Others | ナノ






「今夜は如意菜をお願いしよう」
「むういーつぁい?」
「ルゥーイーツァィ。家庭で作る、ある意味超高級野菜だ」

 繰り返してやったが、きっと書いてみせた方が分かりやすい。言葉の通りモデルは孫悟空の如意棒だ。君にぴったり、とか内心思ってくふくふ笑うも、慄いた風の「……作る?」に我に返った。いかんいかん。今の彼は、私の役に立ちたいだけの健気な5歳児。そしてクッキンレベルはマイナス99である。

「ちがうちがう、調理じゃない」

 モヤシの種があったところと、根の先端を取るんだよ。口当たりがよくなるから。ほら、こうやって。

 通常のゴリルド君なら「面倒くせえ!」とブチ切れそうな課題だ。今は、カウンターを挟んだ私の実演に「分かった」と素直に頷き、大人しく流しの前にやって来る。水に浸かったボウルいっぱいのモヤシに真剣な顔で相対し、不器用な手付きで1本ずつ拾い上げていくのをこっそり見守った。私の動きをなぞろうとして上手くいかないそのたどたどしさに噴き出したくなるが、ぐっと耐える。今は、笑いものなどにすればダメージは全部こっちにくるのだ。





「ドラルク、いつもありがとう」

 ある夜パトロールから帰って来たロナルド君が、突然母の日みたいなことを言い出した。
 日頃犬か何かのように私を呼び習わす彼が正しく名を呼んだので、それだけで少しびっくりしていたところ、続いた内容が輪をかけて異常だったので持ち堪えきれず砂になる。


「これ何ルド君なの? 頭打った? ドッキリ? 吸血鬼己の身の程を知れとか出たの?」
「あっ惜しいです」
「いや惜しくはねえだろ」
「……」

 今夜は脳筋トリオで仕事に当たっていたらしい。確実に正気ではないロナルド君を送ってくれた2人によると、吸血鬼孝行のしたい時分に親はなしの仕業らしい。
 なんて?

「親孝行できずに親を亡くした悲しみから覚醒したとかで、みんな思わず親孝行をしてしまうんです」
「今のところ全く害はない恐るべき吸血鬼だ。ちなみに、普段から親孝行してる奴には効かねえらしい」
「ちょっと待ってちょっと待って処理が追いつかない。私ロナルド君に親認定されてるの?」
「……」

 聞き捨てならんぞ。ゴリラの息子を持った覚えはないが、客観的に見たら割とお母さんなことしてる自覚があるだけに屈辱はより深い。ていうか彼には育ての親を立派に務め上げた童顔隊長兄貴がいるだろう!

「どうも距離が関係してるみたいで」
「親以外なら、一番近くにいて親認定された奴に発動するっぽいな」

 これで確信が持てた、報告してパトロールに戻ろう。まだ能力の全容が分からないから、ロナルドは事務所で待機してくれ。結局捕まえたのお前だしな、今日はもう休めよ。
 テンポよく交わされる会話に口を挟む隙がない。何らかのステータス異常ルド君は突っ立ってるだけだし。最後は脳筋コンビにバッと見つめられて「俺たちはこれで」「じゃあ、頼むな」とよろしくされた。待て待て頼まれたくないんだが。置いていかないで! 何か居た堪れない予感がする!



「……で? いつ戻るんだね。何か聞いてる?」
「それは今調べてもらってる」

「あー。もう寝るか?」
「や、何かあるなら食いたい」

 いたって通常の会話だ。ガタイのいいゴリラによるもじもじプルプル落ち着きない挙動を除けば。素直になれない中学生か? こっちも落ち着かないしシンプルに気持ち悪い。まあ何かしら解除条件はあるはずだ、連絡があるまで探りながらやり過ごそうとジョンと頷き合った。とりあえず夜食だ。作り置いていた根菜たっぷりスープカレーを温めようとキッチンに立つ。と、背後から熱気が迫ってきた。

「……何だ何だ近い!」

 夜とはいえ、日当たり良好の建物は昼間の熱気を溜め込むらしく室温はやや高い。冷房を入れるほどではない微妙な気温だが、ただでさえ体温の高い筋肉だるまに寄られるとうげっとなる。上着も脱がないもんだから尚更暑苦しい。そんなに飢えているのか?

「すぐにできるから、とにかく着替えろ! そして手を洗って来い」
「う……っ、がッ……ハイ」

 何かを言いたいのだろうが、能力のせいで抑圧されたらしい。言葉を上手く操れない怪物のようにどもりつつ、見ていて怖くなる凄まじい顔芸を繰り広げたのち、ぎこちなくキッチンから出て行った。正常だったら多分「いちいちうるせえ!」とか「口やかましいオカンか!」とか噛みついてきたであろう。

 その後、ざっと湯まで浴びてきた彼は食卓に並んだ食事を前にして「いただきます」と手を合わせた。子どものように目を閉じて唱えられた挨拶に身体がぞわぞわする。決して悪いことではない、むしろごく当たり前の作法なのに、この若造が私の提供したものにという状況で披露されると違和感しかもたらさない。身構えていたら「ごちそうさまでした」も来て、やっぱり鳥肌が立った。


 食事の挨拶だけじゃない。起きたら「おはよう」を、寝る前には「おやすみなさい」を私を探してまで必ず言うようになった。「行ってきます」を素直に言うようになり、「ただいま」を私にまで言いに来るようになった。
 初めこそ気色の悪さに軽く死にかけたが、慣れれば大したことはない。何だ、行儀が良くなるだけなら全然構わんぞ。そんなふうに考えていた時期が、私にもありました……いいえ、それだけではなかったのです。





 だから近いって。
 もはや文句を言う気にもならず、ただただげんなりする。力なく押すと黙って身を引いた。引いたけど。あああこっちを見るな……

 兄弟揃ってちんちん丸出し系の子どもさんだったことは知っているが、いや別に知りたくもなかったのだけれど、どうやらロナルド君は甘えん坊の気もあるらしい。知りたくなかったPartII。とにかく距離感がバグったまま戻らない。まあ、常日頃から兄妹への盲目的な愛情を表現して憚らないし、家族愛豊かな男なのだろうとは思うが、ここで発揮されてもひたすらに困る。趣味に没頭するにも家事をこなすにも、嵩張る図体が傍らにあるせいで滅茶苦茶支障が出ているのだ。もしやこの男、実は能力の影響なぞ受けておらず、ここぞとばかりに普段の仕返しを目論んでいるんじゃなかろうか。いや、それはない。それはないが……


 一斉にかかっているように見えても、影響される度合いは人によってまちまちだ。ロナルド君はしょっちゅう被害にも遭うが、退治人としては腕がいいし根性もあるのでそこそこ抵抗力が強い。今も影響下にあるのは間違いないが、抵抗する力と拮抗していると見え、段々と素が覗くようになってきた。
 そんな時は顔に「不本意極まりない」と書かれたガチギレモードである。それでいて親に纏わり付く子どもみたいな振舞いをするもんだから、こちらは殺人鬼に張り付かれているような嫌な緊張感がある。勘弁しろ。

 なのに突き放せば、それこそ親に見放された幼児のような寄るべない表情をするのだ。正直すっごく心に刺さる。今回は私、何も悪くないのに!

