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 ──あれは一体何だったのでしょうね。

 触れるつもりはなかったのに、沈黙が居た堪れなくて思わず零してしまった。そうしたら思いの外しっかりと返事をされて、結果俺はますます居た堪れなくなった。そうすると身の置き場に困るこちらの心情を察したらしく、あっさり会話を切って気にするなととぼけた顔をする。
 この人は大体がいい加減な癖に、時折やけに真摯だ。
 やれやれ、と思う。
 いつもその振り幅に巻き込まれてしまうから。





「俺も、向こうに行って初めて聞いた言葉だ。無理やり訳すなら、高位存在とかいうものらしい。発生して、ただそこに在るだけの空気みてぇなもんだ」

「ただし、空気なんて比較にならん程やたらと濃い塊。この世を一変させてしまえる程のエネルギーの塊。こいつらにとっちゃ、国を潰すのなんか朝飯前さ」

「厳密には意識を持たない。意思を持った何かにくっついて初めて本当の意味で生まれると言っていい。何とくっつくかで、神だの精だの呼び名が決まる」

「そいつが何をするか行為の善悪なんて関係なく、人と合わさって使役されればそれは西洋では悪魔と呼ばれる」

「あいつは、随分昔からとっつかれていたんだ。きっかけをつくったのは俺。だが契約を交わしたのは解慕漱。そうしてアレは完全に悪魔と称されるものに成った」

「お前もいいように使われただろ、仙比の阿志泰。ありゃ、解慕漱の一部を借りて存在した悪魔の分身で、つまり解慕漱自身でもあったのさ。幻術でも魔術でもない、タチの悪い分身なんだから、そりゃ見間違うのも当たり前だ」

「変質してしまったとはいえ、どちらも解慕漱自身なんだから」

「ガキの頃から陰にずっと潜んでいて、俺がちっと目を離した隙に喰われっちまった。奴がここにいないのも間違いなくそれが理由だろうよ。高位存在と融合したものは根底から変えられちまう。人と見なされず、だから俺たちと道を異にしたんだろ」

「……何だよ。自分から聞いておいて。お前、あのゾンビ時代の厚かましさはどうしたんだよ。イヤミも涼しい顔で受け流す、あんくらいで丁度いいぜ」











 結局何者だったのかと、問いに応えてやる気になったのはほんの気まぐれだ。自分自身が整理したかったのかもしれないし、素直に親しみを露わにする元部下に柄にもなく絆されたのかもしれない。辛酸を舐め尽くした果てに漸く安らぎを得たこの男には、求められれば多少は報いてやらなければという妙な義務感を感じてしまう。

 昔聞きかじった程度の知識は精度に自信がなくて、思い出すためには視界を遮ることとそこそこの集中力が必要だった。閉じていた目を開けた途端飛び込んできた情けない面に吹き出したくなり、そして実際吹き出した。もともと生真面目な男だ。自分の問いがあまりに不躾だったと、その目が慚愧の念をありありと滲ませている。どう詫びたものかオロオロと考えているだろう頭の中まで透けて見えるようだった。笑い飛ばしてやるくらいで丁度いい。

「……何が可笑しいんです」

 気遣いは功を奏し、揶揄した物言いにかそれとも笑ったことにか、とにかくこちらの態度が気に障った元述から申し訳なさそうな表情は薄らいだ。その代わりに眉間が寄せられる。むっとした声音は子どものように表情豊かで、ますます笑いがこみ上げた。抑えきれず漏れた、くく、と喉が鳴るような笑い声は更なる不興を買ったようで、元述の機嫌は目に見えて悪くなる。

「怒るなよ」

 その開けっぴろげな感情の発露が嬉しくて自然と頬が緩んだ。

「元述?」

 より深い笑いになっただろうに、今度は何故か戸惑ったように目をそらす青年が不思議で、もっとよく見たくて頭を少し傾けた。

 大樹の枝は四方に伸び日を翳らせて、お陰で逆光になる筈の元述の表情がよく見える。大地に背を預けて大きく体を投げ出した己の傍らに、片膝を立てて寛ぐ元述からは、溶路で見せた狂気はもう片鱗すら探せない。昔に戻ったかのような、その面差しをつくづくと眺める。元来の朴訥とした佇まいに加え、凄惨な修羅場を潜った過去に鍛えられた精神は透き通る湖面のように静かな深みを感じさせた。いい男だと思う。

 この男が並々ならぬ執着を自分に感じていることは薄々察していた。昔は単純に軍人としての頂点に立つ自分に対する畏敬か憧憬とたかを括っていたが、どうもそうではないらしいと気付いたのはその執着がどうしようもなく拗れに拗れ形を変えた後だった。阿志泰に無理やり甦らされた後は正直心底憎まれているとしか感じられなったので、大人気なく色々と言い返したことを今は後悔している。少しだけ。

 そういえばあの時もこの時も、複雑だったんだろうなぁとぼんやり思いをあちこちに巡らせていると、その間ひたすら茫漠とした視線に晒され続けた元述は耐え兼ねたように「何です」と切り込んできた。金海での遣り取りを思い起こさせるその言葉に、当時の反抗期真っ盛りだった元述がふと甦り。「業が深いな」と呟いたのは元暁や元述を追い詰めるきっかけをもたらした己に向けてで、反射で零れ出た独り言だった。だのに何を思ったか、耳にまで薄っすらと朱を上らせたその面がいっそ見事で、何だか本格的に絆されてしまいそうだなぁとぞっとしない感想を持つ。

 目を逸らすと、一面の柔らかな緑が目を喜ばせる。
 敷き詰めたような草花、ここも季節に応じて鮮やかに色彩を誇るらしい。今は春を迎えようとしている。桂月香の遊びに付き合う内に、草花の名前やら由来、象徴にやけに詳しくなったので、その辺を歩いていて名を言えない草花はほとんどない。一つ一つ思い起こしながら、掠めるように蘇る甘い思い出に浸った。

 甘い象牙色をした白木蓮の花弁がはらりはらりと落ちていく。皿のように大ぶりの花弁は毎年絨毯のように地面に降り積もっていた。一等綺麗なものを選り分けて満面の笑みを浮かべていた幼馴染の少女──はにかみながら手を振る親友の姿、商才に長け切れ者だった父、長い黒髪の美しかった母、世話をしてくれた大人たち。
 まだ、覚えている。


 花を眺める今この瞬間にもふと、自分を形づくる何かが、薄皮を削ぐように少しずつ剥がれ落ちていくのを感じる。石の角が河川に磨かれていくように。雲が風に吹き散らされるように。……浄化されるように。世界から自分が全て剥がされる時、生まれてきた場所に還るのだろうという漠然とした予想は、恐らく間違っていない。生を完全に離れることへの少しの恐怖、不安と、それを圧倒的に上回る安堵。自分が、雄大で、深遠な力に、生き物として在るべき流れに身を委ねている確信。

 いつかは分からないその瞬間を待ち侘びながら、胎内のように閉じられた穏やかなひと時を享受している。



 暫く落ち着かない素振りをしていたが、さすがに武人らしく心を落ち着ける術に長けている。もう表面上は澄ました顔をしていた。
 こうして戯れる時間を今自分が好んでいることを自覚はしている。そう間もなく消えてしまうだろうことを惜しむ気持ちも。友愛と親愛と、情愛と。どれだけ区別しようとは思っていても、要は「気に入っている」ということで変わりはないんだろうとそこは観念した。
(一心に向けられる瞳が仔犬のようで庇護欲を思い起こさせる、なんてところまではさすがに言えない)
 ちらりと薄目で見遣れば、隣で寛ぐ体を装い、実際のところあちこちの筋肉を緊張させている元述がいる。歯痒い程の若さを感じて、何だか見ていられない心持ちだ。目を閉じてやり過ごそうとしたが、そうすると今度はこの陽気だ、欠伸が出た。

 瞼越しにも風に揺れる光を感じる。足りないものは何もないと思わせられる。そんなはずはないのだけれど。まだあとちょっとだけは。

「……いい天気だなぁ」

「そうですね」


 風が木の葉をそよがせていくその音、肌に感じる空気の動き、瞼にちらつく木漏れ日、全て己の感覚器で受容している筈なのにどこか遠い。枕にした自身の腕、投げ出した素足が下生えを柔く押しつぶす心地よさ、そんな自分をすぐそばで見下ろす元述の労わるような縋るような眼差しを知覚しながら、外側から全てを見ているような俯瞰的な感覚。酩酊した時に通じる何か。ただひたすらに歩み続けた生の果てに訪れた凪の時間。時が止まったかのような箱庭で、静かに胸に満ちる何か。

 行くべき時は分かっているから。あとちょっとだけ、このままで。










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