皆、基本互いに無関心だ。それは、裏を返せば自由を認め、干渉しないという主義主張に他ならない。ほぼ全員が「放っておけ」と意見を一致させた。変幻自在の変態は「小舅の小言は野暮ですよ」としたり顔で茶々を入れ、親友の怒りをこれ以上なく煽り立てている。

 どうにも我々は、精神状態が外見に及ぼす力が極端で敵わない。我が子を信じる気持ちに嘘はない。ただし落ち着いていられるかというとそんなわけがない。狂おしさのあまり、かつてなく見窄らしくなっている自覚はある。だから嫌だったのに。
 施錠してある扉を全てぶち破って来たならず者共は、好き勝手に意見をぶちまけ、結果室温を順調に下げてくれている。そろそろイシカナが火柱を立てるだろう。今度は何だ、天井が焦げるか部屋が燃えるか。どうなろうと知ったことか。どうせ誰も死にやしない。

 よれた髪が額を覆っているせいで視界がやけに狭いものの、冷ややかな視線が刺してくるのは痛いほど感じた。顔を背ける。凍てつく瞳は何もかもを蔑んでいた。こうなったノースディンはもう言葉を発しない。膝を冷気が這い上がる。


「ノース。ノースディン、我が友。この世で最も耐え難い悲しみとは何か、知っているか?」

 それさえ避けられるのならば、もう私はそれでいいんだ。

「我が子を亡くすことだよ」





 何とも珍しいことに、ジョンが傍にいない。

「友人のところだよ。気晴らしに行っておいでって勧めたんだ。長いこと、つきっきりでいてくれたし」
「そうか」

 吸血鬼は自力で寝返りさえ打てない。甲斐甲斐しい使い魔は、毎夕優しいノックと呼び掛けで主人を起こし、髪を梳り、温めた柔らかなタオルで顔を拭ってやる。身嗜みが整えば俺は入室を許される。そうして「今日もいい夜だね」と話しかけられるのだ。
 ジョンは俺を責めない。それがかえってキツかった。

「……そうか」

 主人に尽くすことが喜びなのだと言う。あの一途な想いはどこから湧いて出るのだろう。考えると胸がつまりそうになる。こいつはこいつで不思議だった。クソガキとオッサンを混ぜてこね回したような存在のくせして、時々変に母親っぽい。優しく、寛容で、慰めと労いを欲しいだけくれる。でも、母親じゃあり得ない。

「戻ったら、迎えに行ってあげてね」

 分かったと返したら、何だか物言いたげな視線とかち合う。いつもジョンと共に在る右手が所在なげにしていた。掬い上げると指先がピアノでも弾くかのように手のひらを叩く。手袋を剥がすようにして脱がせ、肌に直接触れると、目元が震えた。奇妙なことに、離れ離れになっても、きちんとひとつの身体らしい。





 近所の子どもたちの間では格好の遊び場で、誰もが知る秘密基地だった。どうやって堀を越えるか、どこの窓から忍び込めるか、尖塔までどうやって登るか。公然の秘密として、世代を越えて子どもらの口から口へと伝わっていた。同時に、屋敷にまつわる様々な怪談もまことしやかに語り継がれていた。

 生首と語る男。廊下を這い回る手首。屋敷の中を音もなく移動するアメーバ。勝手に転がっていくボール。誰も見たことがないような奇妙な生き物。友だちが、友だちの、友だちから、兄ちゃんの、姉ちゃんの、弟が、妹から。

 それも今年を境にやがて消えていくはずだ。既に公費での解体工事が決定していた。
 時勢だった。事件の起こるタイミングも悪かった……いいや、よかったのかもしれない。
 夜になっても子どもが帰らない、震える母親の訴えに警察と住民が総出で捜索し、果たして子どもは城で発見された。入り込んで寛いでいる内に眠り込んでしまったのだ。何事もなくて良かったと喜ぶ反面、この城さえなければと住民は憤った。署名運動を地道に続け、町議を動かし、城を更地に返す計画が立ち上がった。
 ただ不思議なことに、この城の所有者を確かめようとしても、誰も辿り着けなかったのである。登記簿に記載された名を調べようとしても、住民票にない、既にこの町を離れた、そんな人間がいた記録はない、追いかけた先々からの回答は様々だったが、いずれも行方がつかめないという点は一致していた。確かにその者がいたという証拠となるものが、ない。その結果に関係者は一様に同じ推測を抱いたが、人ならざる者が関わっているとの証明も難しい。住民と行政と裁判所と、最後には関わった全員が多大な後悔をするほどの手間はかかったが、法に則り手続きはなされた。間もなくここに、だだっ広い、のっぺりとした、つまらないただの空き地が現れる。





「人は寝過ぎても良くないのだよ」
「そうかよ」
「肉体にとってはね」

 太陽が巡るサイクルで動いてきた古い記憶が身体に残ってるんだよ。私たちも逆転しているだけで似たようなものだからね。

 寝床にはこいつが気に入りの繻子を張らせた。けれど俺の手がガサガサなもんだから、こいつを抱え上げたり寝かせたりするその度にしょっちゅう引っかかり、滑らかな布地の美しい紋様が、ところどころ引き攣れたようになってしまった。苦い顔で見下ろしていると、腕の中の吸血鬼が機嫌が悪いのか問うてくる。そんなわけがない。

「今が一番心安らかだ」

 だってお前はどこにも行かない。俺が絶対行かせない。

「そうだねロナルド君。私は君の傍を離れない」

 違う。離れられないのだ。自分勝手の独りよがりを押し通し、こいつの意思をねじ伏せて、共にいることしか選ばせなかった。なんて惨い仕打ち。だのに、何故か今に至るまで恨み言のひとつもこぼさない。

「過ぎたるは及ばざるが如し。寝過ぎても人の身体は駄目になるのさ」

 まあ、寝ない方が死ぬけど。この一言のために長々と蘊蓄を傾けていたらしい。呟いて、目を閉じる。腕に抱き込むと苦しそうにするので、いつもの寝床に戻してやる。やんわりと睡眠を要求されて、寝かせないわけにはいかなかった。負担をかけた覚えはある。





 屋敷周辺の子どもらは、程度の差こそあれ皆屋敷、もしくは敷地内に忍び込んだことがある。ただし、地下室の存在に気付いた者は誰もいなかった。造られた当初は精密なオートロック機能が配された入口を、誰も通らなくなって久しい。仮にかつての住人が生きていた当時に入り込めたならば、よく観察すれば、ある部屋の絨毯だけ不自然な擦れがあることに気付けたかもしれない。今はもう、一面土だか埃だかに塗れて、這いつくばって調べようという物好きは現れない。工事の手が入れば明らかになるだろう。この全く生活感のない屋敷の住人が、日頃一体どこで暮らしていたのか。



 堀を越えて屋敷へ向かう正規の通り道は、錆び付いた背の高い門扉に封じられている。悪戯者がよじ登ろうとしたのか、絡みつく蔦の類は中途半端に千切れ落ちていた。とてもスムーズな開閉は望めないと思われた門は、しかしすんなりとレール上を滑り最後は重々しい音を立ててストッパーで止まった。主人が帰還したかのように。

 なるほど、夜に紛れて影のように、何かが内側へ進んでいく。重みがないかのように移動するので、見る人があれば霊か妖か、とにかく尋常ではないと腰を抜かしたであろう。幸いなことに、真夜中をとうに過ぎ、夜明けにも遠いこの時間出歩く人はいなかった。ここは決して都会ではなく、むしろ少しばかり辺境の土地なので。



「そうかあ。こんな風になってたんだね」

 ほら、私大抵首だけだったから、ずっと抱っこされて移動してたし。天井とか床とか、ろくに見てなかったんだよね。ロナルド君のセンス悪い服ばっかりよく覚えてる。

「ギャッ! キモい虫!」

 あっぶな。びっくりしたなあもう……こんな汚いところで死ぬなんて絶対勘弁。ゴミが混ざりそう。わーぼろぼろ。埃すごい。足跡もほら、こんなにくっきり。子どもの靴かな。滅茶苦茶不法侵入されてるじゃないかロナルド君。家主の威厳形無し……あれ、所有者はもう書き替えてたか。アホなくせに、そういうとこ、意外とちゃんとしてたもんね。

 影は陽気に喋りたくり、暗い室内を灯りも点けずに進んでいく。胸に何かぬいぐるみのようなものを抱き抱えて、口調とは裏腹にそれを抱き締める腕は縋るように強い。

「お墓参りだね。一種の。ちょっと面白いじゃないか」

 私はこうして生きてるけど。ここで一度死んだんだなって思うとね。いや何度でも死んでるけどね。何て言うのかなあ……肉体が死ぬのではなくて、周囲との繋がりが断たれるのは、社会的な死と言っていいんじゃない? ひとつの社会で確かに私という個体が断絶されてしまったもの。ある意味埋葬されて、別れを告げられて、誰とも会えなくなって、誰からも認識されない、あそこで確かに私は死んだんだよ。でもそれで良かった。すんごく不便だったけど、ちょっと幸せだったんだ。



「まだあったんだね」

 小さな棺桶だった。子どもだって入れない。せいぜい赤ん坊だろう。それにしても丈が寸足らずで、そのためか全く棺桶らしく見えない。蓋を取れば、内側には色こそ褪せているが美しい繻子が張られていた。つるつるとした肌触りを思い出して吸血鬼が目を細める。かつて、己の首が寝床としていたものだった。

「持って帰ったら、嫌がるかな」

 使い魔に尋ねるも、激しく首を振られて苦笑する。

「そうだね。止めておこう」

 残念。私は気に入ってたんだ。ちょっと体力的にキツい時もあったけど。でも嬉しかったから。腕の中で使い魔が頷いた。知っていると言わんばかりに。





「あなた疲れてるのよ」

 ふざけ半分、心配半分。俺が弱っている時はここぞとばかりに悪戯を仕掛けるくせに、洒落にならないくらいへこんでいると妙に優しいのは昔からだった。確かに疲れている。身体はどうとでもなる。問題は中身だった。

「眠りなさいな」

 そのまま子守歌を歌おうとしたのでそれは物理的に止めさせる。色々とどうでもいい心境だが耳障りな音を好んで聴きたいわけではない。今日のドラルクは調子がいいようで、嵩が少ないくせにうまいこと小動物っぽい何かに変身している。しっぽがきめえ。結局、成功した姿なんぞ一度も拝めなかった。


「お前に返したいものがある」


 ずっと言わなくてはと思いながら言えなかった。出てしまえば案外簡単だ。ドラルクは「そう」とだけ返事をした。感情の読めない、いつも通りの軽やかな声だった。





 屋敷を出た影は高台の墓地に向かった。今度は本当の墓参りだ。短い生を駆け抜けた夭逝の兄妹を弔いたかった。銀の髪と青い目の、大層美しい見目をお揃いで持っていた、3人の兄妹は皆長生きしなかった。短いながらも閃光のように激しく、眩く光って、そしてあっという間に消えていった。吸血鬼はその儚い残火をいつまでも惜しんでいる。

「真ん中の子は割を食うって言うよね」

 ロナルド君は大変だったなあ。よく頑張ったよほんとに。

 兄と妹を相次いで亡くし、それぞれに精一杯の見送りを果たし、遺品の整理や死に伴うありとあらゆる手続きを並行して済ませ、その間に自分も生きなくてはいけない。はち切れんばかりに命の漲っていた、あの健康の塊からみるみる肉が削げていくのを、一番近くで見ていたのはこの吸血鬼だった。
 当時は、恨み言をこぼしたくもなった。どうして死んだ、どうしてそんなに早く逝った、どうしてこの男だけ置いていったのだ。
 今は、穏やかでいられる。

 結果だけ見れば、この役目のために残ったのだと言わんばかりの晩年だった。後始末を全て終え、自らの幕引きまできっちり手配し、弟であり兄でもあった真ん中の男は上と下より少しだけ生き長らえて、そうしてこの世界から消えた。

 墓に向かって一礼する。胸にあるのは純粋な弔いの気持ちと、ほんの少しの罪悪感。心を込めて語りかける。

「弟さんのこと、お兄さんのこと。いつか必ずお返しします」



 墓地を出ると、音もなく、背後から巨大な塊に擦り寄られる。細い腕を目一杯伸ばして、あやすように撫でた。
 薄っぺらい影を呑み込まんばかりに身体を押し付けるそれは、四つ足の巨大な獣のようだった。人によっては角を持つ生き物にも見える時があるらしい。ドラルクにとっては専ら銀色に光る、しなやかなネコ科の大型獣だ。人だった頃の心優しくて力強い、バカみたいにひたむきだった性根が影響しているのだろう。いつも猛々しくも美しい獣の姿で傍にいる。
 血を分け与え、人としての姿も在り方も何もかもを引き剥がした。ロナルドという退治人は、今やこの世のどこにも存在しない。名前だけは長いこと残っていて、きっと今後も細々と語り継がれるだろう。著作物はまだ流通している。
 常ならば吸血鬼の傍を片時も離れない。ただし極端に苦手なものがあって、そうした場にドラルクが足を向けたり関わろうとしたりすると、目に見えて不機嫌になり、どうにか足止めをしようとあらゆる手を尽くし、それでも止められないと分かると耳を伏せ尻尾を垂らしすっかり悄気てしまう。
 例えばあの屋敷。この墓地。それから、ドラルクの血族。

 分かたれたとはいえ、残っているのだろうなあとドラルクはいつも気の毒に思う。思いつめやすい性格はそのままだ。言葉を持たない獣が故に、その思いの発露は真っ直ぐで、それでついつい絆されてしまうのだった。

「ごめんね。待たせたね」

 いつかはこの人の子を、人の世に返す。この身が滅べばすぐにでも。けれど消えて無くなるまでに、願わくばもう少し早くに。必ず、本人に返さなくてはいけないものがある。





「好きなところに行けよ」

 付き合わせて悪かったな。
 自分自身こそ真昼のように眩しいくせに、何故か眩しいものを見るように目を細めて、ぬけぬけと抜かす。思わずビンタした。予想以上の痛みにまんまと塵になる。ああ、これこれ。久しぶり。腕が、脚が、私のいうことをちゃんと聞く。自分でも認識できない程に微細な部分が手と手を繋ぎ結び付いていく。完全に形を取り戻しても床に転がったまま、ゆっくりと伸びをした。

「君さぁ、本気で言ってたらサイテーだよ」

 DV。モラハラ。訴えてやる。
 力なく蹴ると脚を掴まれた。痩せたとはいえ腐ってもゴリラ、握り潰されるかと身構えたところ、オオカミは卵を割らずに咥えて運ぶことができる、不意にそんなことを思い出した。何でって、暴力の権化みたいな男があんまり優しくくるぶしを撫でてくるからだ。ふくらはぎまで滑ってきた手にぞわぞわして、うっかり再び塵の山を築く。
 のろのろとやる気なく再生していると、ジョンがマントを運んで来てくれるのが見えた。さすがだ。


「君、勘違いしてるよ」
「……何を」

 私に謝ることなど何もない。ジョンには地面に頭がめり込むまで土下座してほしいけどね。

「ああ、そうだよ。だからお前にも……」
「はいバカ。なーんも分かってなーい」

 マントを纏って立ち上がり、少しばかり昔の剣呑な顔つきに戻った若造に指を突きつける。おやまあ、真正面からまじまじ見ると、それなりにちょっと老けたこと。しかし私からすればこやつは永遠に青二才。

