イベント | ナノ


うちのお手伝いさん(ボツ版)1/5

【飼い犬と飼い主】


 立ち漕ぎする自転車で突っ切る風は、薄らと夏の匂いがする。
 だってもう五月の半ばだ。日のとっぷり暮れた今だからこそ帰り路に薄い上着が必要だけれど、日中はもう衣替えをしたいくらいに夏めいている。
 それは夜の色もおんなじで、辺りに広がる暗い暗い藍色の空は、日に日に広く、色を明るくするようだ。
 まだまだ日は長くなる。それでも、明るいうちに帰宅するのは少し無理だろうな、と泉は思った。
 日の光より皓皓と夜を薄める玄関の明かりを見て、ぐ、とブレーキをかける。自転車を所定の場所に半ば打ち捨てるようにして勢いよくドアを開けると、泉が帰宅を告げるより先に、明朗な声が迎えてくれた。


「おかえり、泉!」


 目映い室外灯だって霞むくらいの嬉しそうな声。それに迎えられて溶け出さない疲れなんかないのだ。
 けれど靴を脱ぐまでの少しの間、泉がそれに背を向けるのは、口元の緩んでしまうのが格好悪いからなんてそんな小さな理由でしかない。


「おー、浜田。ただい……、っと」

「泉、おかえり!」

「あのな……おまえもうバカでかいんだから、いきなり飛びつくなって」

「あ、ごめん。でも風呂もメシも出来てるよ」


 緩んだ口元を直すまでほんの少し時間をかけてから振り向くと、ほぼ同時に誰かの腕の中に収められてしまった。
 この熱い歓迎を毎日受けている泉には、誰が犯人なのかわかりきっている。左の肩口に埋まった唇から小さく息を吐き、彼の行動を諭す。
 けれど泉にだって、それは純粋に嬉しい気持ちから来たものだとわかっているから、言いながらも手を伸ばして耳の後ろを撫でてやる。そうすると、簡単にしょげてしまう彼はまた、簡単に笑ってくれるのだ。


「泉、どっち先にする?」

「メシ食おうかな……腹減ったし。晩メシなに?」

「今日は肉!」


 ようやく離してもらった泉は、帰宅して初めて彼の顔を見た。
 まだこれから背の伸びる泉は、彼の顔を間近で見ようとすると見上げなくてはならない。そのために作る首の角度は同性として複雑な気持ちになるほどだが、残念ながらこれが事実だ。やっかむのもばからしい。
 そう思うのは全く平和そうな顔で彼が笑うから、というのもあるだろう。
 目尻は吊り気味のくせ、濃い灰色の丸い瞳は人なつこい印象を持たせる。唇が厚いのは愛情が深い人の特徴だとどこかで聞いた事があるが、それと釣り合いを取るように大きな口は、どんな感情も多彩に表現する。
 特に笑った時には口の端をくっと引いて、本当に嬉しそうに笑うのだ。
 だから、ついつい甘やかしてしまうのかもしれない。今日は肉だよと大音声で教えてくれる彼には苦笑いで、泉は耳を撫でていた手を引っ込めた。

 すると、今まで泉の指があったところがぴくんと揺れた。
 泉が撫でてやっていたのは耳だが、手をやっていたのは彼の側頭部でなく、だいぶ上の方だ。
 彼は見事な金髪で、やや長髪気味の毛先は束になってあちこち跳ねている。そのうちの一房が揺れたわけだが、そこは人間の耳のある位置でない。もっと言えば、人間の耳はふさふさしていない。
 泉が撫でていたのは、ふさふさとした三角形の付け根だ。前へ折れた薄っぺらな三角は、柔らかそうな金色の毛で覆われている。
 結構な大きさのそれは、人間のものというより、犬の耳によく似ていた。


「じゃあメシ食おう。オレはね、お父さんと一緒に食べたから」

「兄貴は?」

「飲み会行ってそのまま友達のとこ泊まるって。お母さんは今帰るってさっき連絡来たし、お父さんは風呂入って寝た」


 言いながら彼はキッチンのほうへ泉を誘導する。自分から尋ねたくせに、ふうん、と気のない返事をして、泉は先を行く彼の後ろ姿を見た。
 廊下の薄ぼんやりとした明かりに浮かび上がるのは、背の高い、しっかりした体つきの男性だ。年は泉より一つか二つ上の若者に見えるだろうか。
 けれど違うのだ。彼はそうでない。
 まず泉より年上ではないし、更に言えば、彼は人間ですらない。
 泉がやや視線を下げると、彼の長い足に沿うように、髪と同じ色のふさふさしたものが揺れる。それはやはり三角の薄い房と同じく、彼の体に等倍された動物の長い尾らしきものだ。

