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 ヤバいと思った時にはいつもスマホのデータフォルダを思い出すことにしている。自分のではなく、あの吸血鬼の。


 文字通り転がり込んできた厄介者と、その場しのぎの勢いでコンビを組むことになった。
 限りなくフィクションに近いノンフィクションの自伝に出せば何故か好評で、あーはいはい遠くから眺めるだけなら俺だって楽しめただろうよとキレ気味に納得していれば、不可解なことにギルドでの評判も悪くない。邪魔で仕方なかった棺桶がいつの間にか部屋に馴染み、据え置きハードで一緒に遊ぶ日もあったり、何なら折半で新調したりしている。あれこれおかしくね? と我に返る瞬間がたまにある。
 とはいえ日々の手料理には全く疑問を感じなくなって久しく、奴がしばしば事務所の詐称に用いるドラルクキャッスルマークII、そのふざけた呼称をキッチンに限定するなら許可してやらんこともない。気が付けば、当たり前におやつも強請ってしまうこの関係である。同居人と呼んで違和感がないまでに距離は近づいて今や「いないと落ち着かない」などと感じている現実は、退治人である己にとってまだ認め難い。友人より近くて、家族と呼ぶには歪だった。じゃあ何と呼んでいいのか皆目検討がつかないので、呼び名だけは同居人とか居候とかクソ野郎から一向に近づかない。


 うっかり居着かれてからというもの、200歳越えとは思えぬスマホ捌きを見せつける同居人の、機種変を何度か見守ってしまう程度には時が経っている。無類のゲーム好きの性なのか、奴はいつだってかなりの容量を持つ機種を選ぶ。その薄い端末には、ここ新横で関係の築かれた友人知人奇人変人が織りなす醜態データがひしめき合っており、中でも俺は質量ともに首位独走をキープしている。絶賛更新中であり、円グラフで表せば俺の割合だけでパックマンができあがり、何ならその口はどんどん閉じてきている気さえする。
 クソ砂おじさんの蒐集した新鮮なコレクションは大抵その日の内に検分され、フォルダ分けまで徹底されるそうだ。嫌がらせのためには骨身を惜しまない外道おじさんである。液晶バキバキになってデータごと死ね。整理中判明したらしいが、ジョンの観察日記データと張る勢いで増えているらしい。何がってだから俺の恥辱の記録が。告げられた折りには脊髄反射で怒りの正拳突きを繰り出したが、妙な嬉しさを感じた一瞬の記憶はどうにも封じ込めきれない。謎である。多分ジョンと並ぶって辺りに感じたものと思われる。

 おぞましきコレクション内の俺は大抵俺がなかったことにしたい俺なので、記憶にないものも多い。忘れた頃に見せつけやがるのでダメージはでかい。
 勢いよく脱いだセーターがピアスに引っかかって往生した姿とか、電子レンジにうっかりアルミカップのお菓子を突っ込んで火花を散らしパニクった現場とか、風邪にやられて一日中ジュースだアイスだお粥ふーふーしてだと唸っている動画とか、ありとあらゆる日常の失敗が網羅されている。もしかしたら血の繋がった実の兄妹よりも俺のことを把握されているかもしれない。

 古式ゆかしい吸血鬼然としていながら、生意気にも新しいものに強い。データは定期的にバックアップをとり、クラウドで管理しているときた。騒ぎのどさくさに紛れ端末を破壊しても隙を狙ってこっそり消しても、見事なイタチごっこで、毎回「正義は我にあり」と確信しているのに感じてしまう罪悪感でこっちの精神がごりごりに削れるだけだった。


 一つ思い出すと芋づる式にあれこれ甦る。
 寒くなってくるとヤバいのはピアスの件だ。あれは確か、朝晩がそれなりに冷え始める、とある晩秋のことだった。セーターを脱ぐという、ごく平和的な日常動作において予想だにしない痛みが唐突に俺を襲ったのだ。叫んだのち、何が起こったのか分からず一瞬硬直した俺の足元には、いち早く異変に気付いたジョンが心配そうに転がってきた。クソ雑魚おじさんからは「大丈夫か」の一言すらねぇ。いや期待もしないが。可愛いジョンを間違っても蹴飛ばさないよう細心の注意を払って、まだ腕を抜いていなかったセーターを身体に戻して顔を出し、そうしたら半端に戻したせいでジャミラ姿となった俺に浴びせられたのは無情なシャッター音。ベストショットを選り抜くためだろう、大体こんな時は連写だ。まあ分かってた。ある意味期待を裏切らない。この機を逃すはずがない。向けられた端末を邪悪な笑い顔ごと蹴り飛ばしてやりたかったが、いかんせん足元には縋るジョンが。ああジョン、ジョオオォン!

 癇癪を起こしてその場で糸を引きちぎろうとしていた手を止めさせて、つい先刻まで俺を貶めんとスマホをかざしていた骨ばかりの手は、そこから少しばかり常と異なる様相を呈することとなる。くいくいと軽い力で引かれ、ソファを示され、座るように指示されて、あまりに自然な誘導に思わず従ってしまった。

(千切れるとそこから穴が空くだろう)
(仕方がない5歳児だこと)
(ほら座って。どれ。見せてごらん)

 テメェに頼る程落ちぶれちゃいねえ! と振り払う選択肢もよぎったものの、健気なマジロが足元でヌーヌー言ってるのが心に来て踏み止まる。耳を向けるよう言われるがまま、ムカつきながらも従った。それもひとえにジョンのため。未だ足元から離れずこちらを覗き込む愛らしい生き物に無駄な心配をかけないためだ。自分でチョイスしたそれなりに愛着ある一着を傷めてしまうのも忍びない。だって買ったばっかだったんだ。


