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 かつて、ロナルドにとって挨拶は習慣だった。子どもの頃に刷り込まれた動作を身体は自然になぞろうとする。高校生の頃までは特に抗うこともせず、行ってきますだとか、ただいまだとか、たとえ家に誰もいない時だって一言ずつそこに置くように挨拶をしていた。独り立ちして、事務所を構え、確実に自分だけが帰る、自分しかいないと分かりきっている空間にはする意味がないと考え、声に出さなくなって早や数年が過ぎる。
 だからだろうと思う。
 自分以外の生き物が我が家にいて、そうして家を出る時には「いってらっしゃい」と、帰って来れば「おかえりなさい」と投げ掛けてくることにどうしても慣れなかった。帰宅時にはドアを開ける前から緊張して鼓動が忙しなくなるほどに。

 階段を上りながらポケットを探り鍵を取り出す。ドアの前に立って、しばらく呼吸を整えた。挿し入れて捻ればシリンダーが回転し、デッドボルトが引っ込む耳障りな金属音が辺りに響く。これまで意識したこともなかったその音が奇妙に大きく聞こえて、頼むからもっと静かにしてくれと、家主のはずが空き巣のようなことを思っている。

「おかえり」

 外開きのドアを開けて身体を中に滑り込ませるや、暗い部屋の中ベッドの上で布団がのそのそと持ち上がる。内側から眠たげな目が覗くのを認めて、慌ててドアをぴたりと閉めた。外はもうとっくに朝日に照らされている。入口は北方面に開いていて、ベッドは部屋の奥にあるのだが、油断すると何がきっかけで死ぬか分からない相手だった。
 城と比べるまでもなく、決して広いとは言えない賃貸の一室である。ワーカーホリック気味である部屋主は趣味らしい趣味が皆無のため、ものは極端に少ない。おかげで元から部屋は片付いていたが、やたらと綺麗好きの人外を入れてからというもの隅々まで掃除の行き届いたクリーンな空間に仕上がっている。玄関のたたきまで拭き掃除を施す姿にロナルドは感嘆を通り越して呆然としたものだった。

 ドアを開けた瞬間から冷気が顔を撫でていた。中に入れば全身を包まれて、早朝とはいえ駅から歩き火照っていた身体の表面が一気に冷えていく。なりゆきで部屋に連れ込んだ生き物にエコ設定の概念はなく、家主としてはつい電気代の心配をしてしまう。渋い顔になりながら内鍵を閉めた。

「遅かったね。ご飯どうする?」

 声に背を向けて靴を脱いでいると、衣擦れの音を立てて近寄ってくる。振り返ると、相手は思いのほかはっきりと目が覚めた顔つきをしていた。横になってはいても、寝入ってはいなかったのだろう。その理由について、実のところロナルドはよく承知している。

 夏用のタオルケットを被ってしゃがみ込み、小首を傾げるようにして「先にお風呂入る?」などと尋ねてくる。こうしたやり取りを、実はもう何度か経験しているのだが、どうしても慣れない。込み上げる照れ、喜び、それを表に出すまいと抑え、結果抱える心の葛藤。小さく丸まって必死に飲み下そうと頑張る退治人に、ドラルクは「またか」と呆れ顔になった。

「…………あー。もう、日、昇ってんぞ」
「仕方ないだろ。君がいないと上手く眠れないんだよ」

 親がいなければ寝付けない子どものようだ。ドラルクは内心弱みを晒すような心持ちであるが、それでも背に腹はかえられぬと口にする。言い辛そうに告げられたその意味を、ロナルドは正しく把握していた。普段自らの寸法に合わせた空間に収まって眠る人外には、この狭いワンルームの天井さえ開放的な青空空間に映るらしい。布団と退治人に抱き込まれてしっかりと覆われてやっと安眠できると、それは聞いていたことだったので。
 意味するところは分かっていても、言葉だけを聞けばまるで強烈な口説き文句のようで、その衝撃をやり過ごすには更なる時間が必要だった。背中がますます丸まって、見守る人外は重ねて呆れた。