 集中している間はまだいい。その瞬間だけならな。ゲームだったら特に動き回る必要もないので、鍋の蓋を取ろうとしてゴリラの胸板にぶつかるといった接触事故も起こらない。
 ただ理不尽な設定、回避不可のトラップ、システム上の進行不能に立て続けに出会えばいかな私でも叫び散らしてゲーム機やコントローラーを投げ出したくなる時もある。壊れるの嫌だからソファにだけど。いい加減にしろブロビー! あの雪だるま! お前お助けキャラだろうがプレイヤー突き飛ばして死なすの止めろ!
 いや取り乱した。でもそんな状況下でダッコちゃん人形よろしく張り付くゴリラだぞ。気付いてしまえばもう無理だ。気になること山の如し。ゲームどころじゃないし、ノーミスクリアを掲げておきながら青二才の見ている前で操作ミスでもしてみろ、私の一流ゲーマーとしてのプライドが砕け散る。

 同じ屋根の下にいようと、基本的にロナルド君は事務所、私は居住スペースにいて、それなりに住み分けができたからうまいこと回っていたのだ。


「結局無害どころか世界が平和になるとか言って無罪放免だし。仕事しろ吸対! VRCも!」

 誰も真剣に解除条件を探ろうとしないものだから、当の吸血鬼も解除の仕方が分からないときた。こうなったら私たちだけでも世界のためにまともに働くぞ!

「ぐぶぶ……お主のためだろが」
「そうだ! 文句あるか! 助けろください!」

 こんな時は事務所一頼りになる常識魚、吸血デメキンの出番であろう。ちょっと高級な血塊エサをチラつかせ要求を押し通す。水槽に縋り付いて慈悲を乞えば、デメキンはしばらくぶくぶくと考え込んだ。あっジョンまだ入れちゃダメ。

「……親孝行を済ませた者たちは、どうなったのだ」
「済ませる? いや、それは聞いてないな……」
「おそらく、それだ」


 説の裏付けのため早速リサーチする。毎年母の日には贈るが父の日を無視していたサギョウ氏は、その場でギフトセンターのHPにアクセス、高級カラスミをクール便で送り付ける手配を済ませ、晩酌のつまみにでもしてくれと電話をかけたそうだ。後はいつも通りの常識人らしく勤務に戻ったと聞いている。半田君の証言である。ちなみに彼には全く効かなかったらしい。だろうね。

「何かしらのアクションが鍵か。あれから毎日ただいまの挨拶とかマメにしてくるけど、それじゃダメなのか?」
「……親孝行というからには、本人が孝行だと認識していなければいかんのだろうな」
「なるほど。それを探って、実行させれば、万事解決だ!」

 ナイスだ同胞! 早速あの恩知らずにドラちゃん孝行をさせてやろう。丁度いいぞ、私欲しいソフトがあったんだ。



「お手伝いをします」
「は?」

「お手伝いをします」
「……え、バグ? 村人その1? ロナルド君今度はNPCになっちゃったの?」

「おっ……てつだい……を、します」
「分かった。わかったわかった怖いから青筋立てながら敬語で喋るの止めて」

 何だこいつ! わざわざ具体的な解決策を説明してやったのに、やたら頑固に自分の意志を持っている。私に貢ぐのはそんなに嫌か! ええ!

「……ものを贈る、とは、こやつのやり方ではないのだろう」

 好きにさせてやれと、水を通してくぐもった声のアドバイザーが言う。分かっている、そうでないと解除に結び付かんからな。ぐぬう、せっかく棚ぼたで手に入ると思ったのに……まあいい、ぬか喜びになってしまったソフトのことは忘れよう。切り替えて、とにかくこのダッコちゃんゴリラをノーマルド君に戻すのだ。
 何、好都合だ。あの尊大な若造が率先して下僕になりたいと言い出したのだ。手伝いをしたいのというならさせてやろうではないか。いずれにせよ今夜中にはケリがつくだろう。ウェルカムバック私の平穏な日々!

 張り切って早速指示を飛ばした。そして間もなく、盛大な後悔をすることとなる。





「うっそでしょ……え、うっそでしょ……」
「……ごめん」

 部屋中に満ちる炭と油の燃えた匂い。鍋には大学芋になるはずだったダークマター。傍らで無垢なゴリラが青ざめている。無駄に顔がいいせいで、涙目でしょんぼりと落ち込む様は大抵の人間なら絆されるだろう。私人間じゃないから絆されない。むしろ絶許。何してくれてんだこの脳筋! かき混ぜ続けるだけっつっただろ! 5歳児なら余裕だわ! 早く済ませたくて強火にしたな! もういいから風呂入って来い! 今湯を張ったばっかだわ!
 ああ私の野田琺瑯ルーク……生けるバトルアックスの恐怖に耐えながらレビュアーをやり遂げて、貯めた報酬でやっと手に入れたキャセロール……守ってあげられなくてごめんね……重曹どこにやったっけ……

 突如繰り広げられた愁嘆場では、いかな冷静沈着な常識魚とはいえ水中のデメキンになす術はない。罵倒をまともに食らって床に頽れたリアルorzと私の間を行ったり来たりするジョンの慰めだけが救いだった。



