Blog | ナノ


息を詰めて。
あいつに、既にこちらから補足されているという現状を把握させてはいけない。す、と血が下に落ちる感覚。その後急上昇してきやがる。そろそろと足をフローリングに滑らせて摺り足で後退した。高校で選択した剣道の授業を思い出す。
スライド式のドアを閉めて安全地帯まで辿り着いてから堪えていたものを解放した。


「ぎぃゃあぁぁぁあァ!!!兵助ェ!出た!あれ!あの黒い!悪魔ァ!」

「近所迷惑」


…前線から必死の思いで後退して来たのに、大将に歩哨を労る気は皆無らしい。タイミングが悪かった。今、嵐呼ぶ込む勢いで兵助の機嫌列島に長雨前線停滞中と思われます。

何らか(ゼミでの研究成果がはかばかしくないとか俺の性癖とか色々だ)に悩める・怒れる・落ち込む兵助は自分だけでいっぱいいっぱいなもんで、そんな時は例え俺がどんな危害に晒されようと見向きもしない。というか好んで自らアクティブに俺に危害を加えようと動く。早い話が八つ当たる。


「……兵助、ほら、あれだよ。ばい菌媒介しちゃうから。退治しよ。ね、」

「いちいち騒ぐなよ。日本家屋なら必ずいるもんだ。掃除はしてんだから仮に菌が運ばれたって即大増殖なんてないし。いちいち気にしてたら身が持たない。時間ももったいない」

「………………」

駄目だ。今の兵助は俺がAと言えばB、白と言えば黒、美香と言えば恭子と言う。

こいつは知ってる筈なのに。俺の克服できない唯一のものを。誰より何より、だって一緒に住んでるもん。
今まで俺がエンカウントしたあれを一体誰が退けてくれていたと思う?そう、今の今まで兵助が俺のメシアだったわけだ。

今はただの傍観者だ。寧ろあれの味方だ。
つまり俺は死地に残され救援を拒絶された孤軍だ。


「…………」


見てしまった以上、あれを見逃す事だけは絶対に出来ない。
でも兵助は動かない。
だから消去法で、自分でなんとかするしかない。

その辺にあったフリーペーパーを幾枚か破り取って丸め、うなだれながらキッチンに一人戻った。
シンクの三角コーナーから銅線めいたブツをうねうねくねらせるあれを睨み付ける。
頑張れ三郎。死地に立ったランボーを思い出せ。絶対の劣勢にいつだって怯まない男の中の男を………ん、おかしいな、何か視界が滲むぞ、なんだろ、はは。



―30分後―



「………………」


殺そう殺そうと意識すればする程息が荒くなってくる。くそ、自分の呼吸がうるさいぜ。得物を握り締めた掌がじとりと汗ばんでだんだんと紙がくたってくるのが心配だ。殺傷能力が明らかに落ちてないか、これ。
奴はシンク内を縁に沿ってそろそろと一度動き、夕飯の後積み重ねていた皿の陰で立ち止まった。


脳内で何度目かのシミュレーションを繰り返す。縁から登り平面に立ったところを一思いに…いやそれかシンクにいる内に熱湯か洗剤を…いやそれかさっさといなくなってくれれば……いやそれ一番いかんだろ!

手を汚さずに済ましたいと、長期戦に縺れ込むにつれ精神的疲労から思わず逃げ腰になっちまう。奴の思うツボだ。ぶるぶる首を振る。
あいつがいつまでシンクに留まってくれるのか。そこが勝負の分かれ目だ。
幸いな事に彼は随分とのんびり屋さんらしい。俺が微動だにせず息を殺していたこの四半刻もの間、移動距離はせいぜい10センチメートルだ。温和な人柄らしい。助かった。落ち着いて心の準備ができるというものだ。


いや。…それにしても、おかしくはないか。
彼ら一族の素早さは世界の折り紙付きだ。いつまでも一カ所に留まっていて利点はない筈というのに。
そうした疑念を抱いて改めて見遣れば、心なしか銅線の動きにキレがないように見える。

その時、天啓のごとく一条の光芒が脳裏を過ぎった。
もしかしたら俺は自らの手を汚さずにいられるかもしれない。


寿命。


間違いない。
ツルツルと滑るステンレスを這う力も残っていないのだ。

そういえば先日、そろそろ効能の切れる頃合いだったトラップを新調したんだった。(今回仕掛けたものは斬新にも爛熟したバナナのような甘い匂いがした)きっと彼は誘惑されるまま、美味に偽装された劇物を口にしてしまったのだ。

そうした考えに至った瞬間張り詰めていた緊張の弦が緩む。溜め息を吐いて凝り固まった体をほぐすように大きく肩を回した。シンク内の影を見つめる。彼は相変わらずそこに静かに佇んでいる。

憐憫の情だろうか。漲る敵意(恐怖)は霧散し代わって満ちる何物か。


手にした紙束は手汗でよれによれ役には立たない。
残り少ない洗剤を無駄にするわけにもいかない。
そもそも皿に隠れた状態では狙い打ちもできない。


さあ。
往くがいいさ。
俺は何も見なかった。




「何やってんだよお前」

何って慈善事業だよ。小さきものに対して自然と湧いて出た慈しみの情が俺を殺生から遠ざけてくれたんだ。
ここで積んだ徳は仮に俺が過ちを犯して地獄の底に堕ちた時に縋る糸となるかもしれない。

「あ、でも蜘蛛じゃないから糸とか出ないか」

はは、と失笑しながら気持ちよく弁舌を収めようと兵助を見た。見ようと思った。
…んだけど、俺の笑いに被せるように威勢のいい破裂音が立て続けに空気をビンビン揺らした。

パン!パン!パン!


ん…え。
あれ。
兵助、なにその一仕事終えたみたいないい笑顔。

ふうっと息をついた兵助の無駄のない動きにより彼は裂いたチラシで掬われ燃えるゴミ入れへと落ちていった。

何だかんだいちゃもんつけながらお前やっぱり助けに来てくれたんだなっていう嬉しさとか、うっすら芽生えていた親愛の情とか、実は心のどっかでこうなる事を望んでいたのかもしれないという慚愧の思いとか、衝撃とか安堵とか哀しみとか何かとにかく体の中で一人悲喜こもごも忙しかったけど言葉になる事は一つだけだった。

ごめん。
俺にも、垂らす糸はなかった。



***



命を奪う覚悟とは例え一寸の虫に対しても私には重いものなのです
by三郎
2010/05/08 00:07


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -