Others | ナノ




 幾重にも重なる花弁に顔を寄せれば、馥郁たる香りが鼻腔に満ちた。思わず目を閉じて堪能する。
 季節はバラの盛りだった。日差しの降り注ぐ昼間は既に夏の気配を漂わせ、しかし城の躯体は石である。陽光に触れない室内はひんやりと肌寒く、城主に言わせれば地下ともなれば盛夏だろうと冷房いらずの涼しさらしい。ロナルドが城に出入りをするようになって、初めての春になる。今正に最盛期を迎えたバラの芳香がそこかしこから感じられ、常に黒尽くめの城主とは真逆の柔らかなパステルカラーが部屋を、廊下を、水場を埋めていた。

「……とことん似合わねぇな」

 百合の花のように部屋中を埋め尽くす鮮烈さはない。ただ、果物の芳香にも似てふんわりと甘く空気を染める、仄かに満ちる上品さが好ましかった。精緻な工芸品めいて薄い花弁が折り重なる細工に感嘆のため息を漏らしつつ、しかし目を遣った先に思ったことがつい零れ出た。さほど気にもとめていない軽さで「失敬な」と言葉が返ってくる。満開のバラが零れんばかりに収まる籠を抱えた城主がいた。

 引きこもりの名を欲しいままにする人外だが、この季節それなりに外に出るらしい。出るとは言っても庭である。日中の暖かさに爛漫と咲き綻んだバラを剪定するのは連日のことで、ロナルドとしては大変な作業だと眉を寄せているが、当の主はあまり労苦と感じていない。得意分野がまるで違うせいだ。ドラルクからすれば「ちょっと体動かしてくる」などと言い置いて買い物並みの気軽さでジョギングをこなす退治人こそ、信じられない生き物である。クタクタになって眠りたいとかそういうことかと解釈して「キスで吸ってあげようか」と精気の搾取を目論むも、ぶっ倒れたいわけではなく筋肉に負荷を掛けたいのだと返され混乱の極みに陥ったのはまだ記憶に新しい。ドラルクは新種の生き物を見る目を返したものだ。まだまだ互いが未知の生物である。


「お前、マメだよな。そういうとこ」
「咲き終わったのをそのままにすると見苦しいからね。病気の原因になったりするし」
「……ああ。だから満開のヤツばっかりなのか」
「そう。でもまだ綺麗だろう」

 飾っておくと、目が喜ぶ。
 小さく微笑んで花弁を撫でる指先は優しい。城の中、馨しい芳香と淡い色合いに囲まれて、ロナルドはややハイソな気分に浸っていた。しかし、何とも即物的な「おやつにもなるし」という城主の一言で優雅な空気は散っていく。

「え、これ全部食うの?」
「……君の握力で圧縮したってすごい量になるね」

 全部なわけない、おやつって言ってるだろ。
 呆れた声に否定されて「そんなん分かるかよ」とロナルドは少しばかりムッとしつつ、手に持っていた一輪を鉢に戻した。キッチンである。浅く水の張られた鉢、器、瓶、そこかしこで花弁を華やかに広げたバラが香気を放つ。初夏を感じさせる日差しも、夕暮れまでは余韻を残さない。今時分、目が覚めるとまず庭に出るらしい。モーニングコーヒーよろしく食事を摂りつつ、目についた花がらを摘み取っていく。そうして夜目の利く城主が庭でせっせと花がら摘みに精を出す間、退治人は持ち込んだPCをキッチンの広いテーブルに据え作業に当たっていた。時々立ち上がっては柔軟体操で身体をほぐし、そうやって空気が動く度に甘やかに鼻を擽る芳香に誘われて、手に取ってみたところだった。ほんのりとクリームがかったアイボリー。戻って来た夜の生き物から一番遠い色だと目を細めた。花と比較された本人は、のんびりと手を洗っている。

「コレ、どうやって食うんだ? 焼いたりすんのか?」

 そういえば草を食うとか話したなと思い起こす。出会ってすぐに聞いたせいか、精気を吸うためにバラを育てているという言葉はよく覚えていた。思いついて口に上らせる。
 様々に種類があるらしいが、一見してどれもこれも花びらが数えきれないほど嵩張る姿だ。小さな顎で咀嚼できるものだろうかと気になった。もしや火を入れ嵩を減らし、味付けなど施すのか。野菜炒めよろしくフライパンに入れたバラを菜箸でつつく人外を思い描き、疑問に感じたまま尋ねる。
 火を使えば精気を吸うどころではない。完全に死んじゃうじゃないかとドラルクは再び呆れた。

「どうって、普通に口に入れて……ああでも花びらは、精気を吸ったら枯れちゃうからね。出すよ。君たちで言うなら葡萄の皮みたいな感じで」
「へえ……」

 美しい花々と微香に囲まれながら吸血鬼もどきの言葉を聞き、ロナルドが思い起こしたのは、何にも酔わされていない状態では当惑が先に立つ記憶だった。アレも、吸われた後の残骸なのかと、そう考えてしまったら、いよいよ到底口に出せない光景が意識を占める。
 四足獣の体勢で頭を床に伏せる痩身。断続的に肩が震えている。突き出すように小さな尻だけが持ち上がり、後は力なく落ちて、仄灯りと籠る熱は、白磁の肌を常よりも温かそうな色合いに見せている。食事を兼ねると言うが、花と同様、胎に与えられたものも全てが吸収されるわけではない。吐き出した後も己が執拗に内側をかき混ぜるせいだ、生温い白濁が縁から溢れ、腿を伝う光景は、馴染んだものだった。喪失感を覚えながらも萎えたものを引き抜けば、擦れ合う悦楽に、襞が捲れる刺激に、あえかな啼き声が籠って響く。散々無体を強いられた器官はすっかり充血して腫れぼったく、閉じきれないまま覗く内側はそれこそ鮮やかな薔薇色に染まっている──
 瞬間的に脳内を圧倒した記憶に頭をぶんぶんと振る、その虫を振り払うような退治人の突然の動きに、バラ園の主は眉を上げた。