 正直、彼が風呂から戻る頃にはとっくに怒りは収まっていた。時間をかければ焦げ付きはマシになる。食材はどうしようもなかったが、それも仕方がない。
 問題は、弁解の余地なく己が悪いと自覚して反論しなかった、その術がなかった子どもに一方的に怒鳴り散らしたことだった。そうした態度をとった手前どうにも言葉をかけ辛く、向こうは向こうでチラチラと視線を寄越しながらも目線を合わせずにひたすら無言を貫き、何もかも解決するはずだった晴れの夜は無声映画のごとき通夜となり果てた。

 まだ真夜中を過ぎた程度で吸血鬼としてはゴールデンタイム、とはいえこの空気には耐えられんと早々に棺桶に引きこもる。いつも通りの快適な空間が、気疲れした私を優しく受け止めてくれた。それでも寝入ってしまうまでは叶わず、うつらうつらと微睡むのを繰り返して、そしてもうじき夜明けだろう頃、ノックの音に無理やり現実に引き戻された。誰かなんて聞くまでもない。一気に憂鬱になる。

 夢じゃないよね、現実だよね。つい数時間前の出来事を反芻して、いやいやながらも起きる心の準備をしていると、蓋を貫通して湿っぽい空気が流れ込んでくる。湿り気たっぷりの音声付きだった。


 ごめん。
 なあ、ほんとごめん。
 多分今俺普通じゃない、無視されんのがすごいキツいんだ。死にそうに辛い。
 なあ、ちゃんと代わりの買ってくるから……そうじゃないなら、何をすればいいか言ってくれ。悪かったってちゃんと思ってるから、頼むから何か言って……ごめん。ごめんなさい。

 答えなかったら延々と続きそうな愁い節に発狂しそうになる。こちとら罪悪感でも死ねるんだからな。手加減しろ。「うるせえ!」と言ってやりたくて蓋を取ろうとしたら、ゴリラパワーでがっつり固定されていて開けない。おい言ってることとやってることが矛盾してるぞ。出したくないのか青二才!

 内側からバンバン叩いて訴えて、やっと開いたと思ったらべっしょべしょの顔面をまともに見てしまい文句は引っ込んだ。ヤバい。想定外のみっともなさ。親孝行の呪いにかかってるだけなのに、君、なんで幼児退行してるの?

「……もう怒ってないよ」
「でも、ごめん。本当に」

 もしかしたら素かもしれないと思う。チンピラ並みに口が悪くて、結構短気で、暴力の概念みたいなところもあるが、基本的には流されやすくてお人好しの、心優しい青年なのだ。
 起き上がれば、棺桶に寄り添うようにしゃがみ込んでいるロナルド君が近くなる。おい、マジで酷いありさまだぞ。
 着替えもせず引きこもっていたので、私はいつものジャケットのままだ。ポケットを探ってハンカチを出し、汚れた顔面に押し付ける。どうしたらいいか分からないとばかりに固まって受け取ろうとしないので、仕方なく広げて拭いてやった。そう、仕方がない。どうやら私は親だっていうし。

「無視したわけじゃない。言い過ぎたのが気まずくて、話しかけられなかったんだよ」

 君はちゃんと謝っていたのに、ごめんね。

 私も大概子どもの心を忘れないが、歩み寄られて突っぱねるほどガキではない。相手は正直に曝け出したのだから、フェアに行こうじゃないか。そんなわけで努めて優しく心の内を吐露してやったというのに、退行ルド君は顔をくしゃくしゃにして余計に泣き出した。何で? 止めろ。しゃくり上げるな。

 父を悲しませたことは数あれど、ブチ切れられた記憶はない。私を叱りつける存在といったら……いや止めよう。アレは言ってみれば天敵だ、参考にならん。

 けど、まあ、親と慕う相手に突き放されてどんな気持ちになるか、想像ができないわけじゃない。傷付いたばかりなのに、また冷たくされるかもしれないのに、自分から謝りにやって来るなんて、どれほど怖かっただろう。

 頑張ったね、ロナルド君。君は優しいだけじゃなく勇敢だ。労いを込めて片手を頬に添え、できる限り擦らないよう布を押し当て色んな水気を拭き取った。棺桶の縁に手を掛け顔を突き出した子どもの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。目を閉じてされるがままのロナルド君は、緊張していたのか不安だったのか額にたくさん汗をかいていて、本当に子どものようだった。

「さあ、顔を洗っておいで」

 しっとりしてしまったハンカチを鼻先に押し付けて、今度こそ受け取らせる。余った手を引いて、立ち上がって、洗面所へと身体を向けてやった。
 戻って来たら一緒にホットミルクでも作ろう。リラックスして休めるように。あれも美味しく作るにはコツがいるし、時間もかかる。君の手を借りたいな。

 こっくり頷いたロナルド君が案外しっかりした足取りで洗面所へ向かうと、それまで大きな図体に隠れていたらしい、ジョンが現れ、おやおやと思う。いつの間にそんなに彼と仲良くなったの。
 ジョンは何も言わなかったけれど、私が大人げなく引きこもっていた間、何かしらの働きかけがなされたことは明白だった。慰め、労り、励ましてやる姿が目に浮かび、それも仕方ないかと思う。ジョンにとってロナルド君は大きくて頼もしいお兄さんであり、同時に相当歳下の可愛い弟分でもあるのだ。世話を焼きたい時もあるだろう。

「でも、ちょっと妬けるぞ、ジョン」

 抱っこして口を尖らせてみせるも、定位置に収まったマジロに頬擦りをされている内にどうでもよくなった。丸は世界を救う。





「話、違くない?」
「………………」

 ぶくぶく泡を吐いて誤魔化すアドバイザーにムカついて、指先で追い立ててやる。ジョンがオロオロした。

 自身で主張した通り、ロナルド君の孝行心はお手伝いをすることで満たされたらしい。次の日暮れにはいつもの粗暴で短気なオラオラ系の兄ちゃんにすっかり戻っていた。記憶もぶっ飛んでいれば楽だったろうに、そこまで都合の良い能力ではなかったらしい。お互い誠に遺憾である。
 ま、何はともあれ一件落着、やれやれ無駄に神経使っちゃったよ、半月ばかり休みが欲しいねぇジョン。そんな風に、笑い合う日々がこれからも続いていくんだと、その夜は信じていました……


「お手伝いをします」
「もういいんじゃ!!!」


 パニックを起こして連絡を取れば、すげなく「お前が対応しろ」と言われた。何で? だから働けVRC!
 ならば吸対だと鬼電すると、半田君が反応してくれた。めっちゃキレられたけど、普段から怒鳴るように喋る男だから別に怖くない。どうやら今回の被害者は大量にいるためVRCは被験者に困らず、これ以上面倒見るためのマンパワーがないから退治人は自力で何とかしろとの主張らしい。あああ何となく理由が分かる……新横の親世代に引っ張りだこだろあの吸血鬼!

