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 やられると思った。
 そういう、踏み越えたような気配を明確に感じて、伸ばさんとした手が動くより先にオレまで切り裂かれそうな風圧がきて、気が付いたら目の前に突き立っていた槍に危ういところを救われたらしかった。何が起きたのか把握できずにみっともなく乱れた呼吸を整えることしかできないでいる、その間にもぞろりと伸びて視界を覆った妖気が、向けられた殺気に粟立つ全身が、何より槍が疾く、疾くとオレを急かした。だのに、汗で滑る指を絡めてぎゅっと握り直した槍はちりとも鳴かず、それきり無言を貫く。

 からからの喉から何とか捻り出し「殺す気かよ」と尋ねた声は、ひび割れて自分でもとても聞き取れない程だったのに、とらは正確に拾い上げたらしい。是とも否とも言わずに、ただ鼻で笑っただけだったけど。





 好奇心だと最初は思っていた。一番納得のいく答えで、一番自分で許せる理由だったからだろう。撥ね除ける程嫌でもなかったし、どこまで行けるのか興味がないわけでもなかった。
 実際のところは後から自覚した。どんな思惑からだろうと己に向けられた手を、目を、関心を離すまいと、オレは自分の意志で確かに握り返して執着した。初めはガラにもなく優しい手だったから、きっと油断もしていた。

 そのうち手よりも舌で触れられることが増え、もしかして味を確かめられているんじゃなかろうかと、その頃も首裏にチリチリしたものは感じていたが確かな形ではなかった。擽ったいばかりだった感覚が異様なものを連れてくるようになり、恐ろしささえ覚えて腰が引けても絶対にヤツは許さず、その辺りから全然優しくなくなった。あまりのことに本気で泣きが入る頃、意識が危うくなる境で、針でも射込むように鋭いものを向けられて、そこでいつも水をぶっかけられたように、どろどろに蕩けていた意識が一旦醒める。同時にいつもオレ自身をぶった斬るような勢いで槍が傍らに飛んできて、それは中断の合図ではなく、むしろここからやっと本番なのだった。





 獣の槍を振るう時、オレはいつもバケモノなのだそうだ。
 そうなのかと素直に受け止めていたけれど、それは少し違うと今は考えている。張り詰めた肩や太い腕に食らいつきながら、考えている。

 見たわけじゃないがきっとまた、ちょっとやそっとじゃ消えない痣が腰から下にできている。いつもの場所をいつもと同じようにでかい手にがっしり固定されて、揺すられる度にぐっと食い込んでくる爪の痛みがあるから何とか我を失わずにいられる。負けじと目の前にあるものに見境なく噛み付いて、尖った歯を遠慮なく肉に食い込ませる。そうしないと、それこそケダモノみたく吼えて、哭いて、その声を自分で聞くのが本当に嫌なもんだからいつも必死だった。初っ端から床に転がされると何にも掴まれず、振り回されるまま喘ぐように息をするだけがやっとで、口を、あるいは耳を塞ぐことさえままならない。もうあんな無様なことは御免だと訴えて、何とか今の体勢に落ち着いた。傲岸不遜を絵に描いたようなコイツは意外にもあっさり譲り、黙って肩口だの首筋だのを明け渡す。
 いや、黙ってはいないか。とらは、性悪だし口も悪いし、意地の悪いことを本当に沢山言う。意味が分かるうちは反論しようもあるが、いつだってへばるのはオレが先だから途中から言われ放題だ。何を言っているのか認識できなくなってからも「あ、何か言ってるな」っていうのは分かる。きっとオレの知らないうちにも色々言っているはずだ。


 一度、食い破ったことがある。
 溢れた血は一瞬で口腔に満ちて、喉に詰まった苦しさに咳き込んだせいで結果的にこっちもえらい目に遭った。ただでさえ人の腹には度を超えた質量に圧迫されているのに、吐きそうになる度勝手に腹に力が入りビリビリと脳天まで刺さる刺激には泣くしかなかった。血塗れの口でゲホゲホ言っては苦しいと泣き喚くオレと、ダラダラ血を流す自身の傷口にも頓着せずひたすらに行為を続けたとら。軽く地獄絵図だった。

 オレが真実バケモノならば、この血を、肉を、この舌に旨いと感じるはずだ。味なんぞ感じる以前に口に入れてはいけないものだと、オレの身体は天から受け付けなかった。だから自分はバケモノにはなりきれていないのだろうと思う。人でも妖でもない、狭間にいるんだろうと思う。食いちぎった一部が口内に残るまま、引き倒され組み敷かれて、そのまま血を垂れ流す正真正銘のバケモノが覆い被さるせいで口だけじゃなく全身血塗れになった、あの日、無駄に流した自らの血を平気なツラして全て舐め取ったとらのようにはなれない。なりたいわけでもないけど。





 殺気はいつもほんの一瞬掠めるくらいの、でも確実に牙で裂こうとする、爪をかけようとする強い意志の篭ったものだった。ぞっと肌を掠める剃刀のように鋭いそれが向けられれば、こっちだっていちいち反応して戦闘体勢に入る。いざとなれば対抗できるように槍を握る。なのに、こっちが構えれば物騒な気配はそれ以上食い込んでくることなく、肌を撫でただけですうと引っ込んでいく。いつも腹を引き裂かんばかりに押し込まれるものも、その牙や爪と同じくオレにとっては十分すぎる凶器だから、もしかしたらコイツにとってこういうことは喰う代わりなのかもしれなかった。胃の腑に収めてしまえば一瞬で終わるけれど、これなら何度でも楽しめるって、それはとても納得できる考えだ。憂さ晴らしもあるかもしれない。だから、隠しきれずに出てくるんだろう。

 針だか剃刀だかを思わせる、とにかくやけに鋭いそれをいつしか向けられることに慣れて、慣れたくもないのに向けられるのが当たり前になって、その頃にはこっちこそ殺してやると、そんな物騒なことを念じるようになっていた。ぜいぜいと息も絶え絶えに、おかげでもう歯を立てることすらできず、元気なうちはぽんぽん出ていた罵詈雑言を吐く余力など微塵もなくなり、胸に頬を擦り付けて縋るばかりになった頃、いいように揺すられながらよく思う。

 そんな時、厚い胸に重ねた自分の身体が発火したように熱いせいで、表面を覆う滑らかな被毛はひんやりと感じて気持ちいい。恥も外聞ももうどうでもよくなるこの時に頬を擦り付けて味わうのは、絶対に口には出さないが密かな楽しみだった。何度向きを変えても、場所を移しても、その冷たさはすぐになくなりオレから沁みていった体温でぬくくなる。その頃になると奥に確かに脈打つものが、埋み火のようにかき分けてやっと分かる熱がこちら側にも伝わってきて、何でかものすごく安心する。泣きたいくらい嬉しくなる。今首に手をかけられても反撃できないだろうと思うくらいに。油断させるのが目的ならばとうに叶っているのだ。

 枯れた喉では言葉にならない。だから繰り返し念じるように、殺してやると思う。

 預けた心を、ここまで許すこの心を裏切るようならば、きっとオレはバケモノにでも何にでもなっておまえを殺してやるって、誓いでもたてるように繰り返し思う。その瞬間はまともじゃないから、本気でそう思っている。これ以上ないくらい深く重なり合いながら、互いに喰ってやる、殺してやると思っている。

 殺意が混ざり合う交接に夜気が張り詰め、上り詰める瞬間はずっと耳鳴りがしている。身体ごとぶつけてむしゃぶりついて、自身の一部をなすりつけて、爪痕まで確かに互いに残しているのに、ちっとも満たされず、むしろもっと欲しくなる。得ているだろうに、飢えたような気持ちが際限なく膨らむばかりなのが不思議だった。とらが望むように本当に手をかけて引き裂いて、骨の一片も、毛の一筋だって誰にも分けずに全てを腹の底に飲み込んでしまえば、あるいは満足できるのかもしれない。










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