 人間の体に動物の耳と尾。
 明瞭で決定的な理由だ。ほかのどこが人間だろうと、その二点だけで彼は人間ではなかった。


「はい、どーぞ」

「お、うまそう! いただきます」

「うまそう、じゃなくて、うまいの!」


 暗い外から来ると薄明るい廊下でも心地がつくようだが、やはり室内は違う。明かりの真下である食卓に着くと、彼がその腕を存分に振るった今夜の食事が次々に出て来た。
 男子高校生なら大半が飛びつくであろう豚肉の生姜焼きをメインに、サラダ、たけのこと山菜の煮物とアスパラの和え物らしきものが小鉢で出てくる。この辺は旬の食材なのだろう、彼はわりとそういうものを選んで作る。
 そして生姜焼きは、きっと泉の為だ。いつだったか、豚肉に含まれるビタミンは疲労回復と肌に良いらしい、とワイドショーで得た知識を披露してくれた事がある。

 彼は基本的に一家の中で活動量の多い泉と母に合わせて献立を考えくれる。美肌云々なら母も関わってくるが、彼は余計な世話ながら泉の荒れがちな肌にも口を出してくる。
 それより何より、この生姜焼きという洒落っ気のあまりない献立が、自分向きの気がするのだ。
 自惚れなのかもしれないが、実際、彼の好意は自分が大半を占有している自負がある。
 空腹は最高の調味料とは言うが、一番はそういう愛情じゃないだろうか、と泉は思う。甘辛い生姜焼きをおかずに白米を一口食べると、もう幸せだ。あとは黙々と皿の上を片づけていく泉を見て、彼は急がなくても逃げないよと苦笑した。
 そして泉が出された皿を大体きれいにした頃、玄関の方でまた声がした。先程の彼の話を思い出すに、どうやら母親が帰ってきたらしい。


「お母さん、おかえり!」

「ああ、ヨシ君、ただいま! お風呂沸いてる?」

「うん。でも泉が今ご飯終わるとこだから、聞いてからのがいいかも」


 またも玄関へ走って行った彼と母の会話を聞きながら、泉は残しておいたアスパラを最後に口へ運んだ。見事完食だ。もぐもぐと咀嚼しながらイスの背もたれに寄りかかると、母がドアを開けて現れる。
 彼女は出掛けに見かけた黒いスーツ姿で、先に帰宅していた息子になぜかおかえりを言い、近くのイスへバッグだの脱いだジャケットだのをどさどさと置いていく。
 少し疲れた風ではあるが、くたびれたように見えないのは、好きな仕事をしているからだろう。その後ろでジャケットをハンガーにかけ直してくれた彼に礼を言い、彼女は泉のほうを向いた。


「孝介、お風呂入る?」

「いや、いい。オレこいつの散歩行ってくる」

「あらそう。もう遅いから、気をつけてね」

「えっ散歩?!」


 ごちそうさま、と立ち上がると、話を聞いていた彼が色めき立つ。また何か細かな家事をしていたようだが、散歩という言葉を聞いた途端に落ち着きがなくなった。
 そわそわしている彼に洗い物を任せ、泉はその間に制服から簡単なジャージ姿に着替える。
 行くぞ、と声を掛ける頃には洗い物は終えていたが、彼は腐ってもこの家の家事一切を担っている存在だ。はやる気持ちを抑え、早々に風呂へ消えてしまった母の夕食を慌ただしく用意してから、玄関で靴紐を結わえていた泉を走って追いかけた。


「ちょっとは待っててくれてもいいじゃん!」

「待ってたじゃねーか、玄関で」

「泉の意地悪! もー、オレが先行っちゃうよ」


 しっかりと靴紐を結び直した泉の隣で、追いついた彼はわずか一秒でスニーカーを引っかける。その勢いで上がりかまちより一歩前の土間で爪先を突いて履きながら、手はもうドアを開けている。
 先に行くよなんて言ってはいても、彼はちゃんと泉を待つ。靴紐を結うのに俯き加減の泉は彼の事なんか見ちゃいないが、頭に視線を感じ、その様子や表情までもがまざまざと想像できるのだ。
 きっと、期待でいっぱいの目をして自分を待っている。
 はっきり思い出せるその瞳の色は濃い灰色。ひといろ円らのあちこちをきらきらさせて、早く行こうよと言外に誘う。
 ほら、そうだろ。腰を上げて真っ直ぐ前を見れば、想像したままの彼がドアノブに手を掛けて立っている。
 その様は主人に従う忠犬そのものだ。いいぞ、と言ってやると、勢いよく扉が開く。


<<前へ >>次へ


×