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ああどん詰まりだ、何処にも行けない














「先生、………土井先生、」


中途半端に暖房のかかった部屋は何とはなしに息がし辛い。化学準備室の敷居を踏んだまま、俺は小首を傾げた。

職員室かな。
それでも、部屋を離れる時には鍵を掛けるのが規則だ。特に劇薬を保管する理科棟において、施錠は徹底されている筈。という事は、やはり中に居るのだ。

でも居ないとしたら。此処は自分が居るべきだろうか。何かと物騒な昨今、仮に不在時に問題でも起きたならば、責任を問われるのはあの心優しい化学教師だ。


そこまで考えた所で、戸の打ち付く激しい衝突音に肩が揺れた。

「………っ」

何事かと、差し入れていた半身を廊下に戻せば、真っ赤な頬を貼り付けた女子生徒が隣接する化学教室から飛び出して駆けていく所だった。
呆然と後ろ姿を見つめていれば開けたままだった準備室の奥から戸惑いがちに呼び掛けられる。

「兵助?」

「あ…先生、」



少々皺の寄ったカッターシャツに白衣を引っ掛けた年若い男性教諭。いつも通りの先生だ。
ただし気まずげなのは気の所為ではないようで、強張った眉間がほどけていない。随分と不味いタイミングで来てしまった。


「…少し掃除が長引いてな。待たせたか?明日の準備物だろう?」

「あ、そうです。実験ですよね?」

「ああ、いつもと同じでいい」


本来の目的を思い出した化学係の俺は質問を返し、確認をとる。早く教室に戻らないとホームルームが始まってしまう。

「分かりました、では明日」

「あ…っと、兵助」



軽く礼をして踵を返しかけたが、何か言いかけた先生に呼び止められた。「はい」と視線を合わせれば、言い辛そうに口ごもる彼にああ、と理解する。

「誰かに話すなんて、しません。あの子の名前も知らないし、大丈夫です」

自分からは言い出しにくいだろう懸念を先回りして告げた。
つもりだったのだけれど、自分は勘違いしているのだろうか。
意識内で最上と思える発言だったのに、先生の顔は曇った。


「…………先生?」

「あ、いや。……分かった。なら、また明日」


僅かな間だったが沈黙が気まずくて、覗き込むようにして視線を合わせた。彼は言葉を探しているふうに見えたけれど、何となく先を聞いてはいけない気がしたのだ。

恋とかお付き合いだとか、身近なものじゃない。
先生の口からそれにまつわる事を聞いたって気の利いた返答は出来っこない。



「…はい、失礼します」

ぺこっと頭だけ下げて、再び背を向ける。彼らしくない通りの悪い声が「ありがとうな」と追ってきて、何でだろう、その時俺は無礼にも、それに聞こえないふりで応じた。







気のせいと言ってしまえばそれまでだ。

事実勘右衛門には「考え過ぎだろ」と言われた。竹谷には笑い飛ばされた。悪友三郎には「自意識過剰」と言われた。
親切な雷蔵をうんうん唸らせる羽目になって、罪悪感に襲われた。

あまりに緩やかな変化だったから、最初は俺も気のせいとしか思ってなかった。
けれど今は確かだと思う。
今までは黙認されていた行為が、許されなくなってきている。


例えば以前なら、質問しに部屋まで訪ねた俺が話を脱線させたって、笑って応じてくれた筈だ。機嫌が良い時はお茶を淹れてくれて、長々と話し込む事だってあった。

今は違う。
優しい態度は変わらないけど、無駄な事は一切口にしない。以前ならポロリと零していた愚痴だっておくびにも出さない。
質問以外には答えないという強固な意志が感じられる。

それはやんわりとした拒絶にしか思えなくて、少なからず俺は傷付いていた。


生徒としてお門違いな発想とは分かっていた。
担任でもない一生徒に、一日に何百人と相手取らねばならない教師が時間を割いてくれていた、今までがおかしかったんだ。


理解できても心のもやもやは取れない。何をしていてもふっと暗い気持ちが隙間を縫って胸に差し込む。

親とも友達とも、どんなに酷い喧嘩をした時もじわじわ絞まるようなこんな痛みはなかったのに。
何でだろう。



(答えを探そうとすると酷い不安感に襲われて、結局俺は何もなかったように振る舞うしかなかった)



***



自覚する久々知だけど自覚したのは向こうが先でしたという感じが書きたか…った…
2010/10/19 23:56


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