 電車に揺られている間もかっかと燃えていたロナルドの怒りは、時間が経つにつれ収まりつつあった。隣の影が珍しく殊勝に押し黙り、大人しく着いてくる様に絆されたのもある。経緯を振り返れば至極当然のしおらしさなのだが、日頃の行いがあんまりなせいか、ごく自然な振る舞いだけでそこそこの好印象となる。ゲインロス効果の典型だった。単に歩いていただけなのに転んで死ぬに至っては、ついに心中の怒りを呆れが上回る。

「お前……お前……、マジで雑魚いな……」
「しみじみ言うな。怒鳴ってくれた方がまだマシだ」

 アスファルトの裂け目に挟まる靴を取り出しつつ、ドラルクはため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだと、すぐそばでロナルドが多大なる疲労感に襲われている。

 真夜中だった。
 通常ならばいよいよ忙しくなる時間帯だが、目下、このバンパイヤハンターは事務所ではなく自宅へ向かっていた。発端は、盛夏を迎えたと思ったら引きこもり始めた相棒にある。
 ストライキなどといった強い意志に基づく行為ではない。きっかけは「暑くて死ぬ」という軟弱極まりない理由である。ぱったりと姿を見せなくなり、出動要請は却下され続け、その内連絡すら取れなくなった。完全なる音信不通にロナルドはブチ切れ、使命感やら諦観やら怒りやらを胸に、あと「実はいなくなってたりして」という恐怖に駆られつつ城へ向かった。最終的に塵を、もとい吸血鬼の姿をしたゲーム狂を地下室から文字通り引きずり出した退治人は、項垂れる影を「キリキリ歩け」と尻を蹴飛ばす勢いで連行している。

 ふっつり連絡を断ったと思えば、ゲームにハマって夜も昼もなく明け暮れていたという事実を突き止め、ロナルドは怒髪天を衝く思いだった。必要に応じて時折会話が生まれるものの、声は全身の毛を逆立てた獣のごとく刺々しく、肩をすくめたドラルクは懐柔を早々に諦めたのだが。
 城を出てから半刻あまり。何本目かの電車を無言で降り、乗り換えることなく駅を出て行く赤い退治人を影が追いかける。目的地は近いようだった。オフィス街に位置する事務所付近とは様子の異なる、駅周辺から人々の暮らしが色濃く漂う住宅街を、並んでてくてくと歩く。実情がバレるや首根っこをつかむ手に連れ出され、黒い影は着の身着のまま、シャツ姿にマントを羽織る軽装である。シャツだけなんて落ち着かない、せめてウエストコートが欲しかった。ブツブツ文句を零して「服を着せられていただけマシだと思え」とドスの効いた声にぶった斬られ、大人しく黙る。短気で突沸を起こすものの、怒りをいつまでも持ち越す相手ではない。収まるのを待つのが一番早いと知っていた。さすがに罪悪感もあるにはあった。ゲームには一旦どっぷり浸かってしまうとどうにも抗し難い魔力があるんだと、内心で言い訳をしている。覚醒剤っぽいヤバい物質が脳でガンガン分泌されている気がするんだよね。食事摂らなくってもそれで動けちゃうもんだから、ちょっと他の色々なものが吹っ飛んでしまう。脳内で言い訳に忙しかったゲーム狂は、うっかりとアスファルトのひび割れに足を取られて転び、死んだ。


 そこそこの期間続いた不摂生が祟っている。体力ミジンコのくせ寝食を忘れて打ち込んでいたせいだ。針金のような身体は真実極限まで弱っていて、ふっと吹けば飛んで死なんばかりだった。原因なんて知る由もない純粋な退治人は当初いたく心配し、精気を提供して食事を摂らせたが、カンフルを打ち込んでも身体そのものが衰弱していれば効果はあまり見込めない。それなりの量を与えられたはずが、何かに驚くだけで死ぬ尋常でない雑魚っぷりは全くカバーされず、到着した部屋の中でもそれはもう、盛大に死んだ。物音で死に、冷房が部屋を冷やすまでの蒸し暑さに耐えきれず死に、狭いベッドから落ちて死に、カーテンの隙間から滲む朝日で死に、風呂場で水を浴びて死に、目覚まし時計のアラーム音にびっくりして死に、とにかくありとあらゆる事象で死に、そういうわけで初めて自室に恋人を招き入れたロナルドは、青春時代夢想していたような、部屋にふたりきり、距離を測りかねる中でも手と手が触れ合って思わずトゥンク……的な甘酸っぱさは微塵も味わえず、ひたすらにストレスばかりが膨れ上がることとなる。

 相棒があっさり朝日に散ったため、ロナルドは「ご近所から不審に思われるじゃねぇか」とぼやきながらも段ボールを使って窓を塞いだ。そうして退治人が忙しく立ち働く間、再生した相棒もちょこちょこと部屋の掃除に取り組んだ。埃を払い、拭い去り、排水溝の奥に蔓延っていた汚れを死にかけながら取り除く。気になっていた退治人の衣装の染み抜きなど試みて、ついでに洗濯物を選り分けていたところ「そういうのは一言断れ」とさすがに羞恥を覚えた持ち主に抗議されたりしている。

 初めて訪れたというのに遠慮も何もなく伸び伸びと振る舞い、随分とリラックスして過ごしていた。少なくとも、ロナルドにはそう見えた。外から見れば段ボールの茶色で埋め尽くされることとなるベランダの窓に「次は雨戸があるところに引っ越せ」だの「当座は写真の現像にハマってることにしよう」だの楽しそうに笑う吸血鬼っぽい変な生き物。その姿にくすぐったいような何かと、それからはっきりと安堵を感じていた。城から連れ出した当初、怒りが大部分を占めていたとはいえ、根底にあったのは病んだ小動物を保護するような気持ちだ。当の本人はといえば、引きずり出されながら「クリアしてないゲーム他にもあるのに」などと未練がましくめそめそしていた。今は退治人のベッドでダラダラしている。ひ弱な割には適応能力がやけに高いと、呆れるやらホッとするやら、ロナルドは内心忙しなかった。











「君が強制的に連れて来たんだから私にベッドを明け渡すべきだろう」
「仕事仲間にあらゆる連絡手段でシカトぶっこいて、お前はゲームしまくってたんだよな? どの口で権利を主張してんだ?」


 ロナルドとしては保護、ドラルクに言わせれば収監。その初日のことである。大体塵と崩れていたが、それなりにひとの形を取り戻している間は何かしらやり取りを交わしていた。
 到着し、部屋に入るなり思わずといった調子で「君の匂いだ」と呟いた鼻の利く人外を、何と諌めようか言葉に迷い、結局無言を返すしかない退治人だった。

「何でここにベッド? まさかここで寝てるのか?」
「じゃなきゃどこで寝るんだよ。外か? テメーだけ外行くか?」
「えっ? 部屋って、これで全部? 前室とかじゃ……うわほんとだお風呂場もある……せまっ。せっま。君これ収まるの? どこで体洗えばいいの?」
「うるっせえええええ!」

 真夜中なのだ。
 不躾な輩へ正当な抗議をしただけなのに。時刻を考えれば当然ながら、隣の部屋から無言で壁ドンされたロナルドは少し凹んだ。これまで地道に積み上げてきたご近所からの信頼が、何かこいつのせいでパーになる予感がする……挨拶とかゴミ出しのマナーとか頑張ってんだぞ、チクショー……
 塵山に力なく恨み言をぶつけてみる。ドラルクは壁ドンにびっくりして死んでいた。

 散らかっているわけでもないが、ふたりで過ごすには手狭である。塵がのろのろと形を取り戻すまでにと、家具を寄せ、物をしまい、ある程度の空間を確保しようと試みた。しかしながら、再生して、今は部屋のあれこれを物珍しげに眺める相手を一瞥したのち、ロナルドはすぐに考え直す。
 別にいいだろ。問題ない。こいつめちゃくちゃ薄いもん。
 細身であることと、黙っていると生身を感じさせないどこか乾いた風情のおかげで、他人を部屋に入れた時は否応なく感じる圧迫感が全くなかった。ちんまりと体育座りなどしていると尚更で、居酒屋の入り口を守る信楽焼の狸の方がまだ存在感があるとロナルドは勝手な感想を抱く。
 夜明けにはまだ早い。普段ならまだまだ活動時間だった。それでもやけに疲れてしまって「今夜はもう寝るぞ」と提案したところ、先の件で揉めている。ロナルドのベッドはシングルで、到底隣にどうぞと言える面積ではなかった。かといってにこやかに譲るには腹の立つ状況である。

