Others | ナノ




 夜がやって来る。
 退治人と吸血鬼……のようなもの。ふたりにとって、保護(収監)2日目。精神的な疲労の残る身体を引きずってロナルドはひとり出勤した。ミナミヌマエビ並みにすぐ死ぬ生き物を置いて出ることには不安があるものの、四六時中張り付くわけにもいかない。今夜は予約が入っていたし、そもそもいくら自営業とはいえ客商売は信頼が命だ。突然の臨時休業を繰り返したりすれば、客足は遠のいてしまうだろう。よほど連れて行こうかと迷ったが、当の本人が甲虫にも劣る耐久性である。帰宅ラッシュで揉まれて死ぬ未来予想図が容易く思い描けてしまうのだ。駅構内で人混みに踏まれまくり散り散りになった残骸を回収する、そんな陰惨な想像はロナルドをひどく憂鬱にさせた。一部、埃と共に風に吹かれて、夜空に散っていきそうだ。こいつ、塵になってる間にちょっぴり欠けてしまったらどうなるんだろうか。今以上にガリガリになんのかな……

「いいか。絶対絶対絶対、外に出るなよ」

 過去最高の凄みを効かせて脅し付けるも「分かった分かった」と向こうはどうにも軽かった。
 この「まあ何とかなるでしょ」的な態度なんなの? 世の中ナメてんの? これだから人外ってヤツはよ。
 偏った生き物と交わりを深める内、ロナルドは他の吸血鬼が聞いたら間違いなく気を悪くするだろう偏見を着々と強めている。



「……行ったか」

 ドアが閉まり、施錠の音。遠ざかっていく足音は階段を降りる時に高い金属音に変わる。それもすぐに終わり、間もなく気配は追えなくなった。日光を遮蔽せんとベランダの掃き出し窓は完全に塞がれたので、窓から確かめることはできない。ベッドで過ごすと思ったのかいつもの癖か、部屋主は電気を消していったものだから、室内は暗い。

「はー。やれやれ」

狭いけれど身を収めるには妙に落ち着く空間の中、ドラルクは思いきり伸びをする。出て行く直前まで嫌というほど釘を刺され、パッキングするかの勢いでタオルケットでぎゅうぎゅうに包まれたせいだ。ただでさえよろしくない血流がさらに滞っている気がする。
 ロナルドが不安を振り払えないのは、相手が自他ともに認める天邪鬼であり、やるなと言われたことはとりあえずやっちゃうタイプだと看破しているからに他ならない。鬼気迫る形相を恐ろしく思いつつも、ちょっぴり面白く感じていたドラルクには「帰って来た時部屋にいなかったらどうなるだろうか」などという悪趣味な好奇心が確かにあった。

 ただし今はそれよりも、使命感にも近い思いで胸が沸いている。あんなもので満足されて堪るかという。





「……うん。調味料がいっぱいあるのは分かった」
「いつもなら帰りに買うのに。てめーのせいで予定が狂いっぱなしだ」
「買うって、出来合い?」

 無言で肯定を示すロナルドを横目に、冷蔵庫を検めていたドラルクは顎に手を当て考えた。アラームから遅れること半刻。ようやく姿を取り戻した吸血鬼もどきが身を起こすと何とも切ない顔をした退治人がいた。あ、ひもじい思いをしている。直感的に分かったものの、食べ物の残り香が漂っていたので首を傾げた。食べたんじゃないの? 尋ねれば、あったもので何とかしたと言うのだが。


「あのさ、これ大丈夫? いつ開けたの? お米は乾物寄りだけど生鮮食品なんだからね?」
「あ? 大丈夫だろ。冷蔵庫入れてたし」
「冷蔵庫は時を止めるわけじゃないからね? ていうか米くらい炊け」
「いや時間かかるじゃんか。マジで腹減ってたんだよ」
「待てなくて冷凍うどん素で食べるって君、もったいないことを……せっかく卵とかあるのに。梅干しだって」
「何だよ、素で十分美味ぇんだぞ……梅干し?」
「こないだ電車で冷やしうどんの広告見たんだよ。梅干しとシソの取り合わせが綺麗でさ。シラスとかミョウガとか乗ってた」
「何それ美味そう! 食いてぇ」
「だから君がうどん食べてしまわなきゃそれができたんだよ!」


 家主に供出させた、どう見ても使いこなせていない調味料あれこれと米、卵4個、ちょっと育ってしまってしなびたタマネギ1個、それから封も切られず忘れ去られていた梅干し。
 なかなかの物資不足にもめげず「米 時短」で検索したドラルクは鍋で米を炊いた。蒸らす間に味噌汁と卵料理をこしらえて、忙しなく背後をウロつく退治人のことは味見で大人しくさせる。水にさらしたタマネギには眉を顰めていたが、オムレツの端っこには分かりやすく顔を輝かせていた。米を研ぎ始めて15分強。盛り付けた諸々に上々だろうとシェフは頷いた。召し上がれと言う前に「いただきます」が来てやや鼻白んだが、しかしすぐに頬を緩めた。よい食べっぷりは作り手にとって何よりも甲斐がある。
 しかしながら、メニューはシェフにとって満足のいくものからはかけ離れていた。白米に、タマネギの芽を散らしたタマネギの味噌汁、タマネギ入りオムレツ、タマネギのマリネ。以上。作っていて涙が滲んだのは、果たして切れ味の悪い包丁のせいだろうか。おかずがなくなってもお代わりを所望され、仕方なく梅干しを刻んでご飯に混ぜてやったらことのほか喜んだその姿に、ドラルクはうっかり目頭が熱くなりそうだった。何というか、哀れで。



 もっと、何かないのか。
 半日後には帰ってくるだろう退治人に、もうちょっとマシなものを食べさせたい。キッチンに座り込み唸る、今はもう吸血鬼というよりも母親か祖母かばあやのような何か。幅広い品目を摂取させねばとそんな思いもありつつ、あんなもので満足されてたまるかという妙なプライドが刺激されてもいたのだった。

 発掘作業が進む内に別の欲求も高まり、ドラルクは迷う。狭いキッチンの収納とはいえ奥行きはそれなりにある。意外にも整理はされているのだが。明らかに消費が追いついていないストック類の数々が気になりまくり作業は滞っていた。
 水はまあ非常時に備えているとして、割り箸とかこんなにいらなくない? ちょっと湿気ってるし。プラスチックのスプーンめっちゃあるけど何に使うの? 個包装だけどさ、何か微妙に埃っぽいし。しょうがない、ついでに整理してやるか……

 元来得意分野である。我を忘れるほど没入してしまい、はたと気が付けば時刻は真夜中を回っていた。四角いところを丸く掃く傾向があるロナルドが管理する空間は、ドラルクにとって実にやり甲斐がある。家事に没頭するあまり手どころかシャツまで薄汚れた人外は風呂を使うことにして、そうして今度は浴室の掃除に精を出すのだった。





「はっ!? 冷え過ぎだろ……オイコラ設定温度勝手に下げんじゃ……えっ」
「あ、おかえりー」

 おう、ただ今帰りました……いや、じゃなくて他に言うことあんだけど何て言っていいか分かんねえ。
 退治人は無言で玄関前の通路に頽れた。
 

「なに。こわい」
「……」
「あ、クローゼット触ったよ」
「…………」
「君意外と衣装持ちだけど、ちゃんとローテーションさせてる? くたびれてるのとほぼ新品のと、何か極端なんだけど」
「…………」
「……生きてる?」

 生きてる。
 脳の最適化に時間を要しているだけだ。
 ほっといてくれ。
 あと服を着ろ。

「着てるだろう! 下もちゃんと履いてる。いかがわしい想像するんじゃない」

 いかがわしいのはテメーだ。

 呟きは黙殺された。
 いつだったかB系ファッションに憧れ買ったはいいものの、着用したら「何か違う」感に苛まれパジャマ候補にと仕舞い込んでいた、ロナルドでさえ激しくオーバーサイズのTシャツ。勢いで散財してしまった過去の過ちを眼前に突き付けられた辛さもさることながら、明らかに風呂上がりの相手が決めた彼シャツコーデに残っていたHPは消し飛んだ。

「君が着替えも何も用意させてくれなかったから仕方ないだろ。掃除してたら汚れちゃったんだもの」
「……」
「私、パジャマはワンピースタイプなんだよ。似てるから借りたけど。だめだった?」
「……」

