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 どうやら判定が甘くなるなと察したのはいつだったか。スイッチになり得ると気が付いたから、ここぞというチャンスを逃さず利用した。私たちの関係にはそうした切り替えが絶対に必要だった。夢とうつつを分けるための、制限付きの場所に入るための、暗示の鍵となるもの。日常生活ではおいそれと出くわさない、それでいて明確な違いと認識されるものが。
 私の手に入りやすいもので、僥倖だった。欲しい時には、夜に紛れて、前髪を下ろす。



 だって万が一にでも、仕事中うっかりそんなスイッチが入ったら大変だもの。仕事にならないどころじゃない、今のバランスは絶妙だから、失えば、きっと私はここにがっかりしてしまう。自分から見切りをつけるのじゃなく、わざわざつまらなくしてしまったから手放さざるを得ないだなんて、そんなお粗末な幕切れはまっぴら御免だった。

 だから神妙に、望まれたように、せいぜいしおらしく振る舞ってみせる。普段なら余すことなく拾い上げる失態も見ないふりを貫いて、許容して、優しい言葉だけをかけて、物分かりの良い大人を演じる。徹底して日常と断絶させる。これは夢、これは幻、ここは閉じられた仮想空間で、ここで起こったことは現実には反映しない。そんな約束を成文化させないまま成立させた。
 そういうわけで、ここで私は普段なら絶対言わないようなことを平気で口にするし、素直に言うことをきく(こともある)し、プライドをうっちゃって腹を見せて横たわり平伏だってしてみせる。
 やぶさかではない。むしろ結構楽しかったりする。骨の髄まで童貞が染み付いた童貞の、普段とはまた別種のポンコツ具合が拝めるもので。





 無言で繰り返したタップにようやく反応が返り、重い身体がゆっくりと持ち上がる。急な動作は100%の死をもたらすと学習済みであるからして、閨においては握力400sを誇る霊長類もごくごく穏やかにゆったりと動く。重心がずらされただけで、腰のあたりはくっついたままだ。完全に離れたわけでないあたりに思いが透けて、可愛らしいと感じる。離れ難い、くっついていたい、イチャイチャしたい。まだ燻りを残した瞳と、困ったように寄せられた眉は雄弁だ。それでも退いてみせる身体。よく躾けられている。さすが私。動いた拍子に、頬に伝った汗が一雫、顎の先から落ちていった。
 いい子。
 思ったままに呟いて、頭を撫でてやる。力の入らない指先では髪をすく程度の動きがせいぜいだった。銀の頭は手のひらを近づけただけで熱が伝わるほどに汗ばんでおり、髪の先までしっとりと濡れている。
 熱い。焼けてしまいそう……
 あまりの気怠さと襲い来る眠気に、目を開け続けていることも叶わず語尾も溶け消える。髪に触れていた手を離し、持ち上げていた肩と傾けていた身体を仰向けに戻す。ぱたりと軽い音を立てて、思いきり敷布に沈み込んだ。ああ、事後にとっとと眠りこける男なんて最低だと教えたのは私なのに。抗えない。抗う必要もないほどに、甘えられる相手になってしまったなあ……とそこまでは口に出さずに思うだけ。
 目を閉じても意識はまだ彼岸と此岸をいったりきたり。
 頭上の辺りに手が置かれたのだろう、重みのかかった寝台が軋み頭の方が僅かに沈むその感覚に、此岸へと引き戻される。目の前には「ゆっくり、ゆっくり」と唱えているかのように口元をむずむずさせている雄ゴリラ。男盛りの逞しさと美しさ。何の因果か情人となった可愛い人。そう、人間。

 込み上げる笑いの衝動のまま、へらりと口元が綻ぶ。今だけはそれでいい。
 自分でかけた暗示に我ながらよく馴染んだもので、開けっ広げに見せて全く憚らない。懐いたゴリラが可愛くてたまらないし、可愛いと嬉しくなるし、嬉しくなるとどうにも我慢がきかず、にへにへだらしなく笑ってしまう。
 肘はもうどう足掻いても持ち上げられそうになかったけれど、幸いなことに肘から先だけを動かせば届く距離まで近づいてくれている。手のひらを開いて見せれば、猫が擦り寄るみたいに頬を寄せてきた。可愛い。温かい。とくとくと命の音がして、テンポの速さに引きずられそうになる。何か言いたげなのに、素直に言葉にできないまま、口元だけをもにゃもにゃ動かしているのが何だか可愛くて、笑みが深まった。
 可愛い。
 息だけで囁いたのが届いたらしく、目の前の口がぎゅっとへの字になった。この美丈夫は、こういう場で「可愛い」と称されるのをあまり好まない。分かっているし、ここでは嫌がることをあまりしたくないのだけれど、それ以上に素直に振る舞うことを信条としているのでそこだけは譲れない。私の情人はとても可愛い。この他愛もない暗示にかかったふりをしてなだれ込む、形ばかりの結界の内側にある間は。
 ああ、でも、気を悪くしてしまっただろうか。心配になり眠気が少しだけ醒める。どれ、機嫌でも取ろうかと、開いていた指を丸めて、指の背中で頬を擽るようにしてみる。けぶるような銀の睫毛が震えた。瞳孔が開く。肉食獣。襲いかかる寸前の。
 ああ、でも。

 私の情人は私の体質ゆえに大層な忍耐を強いられてきた訓練済みの雄であるし、それ以前に人格の根本まで童貞が染み付いた童貞であるため、本能に忠実であろうとすると途端にポンコツになる。

 衝動のまま振る舞おうとして、直後に及び腰になり、それから腕の中にいるこの私の、舌打ち一つで塵になる脆弱さを思い出して硬直する。おろおろと泳ぐ目、わななく唇に堪えきれず、身体をねじって吐息だけの笑いを零した。
 バカにされたと思っただろうか。怒ったように布団めいて被さってくる身体はやっぱり熱くて重くて男臭くて、でもこれ以上なくおっかなびっくり優しく重なるものだから私は笑いを収めきれない。腕を回して熱くて分厚い背中を宥めるように優しく撫でて、腕の力が続く限り、盛り上がる筋繊維の塊を辿って名前を誦じて遊ぶ。いつだったか、ネマチョを気取ろうとした置き土産だ。筋肉美には憧れる。鍛えられた肉体は男女の別なく美しい。残念なことに我が身には縁遠かった。脊柱起立筋ってここか? よく分からん。ここだなぁと分かるのは僧帽筋、広背筋……どこもかしこもモリモリで、全く羨ましい限り。

 手のひらで感じる、とくとくと速いテンポで主張する全身に、嬉しくなって、興奮して、少しだけ元気が戻ってくる。食欲を感じる部分と性欲を感じる部分はどうやら近いらしくて、美味しそうなものの気配を感じると腰の奥も疼き出す。完全に重なった身体が、うなじを見せているのもよくない。身体をよじって隙間を作り、少しだけ頭を動かして、晒された急所に唇を当てる。ぴくんと反応した首筋に擦り込むようにして吐息まじりに名前を呼んだら身体全体が跳ねた。悪戯心を刺激されて、ゆったりと口付けを施し、わざとらしく、ちゅっと音を立ててみる。堪えるようにぶるぶる震える身体は、本人の口よりよっぽど雄弁に状態を教えてくる。面白くなってきてしつこく繰り返したら、力ない悪態が飛んできた。当然痛くも痒くもない。むしろ楽しい。可愛いリップ音が8度目を数えたところで真っ赤な顔が向けられた。
 わあ、代謝がいい。鼻の頭に玉の汗。
 やっぱり可愛くて、自然と笑ってしまう。首筋が遠ざかったので、目の前にきた鼻筋に口付けようと頭を持ち上げた。笑いながらだったから、きっと牙が見えていた。噛まれると怯えたのか、ぎゅっと閉じた瞼。真っ赤な頬。
 どうにもらムラムラが止まらずに、戻ってきた元気のまま、のし掛かる身体を軽く押す。左肩を押せば、右半身を支点にころりと転がっていく。かけた力以上に言うことをきく従順ぶりにいよいよ笑みは深くなる。

 それ専用に設けられた寝台は、掛布の色だとか造りだとかに目を瞑れば、広くて頑丈でなかなかに便利だ。仰向けになったシルバーバックに乗っかって、掛け布団になってやる。真っ赤な顔の中で空色の瞳がうるうるしている。つついたら落っこちそう。期待されているのかなと、鼻に歯を立てた。あむあむと甘噛みをして歯を滑らせる。眉がぎゅっと寄って空が見えなくなった。ううう、と唸り声が響いてくる。可愛い。意図せず吊り上がってしまう唇を尖らせて、顔中にキスの雨。熱烈キッス並みにしつこく、でも痕が残る程のそれは体力の都合で無理なので、あくまで紳士的に。