「仮にも客人だぞ私は。床で寝ろと言うのか」
「床じゃねぇだろ。日本のトラディショナルアイテム、お布団だ」

 ベッドを購入するまで使っていた布団は、普段はクローゼットに収納してあった。家族が立ち寄ったり退治人仲間がやって来たりした夜に活躍する現役の寝具である。西洋生まれには馴染みがないのかもしれないなと、やけに抵抗する吸血鬼もどきにロナルドは半身を起こした。

 夜だろうと、昼間太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ鉄筋の建物は暑い。冷房を利かせることに否やはないが、設定温度でしこたま揉めたばかりだった。28℃を譲らない家主に絶望したドラルクはあっさりと死に、そんな事態にもすっかり慣れっこのロナルドはさっさとシャワーを浴びて寝る準備万端である。塵がようやく再生しきった頃には既にベッドに収まっていた。横たえていると身体は素直に眠気に侵食されていく。部屋の明かりを消していたこともあり、既に意識はぼんやりしていた。とにかく眠かったのだ。押し問答を回避するには己が折れるしかないと諦める。
 床を延べたのはロナルドで、再生したドラルクは目にするなり嫌そうな声で「床で寝るのか?」と慄き、現在進行形でごね続けている。床でヤることは特に抵抗しないのに寝るのは嫌なのか。いまいち納得はいかないが、考えるのも議論を交わすのも億劫だった。

 代わりにごろんと布団に転がってみせ「ほらよ」とベッドを足先で示す。小声で礼を言う細長い影が足元に回り込み、ベッドに上った。軋む音さえささやかで、やっぱり軽いなと、そんなことを思ったのを最後に意識が溶けていく。おやすみと聞こえた気がしたが、返事をしたのかどうかまではロナルドの記憶に残っていない。



 次に意識が戻ってきた時、まだ部屋は真っ暗だった。寝付きはいいし眠りは深い。何故目が覚めたのかといえば、背中に張り付くように身体を寄せている生き物のせいに他ならない。

「……なにしてんだ」

 譲った意味ねぇじゃん。
 寝起きの上手く回らない頭でも、投げ掛けた言葉は間違ってないと思う。自宅に引き込んだのはそんな意図からではない。
 ヤク中じゃねぇか。
 治療がいるレベル。
 とにかくこのゲームジャンキーを元凶から引き剥がさねえと。
 そう思って連れ出した。何度も死んでいるせいで身体は元通りと知っていても、落ちた基礎体力はどうしようもない。しっかり回復させたいと考えて招き入れたのだ。別のことで消耗させたら意味がない。

「私は普段棺桶で寝てるんだけどね」
「……知ってるけど」
「こういう、ぱかんと開けた場所だと落ち着かなくて」
「……あー」

 眠れない。そう訴える吸血鬼もどきに、ロナルドはしみじみと「本当に雑魚い」と感じ入った。こうまで儚い生態をしておきながら、よくぞこれまで生き長らえたものだと心底思う。

「それで、お願いがあって」
「…………」
「ちょっと、ギュッてしてくれない? 布団と君にくるまってたら、よく眠れるから」
「…………」

 嫌な予感がするな。そう思って聞こえないフリを貫くも、聞こえてくるものは遮れない。何でコイツはこうなんだ。何度となく思ったことを、思ってもどうしようもないことを、今日も繰り返し思う。お前それで済むと思ってんのかって脅し付けたら「いいよ」と軽く返ってきて、マジで分かってんのかといよいよ声が尖った。

「いいってば。さっきからずっと、ここは君の匂いでいっぱいで、もうおかしくなりそうだもの」

 願ったり叶ったりだ。言うなりぴたりと頬に薄い手を当てられて、その温度に言葉が真実だと悟る。重なってきた唇は常よりも余裕なく初めから深く触れてきて、構えていなかったせいだろう、寝転がったままというのに平衡感覚を失いそうになる。舌先がちろりと舌に触れ、かと思えば絡みつき、瞬間、熱を奪われるような感覚に襲われる。くらりと頭が揺れるような浮遊感に「そうか」と納得した。回復させるには、これが一番早いのかもしれない。
 ボタンを外す間も惜しんで、強引にシャツを下衣から引きずり出す。腹から手を忍び込ませれば、相手も負けじと手を差し入れてくる。中心に指を絡めて柔らかく握り込み、揉むように力を加えてくる積極的な夜の生き物が、熱っぽい口付けを続けながら腹に乗り上げた。
 でも、ここ、すごく、周りに気配が伝わるね。
 荒い息を溢れさせて、手を緩めないままそんな心配をしている可笑しな生き物に、ロナルドは苦笑する。部屋に辿り着いたのはまだ電車の動いている時間帯で、住人が階段を上り下りする音も、ドアの開閉音も、床を踏み歩く音から話し声まで知覚できてしまうことを、短い滞在時間でも十分に理解できたらしい。集合住宅はこんなものだ。よほど気密性の高いマンションでもない限り、割と色んな物音がご近所に届いてしまう。

「……やめとくか?」
「え、むりだよ」

 だから、ゆっくりしよう。
 囁いて、余裕のない振る舞いを恥じるように、今度は触れるだけの優しいキスを落としてくる。そんなの自信がねえ。少しだけ眉を下げてロナルドが呟くと、腹に乗せた人外は眉を上げて言いきった。

「大丈夫。任せて」

 常に奔放に振る舞うくせに、本当に大丈夫なのか。懸念があったが、煽り立てられた欲望はすっかり元気に盛り上がっていて、確かに今更引き返すなんて無理な話だった。



 血を見るかもしれない。
 そんなことを思いながら、口付けを受けていた。別に噛まれたりしたわけではない。それでも、常に合わせていれば時折加減を間違えることもある。痛みさえ覚えるくらい強く吸われる瞬間もあって、実はもう痣ができているのではないかとも思う。舌が引き攣ったように痛み、唇は感覚が麻痺しかけていた。

 覆い被さるように上に乗り、緩やかに腰を揺らめかせる裸身から汗が伝う。やっぱり設定温度を下げておけばよかったかと一瞬よぎり、けれど与えられる悦楽に、思考はすぐにどこかへ溶け消えた。シーツはじっとりとしている。擦り寄せるように腰を動かして、荒い息を零しながら食らい付いてくる身体を、下敷きになって全身で抱き止めていた。そうして、張り詰めた自身にぴったりと吸い付いて、不規則に収縮する熱くぬめらかな内側に、我慢に我慢を重ねている。何もかもを相手に任せる行為は初めてではなかった。それでも、そんな時は大抵熱に浮かされたような激しさで、あっという間に上り詰めるのが常だった。ひたすら緩やかな、さざ波を送るような動きは珍しい。弾力ある肉棒の感触を確かめるようにやわやわと食い締めながら、いやらしく揺れる。時折休みを挟みながら、けれどそうした時も唇は離れない。呻きも喘ぎも身体の内側に閉じ込めようと、食らい付き、擦り合い、飽きもせず吸い合った。宥めるように、縋るように、背を、肋を、腿を、臀部を。ロナルドの手は細い体躯のあちこちを這う。一定の間隔で揺らされる動きはそのままに、やがて息がさらに乱れて、全身に力が籠る。ぐっと緊張したかと思えば動きが止まり、いつもよりは穏やかに、滲むような熱い吐息を零した。含ませていた陰茎をぎゅっと食い締めたかと思えば、きゅうきゅうと吸い付いてきて、それで思わず漏らした呻き声は柔らかな唇に吸われてしまう。気が付けば細腰に手を掛けて内側に欲を吐き出していた。腹の上で痩身が震え、応えるように肉の輪が狭まる。余裕も何もなく乱しきった息を互いにぶつけ合って、震える身体をぴったりと重ねたまま、発火しそうなほどの熱を持て余していた。

 声を殺して、そう制御しながらの行為に全力を注いでしまったのか、軽いとはいえきちんと手応えのある身体がぐったりと凭れ掛かってくる。まだ時折跳ねるように震えて、息はどちらもさっぱり整わない。解放感と倦怠感をいつもよりずっと強く感じていた。重い腕を叱咤して、互いの肌に残るものを辛うじて拭う。後は何もかもをうちやってベッドに移り、そうして、請われた通り、どこもかしこも薄く細い身体をすっぽりと腕に収めてしまった。控えめな空調でも汗の引いた身体には十分に心地良く、既に肌の表面は冷え始めている。そこに、すっかり体温の移ってしまった温かな生き物を抱いて眠ることは、胸に沁み入るような幸福感をもたらした。満足して、次第に落ち着いてきた寝息に耳をすませている内、いつの間にやら意識は闇に沈んでいった。

 数時間後。
 しっかり腕に収めていたはずなのに、抜け出されたことには全く気付かなかった。猫が尻尾を踏まれたかのような鳴き声に覚醒し、何が起こったのか咄嗟には分からず、足を下ろした先がじゃりじゃりと不快な感触を伝えてきてようやく悟る。ベッドから落ちたらしい。床に塵の山ができていた。











「もう分かった。よく分かった。分かったから、回復するまで出るな。お前、絶対外に出んなよ」

 塵が排水溝とかに落ちて流れてったら、マジでもうどうしようもねぇからな。
 子どもに留守番を申しつける親の心持ちで、ロナルドは、塵山を築いてばかりいる偽吸血鬼に懇々と言い聞かせた。

「怖いこと言うなぁ……」
「有り得るだろーが。お前の場合」

 シャワーを浴びに行きたくて足を踏み出し、盛大にベッドから落ちたという。そんな事情を聞く間に夜は明け、カーテンの隙間から差し込んだ一条の光に形を取り戻したはずの身体はあっさり崩れた。嘘だろオイとげんなりしつつ、かき集めた塵がある程度固まった段階で浴室に押し込んでやったのはロナルドである。間取りの都合で浴室に窓はない。死ぬことはないだろうと一息ついていたら、今度は水栓の方向を間違えて、頭から水を浴びて死んでいた。諸事情により排水口が詰まっていたおかげで一命を取り留めた人外は、しかし精神面におけるショックが大きかったらしい。日が暮れたら真っ先にここ掃除するからねと死んだ目をして呟き、その末端はサラサラとタンポポの綿毛のごとく空に散ろうとしている。

 怒りも呆れもとっくに通り越して、ロナルドには今や疲労しか残っていない。何でこんな死ぬんだよ。

「……ちょっと、ほんとに、飲まず食わずだったんだよね」
「お前さ。マジでゲーム捨てない? やべーよそれ。依存症だろ」
「私に身を切れというのか」
「じゃあ、売れ」
「一緒だろう!」

 懲りてねぇ。
 この死にやすさが常態か。嘘だろこっちは生きた心地がしねぇよ。ロナルドはげんなりする。陽光をきっちり遮断するためものを揃えようと外に出ようとして、しかし幼児に留守番を任せるかのような状況に不安しか募らない。絶対に外に出るなと繰り返し念を押している。

「くどい。そもそも日が差す時間帯に外になんて出ないよ」
「外に出なくてもヤバいだろ、てめーはよ! いいから、俺が帰るまで大人しくしてろ」

 小さく折りたたまれた痩身がぺらぺらのタオルケットに埋もれている。日除けとしては心許ないが、布団なんぞ引っ張り出してきたら暑さと、下手したら重さで死なれかねない。城の布団は綿ではなく羽毛だったので軽く、だから昔ながらのずっしりとした綿布団にアメンボのような四肢が耐えられるかは限りなく怪しい。ないよりマシだとベッドの上、薄い掛布できっちり包み直して、寝てろと言い聞かせる。雨なら多少は安心できたのに。いやコイツの死因が増えるだけかも。何でこんなに危なっかしいんだよ。ブツブツ零しながらぴっちりとカーテンの合わせを閉じる。自分が帰ってくるまでちゃんと生きてろよとほぼ祈りながら、とにかく急ごうと考え得る限りの最短コースで調達を済ませ、汗びっしょりになって走って帰宅した男に、呑気な人外は「汗臭い」と無情の一言を突きつけた。





 食欲が戻ってきたのかも。揺れる身体を支えながら、ロナルドは思う。
 仕切りは開いたままで、だから昨夜から空調を働かせ続けている部屋から冷気は届いているはずだった。それでも、汗にしっとりした肌は、合わせる箇所から蕩けていきそうに熱い。せっかく流したばかりなのに。