 だめじゃない。
 だめじゃないけど、ダメだ。

 伏せたきり身動ぎさえしなくなった退治人を見下ろして腕を組む人外。どうしたものかと少しの間思案したが、脇に落ちたコンビニ袋に目敏く気付いて声を上げ、いそいそと検分する。
 間もなく温め直された食べ物の匂いが立ち昇り、縮んでいた胃の腑が身悶えて、そうした肉体の訴えにようやく折れた膝を奮い立たせたロナルドは立ち上がろうと腕をつく。そして、キッチンが玄関脇に存在するが故ダイレクトに視界を占めた、裾から無造作に突き出た生足に、再び無言で崩れ落ちた。



「昆布とか削り節とか買って来てよ。出汁パックでもいいから」
「……ん」
「缶詰ほとんど使っちゃったから、補充しときなよ」
「んむ」
「あと、ねえ。キッチンの収納も触ったから、後でちゃんと見といてね」
「んんん」


 止めた方がいいんだろうな。
 炊飯器からお代わりをよそいつつ、ドラルクは思う。スケジュール的に、この男は今から就寝するはずなのだが。
 帰りに立ち寄ったのだろうコンビニ袋の中は冷凍うどんで、どうやら「梅干しうどん」が忘れられなかったらしい。部屋を漁ったドラルクが手料理をこさえて待ち構えているとは予想だにしていなかったようで、やけに驚いていた。まあ結局外出はしなかったものだから、材料は賞味期限が怪しい缶詰類という、やはり制限付きのメニューだった。それなりに手間をかけることで料理の体は成している。作り手の労苦と葛藤を知ってか知らずか、ロナルドの箸の動きは淀みない。粒コーンのかき揚げに齧り付きいい音を立てながら、ツナとコーンを炊き込んだご飯を重ねて詰め込み、ろくに間をおかずつみれ汁で流し込んでいる。黙々と平らげていく様は爽快で、止めた方が……と思いながらも乞われるままぺんぺんに茶碗にお代わりを盛るドラルクである。まあ大丈夫だろ。若いから。うんうん頷いて茶碗を差し出しながらも、つい小言が口をつく。

「よく噛んで食べなさいよ」
「……噛んでるだろ」
「いや、君、ほぼ飲んでるよ」











 キャスターが何やら気の利いた発言をしたらしい。どっと沸いた人々の声に、組み敷いていた薄い体躯がびくんと過剰に震える。ロナルドは眼下の細面を覗き込んだ。
 忘我に蕩けていたはずの瞳が、焦点をはっきりと己に結ぶのを認めて、そこにある警戒と緊張に「ああ」と思った。行為の最中、時折こんな目で見られることがある。
 それなりの期間を共に過ごして、それなりの出来事を乗り越え、それなりに密度の高い関係を築けていると思っている。だのに、未だに時々分からない。閨事には大層意欲的なくせに、こちらが同じ調子で返すと時々本気で怯えた目をするところとか。
 まあ、これは、違う。俺に怯えているわけじゃない……多分。
 情けなく眉を下げて、涙の溜まる目の縁が赤く色付いている。運動のため血行がよくなると、普段は青黒い隈すら赤みを帯びて、それがやけに淫靡だった。見入っている内に相手は我を取り戻したようで、大きく息をついた痩身は安堵したように口元を覆う手を緩めている。

「今ちょっと、寝てただろ」
「いや……寝てたっていうか……ん、」

 常ならば音量を絞るテレビのスピーカーから、朝の情報番組特有の明るく伸びやかなテーマ曲が響いてくる。日はとうに昇り、真っ当な勤め人ならそろそろ職場で一日のスケジュールを確かめ、ギアを入れんとする時間帯だ。夜に住む生き物を部屋に迎え入れてから、何日目になるか、頭の中で数えようとしても上手くいかない。3日目か、4日目か。窓を塞いだせいか、それとも時間帯に関係なく肌を合わせては微睡むせいか。
 何やってんだか。
 自嘲が湧いて、それでも退く気なんて全くなくて、本能と理性とがないまぜになった胸の中で、やけに不穏な感情が見えた気がした。自覚してしまうと、もうそれしか見えなくなる。本当に分からないのは、自分の方かもしれない。背中を伝い落ちていく汗の粒までやけにくっきりと感じ取れる。感覚が研ぎ澄まされていく。


 食欲、性欲、睡眠欲。3大欲求に綺麗に沿って生きている。最近ロナルドがしみじみと感じ入った事実で、実際城を訪ねるようになった頃から自分たちはそうだったと振り返る。食事を与えられ、体を交わらせ、噴き出す欲がすっかり落ち着けば、もう後はどうしようもなく眠たくてたまらない。うっかり、城で朝まで爆睡したこともある。帰宅してからも深く長く寝入ってしまったものだ。

 普段、仕事帰りに買うのは翌日のブランチだ。いつもなら帰宅後は胃を空にしたまま、シャワーを浴びて速攻で寝る。そんな退治人の生活サイクルは、ここ1日かそこらで完全にひっくり返された。
 帰宅した時、中に明かりが点いていること。調理の残り香。ピカピカの洗面所やバスルーム。「おかえり」と投げかけられ、そうしたら勝手に腹が鳴いて、胸が苦しくなって、もうどうしようもない。気付かなければ平気でいられたのに。与えられればすぐに慣れて、次を欲して止められない。
 今夜だって普通に夜通し仕事に従事して、しっかりと疲れていたはずなのだ。
 帰ってきたら、部屋に出汁の匂いが満ちていた。尋ねれば麺つゆを作ったと言う。食べるかと訊かれ、頷けば、部屋で一番大きな皿にうどんが盛られて出てきた。トッピングは刻んだネギ、半熟卵と焼きナス。黙々と平らげるロナルドを、影はベッドから眺めていた。シソとかミョウガを買っておいでよ。梅干しうどんを試してみよう。提案されて、だから忘れないようにとスマホに打ち込んである。

 燃料を腹に入れれば身体は勝手に熱を上げて、準備万端に覚醒してしまう。食べ過ぎたと、昨日と全く同じ反省を抱いてシャワーを浴び、部屋に戻れば、洗い物を済ませた吸血鬼もどきは堂々とベッドの真ん中に陣取って微睡んでいた。ちょっかいをかけて、喧嘩になりかけ、口でやり込められそうになって手を出した。暴力ではなく。
 事後承諾で貸して以来ずっと、退治人が仕事に出る時も戻った時も、ドラルクはTシャツ姿でベッドにいる。シャツもストラウザーズも既に乾いて待機しているのだが、どうやら皺を気にしなくていい点をいたく気に入ったようだった。ロナルドは全く別方面の理由から「Tシャツっていいな」と強く思った。日頃きっちりと着込まれた三揃いは(主にボタンのせいだ、)装甲と呼んで差し支えない煩わしさで、それと比べれば、隔てるものがぶかぶかのTシャツ一枚という頼りなさは裸も同然、一気にテンションが上がる。



「……びっくりした。部屋に、人がいるかと、思って」
「……それ、怖過ぎんだろ」

 含み笑いを漏らしながら、ボソボソと低めた声で会話を試みる。人の声というのは案外遠くまで響くもので、煙幕のつもりで点けたテレビもどこまで効果があるか疑わしい。しかしスピーカー越しの人の声というものは予想外の効果を連れてきて、悪くないなとロナルドは内心頷いている。まるですぐそこに人がいるのに行為に及ぶかのような、背徳的で、倒錯的な、そんな疑似体験に、心臓がひとりでにペースを上げている。現実では、世間体にガチガチに縛られている自分はとても踏み込めない領域だ。だからこそ、ちょっとした「ありえない想像」は妙に刺激的だった。
 穏やかに達して、それからしばらく経っても繋がったまま、ただじっと重なって汗が引くのを待つ、そんな時間だった。息が整っても目を閉じたまま、寝入るかどうか揺らいでいた意識に、タイミングよく他人の声が入り込んで弾けたのだろう。瞬間警戒に固く強張った身体が、テレビのそれだと悟ってゆったりと弛緩し、支える腕に再び重みをかけるまで、その一部始終を見守って、微笑ましいやら面白いやら、様々な思いでざわざわと心が忙しない。むず痒いような感覚に口元が歪んだ。ペットの珍行動を見てしまった飼い主のような、そうした温かな思いを確かに抱きながら、また別種の、あまりよろしくない類の感情を持て余している。

 一瞬、水の中に沈んだように音が遠くなる。幻想に浸かった気がした。この妙な生き物を、自分の部屋に閉じ込めて、密やかに飼育しているような幻想。
 陽光を遮り昼でもなお薄暗い部屋の中、壁一枚隔てた外からは行き交う人々の営みが伝わってくる。同じ建物のどこかでベランダの引き戸が開き、閉じられる振動。近くの駐車場から響く車のエンジン音。挨拶か何か、内容までは分からないけど人の声。健全な世間の音ばかりが届く小さな箱庭。押し込めて、外には出さず、窓も潰して、接するのは己ひとりだけ。その中で生き物は毎日部屋を綺麗に手入れして、料理をこしらえて自分の帰りを待ち、些細なことに文句をつけたり、かと思えばよく分からない理由で機嫌を良くしたり、悪戯を仕掛けては反撃を受けて死んだりしている。それから、気が向けば昼となく夜となく、身体中全部を晒して愛してくれる──

 愛されて、慈しまれて、大切に育まれた愛玩動物のように、危害を加えられる恐れなど何もないという風情で腕の中にいる。寛いで、安心しきって己に預けられた重みを心底嬉しく思うのに、同時にどうしようもなく湧き上がる、悪戯心と呼ぶにはどうにも物騒にグツグツと煮えるもの。自分の中にあるものなのに、正体がつかめないどろどろした、重くて、熱い何かに、時々どうしようもなく突き動かされる。


「あッ、」

 不意に腰を入れると、仰け反った身体から押し出されるように、細い喉から鳴き声が零れた。慌てて口元を塞ぐ手に顔が半ば隠れても、舌も回るが目も雄弁な生き物だ、何が言いたいかは明白だった。ぎろりと、あからさまに責める強さで睨まれる。それも、繰り返し往復させる内にすぐに見えなくなった。

「……ぅ、ッ、んっ、んう、」

 気が乗らないのか。首を振って、しきりに身じろぎを繰り返す。シーツに擦り付けるように背を捩り、丸め、落ち着きなくもがく肢体に腕を絡めて引き寄せた。尖る腰骨に指を食い込ませ、ゆっくりと、しかし容赦なく下半身を噛み合わせれば、最奥まで押し込まれた体積に苦しそうに喘ぐ。ゆるゆると際まで腰を引いて、もう一度奥まで分け入る。乱暴にするつもりはなかった。逆だ。焦れったいくらい優しく。そうして、少しでも長く。ゆったり息を吐いて、ひくひくと収縮する襞のひとつひとつまで数える気持ちで腰を動かす。深呼吸のように深く、緩やかな動きに徹しながら、身体の芯のところで何かが暴れ狂うのをまざまざと感じている。背に震えが走る。
 もっと重たく、叩きつけるような短い往復で、一番感じる場所をごりごり擦ってやりたい。衝撃に撓う背を抑え込んで、追いかけて、内側が痙攣を始めるまで繰り返し抉って、堪えて、堪えて、てっぺんまで一気に押し上げて。そうすれば揺すられるまま喉を晒して、すぐに吐息に涙が混ざる。零すまいと、そんな努力の甲斐なく漏れ出る声は子どもの泣き声に似て、ひどく可哀想で、良心を刺してどうにも落ち着かないのに、反面、例えようもなく情欲を煽られて、結局は最後まで緩めてやることができない。
 ベッドに篭る時間の全てからすればほんの僅かな、獲物を仕留める瞬間のようなその刹那が、いつだって欲しくて堪らない。欲しくて、本当に仕方がなくて、今この瞬間だって抑え込む蓋を蹴破らんと暴れている。溢れる欲にぞわぞわと全身を震わせながらも、きちんと内側にとどめおけることに、ひとり満足している。獣を飼い慣らす気分だった。



 優しくないと、苦しい息の合間にドラルクは思う。
 一見優しいようなのが、かえって癪だった。こんな時、確かにこの男はハンターなのだと思い出す。これまで幾度となく思い知ったはずなのに。吸血鬼退治人、もしくは猛獣。いずれにせよ自分の手には負えない。薄く目を開いても、膜が張ったようにぼやけて像が結べない。瞬いて涙を払った。
 腰を抱え込まれて、自力ではとても抜け出せそうになかった。上り詰めるような激しさではない。浅瀬で微かに波に揺らされるような穏やかさで、なのに寝かせた刃で肌をなぞられるような不穏を孕んでいる。解放を求めて互いを追い詰める暴力的な悦楽とは別物で、身体がバラバラになりそうな強さで揺すられもしない、喉が枯れるほど息が苦しくなることもなく、頭痛がするまで泣かされるわけでもない。それでも、与えられる側にとっては全く優しくない。足指が痙攣するように震えていた。

「ん、ッ、うぅ……ふぅ、ぅん、ん、んっ、」

 燃え出すのではなかろうか。馬鹿馬鹿しい心配をしてしまう程に熱く、芯から肉体が火照る。払っても払っても、眦から涙が次々に零れて、伝う先を僅かながらも冷やした。膨らんだ傘はぬめる襞をねっとりと擦りながら抜け出していく。全身に鳥肌が立つような、悪寒にも近い刺激に喉がひくひくと慄いた。縁が捲れるほど、際まで抜け出した砲身に身体は未練がましく吸い付いて、そうして狭まった内側を再びぬぐぬぐと貫かれる。荒く響く呼吸とは裏腹に動きはひどくのろのろと、それなのに内側の形を探るような遠慮のなさであちこちを突いて、引っかいて、無防備な肉を蹂躙して回る。ぞわりと背筋を這い上がるものにどうしようもなく感じ入って、震えを自力では止められない。偏執的な刺激だけを与えられて、解放されるほどの強さはなくて、ただ延々と苛まれる、終わりが見えない抱き方。なぶり殺しに似ていた。
 心中呟く言葉は音にはならずにただ内側で反響して、それからそう間を置かずに飽和した。
 辛い。きつい。死ぬ。
 死ぬ。



 顔を背けて、声を殺して、涙だけがぽろぽろ落ちていく様を可哀想だと思うのに、それ以上にそそるもので、だからロナルドが「やべっ」と異常を察知したのは、忍び泣く相手の呼吸があからさまに不規則に跳ね出してからだった。

「……ひッ、う、ぅぅっ、うっ」

 しゃくり上げて、息の音全部に泣き声が混じるのに慌てて屈み込んだ。顔を向けてほしいのに、頬に触れようと伸ばした手は避けられてしまう。手に触れる吐息が濡れて熱い。晒された耳に口付けて、声を直に注ぎ込むように詫びる。すぐには反応が返らずに、ロナルドはじりじりと逸る思いを何とか押し込めて、ただ待った。





「きみ、時々、やけにいじわるになるよね」
「意地悪って…………、あー……」

 オイ優しくしてるだろって口をつきそうになって、咄嗟に思いとどまった。とはいえ「本当は死ねって思ってる?」とまで言われてはさすがに反論したくなる。

「ンなわけねぇだろっ」
「だって、殺気を感じるよ……」
「ばっ! ……あ」
「……『あ』ってなに」
「……いや……」


 ヤり殺すかも、とはよく思う。
 このままだと抱き潰しちまうって、それはとても嫌なのに、どうしても止まれない。
 よくよく思い返してみると、最初からそうだった気がする。それこそ一番最初の夜から、終わったそばから次が欲しくて堪らなかった。覚えたての若造と言われればそれまでだが、麻薬めいたものを与える方にも責任があると、そんな言い訳はどうにか心中のみにとどめた。
 正直に胸の内を明かすと、予想に反して相手は静かになった。ドン引きといった様子でもなく、考え込むように目線を伏せている。

 アレ? これ失言? やっちまった? 破局の危機?
 火照っていたはずの肌につと冷や汗が湧いて、ひとり恐慌をきたしかけたせいだ。独白のような言葉を聞き逃しそうになる。

「それは……ちょっと分かる気がする」
「えっ」

 どういうことだと追及したいのに、納得したとばかりに「じゃあ、まあ、いいか」と力を抜いて枕に頭を投げ出している。機嫌は直ったのかと顔を覗き込むと「君なんて風邪引いて弱ってるくらいが丁度いいんだ」と、何を思い出したのか再び不機嫌そうに尖った声で責められた。だから悪かったって言ってるだろ……

「ほら。早く」
「……ッ」

 不可解な態度についていけず、首を捻って油断しきっていたところ、まだ芯が通るものをきゅっと握られ呻きそうになる。やわやわと指先で愛撫されたかと思えば根本を絞るように抑え込まれ、今度こそ声が出た。ほっそりした器用な指が、嚢を撫でさすっている。

「殺すくらいの勢いでいいよ。なぶり殺しより、ずっといい」
「……なぶり殺し」
「まあ、死なないよ。たくさん栄養貰ってるもの。多分大丈夫だよ」
「多分……」

 言うだけ言うと、手遊びのように動かしていた指をあっさりと引いてしまう。枕を抱き込んで「早く」と急かす切り替えの早さについていけず、ロナルドは当惑した。

「……えっ」
「声は心配ない。これがあるし」
「、は?」
「あ、もうやめとく?」
「えっやめない」
「なら、早く」

 いつの間にか抱き込んでいた枕に噛み付いて、目線だけでなおも促す。細い脚に腰を挟み込まれて、それでようやくロナルドにも再び火が入る。最終的に、枕……特にカバーは、ひどく傷むことになった。











 夜が来れば、7日目を数えるはずだった。
 取り込んだばかりのシーツをベッドに広げると、柔らかなアイボリーにぽつんと浮かぶ色鮮やかな細工に思わず目が向く。牙を持つ人外にはあれから妙な癖がついて、行為の度にロナルドのリネン類が犠牲になった。穴は空くもののやけにハイレベルな技術で修繕が施されるため、部分的に花畑もかくやの様相を呈している。

「ダーニングって言うんだよ」

 どうやっているのかと尋ねたら実地で見せてくれた。仕組みは織物と同様らしく、先に張った経糸に緯糸を通していくだけ。単純な仕組みというのに、仕上がるのは緻密で繊細な市松模様だ。泳ぐように滑る針先の動きを無心で追っていると、いつの間にか柔らかく浮かび上がる幾何学的な花。もっと色んな糸があればなあ。独自の美意識を持つらしい吸血鬼もどきは何やら不満そうだったが、限られた色数だろうと十分に美しい。あんまりすいすい針糸を操るものだから、作業は随分と簡単そうに見えた。だのに、戯れに針を持たされたロナルドが試した部分は傍目にもくっきり引き攣れ、歪に盛り上がっている。
 シーツとパジャマ、それから枕カバー。花はあちらこちら、点々と広がっている。糸の重なる感触が指に心地いいこともあり、手慰みに何度も撫でてしまう。その内ほつれてしまうかもしれない。
 そうしたら、またやって来るだろうか。





「バッテリーが限界だから、今夜戻るよ」
「はん?」

 ゲーム中毒者を城から隔離したロナルドだが、スマートフォンまでは取り上げていなかった。小さな端末の電池容量は限られていて、ゲームなど起動すればどうせすぐに切れてしまう。そう思って放置した。意外にもドラルクはレシピ動画の検索と、それから退治人との連絡くらいにしか使わなかったらしい。充電されずに数日経つ今も、薄い手のひらにある端末は生きていた。しかし向けられた待ち受け画面を見れば、残量は10%を切っている。確かに不安だろう。

 鰹節ってどれ買えばいいんだ。ナスが安い。他に何かある?
 花かつおならどれでもいい。ネギも買って来い。卵も。
 待ち合わせや日程調整にしか使っていなかったメッセージのトークルームは、今や夫婦さながらのやり取りで埋まっている。使えなくなれば、確かに不便だ……いや、じゃなくて。遅ればせながらハッとする。

「ああ。帰るってことか」
「うん。もう大丈夫だと思うよ」

 回復は喜ばしいし、この部屋だって吸血鬼仕様とは程遠い。自身だって想定していたことなのに、ロナルドはちょっとした衝撃を受けている。


 ここ数日間、ドラルクは部屋主が買ってきた食材を毎回きっちりと使い切っていた。全部を食事に充てるのではなく、常備菜にも振り分けていたからだ。あれは1週間保たないから気を付けろだの、これは今日中に食べてしまえだの、冷蔵庫を開いて丁寧に説明している。そうして、上の空で生返事をするロナルドにため息を吐いた。

「ねえ。究極の癒し生物がいなくなって悲しいのは分かるけど、もうちょっとしゃんとしてくれ。何か不安になる」
「……オイ。どっちかってぇと、癒したのは俺の方だろ。散々吸い散らかして……う」
「……まだ余裕だろ。全然元気じゃないか」



 分かるよ。
 私だって、時々、そんなことを思うから。

 勝手に納得した経緯が不可解で、だからコトが終わるなり速攻で話を蒸し返した。相手は牙で無惨にぼろぼろにした枕を放り出し、眠気で朦朧としながらもたどたどしく回答を寄越す。結果ロナルドはいよいよ混乱した。

「え。じゃあ……俺、お前に『殺してぇ』とか思われてんの?」
「……そうじゃないだろ…………もう、いい。何か恥ずかしい」
「何でだよ。ひとりで終わんなよ。オイ」
「うるさ……」



 分かったような分からないような、ただし「実は殺意を抱かれている」とかそういうサスペンスなことじゃないと、それだけは分かった。動機はさっぱり不明だが、やり取りを交わしてからというもの、何故か欧米のカップルばりにやけにチュッチュチュッチュしてくるようになったからだ。部屋の中でただ行き違うだけでも頬に唇を寄せてくる。綺麗なリップ音に、そういえばこいつ外国産だったなあとロナルドはぼんやり思い返していた。髪に、額に、頬に、唇に。お誘いとは全く別種の、軽く触れるだけですっと去る微かな接触。たったそれだけでちゃんと伝わる気がして不思議だった。
 大事にされてる。ちゃんと想われてる。
 実感は、ともすれば意固地になりがちなロナルドを随分と素直にさせた。だから翌日「戻る」と告げられて以降の彼の気持ちは、顔にはっきりと表れている。ドラルクはほんの少しばかり、胸の空く思いだった。
 意地悪は自分か。
 省みて、でも仕方ないとも思う。


「仕事はブッチすんな。電話は普通に出ろ。マジで不安になるから」
「ちゃんとするって。ごめんね」
「おう……」

 玄関に立つ家主は微妙な顔をしている。
 どうせすぐに仕事に行く、ちょっと待ってろ、駅まで送る。申し出たら、寄りたいところもあるからここでいいと断られた。ひとりで帰れるのか。そんな胡乱げな目線に偽吸血鬼は気付いて、何かとすぐ死ぬくせしてプライドに障ったらしい。傲岸に顎を上げて大丈夫だと主張する。

「言っとくけど、君よりよっぽど長生きしてるんだからね」
「知ってる。だから不安なんだろ」
「……じゃあね」

 朝起きた時から夜寝るまで、いや多分寝ている時も。それこそ一日中受け入れたせいで、すっかり慣れてしまった感触だった。三和土に立つ細い影が少しだけ伸び上がって、啄むような口付けを寄越す。咄嗟に腕を回し、離れようとする薄い身体を引き止める。退治人の腕に包まった影は首を傾げるような間をおいて、それから大人しく体重を預けてくる。細いうなじに頬を当てれば、匂い立つ洗剤の香りに「うちの洗濯物と一緒の匂いだ」と気付く。鼻が利く相手に言わせれば、本当は互いに別の匂いになっているのかもしれない。ロナルドには同じ匂いとしか感じられなくて、胸が引き絞られるような痛みを覚える。ため息で心に溜まる何かを逃そうとして、失敗した。唸るような声が出たのは無意識だ。寂しい。帰したくない。ここにいればいい。混ざり合う心情の篭った、不機嫌な動物のようなそれに対して、向こうはただ笑っている。

「さみしい?」
「誰が………………まあ、ハイ」
「お返しだよ」
「……はあ?」

 君が城から帰ってく時ね。私はいつもそんな気分を味わってるんだよ。分かった?

「とくと思い知れ」

 するりと抜け出した黒い影は、ちょっと悪どい感じで笑っている。そんな表情をすると、ああやっぱり吸血鬼……に近い生き物だと思う。翻るマントが隙間に消えて、ゆっくりと扉が閉まった。ぼんやりと言葉を反芻して、しばらく経ってからやっと何を言われたのか理解して、冷房の効いた部屋の中で熱い頬を持て余す。結構な時間、ロナルドはへなへなと玄関にうずくまったまま動けずにいた。駅に到着し、明らかな残高不足に青くなった似非吸血鬼が「ごめんちょっと電車賃貸して」と戻って来るまでのそこそこ長い時間。些細で、確かな幸福を噛み締めながら、ずっとそこにいた。










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