 うひ、とか、えへぇ、とか、およそ色気と縁遠い悲鳴のせいで、甦ってきたムラムラはあっという間に霧散していった。笑いを堪えきれなかったせいで、思っていたより全然保たずに頽れる。安定感の半端ない敷布団に乗っかってまだ収まらない笑いで時折ひくんと震えていると、不器用なお返しがぶちゅっと頭のてっぺんにきた。色々なことが上手になったと褒めたいのに、どうにも口付けが上手くならない。頬でも唇でもリップ音なんてもってのほか、いつだって子どもみたいにむにゅっと突撃してくる不器用に震える唇を思い、いよいよ我慢がきかなくなって、込められる全身の力でもって思いきりぎゅっと抱きついた。
 びきっと音が響いてきそうなくらいに硬直した身体がワタワタして、虫みたいに腕をワキワキさせたのちそーっと背中に来たのを、胸板に頬を押し付けながら甘受する。叩きつけるような鼓動、温かくしっとりした全身、落ち着きなくもぞもぞする絡めた脚、背中にある腕の重みと熱い手のひら。反応しているのも知っているけれど、ちょっと、もう、無理だった。しばらく眠ったら大丈夫かもしれないとも思い、少しだけ寝かせてほしいと目を閉じたままお願いすると、優しい真昼の子どもは別にとか何とかもごもご呟いて、しばらく迷ったらしい後に「寝たけりゃ寝れば」とつっかえながら吐き出した。

 分厚く、ところどころに固いタコのある手のひらが、不器用に頭に触れてくる。恐々と、額に貼り付いた髪を払い、毛並みに沿ってすいてくる、それが今日眠りに就く前の最後の記憶。ここに閉じ込めて、欲しい時にいつでも取り出せる場所に置く。きっと、ずっと、忘れないでいる。











 眠ってしまったのは呼吸で分かる。
 死んだように静かで、薄い身体もほとんど上下しないけれど、確かに深い呼吸になる。力の抜けた眉間からすんなり通った細い鼻筋、肉のない頬、尖った耳と尖った鼻先、小さな顎。牙も僅かに覗いている。どこもかしこも鋭角的な顔立ちに、ふんわりと前髪が被さるだけで印象は随分変わる。顔立ちは変わりないのに。三白眼が閉じて、邪悪に吊り上がる口元が大人しくつぼむと何もかも違って見える。目を伏せたり閉じたりしたこいつは、黙っていれば神経質な英国人のアーティストのようで、絶対に口にはしないが繊細な顔立ちをしていると思う。こんな機会はあまりないから、ぼうっといつまでも眺めてしまう。

 隈と相俟ってくたびれた風にも映るのは、散々無理を強いた覚えがあるからだ。薄暗い中でも目はすっかり慣れているから、涙の跡を認めてどうにも後ろめたく、そこでやっと視線を剥がした。
 脚を伸ばそうとして、絡みついた細っこい棒切れの存在を思い出し、結果足の指をぎゅっと丸めるだけで終わる。



 ルールを定めているらしいのは、当初からはっきり分かった。というかあからさまに知らしめてきた。ぱっきり分かれたオンとオフ。こいつにとって、少なくとも今は、髪を下ろす時間が完璧なるオフらしい。本来だったらジョンと、家族にしか許さないだろう時間。力を抜いた、素直でいられる、飾らないでいい時間。
 おいでと言われて、初めは威嚇を返した。内側にあった憎からず思う部分を探られて暴かれた心地がして、カッと頭に血が上ったのだ。そうして噛み付いた直後、何を言うでもない困った顔、へにょんと垂れ下がった耳を見て、凄まじい罪悪感に襲われた。
 以来、逆らえないでいる。

 こいつの人たらしは師匠譲りだ。ただし、力で押し通すのではない、もっと悪質なそれで、僅かでも甘い顔を見せれば一気に付け込まれる。能力ではない分、物理で解除させることが出来ない。時が解決することもない。心をどうにかするしかない。師匠より余程タチが悪い。

 ちなみに耳の動きが全くの無意識である点に、当の持ち主は気付いていない。私耳を動かせるんだよと自慢してきた時にはテメェあれも演技かよと内心ひゅっとなったものの、見せつけられた微風にそよぐ木の葉みたいな動きにスンッてなった。


 冷静に思い返すと、通常でも相当甘やかされている気がしないでもない。洗濯機が毎日稼働し、トイレから輪染みが消え、バスルームがピカピカになり、毎回どこに出しても恥ずかしくない食卓が維持され、イベントごとには詰め物入りの鶏の丸焼きが鎮座する。事務所にやって来たお客は、落ち着いて話ができる状態の人ならば大抵、供されたお茶とお茶菓子のクオリティの高さに驚くのだ。

 何かにつけてちょっかいを出され、仕事の邪魔をされ、責任を押し付けられては後始末を強いられ、加えて遠くから煽り立てられるものだから、感謝など相殺されマイナスになっているだけで……まあ大体巻き込んで、自業自得の痛い目に遭わせてもいる。
 それに、これはこれで、子どもの頃、あの無敵感で満ちていた日々のようで楽しくはあるのだった。学校に行けば仲間と会えて、何をして遊ぼうか考えるのが一日の大半を占めていて、嫌なことが起こっても何とか乗り越えて、乗り越えた後は文房具も掃除用具も全部が遊び道具になって、女子には敵わず、腹立たしいながらもちょっと甘酸っぱい存在だった、そんな時代を思い出す。
 一緒に同レベルの馬鹿をやれる間柄は、大人になると実は大変貴重な存在なのだ。ここ新横だとそうでもないかもしれないが。


 もう一段階進んでしまったのは、完全なる想定外だった。
 切り替わったこいつはまるで別人みたいに、別人ではあり得ない知識でもって俺を存分に甘やかす。いつまでも二人称に童貞を持ち出されたりするものの、それ以上に可愛がり倒してくるので、腹をブラッシングされるジョンの気持ちもかくやの境地に至ってしまった。かつ、調子を狂わされたままどこまでも内側に招き入れられて、底の見えない別の生き物が腹を見せて眠る様を見守れる立場ともなった。
 普段から大口を開けてよく笑う奴だが、ここでもしょっちゅう笑っている。でもいつもとは違う、いつものあれじゃない。いつもの、口の端を吊り上げた、三流悪役魔導士みたいなアレじゃ全然ない。力の抜けた、ふにゃふにゃした、如何とも形容し難い、見ていると腹の底がザワザワして、殴りつけたくなる、あれ俺サイコパスじゃん……?


 俺はもう一段階進んだまんま、全部を欲しいのに、こいつは切り取られた時間か、それ以外か、どちらかしか許さない。混ぜることを良しとしない。
 髪の下りた、もさっとした頭で手を引かれれば、一も二もなく着いていく。その間は惜しみなく何もかも大盤振る舞いしてくれる。欲しいものは何でも、それこそ、身体も言葉も振る舞いも、本当に何でも与えるくせに、起きて、身嗜みをすっかり整えた後は、綺麗さっぱり削ぎ落とす。髪を下ろしていた時間の自分をそれはもう綺麗に切り離し、ノーマルの状態ではそこにアクセスしないと決めているようだった。それがルールだと突きつけてきた。初めは、負けん気もあって、そっちの方がまぁ俺も楽だし、ジョンにだって、事務所の奴らにも変な気を遣わせないで済むって、割り切っていたつもりだった。

 全然割り切れず、もやもやを抱えたまま何年も思い悩むことになるなど、初めて他人と肌を合わせた歓びに有頂天になっていた当初は考えもしなかった。
 だって、これって、まるきり。なぁ。





 そうでないと保てないのだと分かったのは、吸血鬼のあれこれに随分詳しくなってからのことだ。古い吸血鬼には、おいお前らワガママ過ぎんだろってくらい制約が多い。うちの吸血鬼は尋常じゃなく弱く、やたらめったら由緒正しい一族に生まれた純血のくせして、思い至るほぼ全ての制約を背負って生きている。

 思い上がりでなければ、この身はきっと、それなりに執着されている。
 それが強ければ強いほど、失くした後が酷いだろう。
 人間で、退治人で、それが誇りで、曲げるつもりもない。
 だから先は見えている。

 きっと100年後の未来、髪を下ろすことなく生きるだろう最弱の吸血鬼のことを想像して、時々どうしようもなく泣きたくなる。俺が泣いてもどうにもならない。泣きたいのは向こうだろう。泣くか知らんが……いや泣けよ、ちくしょうが。





 ぴったり重ねられた部分がじんわりと温かい。晒された部分が冷えるのか、眠りが浅くなったのか、人の上で死んだように眠っていた身体がもそもそと身じろぎをし出した。表面積を小さくしようと丸まり出し、俺の背中に冷たい指先を差し込んでくる、それがどうにも巣穴に潜り込む動物を思わせて、ふはっと何だか笑えてしまった。ハムスターみたいに身体が小さい生き物は、茹だるのも冷えるのも早いらしい。ペットの管理は飼い主の責任だ。俺には昔飼っていたカメを、知識が乏しいまま弱らせてしまった前科がある。うちで夏にも冬にも冷暖房を存分に使い倒そうとするクソ雑魚砂おじさんは、筋肉がないので体温を自力で保てないのだ。それなりに気を遣っているのに、目が覚めたら砂場だったなんてこともままある。
 掛布を手繰り寄せ、上からふんわり被せると、風圧で寒さを感じたのか尚更擦り寄ってくる。潰してしまわないよう気を付けながら、でも持てる限りの心でもって、腕の中の愛しい生き物を抱きしめた。
 日暮れにはまだ早い。





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