「チクショー! 何で治ったように見せるんだ!期待しただろ! いつまで持続するんだぁー!」
「知らん! そういう能力だからだろう! いつまで持続するかは貴様が計測しろ!」

 お決まりの「馬鹿め!」を投げつけられて通話は終了した。馬鹿って言う方がバーカ! そんなに言うなら本当に計測してやる、ロナルドうおお観察日記をつけてやる!

 明後日の決意を固め、何に向けたかもうよく分からん対抗心を燃やしたのが先週のことである。試しに数日間かけて計測してみると、どうやら1日に1回は明確な親孝行が必要らしい。そうかそうか、そんなに私の役に立ちたいか。しおらしい態度に油断したら食べ物で遊び出す5歳児が。一晩寝かせたカレーを作ろうと寝かせていたら昼間に肉だけつまみ食いするくせに。洗濯物を任せたら、通気性を確保せずタオルに生乾き臭つけおった。そういえば、こうなる前も朝のゴミ出しは彼の仕事だったが、うっかり夜の内にまとめておくのを忘れたら「ゴミがねえぞ」とかのこのこ起こしに来たことがあったな。おい、全然役に立たんではないか……

 いや、挫けたらダメだ。何とかせねば。このままだと、ゴリラに張り付かれるあまり精神を病んで衰弱死する。それか罪悪感で心を削り取られて愧死。どっちもしばらく復活できなさそうだし、下手すると今後の関係性に支障をきたす恐れがある。この若造に遠慮しいしい暮らすなんて絶対御免だ。
 よろしい。立たぬなら立たせてみせようロナルド君。私のマネジメント能力を刮目して見よ!


 とか言ってね。
 頑張ったよね。
 恐怖のダッコちゃんゴリラ襲来からおよそ10日間。私、結構頑張ったと思うの。

 ジョンラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ……何だかとても眠いんだ……

 ぐぶぶ、と泡が浮き上がる。
「自棄になるのは止せ……解決策はあるのだ。毎日決まった仕事でもやらせればよかろう」
「チクショー……他人事だと思いおって」
「……悪いことばかりではあるまい。見方を変えてみろ」

 いやいやキンデメさん、実はあまりよくないのよ。言いたいことは山ほどある。
 ウサギ小屋のキッチンだぞ。私で丁度いいくらいの細長いスペースにゴリラの体積が加わって、暑苦しいわ動線は塞がれるわジョンが仕事をとられてヤキモチを焼くわ大変なんだ。根本的にガサツで壊滅的にテキトーなせいで、肝心の手伝いも達成できているかは微妙な線だ。本物の5歳児レベルの仕事を私が見繕ってやって何とか合格ラインを越えているこの現状。満足してるの本人だけ。作業を任せた後も何かやらかすんじゃないかと気が気じゃないし、だから見守ってしまうし、おかげでこっちの手は止まるし、ジョンのアフターケアもしなくちゃいけないし、正直言って何もしない方が3億倍マシ。出された飯を黙って食ってろ。



「……そうではない……あの退治人から見てみろ……」
「ロナルド君から?」

 どういう意味かと問う前に事務所の電話に呼ばれる。手伝いさえ済めばノーマルなゴリルド君は通常運転だ、今夜も依頼対応のため出掛けている。居残った私は必然的に電話番である。
 吸血デメキンの言葉は何やら意識に引っ掛かったものの、やることとやりたいことが多く、何だかんだと忙しなく動き回る内に意識の隅へと追いやられてしまった。




 わりかしマメな性格だから、観察日記は順調に続いていた。一周回りきって途中から段々面白くなってきたというのもある。我ながら狂気の沙汰、とか思いつつ見返していてはたと気付いたことがある。

 ロナルド君。君、もしかしてとっくに治ってない?

 最近、当たり前に挨拶される。顔がガチギレじゃない。本心が押し殺されたと丸分かりの、不自然な間が生じない。
 手伝いは一晩に一度と決まっていた。だってあくまでステータス異常の解除が目的なのだ、解除さえ済めばもういらない。特に助かるわけでもないし、原人にキッチン荒らされるのなんか一度で十分だし。なのに「他にはあるか?」って言われた夜がある。おかしい。
 多少のぎこちなさはあっても、解除までは基本的に幼子のように従順だったはずだ。それが最近、こちらの指示に文句を言うことがある。悪態をつかれることも増えた。

 効果が切れている証拠ではないか?
 それとも5歳児が9歳児にランクアップしたとか? 自立心が芽生え、ささやかな反抗心が湧き上がるお年頃まで、私うっかり育児しちゃったの?


「うーむ。解除されてるなら、あえて手伝いをしたがる理由がわからん。何だと思う?」

 客観的な意見が欲しくて、ソファに置いていた死のゲームに尋ねてみる。

「やりたいからじゃないですか? ロナルド、結構楽しそうですもん」
「どこが……あー、そうだね。本人は、そうだね」

 満足してもらわないことには解除できないから、私もジョンも一応気を遣っているからな。

「味を占めたかバカ造め。それならもう付き合わんぞ」
「いいんですか? 師匠も何だかんだ楽しそうに見えますよ」
「ねえそれほんとに私だった?」

 面妖なことを言い出すツクモ吸血鬼に突っ込むと「当事者は気付かないものなんですねぇ……」とかしみじみされた。何なの。マジな感じ止めて。





 スポンサーが「野菜が高え!」と騒がしいので、今シーズンの食卓ではモヤシが絶賛続投中である。いっそ何か育ててみようかなあと思ったが、間違いなく吸血野菜を生み出すだろうからあきらめた。ロナルド君は今夜も9歳児らしくて「またモヤシの除毛かよ」とぶうたれながらボウルを手に取る。
 意外にも、数をこなす内にそれなりの手付きになってきた。遅いけど。あと、時々取り過ぎて、食べるところめっちゃ減ってるけど。今夜は30分くらい待ったところで「おっしゃラァァ!」と脱稿明けを思わせる雄叫びが上がった。

