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※すごくパラレル





 変わっているな、というのが最初の印象だったように思う。
 鉄とコンクリートで固められた橋の上、いつものように目前を過ぎ行く脚だけを見つめ忙しなく目を動かしていたところ、一言の声もなくいきなり作業台に足をどっかり乗せてきて、でもそれが仕事だからこっちも反射で手を伸ばした。足にというか、正確には靴に。

 そこで「変な人だな」と思ったのだ。

 乗っていたのは、いつも自分が相手にするものとは全く異質な素材だった。足に沿うくたりとしたキャンバス地に土を踏みしめて薄汚れたゴム。見慣れた動物由来の、使い込まれて無数の皺が入ったり寒さと乾燥に罅が入りかけたり、そんな皮革に引いてやる油やら墨やらを引き寄せていた手が止まる。
 靴の大きさからして、そこそこの体格をした立派な男のものだと分かる。そろりと上目で確認した顔は完璧な無表情で、眦が吊り上がっているわけでも眉間が狭まっているわけでもない。悪意もないが好意も見当たらない、ついでに光もない無機質な目は真っ直ぐこちらに向けられていたけど、突き抜けた先を見るようなちょっと独特の目つきだった。
 酒気も感じないし、薬物の気配もないし、そこまで怖い人ではなさそうだ。少しほっとする。この辺りは懐の比較的豊かな上客が多いけれど、代わりに彼らはいつでも血の気が余ってる。
 さてしかし、どうしようか。

 自分がズックを履く習慣のないのとそんなのを磨いた経験がないのとで戸惑っていると、置かれていた靴が消えた。何が起きたか分からず呆気にとられる。

 認識するのに時間がかかったが、靴は消えたわけじゃなかった。台代わりの木箱を突き破っていただけだった。

 木箱から生えた脚と木屑のパラパラと落ちる音。舞い散る粉塵と充満する暴力の気配、一瞬の静寂。己の顔面から血の気が引ききる音を聞いた気がした。





 物静かな態度と裏腹にその辺を彷徨いている破落戸より大分、かなり、はるかに危険な血の気の多さを誇る彼はそれからも時々やって来た。

 正直、極力関わり合いになりたくない。

 お引き取り願いたかったが言い出せる筈もなく、諾々と手を伸ばす。もたついていれば警告が、つまり鉄拳が飛んでくるので必死である。仕事に集中すれば相手がどんな存在であるかなどたちまち忘れ去ってしまえるのが幸いだった。

 大事な商売道具一式を収める木箱を破壊された日にはさめざめと泣きながらいっそ余所に移ろうかとも考えたのだが、しがない靴磨きにも縄張りというものがある。
 溶けた雪に運ばれる土に道のそこかしこが汚れ、雪を溶かすために撒かれる塩が皮革にもフェルトにも容赦なく浸透し傷ませるこの土地で、同じ生業を持つ者は非常に多い。この町この地区に居を定めてから数年をかけてやっと開拓した小さいけれど確かな市場をたまにやって来るイレギュラーな存在のためだけに捨ててしまうのは惜しかった。

 襲来に怯え乗せられる足に怯え落とされるコインに怯え、それでも月日が経つごとに徐々に馴染み、その客は少しずつ日常に組み込まれていった。しばらくやって来なければ「最近見ないな」と思える程度には。


 光のない瞳に無口無表情と揃った彼が何を考えているかはさっぱり分からないが、不気味なのはそれだけで、気に障るような何かをしなければ実に仕事のやりやすい相手である。酒臭い息を吹きかけられたり無駄に絡まれたりしないし、代金を踏み倒されたこともない。
 慣れてきた今や無駄のない手付きでものの5分もあれば彼の足元はぴかぴかに輝く。渡されたコインを握り締め礼を言う頃には既に背中を見せ無言で通りを去っていく。いい人かもしれないとどこかでそんな安堵をしていたある日、またもや印象は覆された。