「君が私に何かを強いたんじゃない。私が君を手離す気がないのさ」

 そうでなければ君なんてこうだ。指先をパッと弾けるように開いて見せたら、面白い顔芸を披露してくれる。「ハァ?」って表情に次いで「ああ」って納得し、その後自己嫌悪で忙しくしている。血の気が引いたかと思えば真っ赤になったり忙しない。様々な感情が湧いては爆発して内側で飽和しているのが手に取るように分かる。とりわけ愉快なのは、歓喜の色がちゃんと見えたこと。それを結論と受け取った。





 どうしても気が済まないのだと言う。だから、契約をしようと持ち掛けた。


 ロナルド君はもういない。在るのは彼に由来する根源的な生命の灯火だけ、原始的なエネルギーだけ。人によって見える姿は違うのはそのせいで、鈍い者には目に映すことさえ難しい。近くに寄れば、何か熱いな、くらいには感じ取れるらしいけど。
 人としての思考、積み重ねられた記憶、外側の新しい脳が生み出す何もかもは私が預かっている。おかげでこの身体はいつでも人のように温かい。さすがに直射日光はしんどいが、耐えられないこともないし、反射して室内に入り込んでくる程度なら少し怠くなるくらいで済む。

 便宜上「ロナルド君」と呼び習わしている美しい生き物。私はこっそり後ろにかっこ仮と付けて呼ぶ。ロナルド君(仮)が基本的に私の傍から離れないのは、もともとひとつだった自分の一部に引かれての行動だ。私が私の一部だった塵の傍から離れられなかったのと同じ理屈である。
 そうでなくても、私は離れたりしなかったけれどね。
 自分の目の届かないところであっさり命がすり抜けていく感触を、彼は二度と味わいたくなかっただろうから、甘んじて引き受けただけだ。恋人のワガママを聞いてやるくらいの甲斐性はある。ジョンには悪いことをしたけど。向こう100年くらいはきっと頭が上がらない。

 あとどれくらい生きられるか正直なところ分からない。人の世界も段々と余裕を無くしていて、吸血鬼にとって少しばかり物騒なのだ。都市部以外に今はもう人はめっきり少なくなって、ここは比較的長閑だけれど。思い出の場所がまたひとつ消えてしまう。ほんの少しだけ寂しいと思ったり、ロナルド君(仮)が嫌がる場所が減ってちょっとすっきりもしたり。


 美しい毛並みを撫でる。途中でついつい遊んでしまうせいで、ブラッシングにゆうに1時間はかかるが、滑らかな体毛に埋もれてとろとろと微睡む時間は誰にも譲れない至福のひと時だった。ああ、ジョンは別として。

 とても深く傷付いていた心は内側で懇々と眠っている。丸ごと存在を引き受けてくれる身体に包まれて、少しずつその傷を癒している。多分、そう遠くない内に、すっかり回復して戻ってくるんじゃないかと少し期待している。だって。内側でとことこと胸を叩く鼓動が。本来恐怖しか覚えない日の光を見て身体に満ちる力が。何よりひとつの塊のようになって大きな獣と一緒に過ごす時、胸を突き上げてくる歓喜の思いが。まだ生きたい、一緒に生きたいと懸命に叫んでいる。

 ロナルド君はもういない。もっと正確に言うなら、ロナルド君はまだいない、だ。

 囁くように呼んでみる。思い立ったら何度も何度も、表面をいたずらに波立ててみる。無理強いはしないけれど、変に気を遣って出て来られないなら、手招いてやるくらいしてやってもいい。本当に、世話の焼ける若造だった。

 ねえ、早く戻っておいでよロナルド君。君に殺されない日々は平和だけれど、やっぱり何だか物足りないんだ。

 自分でも最奥が分からない深い無意識の層から、水面に。小さな泡がふつりと立った。





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