 最寄りのコンビニで日除けに必要な物資を揃え、とりあえず汗を流そうとシャワーを浴び、そうしていつもの調子で出て行こうとしてから「しまった」と気付いた。
 一人暮らしが長くなり、風呂上がりでも見苦しくないようにと家族に気を遣って過ごしていた日々は遠くに押しやられている。着替えを準備しておくという基本的なルーティンも忘れていた。そもそも実家では、浴室に面した洗面所に下着や寝具を仕舞っておけるスペースがあった。現在ロナルドの佇む狭い脱衣所は洗面台と洗濯機で占められて、タンスはおろか小ぶりな収納さえ置くことはできない。タオルがせいぜいだ。巻いて行くかとため息をついたところで声がした。

「クローゼットを触ったよ」
「お前、勝手に……」

 一瞬当惑したものの、引き戸の隙間から「はい」と差し出された衣類に「おっ」と思う。気が利くじゃねぇか。
 別に今更な話だ、こっちは家主だし、遠慮するのもおかしいと半裸で部屋に戻る覚悟を固めたのだが、相手は変なところで品性を重んじる。きっと呆れ顔で文句をつけられると確信があって、ほんの少し憂鬱だったのだ。

「君、仮にもホモ・サピエンスなら、湯を使う前に着替えくらい準備しておきたまえよ」
「てめぇが汗臭いって問答無用で風呂場に押しやったんだろーが!」

 余計な一言のせいで、芽生えた感謝の念は一瞬でかき消えた。微妙にイラついたまま衣類を纏い、乱雑に髪を乾かし、勢いよく戸を引けば、とっくにベッドに戻っていると思った痩身はすぐそこにいた。構えていなかったロナルドはちょっとビクッとしてしまう。何だよと、部屋の奥を窺った。一応カーテンは隙間なく窓を覆っているが、本来この時間帯はぴったり閉ざした空間で闇に包まれている生き物なのだ。落ち着かないのかもしれない。早いとこ塞いでやるか。そんなことを話そうと口を開いたところで、壁に凭れていた薄い身体を起こして、向こうが洗面所に入って来る。すれ違えるほどの余裕はなく、必然的にロナルドは押されるように一歩下がった。何だよと今度は口に出して問うも、やや険しい表情に「水で流しただけ?」と訊かれて面食らう。

「え、何で分かんの」
「汗の匂いがする」
「えっ! そんな? いやでもちゃんと流したぞ」
「汗っていうか……君の匂いだな」

 それはしょうがねぇじゃん。それともアレか、俺は常に汗臭いってか。普通に悪口だろ喧嘩売ってんのかてめぇ。
 ぐわっと喉を上ってきた文句は、けれど外に出ることが叶わなかった。あっさり距離を詰めた人外が、細い鼻梁を触れるくらい間近に近付けてきたから。人間よりも幾分低いというだけで、薄っぺらな身体にもきちんと血が通い、それなりの温かさを持つ。その体温が感じられるほど近く、もうほぼ腕の中にあった。首筋に顔が寄せられて、そんな場所で感じる息遣いに思わずそわっとしてしまう。いやいや。んな場合じゃ。早く窓をどうにかしないと、延々と死なせ続けては引っ張り出した意味がない。そう意志の力を奮い立たせたのに。

「ぅほおぉえッ!」
「……ちょっと。死ぬよ? びっくりするなぁ」
「それ絶対こっちのセリフだろ!?」

 汗臭いんだろ。止めろ。巻きついた腕はまだいい。よくないけど。けど耳とか止めろ、マジ止めろ。一気にそういうスイッチ入るから。あまりに瞬間的に反応してしまう自分が哀しくなってきて、ロナルドはちょっと泣きたいような気持ちだった。文句言われてそれでもそんな気になれるなんて、ちょっとヤバい傾向あるみたいじゃんか。

「ひとの匂いってほんとみんな違うよね。色んなものが混じり合って、そのひとにしかない匂いになってる」
「んな露骨に嗅ぐなや……」

 君のはね、基本ちょっと土埃っぽいのと汗かいた後って感じだよ。いや悪口じゃないよ。若いんだからしょうがないだろ。あー、夕暮れ時はシェービングクリームとデオドラントの残り香があって、それからコーヒーと、前は煙草の匂いも混ざってた。まあお世辞にもめちゃくちゃいい匂いなんて言えないけど、でもほんと、仕方ないよ。私の中でそういうこととリンクしちゃったんだもの。

「だから、しっかり流してこないと、こんな目に遭うよ」

 最後はもう吐息に近かった。
 抑えようと頑張ってはみても、相手がもうがっつりとそういうモードに入ってしまっているのだ。抗うのも馬鹿馬鹿しくなってくる。耳から首筋へ、ゆったりと唇で食むように触れてくる柔らかな刺激がもどかしかった。薄いシャツ一枚の痩躯をしっかり身体に引き寄せ、力を込める。本人は不本意なのかもしれないが、シャツ姿というのは新鮮で、よかった。そういうモットーらしく、この似非吸血鬼ときたらいつもかっちり固めた隙のない格好をしていて、そうでなければ裸でシーツにくるまっているような、何とも両極端な姿でいる。少なくともロナルドの記憶の中では。だから、ちょっと砕けて、リラックスしているような珍しい装いに何だか堪らなくなってしまって、蹲るように中心に顔を寄せてくるその黒髪をくしゃくしゃにかき乱してやっと、床に引き倒して食らい付きたいという強烈な衝動をやり過ごしていた。





「ねむい」

 洗面所はフローリングでもタイルでもなく、ビニールコーティングされたクッションシートが貼られている。あまり痛みを覚えずに済み、だから驟雨のような束の間の行為を終えても、ロナルドは細長い身体をしっかりと膝に抱え上げたままでいた。瞬きが増えた気がするなと思っていたら、ついに瞼を完全に下ろしてしまい、訴えるように呟く。少しは元気になったのか。見てくれからはさっぱり分からない。仕掛けてくる程度の余力があるなら、多分大丈夫なんだろう。眠たいなら寝ればいい、しっかり布団で包むくらいはしてやる。そこまで考えてから思い出した。「あ」と声が出る。

「それ、俺に棺桶代わりになれって意味?」
「ああ……そうだと、嬉しいけど。無理しなくていいよ……」
「いや、やれって言われりゃやるけどよ。その前にもっかい風呂入るぞ」
「うん……」

 浴槽は備わっているが、ロナルドが湯に浸かるのは冬場くらいだ。ちなみに保護下に置いた吸血鬼もどきは、走って帰宅した汗まみれのロナルドを風呂場に押しやりながら「湯を張るなら私がパイプとか内側も掃除してからにしてね」と神経質なことを主張し、家主を絶妙にイラつかせていた。
 湯がないと少しキツイな。でも入れてる時間もったいねぇし。
 僅かな間逡巡し、それでも結局ロナルドは眠気でぐにゃぐにゃと頼りない生き物を連れて浴室に戻った。きっちりと栓をした浴槽に収め、そうして限られたスペースの中で苦心しつつ、最終的にふたり分の身体を洗い上げる。疲労困憊で部屋に戻った頃、時刻は既に昼に近かった。
 腹減った……
 ロナルドとしては起きて活動する気でいたものの、洗われる間もかくりかくりと首を揺らしてほぼ眠っている相手につられたのか、単純に疲労からか、身体は休息を求めていた。薄暗い部屋の中、濡れ髪を適当に乾かされて何だかもっさりしている吸血鬼もどきは薄いタオルケットに包まり黙ってベッドに潜り込む。水を飲んでベッドに戻ったロナルドはそれを追いかけた。堂々と真ん中に横たわる痩身に若干イラッとしながらも、身体を押し込むようにして隣に収まる。

 自分が日常を過ごす場所に相手がいるということに、今更ながら気恥ずかしさのようなものを感じていた。振り切るように目を閉じる。密着しないと収まらないから仕方ないと自身に言い聞かせて、平常心を保つ。向けられていた背中を覆うように抱きしめ、薄い腹に回した手を組んだ。抜け出せないようにだなんてわざわざ意図したわけではないが、深層心理ではそうした意識が働いていたのかもしれない。毎日同じ時刻にセットしているアラームがけたたましく鳴り響いて相手が塵と化しても、眠りの層にいたロナルドはまだ手指を組んだままだった。










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