「やっぱり似合わねえ」
「そう?」

 そうだ、似合わない、こんな優しくて柔らかな色。もっと毒々しい、血を思わせるどす黒いまでの赤いバラなら似合うかもしれない。そうした思いに駆り立てられて「赤いのはないのか」と訊いたロナルドに、小首を傾げた相手からは答えではなく質問が返った。

「君、赤が好きなの」

 そういえば衣装も赤いものね。続けながら、ドラルクは少々痛いところを突かれた思いでいる。バラは庭に咲き誇っている。赤い退治人が所望する深いベルベットレッドの株も、それなりの数が植わっていて、当然花がらも毎晩のように取り去っている。この男の目につくところには何となく置きたくないと、実のところドラルクは意識して避けていた。キッチンを見回しても目に入るのは白、クリーム色、薄ピンク、薄橙。モノクロームフィルムで撮影すればほぼ白に映るだろう淡い色合いばかりで、赤色など、花弁ひとひらさえ見当たらない。告げるには躊躇われる理由がある。無駄に花言葉まで知っているせいだった。神経質だとは思いながらもどうにも平静でいられずに、そうした己の心情がまた、輪をかけて恥ずかしい。問われたとしても説明する気は全くなかった。

 好きっていうか、いや別にとか、もごもごと口の中で転がす退治人を眺め、向こうも何やら歯切れが悪いなと思う。話をずらして凌ごうと話題を戻した。

「花を飾るの、そんなに似合わないかい?」
「んん。飾るのがっていうか。何か、こう、バラが咲く庭ってさ、深窓の御令嬢が紅茶のカップ傾けながら優雅に座ってるイメージで……」
「またえらく偏ったイメージだな」

 馬鹿にする風でもなく、本心から淡々と感想を告げる黒尽くめの痩せっぽちにロナルドはムッと唇を尖らせる。反撃しようと口を開いたタイミングでぽんと言葉を投げ掛けられ、そして大いに困惑した。

「君は子どもの頃、赤ちゃんはどこから来るのって無邪気に大人に訊いたりしなかったの」
「えっ! 言っ……たかもしんないけど、覚えてねぇよ」
「ふーん。じゃあおしべとめしべがどうとか、婉曲に言おうとしたんだろうが結局わけがわからんみたいな説明は受けなかったのか」
「ええっ……いや、分かんねぇなそれ……いきなりどうした」
「いやね。君がロマンチストなのは何となく知っていたけど」

 花は生殖器を外に突き出して、虫やら鳥やら子孫を残す仲介人を呼び寄せているんだ。人で言うなら、下半身丸ごと露出させて凸待ちしてる感じかな。種を繋ぐために、交わることに文字通り全身全霊をかけて、命がけで花を咲かせるんだよ。

「向こうには、ロマン差し挟む余裕なんかないだろうね」

 つらつらと紡がれる声そのものは、絹を思わせる滑らかさで大層耳に心地良い。しかしその内容はともかく、例えはぎょっと目を剥くようなものだ。悪意さえ感じ取り、ロナルドの背をひやりとしたものが滑り落ちていく。脳裏には、大きな花びらが捲れたような、そこかしこに深いスリットが入ったスカートが思い浮かんでいた。白い脚が空に突き出され、中心はしとどに濡れている。

「……結構、ひでぇこと言ってねえか?」
「そう? ねえ、同じ株の中で受粉するって、自慰行為でクローン増やしていく感じかな?」
「……」
「まあ同じような遺伝情報ばかり持っていても弱くなるからだろうね。普通は、できるだけよそから花粉を貰おうと頑張るらしいよ」

 深い闇色のマントに収まる影は、滔々と喋っている。理科か保健体育か。何の話をしているんだ。口を挟みたいが、上手く割って入れない。もしや気を悪くしたのかとロナルドが相手の顔色を確かめるも、どちらかと言えば楽しそうに見える。口元に指を当ててはいるがニヤニヤと持ち上がる唇の端は隠れない。笑みの滲む声がさらに続いた。

「雌雄同体っぽい花は多いよね。同じ個体だけでも世代を繋げる」
「けど、より強く生きるために、色や匂いや蜜を使って、一所懸命仲介人を引き寄せるわけだ」
「セックスアピールの塊じゃない?」
「私はそういう花々を口に含んで、精気を分けて貰うのだけど」
「それでも花咲く庭は私に不似合いかな」

 君に、いつもしていることと一緒だよ。

 さらりと言われた最後の一言、何に言及されているのかはすぐに分かった。その行為による感触が、もたらされる快感が、まざまざと蘇る。言葉を返す気力は既にない。つい先刻せっせと散らしたばかりの欲望が再び寄り集まって輪郭を得ていくのを感じ、下半身が重くなるような独特の感覚に襲われて、沈黙は金とばかりにロナルドは押し黙る。
 退治人をやり込めた似非吸血鬼は、莞爾と笑って優しい色の花弁を咥えた。










×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -