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※その後の未来










 朝、目が覚めた時に晴れていると嬉しくなる。晴れの日は目に見えて機嫌が良く、雨だとあからさまに悄げるうしおを、父紫暮が「古代人の血がそのまま残っとるんだろう」と評したことがある。そんなんじゃない、ごくごく単純に、晴れた中で色んなことを楽しみたいだけだ、青空が大好きな性質所以じゃないか、そううしおは反論したい。
 さあ今日は何をしようかって、わくわくする一日の始まり。晴れた日の朝がたまらなく好きだった。





 今日は休みと決めていた。
 そんな朝に外はからりと晴れていて、目覚めて最初に機嫌良く隣の妖を呼んだのに返事がない。とら、と呼び習わしている馴染みの妖は自分よりも宵っ張りだったり早起きだったり、気まぐれに昼寝など楽しんでいたりもして、どうにも行動が読み辛い。

「とらー? ……とらやーい」

 敷地内にいるなら届くだろうと声を張るが、呼び方はだんだん粗雑になっていく。

「とら公ー、とら吉、とら太郎ぉー。おーい」

 いねえのか。
 ちぇっと舌を鳴らし、ひとりごちる。連れて行ってもらおうと思ったのに。当てが外れたなあと少しばかり気落ちして、寝床の上で胡座をかく。

 風景を水彩絵の具でスケッチすることがうしおの中で流行っている。すささ、と鉛筆で簡単にアタリをつけて、後はひたすらに絵の具を重ね置く。透明感のある色絵具を水で溶いては置き、乾かし、繰り返すうち、重なりが上手く響き合えば色は深みを増していく。ただの真っ平らな紙面に奥行きを与えるその表現方法は、油絵具の物理的な立体感とはまた違った魅力があった。初めはカンバスが手に入り辛くなったことで代わりにと仕方なく手を伸ばしたのだが、今やすっかりハマっている。水を含ませた柔らかな筆で紙を撫でるその感触を思い出して、胸がうずうずする程に。

 先走る気持ちを落ち着けようと、お手本と定めている大切な画集を引っ張り出す。こんな風に空が描きたい。こんな風に海を輝かせたい。こんな風に風を吹かせたい。あるいは本当の風景よりも心を揺るがすことさえあるそれらに、すげえなぁと我知らず呟いていた。込められた画家の思いの力だとうしおは考えていて、何度見たって素直に感じ入っては感動している。
 眺めている間に感極まって、繰り返し捲ったせいでくたくたに柔らかい紙面をうっかり強く握り過ぎてしまい、しまったと慌てて皺を伸ばしていると不意に頭にのし掛かるものがある。

「とら」

 そこまで重くはないが、圧迫感があるし不快だ。そんなに力を込めるなと言ってはみるが素直にきく奴じゃなし、それどころか頭にかけられた体重はわざとらしく増した。いつものことと受け流し、ひとまず約束を取り付けようと声をかける。

「なあ、ちょっと乗っけて行ってくれねえか。山の方」

「またかよ……おめぇが行けるとこにしとけや」

 ふんと鼻息を吐いて寄越された返事は気怠げで、とらは明らかに乗り気でない様子だった。長いこと外で遊んでいたらしい。さらさらと落ちかかる長い鬣から朝の清冽な空気が匂う。すん、と鼻をきかせたうしおが、この晴れは当分続きそうか尋ねてみようと口を開いたところで、文句に出鼻を挫かれる。

「妙な呼び方すんじゃねぇよ」

 手前ェで付けた癖によ。

 低い声音に潮はぽかんと巨躯を見上げ、遅れて破顔した。

「あー、それで拗ねてんのか」

「なッ」

「わりいわりい」


 ぞんざいな謝罪にか軽くいなされたことにか、子どものようにむっとした顔で「拗ねてなんざいねえ」とそっぽを向いている。機嫌が直るまで放っておいた方がいいと判断したうしおは予定を変えることにした。





 ぱきんぱきんと足元で木材やプラスチック片が鳴る。雨が続けば水に運ばれて、ひび割れが進行してそこかしこがごっそり剥がれ落ちたアスファルトの間に多くのゴミが入り込むのだ。うしおの暮らす芙玄院は墓地も含めると広大な敷地を有しており、手入れをするには人手が足りない。表の通り道を掃除するだけでも相当の時間がかかってしまう。今日も手強そうだと腕まくりをしながら、行けるところまで行ってみようとガレ場と化した道路を跳ねるように越えていく。端までたどり着き、街を見下ろした。
 市内の多くは水没し、朽ちていく建物が何ともうらぶれた雰囲気を醸し出すが、うしおの目には既に見慣れたいつもの光景である。かつて通った学校だとか、世話になった商店街だとか、縁のある場所を見つけてしまう時、ほんの少しだけ胸が締め付けられるくらいだ。今できることをできる場所で懸命に続け、営みを止めない人の強さを知っているから、落ち込むこともない。


 今日は一人だし、気ままに過ごそうと決めた日だ。とりあえず掃除でもするかと出てきたのだが、久しぶりに晴れた中で見る光景をぼうっと眺めてしまう。朝の風が心地よかった。
 どれくらい呆けていたのか「オイ」と声をかけられるまで、近くに寄っていた気配にも気付かなかった。


「須磨子は、どうしたよ」

「総本山。昨日説明しただろー?」

 腹でも減ったのかって、肩に戻ってきた重みに笑う。

 日崎御角がそうであったように、須磨子もまた『お役目様』を、光覇明宗の芯としての役目を担っている。一般には全く変わりないように見えるその容貌も、うしおの目には、緩やかにだが確実に変化していることが分かってしまう。

 白面の者が確かな恐怖を振りまいていた頃、その当時うしおが縁を結んだ人々はほぼ、とうに鬼籍に入っている。父親を見送った時は堪えたものの、その後続いたあまりに多くの別れに、だんだんと、摩耗するように、人の死を受け入れることに慣れていく自分を見つけてしまったのはいつのことだったか。慣れなければきっと耐えられなかったと分かっていても、心の在り方まで変わってしまったようで恐ろしかった。途切れず続く稀少な縁と、新たに繋がる縁とに助けられて、おかげでやっと前を向こうと頑張れる。
 うしおの外観は、最後の戦いから然程……否、全く、変わらないままだ。
 そのせいでやるせない思いを噛み締めることもあったが、いいことだってあったからとうしおは概ね満足している。全てを諦められたわけではない。けれど、どうにかならないかと一通り足掻いた後、なるようにしかならないと最初に開き直ったのは当人だった。

 きっと何かしら果たすべきことがあるのだろうと、そんな話を交わした時、両親は複雑そうな顔をした。これ以上何を……とそこで言葉を切った紫暮がふと顔を上げうしおと目を合わせた時「ああ、今、オヤジとオレは同じことを考えている」と確かに感じた。そう悲観したものじゃないと返したことを覚えている。「母ちゃんより先にゃ死なねえ」と言ったら須磨子が微笑み、そうして堪えきれずに涙を溢したことも。



 実は己の望んだことではないかと、それは早くから考えていた。

 遠く(実際にもう数えきれない程の年数を経て)、戻ってくるかもしれない妖たちを、そしてかけがえのない片割れを、自分が迎えてやりたいと、それは叶わないと知りながらもうしおが心底望むことだったから。

 ──ジエメイさん。ギリョウさん。

 叶わない願いを、内側で眠る二人の兄妹が叶えてくれたのかもしれないと、そんな風に考えている。幾度となく語りかけたのに、応えが返ってくることは一度もなかった。それでも折に触れて、うしおはよく語りかける。

 ありがとう。
 二人のおかげで今日もオレは元気だよ。
 とらも元気だ。
 憎ったらしいとこもあるけど、大事な相棒で、また会えて本当に嬉しいんだ。
 いつかまた別れがきても大丈夫なように、今日もきちんと生きてくからさ。
 見ててくれよ。




「なぁなぁ、何かねェのかよ」

「何だよ。マジに腹減ってんのかよ……」

 朝っぱらからウロウロしていたのだから、てっきりどこかで何かつまんできているだろうと思っていたのに、飯時だからと戻ってきたらしい。今の時期なら色々食えるのが生ってんだろうが、と文句を言いつつ、草の実だの花だのを口にするとらの姿を見るといつもこっそり笑ってしまううしおである。でかい図体に不似合いなことに、なかなかに可愛らしい振る舞いを見せることがある妖を、不本意ながら甘やかしてしまうことが増えた気がする。そして、たまにはそれも仕方ないと許している。誰もはっきりと指摘はしないが、この妖が、なんのかんの言いながらも共に食卓を囲むことを決して嫌ってはいないことを、関わりの深い者は皆知っている。
催促する声に「仕方ねえな」と踵を返した。



 母の須磨子と、その遠い縁者である旧姓井上真由子は、人としては今やたった二人の、うしおのかつての戦友だ。白面の者による大災害を乗り越えた人の世界は、目に見えないものたちとの境界を和らげ、同時に尊重を少なからず取り戻した。架け橋となる人々の存在はこうした世にあってますます儚く、しかしその血筋は細いながらも各地で確かに根付いている。日崎の家系もその一つで、真由子は我が子と、そのさらに子どもらと共に、少し離れた土地で暮らしている。

 より堅牢なシステムを組み上げて復興を果たした日本でうしおたちは長い年月を過ごし、新たな災害が起こるその都度、できることを懸命に探して生きた。やがて、体力が保たない間隔で相次いだ激甚災害に世界はゆっくりと疲弊していき、人間社会は今や随分と規模が縮小され、国家がその機能を生かせる地域は限定されている。
 うしおと須磨子は、今やその範囲外である芙玄院で暮らし続けることを選んだ。不便ではあるが、生きていけないことはない。小さくなったとはいえ人の世から技術が滅失したわけではなく、都市ではそれなりに生産と消費が繰り返されている。己でどうにかなるもの以外、例えば衣類だとか絵の具だとか、そんなものは足を伸ばして買いに行くのだ。

 ちなみに今現在みかど市に電気は供給されず、水場もあるにはあるがそこそこ遠い。須磨子などはものともせず「もともとそうした時代の者ですから」とニコニコしていた。うしおもすっかり順応し、狩猟採集を地でいく生活をそれなりに楽しんでいる。実は農耕生活にも手を出している。あまり上手くいかずに悪戦苦闘しているが、家庭菜園と呼べる程度の実りは得ている。
 とらはといえば、アレルギーがどうのこうのと文句を言いつつ賑やかな場所も好きらしい、中心都市までよく散歩に出掛けては、好奇心のままに土産を持ち帰り高確率でうしおと口論になる。うしおの言い分は最近では「ひと様に迷惑をかけるな」よりも「ゴミをこれ以上増やすな」に比重が傾きつつあり、いずれにせよ怒りの度合いは変わりなく、とらは全く腑に落ちないまま戻しに行かされたりしている。



 奇跡みたいに重なり合った偶然と、足掻いて足掻いて思いが引き寄せたチャンスが合致して、ここでこうして生きている。うしおの認識は「生かされている」に近い。揺るがなく見える建物も大地が身動ぎするだけで割れ、どれだけ深く杭打とうとも激流には根こそぎ浚われる。あまりに巨大な力がうねる中で、生かされている自分ひとりの力などちっぽけなものだと、それを知っているから、手を繋ごうとなりふり構わず伸ばせる。差し出せる。生きることを許されている限り、一生懸命生きたいと願う。



「じゃ、行くか」

「あーあ。しょうがねぇなァ」


 ひとの分まで食っておいてその言い草はなんだ。あれっぽっちで治まるか。崩れかけたのち不細工ながら建て直された山門、軽やかに蹴った影がみるみる小さくなり、ぎゃあぎゃあと喚き合う声は遠ざかる。しんと満ちていく静けさを厭うように風が舞い、木立の中を通り抜け、高さを増しいよいよ輝く日の光の中を駆けて消えていった。










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