 隣に腰掛けてきたその距離がいつになく近くて、作業内容を考えれば当たり前の近さなんだけど、自分が座るのと同じ座面が軋んで沈み込むその感覚に緊張した。またしても何か仕掛けてきやがるんじゃなかろうかという警戒のためであって、他の何かに由来するものでは断じてない。ぺらぺらと喋り続ける吸血鬼を目の端に収め「妙な真似をすれば殺す」と厳戒態勢を敷いた中、南国を思わせる香辛料が鼻先をかすめて虚をつかれた。そういえばキッチンで何やら下拵えに励んでいた。集中していたらしく、思い返せば俺が脱ぎ損なうまで部屋は静かだったと気付く。
 視界の端でいらんことしいの吸血鬼の動く気配と、畳みかけるようにバカにしてくる言葉の数々に血圧が急上昇する……はずが、甘いのだか辛いのだかよく分からない香りと予想外に柔らかく触れてくる指先に押し止められた。調理の最中だったからだろう、手袋をしていない、直の感触だった。

(毎度毎度力技でゴリ押しするしか能がないのか君は?)
(そうだったね知ってた私)
(ハイゲージのおべべはお子様には早すぎるんだよ)
(木綿100%にしておきなしゃいね)

 今なら殺せまいとたかをくくった高慢な口の形が想像できるセリフの数々、なのに触れてくる指先はバカみたいに慎重で、絡まった糸を器用にほどいていくそのひんやりした感触に毒気を抜かれる。そうして軽やかに、持ち主と相反した優しくて繊細な触れ方をする、耳をなぞるように滑ったそれにぞわりと毛が逆立って、何故かそこから熱が全身に広がった。耳元をくすぐるように行き来する指先の、触れた先から熱くなっていったのが何故なのか。

 他人がこんなに密着した状態で、無防備な自分を晒す経験がないせいだ。
 こいつじゃなくても同じ反応になるはずだ。
 断じてこいつだからでは。

 ほんとに?

 ウワーッと叫び出して殴り倒して走り去りたくなる衝動を何とかいなし、ぐるぐる回り出す自問自答でますます体温が上がる気がして、ついに考えるのを止め、そうするともうムカつく言葉と優しい指先に集中するしかなくなる。早く終われとも、もう少しこのままでとも、矛盾した思いに全くの別方向へ意識が引っ張られ、座っているだけなのに妙に疲れてしまう。
 俺は一人緊張して背中に汗をかいているというのに、向こうはといえば温度も質量も希薄だった。言葉だけは弛まずに流れてくる。

(さすが私。糸は切れてない!)
(ゴリラのおむずかりのせいでめちゃくちゃ伸びてるけど)
(まあこの私にかかれば暴行の痕跡を消し去るなど朝飯前のお茶の子さいさい)
(跪いて存分に畏怖るがいいよ)

 料理中に時々はみ出る音程の外れまくった唸り節より余程歌のように、妙に楽しそうに言葉を紡ぎ、伸びた糸を千切ることなく救出した吸血鬼は満足そうにできたと告げた。

(ハイ万歳して〜)

 最後まで幼児扱いしてくれたのはフリだろうと応える気持ちで砂にしたら、結構猛抗議されたっけ。そこは感謝の言葉だろうとか何とか。自分の言動丸ごとなかったことにできる天才か?

 首から引っこ抜かれたセーターの、糸がぴろぴろ飛び出してしまった部分は、クソムカつく自慢を恥ずかしげもなく主張するだけあって小器用な奴の手により跡形もなく修復された。高笑いは甲高いくせに、穏やかに語る時は低く滑らかな声音をしている。その音の心地よさを知ったのは、この件があったからだ。

 以降、あのセーターはそれなりに気に入っているのに、どうにもいらん記憶がくっついたせいで袖を通し辛くなってしまった。毎回葛藤したのち「何で俺が遠慮しなきゃならないのか」と着用しては、その都度目敏く蒸し返す恩着せ野郎のおかげで、この顛末はやたらと詳細に記憶されている。



 それ系の記憶は日常のあちこちにトラップみたいに点在していて、何かをきっかけに容易く脳内再生が始まってしまう。普段は思い出しもしないのに。そして思い出してしまうと、難航していた原稿に反映させてみたくなったりして、時々ちょっと困ったことになる。後で読み返すとどこのポエムだと全消ししたくなるような花畑コーナーが始まってしまう時があるのだ。俺は多分貧乏性で、だからもったいない精神が働き、そんな花畑もとっておきたくなる。こんなん見られたら嬉々として醜態コレクションに加えられると分かっているから消すけど。どうせあいつはすぐに半田とかにチクるからな……チクられなきゃいいってわけじゃ断じてないが。



 認めるのは癪でしかないが、正直なところ、この共同生活は悪いばかりじゃあない。感謝をしたくなることが、なくもなくもなくもない。ジョンという愛すべき生き物と出会わせてくれたこととか。
 笑えない失敗をして一人でいたくない時、盛大に笑いものにしてくれる存在は99%ムカつくが1%は救いなのだ。寄り添って笑われる内に、自分でも大したことないと思える。


 事務所に居着いた吸血鬼が、いつかまた別の面白いことを見つけてふらりとどこかへ行ってしまうなら、その時なら素直に思ったことを言えるかもしれない。今現在の状況でそれを告げるのは敗北宣言に他ならず、今以上に調子に乗られると俺の精神衛生上多大な悪影響が見込まれるので絶対に言わない。口が滑りそうになる度、俺は奴のデータフォルダを思い返す。新鮮な怒りを供給し、意志を保ち続けるために。


 最近、段々と怒り以外の感情が付随して甦る割合が増えてきているのは気のせいだろうと思いたい。





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