「俺はやったぜ! 俺はやったぜ!」
「わーいありがとー」
「もっと心を込めて褒めろ! 見ろよ、タイム縮んでんだぞ」
「おっ……エライねー」

 こちとら肉の下処理から調味料の調合からその他の下拵え全部済ませて待ってたんだが。手を出すと「お手伝いにならねえだろ」って怒るし。
 棒読みで褒めつつ、ザルに上げられた艶々の如意菜の水をきる。そろそろだなぁと思って、既に鍋に火を入れていたから、後は早い。
 背後でゴリルド君が「今遅ぇって言いかけただろ」「今日のはマジで早かったじゃんか」とウホウホうるさい。しかし「キッチンに立っている時には殺すな」と根気よく躾けたので、身の安全は何とか確保されている。肉に火が通り芳しい匂いが漂い出すと、荒ぶるゴリラも目に見えて大人しくなった。

 具材の全てに火が通り味が馴染んだ頃、ティースプーンを2本出す。心得たもので、何を言わずとも1本はすぐに背後から抜き取られる。残ったスプーンで餡をひと掬いし、小さなお口へ差し出した。

「いかがですかな。料理長」

 ヌッヌイ、とグルメなマジロのサムズアップが出れば味付けは決定。ゴリラはマジロにメロメロなので、大抵「ジョン、美味しい? よかったねえ!」と追従する。だから特に味を見てもらう必要はないのだが、何故か定着してしまった。
 初めは何とか被害が少ないものを見繕わねばと模索していたから、うっかり味見役を頼んだことがあったのだ。そしたらまあ、この職務に誇りを持って臨んでいたジョンが盛大にヘソを曲げ、なかなかに疲れる一悶着が勃発した。喧嘩というにはあまりに一方が弱過ぎたが、最終的に私が兄弟喧嘩の仲裁役を引き受ける羽目になり、親の苦労を垣間見た気分だった。私、一人っ子だけど。
 実質味の権限を握っているジョンは料理長。単純な下拵えや力仕事を担当するロナルド君は見習いとして、料理長に稽古をつけてもらっている……という体で今は落ち着いている。



 何事にも向き不向きがある。彼は料理に向いていない。自身が最も好む味を追求しようという熱意やこだわりがない。ましてや人に振る舞おうなど、1万光年先の話だろう。それでも何故かキッチンで活躍したがった。
 仕事そのものは結構バリエーション豊かに振ってみたつもりだが、彼が自身で選ぶのはいつもキッチン周りだった。ちなみに一番ローテンションだったのは風呂場の排水口の掃除である。バスルームから出てきた時の虚無顔を撮影したら、ゴム手袋を叩きつけられて死んだっけ。


 吸血鬼の能力は本当に種々様々だが、明確な意思を持つ生き物を操るには何らかの発動条件が必要だ。大抵の吸血鬼は己の血液を媒介に直接作用させるが、催眠のように対象者の脳回路を流用する方法も、高等だがポピュラーな手段である。
 
 親孝行なんてものに数値化された基準があるわけでなし、おそらくは対象者の自覚によってかかり具合が決まる。すなわち、かかった者は、己が親不孝者の自覚があるということだ。傍から見れば親不孝を働いていようと、全くの自覚がなければおそらく作用しない。そこまで検証されているのか聞いていないし、別に確かめる気もないが、初めの発動条件はその自覚だろうと思う。
 高まった孝行心は本来ならばそのまま親に、それが叶わないと脳が判断したならば、その時の条件次第で他の対象へと振り分けられる。一番近いところにいる、親もしくはそれに近いと認識している存在に。

 この憶測が正しいとして、自分を親不孝と思うロナルド君の孝行がなぜ今叶わないのか、私は知らないし尋ねる気もない。
 けれど、とっくに効果が切れるか、または薄れているはずなのに、何も言わずに続けたがる理由はそこら辺にあるのかもしれない。


「彼のことだから、ジョンと一緒にいたいだけってのが有力だがね」
「そうか……まあ、我が輩には関係のないことだ」
「けど君は、案外よく人間を見ているのだねえ」

 縋り、八つ当たり、最終的にちょっぴり畏怖の念を持つに至った我が家の吸血デメキンに語りかけると、ぐぶぶと泡を立てた魚はひらりと後ろを向いてしまった。照れた? それとも怒ったか?

 うん、いいけどね。
 私はちょっと大変だけど、料理長は後輩ができたと楽しそうにしているし、私にしては相当我慢強く仕込んだ甲斐あって単純作業なら見てなくても大丈夫になってきたし、瓶詰め開けるのも楽だし。カボチャとか固いの切らせるのも任せてみようかな。まだ早い? でも今なら凄くいい画が撮れそうな予感がするんだよね。どう思う、ジョン。

 愛しの使い魔に尋ねるも姿が見えず、探せば何やらキンデメと頷き合っている。何だ何だ和む光景だな。何話してたの。ねえ「先は長いかもしれん」ってどういう意味?







 周囲の期待に応えずにはいられずうっかりコンビを組んでしまい、そうしたら伝説級のクソ雑魚おじさんはぬらりひょん並みの図々しさで公然と我が家に居座った。以来、逆座敷童子と呼んでやりたいくらい、事務所にはポンチな災厄が引きも切らず押し寄せる。
 始まりがトンデモ過ぎるから、どうしても奴を認められない。たまにいいところがあっても。ごくまれに助けられても。極めてゼロに近い確率で、感謝すべきという思いがよぎっても。ずっとそんな心情でいた。ある夜をきっかけに、全部ひっくり返された。あの吸血鬼は、本当に恐るべき吸血鬼だったのかもしれない。





 呑気にうたた寝をしていたらしい。薄い腹に乗って湯たんぽ役を務めていたジョンがソファから下り、もぞもぞ身動ぎをした我が家の吸血鬼は寝転がったまま伸びをした。ひょろ長い身体がいよいよ長くなる。

「起こして」

 とろんとした目のまま、腕を伸ばしてふざけたことを抜かす。別に鮮やかに砂にしてやっても良かったのだが、ふと興が乗った。まだこちらを純朴なお手伝いだと思って、妙に砕けた様子で手を差し出してきたのが面白く思えたのだ。
 うっかりにでも握りつぶさないよう力加減に気を付けて、おっかなびっくり、握った細い手首を引いた。人の形をしていると思えないほど手応えがない。そうやって上半身を持ち上げてやると、行儀良く脚を揃えて下ろし、座面に浅く腰掛けて、なのにそのまま再び瞼が下りそうになっている。まあいいかと思って手を離そうとしたら、手品のようにするんと今度は俺の手首に指が絡んだ。