 ある夕暮れ、木箱(修理跡が生々しい)に乗せられたズックのあまりの惨状に目を剥いて持ち主を見上げた。革を接ぎ合わせたわけでもないそれをわざわざ金を出して磨こうとする物好きな客を彼以外に知らないが、もしかしたら別人かと思ったのだ。こうやって人に頼むだけじゃ足りずにきっと自分でも手入れを怠らないのだろう、履き込んである筈のそれはいつでも鈍く光っていたから。

 変わり果てたズックを呆然と眺める。

 爪先はソース壺にでも突っ込んだようにべったりと汚れて、側面にまで散った飛沫に暗く色を変えていた。白かった綿の靴紐は斑の茶に染まり片方は接いであったゴムと布の継ぎ目が綻んでいる。
 呆気にとられて上向いたら見下ろしてくるいつもの無機質な目とかち合って、咄嗟に手を伸ばした。寒さのせいか別なものに背筋を撫でられでもしたか、首のあたりがすうと冷えた気がした。

 ブラシで砂と固まった泥のようなものを払い落とした後、ウエスを何枚も取り替えて汚れを取り除く。古びたペンキのようにぱらぱら落ちる黒っぽい汚れの正体について、必死に考えまいと努めひたすらに手を動かした。腥いような鉄臭いような微かな粒子も気のせいと断じる。

 じわじわと染み出してくる恐怖は作業に打ち込む内に不思議と薄まっていった。
 よっぽど大切なものなんだろう。拘りの逸品とか、誰かの形見の品とか。

 大抵の者なら廃棄を考えるだろうものを敢えて磨きにやって来る理由はそういうことなのだろうから、何とかして元の状態に近付けたかった。

 紐を緩めて靴を抜き去り晒された足は肩に掛ける。ぐっと踏みしめられた気がするけど彼がその気なら今頃自分は向かいにあるブロンズ像にめり込むか放物線を描いて空を飛ぶか、とにかく無事ではないだろう。安定を求めただけだと分かるから気にしない。
 仕事場に定めて久しい大きな橋の上には歩道が敷かれ、中ほどで外側へ大きく膨らむようにして空間が設けられている。適度な広さと光のよく届く欄干があってそこに腰掛けてもらうわけだが、本来の用途が違うのだから快適に座り続けられる筈もない。仕事を速く済ませたい理由は回転率を上げる以外にもあるのだ。

 無骨な針に縒り糸を通して一針ずつ接ぎ合わせていく。幸いにも布地が裂けたわけじゃなく糸が擦り切れただけだったから形を崩さずに済んだ。

 ゴムに刻まれた傷跡や繊維に染み込んだ色素を消すことはできなかったが、ひとまずの処置に満足してくれたのかもしれない。投げて寄越されたいつもの何倍にもなる代金を掴んだ時にはもう遠ざかってしまった背中からは、感情を読むのは難しかったけれど。





 少年の頃、靴職人になりたいと夢想していた時があった。土も雪も踏みしめてざくざく歩けるブーツの機能美、なめされた革がなだらかに足を覆うフォルムの美しさ。分解しかけた靴をゴミ捨て場から探り当て、いくつもいくつも解体して構造を確かめた心躍る瞬間は、振り返ればいつでもそこにある。

 付随して蘇る、世襲が原則の靴屋という業界に潜り込もうと、あちこちを回って放浪した記憶はそう古いものじゃない。親子が力を合わせて何とか食べていける厳しい時勢に、弟子や職人を抱えて切り盛りされるくらい力のある個人経営の商店なんてなかった。頭で理解できてもやりきれない心が、身一つで靴と関われるこの職を選ばせた。貧民窟出身の子どもたちが大抵経験するこの職を。

 陰鬱な曇天が一年の殆どを占めるこの土地で、喧騒と猥雑を凝り固めたこの地区で、いつでも暮らしに密接なのは貧困と犯罪だった。

 日暮れと共に切り込んでくる寒さを退けるためには酒精の力を借りるのが最も一般的な方法で、冷えと同時に理性をも退けるそれはならず者と組めば必ず騒動か悲劇を巻き起こす。店じまいのタイミングを見極め損ねて厄介な目に遭ったのは一度や二度ではないが、今のところ命まで危うくなったことはなかった。運があったのだ。

 いよいよその強運も底を尽きてしまったんだろう、と朦朧とする意識の中で思う。仕方がない。Все под богом ходим──生きとし生けるものは神の下で歩き回っている。自分に限って無事に毎日を生きられるなんて保証はどこにもないのだ。つるべ落としの日没を忘れていたわけではないが、常よりも極端に少ない客足にもう少し、もう少しと粘っていたその行為が過失だった。


 成長を待てなかったり逆に年を取り過ぎたり、そうした理由から満足のいく稼ぎを得られない弱者の弱みに付け込んで違法な商売の斡旋をする連中がいる。人生と引き換えにするには到底割に合わないはした金をチラつかせては汚い仕事を押し付けて、露見すればさっさとトカゲの尻尾切り、我関せずと次の手先を漁りに来る。

 学こそないけれど、厳しい世間を実地で学んできた自負はある。そうしたいかがわしい仕事に関わったが最後、底なし沼のように絡め取られて決して日の当たる場所では生きられなくなる。真っ当な生き方以外を思い描くことすらなかったから、そんな事態を何よりも恐れていたし、避ける術も身に付けて今まで何とかやってこられた。


 ああ、けれど、どんなに気を付けていたって事故に遭う時は遭う。いわんや、今回は自業自得だ。天命なのだと諦める目の裏で、遠い昔誰かに手を引かれて赴いた教会のステンドグラスが光を弾いて輝いた気がした。へえ。祈りとは他人に教わるものじゃなく、耐え難い何かに心を圧された時自然に湧き上がるものなんだなあ。

 遠のく全ての感覚は寒さも痛痒も嘆きも肉体に捨て置き精神の解放を約束するものなんだろう。現に『商売』を断った自分の捻り上げられる腕も気道を塞がれた喉ももう己のものとも思えない。だから唐突に宙に投げ出される感覚も猫の仔よろしく襟首を引っ掴まれた感触も、現実のものとは捉えられなかった。

 弾丸のようにまっすぐ飛んで建物に大穴を空けた物体は魂の断たれた自分の体──ではなく先刻まで自身を押さえ付けていた破落戸連中の一人で、次々と後を追い壁に突き刺さるものもその仲間たちであるのだが、既に意識もおぼろな被害者にとって明確に認識できる現実ではちょっとなかった。









 顔に衝撃を感じて目を覚ます。確かめようと無意識に目前にかざした手は正しく自分のもので、にぎにぎと開閉を繰り返せば命令に従って開き、閉じ、開いた。そうして湧き上がった、自分は何をしていたんだっけという頭の問いかけにがばりと身を起こす。

 冷たいコンクリートの上に放り出されて、周囲にはその筋の方々が拳にナイフにバールのようなもの等々獲物を携えて此方を睨み据えている──そんな背筋の粟立つ想像は幸か不幸か幻想だった。

 代わりに恐らくはその筋の集団丸ごとよりも物騒な存在がすぐ傍にいて、いつもの光のない目で見下ろしてくる。
 状況を認識できずに呆然とただ見返せば、眼前に何かを突き付けられた。追いついた焦点はそれが自分の商売道具であることを教える。
 反射で薄汚れた木箱を受け取りながら呆けていた頭が徐々に現状に至るまでを理解し始めて、それから漸く自分を取り巻いている環境に注意が向いた。


 赤々と火の燃える暖炉、火の気配に満ちたそこは小さな窓を隔て外に漆黒の闇が広がることを忘れさせる程に明るい。さらに贅沢に電灯を点したそこが一般家庭でないことは、天井の高さ、部屋の広さ、敷かれた分厚い絨毯、揃えられた豪奢なソファセット、全ての構成要素が声高に主張している。
 頭の中の警戒警報がわんわん鳴ったけれど、具体的に逃亡を図ろうにも目の前には圧迫感溢れる障壁が存在する。無理だ。

 さて、今己を取り巻いている物理的な環境は理解できても根本的なことがさっぱり分からない。
 自分は一体どうなったのか。
 命を長らえて、黒幕の前に引きずり出されたのか、それとも助けられたのか、これからどうなるのか、今何をすべきなのか。


 最後の疑問への答えは木箱にどっかりと下ろされたズックが教えてくれた。





 差し出された靴を延々と磨く事に集中している間、おそらくは部屋の主なのだろう人物は悠々とソファに身を埋めて何やら冊子を繰っていた。
 静かな室内には一度だけノックが響き渡って、こっそり耳をそばだて理解できた内容は予想通りここが平凡な一般家庭から一番遠い位置にあるということ、有り難い馴染み客であるところの彼は屋敷の主らしいこと、そしてやはり自分は彼に命を救われたらしいことの三つだった。

 それだけ分かれば十分だった。

 薄々勘付いていたように彼はいわゆる関わり合いには決してなりたくない類の筆頭だとはっきり分かったわけだけれども、かつかつの生活を支えてくれていただけに飽きたらず自分を危機から救ってくれた恩人なのだ。助けてもらったからには恩返しをしなければいけない。お礼を言って要求される仕事にはいくらだって応えよう。ただし目玉とか腎臓とかは勘弁してもらう方向で。一人決意を固める。

 いつもよりもずっと丁寧に取り組んでいた作業は程なく完了した。仕事道具を仕舞ってから居住まいを正し、謝意を示そうと見上げている先では配下と思しき男と何やら話をしている彼がいる。

 話をしているというのはこちらの主観で、実際には顔の一部に墨を入れた男性が冊子から目を離さない彼に一方的に確認事項を述べているようにしか見えない。

 意思の疎通には問題ないのだろうか。ぼんやりと考えていると二人の視線が同時にこちらを向いてハッとする。無言で見つめ合う暫しの時間が過ぎた後、諾と頷いた男が部屋を出て行った。

 え、と思う。
 もしかして今ので何かが決まってしまったのでしょうか。例えば自分の扱いとか口封じとか処分とか何やら自分にとっての目下最重要事項が今の見つめ合いだけで決定してしまったのでしょうか。

 尋ねられるわけもない。

 居住まいを正したその姿勢のまま、冊子が閉じられ再び視線が此方に向けられるまで青ざめて冷や汗を垂らし最終的に紙のような顔色を呈していただろう情けない自分を見て、彼が不思議そうに瞬きをした姿が印象的であった。





 それから。
 関わり合いになりたくないなと常日頃思っていた巣窟の中心で、今日もせっせと靴磨きに精を出している。

 屋敷の色んな人たちの靴を磨きつつ世間話に興じていて知った事実だが、どうやらこの組織は自分と似たような経緯を経た構成員で成り立っているらしかった。拾ったりくっついてきたり転がり込んだりした統一感の皆無であるものたちを、恐ろしい程の甲斐性で一個物にまとめ上げていると聞いて「そんなバカな」と笑い飛ばせないのが怖いところだ。
 甲斐性とはくっついてきたものは全て自分の一部と信じて疑わない強引さだったかなと疑問を持ったが、それでうまく回っているのならもうそれでいいんじゃないかなと、最近の自分は思考というものを放棄している。


 あれ以来屋敷の主には完全に拾得物として扱われている。
 主がそういう態度を貫くものだから当然周囲も主の付属品として扱う。
 あの、私の意思はどうなるんでしょうなどと言い出せるはずもなく、諾々とオプション業務をこなす日々である。

 考えてみれば命を拾われた時点で彼のものと言えなくもない。臓器という商品を詰めたずだ袋扱いされていないだけでも有り難い気がする。話が通じる人たちも多いし衣食住に苦労することもなし、時折感じる気疲れを抜きにすればいっそ快適ですらある。
 生まれ持った高い順応性を遺憾なく発揮して、付属品は今日も仕事に励む。


 主にごく近しい一部の者だけは正しくは付属品などではない事実を理解していたが、敢えて口に出すのは野暮というものだと粋な彼らは心得ていた。










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