「よいしょっと」

 手袋越しでも細くて長くて、熱を全く感じさせないそれにぎょっとしていると、掛け声で勢いをつけたらしいぺらい身体が浮き上がるように立ち上がった。

「体幹すご。ロナルド君てば床に刺さってるの?」

 縋り付くように体重をかけられて、無意識に後ろへ重心を傾けていた。俺を介護用の手すりみたいに使って立ち上がった薄っぺらな影みたいなのが、胸と胸を合わせるような近さで目の前に立っている。諍いなしの落ち着いた状態で、声と気配をこんな距離で感じるのは、どうにも変な感じだった。

「ありがとー」

 でもさすがにこれは、お手伝いにはならないかぁ。

 気負いなく礼を告げて、それから小首を傾げて呟いて、薄いのに重たげに下がった瞼のまま、確かめるように顔を覗き込んでくる。その確認に、とっさにせいぜいしおらしく見えるような表情に努めてしまった自分の心の動きが分からない。

 変な時間に寝ちゃったなあ。頭が重たいよ。あれこれジョンが乗ってるの?
 眠気が醒めていない吸血鬼はほわほわと独り言を飛ばしながらキッチンへ歩いていく。俺は言葉にならない何かを呆然と味わいながら、無意識に手を握ったり開いたりして心の安寧を保とうとしていた。

 あ、これ多分治ってないと思ってから、違う、あいつがおかしいんだと気付いた。何度か似たようなことがある内に確信が深まる。

 こいつ、距離感バグってる。





「はい」

 うおっと思っても声に出さないのが上手くなってきた気がする。慣れてきたってことで、それはあんまりよろしくないような気がするのに、何でか居心地は悪くない。何でかな、と考えてから、ジョンだと思った。ジョンが嬉しそうだからだ。

「なに? 熱くないよ」

 ほんのちょっとだけ間が空いた。不審に思われない内にと差し出されたスプーンに食い付く。す、と持ち手を上向きにしながら引いていく滑らかな動き。他人にものを食わせることに慣れた手付きだった。そうだ、こいつは自分じゃ食わない。饗応のために料理の腕を磨くのも、古い吸血鬼にとっては教養の一つだと言っていた。だからだろう、その気になれば、相手をいい気持ちにさせるのが実に上手い。今ならきっと振り切れるのに、何となく効果が続いている風を装ってしまう理由の一つかもしれない。

 調理中に出た洗い物で泡まみれになっている手を止めて、鶏の骨を煮て作られたスープの味に集中する。いいんじゃねえの、もっとしょっぱくてもいいけど。一緒に入れた野菜の味か風味か匂いか、とにかくいっぱい口ん中に広がって、なのにうるさくない。悪くない。ジョンは丁度いいそうだ。じゃあ俺に否やはない。やたら大量だと思っていたこのスープはストックされ、いろんな料理のベースにもなるらしい。楽しみだね、ジョン。





「ねえアレやってよ」

 アレって何だよ。こそあど言葉で話すな200歳。声には出していないが顔に出たようで、ムッと口角を下げた後に「あの肩に手のひら当てるやつ」と追加の説明が来た。ふざけんな、たまの休みに、何が悲しくておっさんの肩ケアしなきゃいかんのだ。ゲーム止めろ。1日1時間にしろ。

「何か慢性化してて、デスリセットが効かないんだよ」

 君が喜んでた白いプリンいっぱい作ってあげるから。という一言でつられたわけではないが、今夜もまんまと要求を飲んでいる。クソガリおじさんの肩は、当然だが普通に揉めば瞬きの間に塵と化すクソ雑魚っぷりだ。だからやることは、正に手当て。手のひら全部を肩に当てて、順にずらしていくだけ。温湿布のようにじんわり血行が良くなる感覚が堪らないらしい。堪らないって表現がどこまでもおっさんだよな……

 着込んでいると当然効果は薄いので、今はマントも首のヒラヒラも外したシャツ姿だった。ちなみにクソ雑魚おじさんにとってシャツは日本人の言うところの下着らしい。シャツだけって最初は下着姿みたいで慣れなかったけど、日本じゃみんなやってるからもう平気かな、とか話していた。ふーん。下着姿ね……
 変なことを思い出してしまった。

 俺はソファに腰掛けて、眼下には体育座りをした吸血鬼。遠くから見ればどこもかしこも針金みたいにひょろひょろだけど、改めて見ると意外にもそれなりの肩幅があるし、細いながらも首だって、触れればきちんと筋の張りが感じられる。全体的にぺらっぺらだけど。頭を支えるのすら辛そうだ。
 前にかしいだ首筋から薄い肩へ。ぴったりと手のひらを当てていると、冷たかった表面が温まっていくのが分かる。体温が移っていくほどに「うぅ」とか「はあ」とかため息混じりに声が出るのがマジおっさん。止めろ。状況のシュールさに磨きがかかり、何か無我の境地に行きそうだから。

 ぐらんぐらんしてた頭がいよいよ重そうに傾いて、前から後ろへ倒された。おい、できねんだけど。あと人の腿を枕に使うな。

「んん……もういいよ」
 
 ありがとうって辛うじて発語して、そのまま健やかに入眠しやがる。俺の手すげえな。ゴッドハンドじゃん。でもこのまま寝たら起きた時全身バッキバキだと思うんだが。バカじゃん。
 とりあえず、このまま脚の間で眠られても俺もどこにも行けないので、しばらくしたら叩き起こそう。前傾姿勢を続けてこっちも疲れた。伸びをして背もたれに背中を預け、ちょっとだけと思って目を閉じた。






 効果が薄れているのは間違いない。言葉も行動も、制限がかかっていた頃の記憶がちゃんとあるから、今がマシな状態という点に関しては自信がある。
 ただ、どこからどこまでが自分の意思でのことなのか、判然としないことがある。職業柄というか土地柄というか、催眠にかかる機会は多い。経験上、長引けば長引くだけ自力で解くことは困難だ。ヒナイチの例もあるし、後遺症が残っちまったとしても不思議ではない。

 けどこれは、いい隠れ蓑だと思った。
 ヤツの失態を集めるための偽装である。最近事務所のみならずファンレター内まで侵食してくるあのバカの、アホ丸出しセレクションを活字にして世界に流布させてやるのだ。うっすらと良心が痛まないでもなかったが、日頃のムカつくあれやそれやを思い出して無理やり自分を納得させる。迷惑料もしくは家賃代わりに著作のネタを提供してもらおうという、ちょっとした悪巧みのつもりだった。

 そう思って集めたエピソードだったのだが。さてやるかとパソコンを開き、ネタ帳を見返して、呆然とした。全然ネタになってない。いや、ネタといえばネタだが……どちらかというと俺にとっての辱めになるのでは? 何で俺はデートでの憧れシチュ「はいあーんして」をパラサイト吸血鬼にされてんの? 何で俺が膝枕させられてんの? バカなの? 死ぬの?


 この状況下で唯一の救いは、ジョンが最近ずっとご機嫌なことだ。基本的にいつでもあのバカの味方だが、少なからず俺にも親しみを持ってくれていることは分かる。俺たちが険悪な状態でいると、いつもオロオロして困っていたから、申し訳ない気持ちがずっとあった。いや煽り倒してくるクソ砂が1000%悪いんだが。
 そうだ、変なのはヤツだ。
 あいつがいつだって煽りの一択で俺の血圧を瞬間的に跳ね上げるから、最終的にジョンを泣かせてしまうのだ。それが、おかしな吸血鬼の能力でやられている間中、変に面倒見がよくって、優しくて、親父さんにだってしないような甘え方をしやがるから。ていうかあいつはいい加減金銭面で親父に甘えんの止めろよな……


「あいつ、何であんなんなってんだろな」

 メビヤツは不思議そうにしている。そういえば事務所では割といつも通りだ。俺が手伝いに明け暮れる日々も、大体生活スペースでの出来事だった。

「変なんだよ。ずっと」

 もうじき日暮れだ。吸血鬼が起きてくる。職務上、俺は昼頃に起きることも多い。起きてから日没までが、今の生活で確保された俺の一人の時間だった。
 メビヤツが大きな目でじっと見つめてくる。嫌なのか、もしくは大丈夫かと聞かれている気がして「いや別にいいんだけど」と半ば独り言で答えた。いいんだけど。ジョンが嬉しそうで、砂おじさんは妙に優しい時があって、俺はクソ砂を砂にする回数が若干減った。平和じゃん。でも何か変なんだ。落ち着かなくて、時々胸がざわざわする。
 でもそうだ、全然嫌じゃない。



 兄妹の存在がくれたもの。俺も返せているのか不安で、だから今でも2人には、できることは何でもしてあげたいって思ってる。いつかは、それぞれでもそういう場を作るんだと、何となく想像してはいた。兄貴はそろそろかもしれない。俺はもう少し仕事が安定してからか、少なくともヒマリが独り立ちしてからか。とにかく、もっと先のことだと思っていた。10年後か、20年後か、漠然と遠くのことだと思っていたのだ。いつの間にか、俺の中でもうひとつ増えていたなんて、思いもしなかった。





「ああ、やっぱり?」

 何となくそうじゃないかなーとは思ってたんだけど。別にいいかなと思って。

 軽っ。軽い。軽過ぎる。俺の決死の告白を右から左へサラーッと流しやがった。この軽薄野郎。
 ネタにしてやろうと手ぐすね引いていた後ろめたさと、結果的に周りを騙しているという罪悪感が相まって、切り出すのは結構な勢いが必要だった。そんな善良な俺と比べて、悪知恵の働くクソ雑魚ガリヒョロ砂おじさんは日常的にいらん謀を企てる常習犯であり、性根までカスだ。加えて年季が違う。逆の立場で同じようなことを決行したとしても、このくらいなら「別にいいかな」レベルなんだろう。邪悪なりドラルク。

「滅びろクソ砂」
「いきなりなに!」



 何かいい匂いのする茶を押し付けられ、一服したらちょっと落ち着いた。今日のヒナイチのおやつになった余りだろうか。クッキーを数枚ジョンが運んで来てくれて、いよいよ和む。
 向かいではドラルクが牛乳をちびちび飲んでいて、ふとストライキ事件を思い出した。

 春先に普通のが値上がりしたから低脂肪乳を買って帰ったら、現状ほぼミルクで動いてる低燃費おじさんが生意気にもストライキを起こしやがったのだ。タンパク質を全て豆腐でまかなうという、非情極まりないストライキである。夕方こっそりファミレスに通っては肉々しい定食をかっ込んで、なのに腹は膨れても物足りなくて、舌を肥えさせられるのはある意味不自由なことでもあると痛感した、ちょっぴり苦い思い出。「ああ、こいつがいないとちょっと困ったことになるのかもしれない」と、認めたくないことを思ってしまった忌まわしい記憶である。

 ちなみに根を上げたのはこっちが先だが、ジョンの手を借りて協議の席を設けた夜、二度と食事で抗議を行わない旨を誓わせた。あの時は血の涙が出ていたと思う。代わりに、低脂肪乳には絶対うちの敷居を跨がせないということで無事に合意形成を果たしたのだった。
 その後は成分無調整の牛乳を定期的に購入している。割引シールが貼られている場合に限り、特濃の購入も許可している。



「ねえ、君さ、何でそんなことしてたの」
「へ? 何でって……だからロナ戦のネタになるかって……」
 ちっともならなかったけどな。

「本当にそれだけ?」

 それだけ? 何が言いたいんだこいつ。それ以外にあるだろうと言わんばかりの。いや最初は、本当にまだかかってんのかどうなのか、自分でも曖昧だったし。何となく、惰性で続けていただけだ。多分。

 何が最初だっただろうと改めて振り返ってみると、呼び起こされる情景があった。あの時、まだ解けてないと確信して、気負いなく自分を預けるような真似をしてきたこの吸血鬼の、気安くて柔らかな態度。

 あれ、そうなの? いや他にあったじゃん? 何だっけ何だっけと焦ると余計に思い出せず、仮にも吸血鬼のくせに退治人の前で無防備な姿を見せまくる砂おじさんが脳内を闊歩する。頭の中まで居座る気か? マジで止めてください……

 そもそも親孝行という話自体、俺が自分で選べるなら、どう考えても兄貴に行くと思うのに。一体何がどうなってこうなる能力が働いたのか、あの吸血鬼を一晩は問い詰めたい……ほんの砂粒程度だが、心当たりがあるだけに、赤の他人にそれを見透かされたようで居た堪れなさ過ぎるのだった。


「私はね。ジョンが嬉しそうだったから、別にいいかなと思ったんだよ」
「……! ああ! それだ! 何かご機嫌だって思ったんだよ」
「だよね。子分ができて嬉しかったんだろうね」
「ジョンは子分なんて言わねえ死ね。ああ、まあ、ジョンがいいなら、やっぱこれでいいんだよ」
「まあね。私は結構大変なんだけどね」
「根本的に大変なのは家主の俺だわ死ね」


 背負っていた罪悪感から解放されたことから若干ハイになっていた俺は、許されたという高揚感も相まっておかしなことを考えていた。これで大手を振ってお手伝いができる……って、違う違う。手伝いに固執しているわけじゃない。心地良いと思える、この距離感を手放さないでいいのだ。そうして一番肝心なことは、それを相手が許容したという事実である。
 そりゃそうだよな。だって、居座ったのと同レベルの図々しさでガンガン距離を詰めてきたのは向こうなんだ。ねーっ、ジョン。

 今日のジョンはご機嫌というより、何だか温かい目で見てくる気がする。励ましてくれているんだろうか。どこまでも優しいマジロだ。うんうん頷いて、話は済んだと席を立つと「じゃあ、今夜のお手伝いは食器洗いね」って、飲み終えてテーブルに置いたままのカップを示された。それはちょっと違うんだよな。

「俺はまだ勤務中だ」
「勤務中に深刻ぶって懺悔を始めたのは誰だ」



「ジョンの腹毛を撫でたくせに」
「手伝いだけ拒否するとは何事だ」
「早速契約不履行か、おい」

 速やかに事務所へ移動すると、玄関まで追いかけながら何やら文句をつけてくる。契約なんてしてねえだろうが! 目の前でドアを閉めるも、ヤツがキンデメに愚痴る声が最後に聞こえた。はっ? はあああ? てめぇ誰が亭主関白だブッ殺すぞ!







「何これ。いい匂い」
「ジャムだよ。リンゴの。昨日分けてもらっただろ」

 吸血鬼と変態にやけにモテるロナルド吸血鬼退治事務所だが、普通の客もちゃんと来る。住人らの人間関係が幅広いこともあって、うちで育てているんですとか、田舎から送られてきて食べきれないからとか、差し入れやお裾分けを受け取る機会も多かった。

 事務所に転がり込んで以来やけに所帯じみた高等吸血鬼は、それなりの月日の間に集まった綺麗な空き缶や空き瓶をいくつも所持していて、日持ちする菓子や常備菜を作る時にはそのストックが大活躍する。キッチンのカウンターには、清潔な布巾に伏せられて、いくつものガラス瓶が既に待機していた。「ふうん」と頷いた退治人はそのまま洗面所に消える。退治人が日付の変わる前に戻って来たということは、今日の依頼はそこまで消耗するものでもなかっただろう。夜食は軽くていいかもしれない、エプロンをかけた吸血鬼はそんなことを考えている。

「何か手伝うことある?」

 着替えて戻って来た退治人が迷わずキッチンへ入って、今はいいと追い払われている。

「あとで味見して」
「へーへー」

 夜食を摂るか聞かれて諾と答えた退治人のもとに、とりあえずと茶が運ばれた。運んだのは吸血鬼の使い魔で、丸々と愛らしいフォルムでも危うげなく茶器を扱えるのだ。振る舞われた当人はニコニコ礼を言って受け取り「何か酸っぱ甘くて美味い」とごくごく一気に飲み干し、お代わりをもらいにまたキッチンへと立つ。

「これ美味い。紅茶っぽいけど何か違う」
「紅茶だけど、リンゴの皮を煮出したので淹れるんだよ。スパイスも色々入れてる」

 皮と芯の栄養まで摂取できるよ。お子様舌の君に合わせて蜂蜜もたっぷり。説明しつつ木べらで弛まず鍋を混ぜながら、合間を見て器用にお代わりを注いでやる。

「……リンゴのジャムって黄色いんだな」
「真っ赤な皮を入れて赤くすることもあるよ」

 今夜は実の分だけ。皮の栄養分は、君が今飲んだ。
 使い魔は、黙ってカウンターに控えている。これはいつもの光景で、何の問題もないと知っている。仕事帰りで疲れていても、退治人が何かと理由をつけてはキッチンへやって来るそのわけを、この世の他の誰よりも理解している。
 鍋を覗き込む退治人は、黙々と木べらを動かす吸血鬼の薄い肩に顎を乗せて甘い香りを堪能していて、それを邪険にするでもない吸血鬼は「風呂はどうする」と会話を続けている。食べる前に入るという回答に頷いて、じゃあ入って来いと返した。すんと鼻を利かせて「汗臭い」と文句をつけている。

「カレー臭がしないならまだイケる」
「どこまでイく気だアホ。いいからさっさと入って来い」

 加齢とはっきり言いたくないお年頃になったかと、振り返って吸血鬼は笑う。セリフの憎々しさとは裏腹に、柔らかな笑い方をしている。トロ火をさらに絞り、まだ真後ろにいた退治人を指先で「近う寄れ」と呼び寄せて、耳元に顔を近づけた。ほっそりした鼻梁を首筋に当てるようにして確かめている。黙って判定を待つ退治人が少しだけそわそわした。

「うん。汗臭過ぎて分からん」
「何だよそれ」

 いいから早く入れと再度追い払われて、退治人は今度はバスルームは消えた。
 タンパク質と繊維質とビタミンとミネラル。炭水化物は控えめに。木べらを動かし続けながら、今夜作ったカボチャのシチューに常備菜を組み合わせ、吸血鬼は夜食のメニューを組み立てる。しばらくの沈黙ののち「よし」と指を鳴らし、使い魔に木べらとジャムの鍋を託して皿を準備し始めた。



 深夜のロナルド吸血鬼退治事務所は大抵いい匂いに包まれている。そこにあるのは食事を準備する温かな匂いとお菓子を焼いた甘やかな残り香、そして優しい家族の匂い。





×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -